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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第1章『開店前の挨拶』

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第4話「七店舗の記憶」

 返本段ボールの底に、ガムテープを引く。

 ビッ、と樹脂が裂ける音。事務室の空気がわずかに震える。


 六月二十二日、月曜日。残り八十三日。

 返本作業の初日。椎名さんが朝から二階で作業を始めている。

 段ボール十箱、五十冊分。取次のトラックが午後三時に来る。それまでに梱包を終わらせなければならない。


 私はガントチャートの赤い線——今日の位置——を確認してから、二階に上がった。

 階段を上がると空気が乾いている。空調の風が棚板の間を抜けて、肌に触れる。

 蛍光灯の白い光の中に、椎名さんの背中がある。

 棚の前にしゃがみ、一冊ずつ本を抜いて段ボールに入れている。返本リストの順番通りに。金曜に反論した五十冊を、黙って箱に詰めている。


 指が止まる。

 一冊を抜いた後、椎名さんは背表紙を右手の親指で撫でた。ゆっくり、一度だけ。それから段ボールに入れる。

 次の一冊。同じ仕草。

 次も。

 同じ所作を繰り返している。五十冊全部にそうするつもりらしい。


 作業効率として見れば無駄な動作だ。一冊あたり三秒のロスで、五十冊なら二分半。

 そういう計算をしている自分に、気づく。


 椎名さんは振り返らない。

 私がいることはわかっているはずだ。この距離で、気づかないはずがない。

 それでも、一冊ずつ、指を添えて、入れる。

 本を抜いた跡の棚板が白く光る。日焼けしていない部分。何年もそこに本があった証拠が、四角い影のように残っている。


「予定の冊数は、午前中に終わりますか」


「終わります」


 短い返事。声が少し低い。

 椎名さんの手が、次の本に伸びる。私は何も言わずに事務室へ戻った。



 昼前に、携帯が鳴った。

 画面に「神原室長」の表示。田崎店長は昼食で席を外している。事務室のドアを閉めてから出る。


「桐生です」


『状況を報告しろ。返本は始めたか』


「今朝から開始しています。初日は売場二階の人文書から五十冊。予定通りです」


『スタッフの反応は』


 椎名さんの指が本に触れる仕草が、まぶたの裏に浮かぶ。


「問題ありません」


『そうか。——桐生、一つ確認する。感情移入するなよ』


 神原室長の声が低くなる。


『横浜元町の二の舞になったら、お前のキャリアは終わる。私と同じ轍を踏むな』


 携帯を握る手に力が入る。神原室長は十年前の横浜元町店で、現場の店長と感情的にぶつかり、閉店フェアを混乱させた。本部から是正命令が出て、以来、感情を排して閉める方針を貫いている。

 私が受け継いだのは、その方針だ。


「わかっています」


『数字は嘘をつかない。売上前年比六十二パーセント、在庫回転率〇・七。この店はもう結論が出ている。あとは工程を消化するだけだ』


「はい」


『次の報告は金曜でいい。以上だ』


 通話が切れた。

 携帯をデスクに置く。画面が暗転して、眼鏡をかけた自分の顔が映る。

 表情は読めない。自分の顔なのに。


 壁際の棚からコーヒー瓶を取る。紙コップに粉を入れ、ポットの湯を注いだ。ひと口。ぬるくて薄い。


 デスクの右端に、『決断の速度』が置いてある。水上哲也のビジネス書。本部の異動初日に買った本で、もう四年になる。角が折れている。帯に「判断の遅れは組織を殺す」と書いてあった。

 何度も読んだはずなのに、中身が思い出せない。

 代わりに、朝の椎名さんの手が浮かぶ。あの手の動きに、何秒かかるかは計算した。何のためにそうするのかは、計算できない。



 午後三時、取次のトラックが裏口に着く。

 段ボール十箱を運び出す間、椎名さんは売場に戻って通常の接客をしていた。レジのバーコードリーダーがピッと鳴る音が、一階から聞こえる。


 四時過ぎ。椎名さんが事務室に来て、「五十冊、終わりました」とだけ言った。

 指先に紙の埃がついている。爪の間まで白く汚れていて、それは朝からずっと本に触っていた証拠だ。

 声は平坦で、表情もない。金曜日にリストの一冊ずつに反論した人間と、同じ顔には見えない。


 怒りのほうが、まだよかった。

 黙って従われると、自分が何をしているのかが見える。


 ——これは仕事だ。


 ノートPCを開き、本部への日報を打つ。

 「六月二十二日。返本作業開始。初日処理冊数:五十冊。予定通り。特記事項なし。」


 特記事項なし。

 あの指のことは、報告書には書けない。



 二十一時過ぎにホテルに戻った。

 武蔵境駅の南口から歩いて七分のビジネスホテル。本部が手配した六階の角部屋で、ベッドとデスクと小さなユニットバスしかない。壁紙は黄ばんでいて、空調は唸りを上げている。

 閉店案件のたびに、こういう部屋に泊まる。小田原でも熊谷でも所沢でも、匂いが同じだった。消毒液と空調のフィルターが混じった、誰の匂いでもない空気。

 スーツを脱いでハンガーにかける。ブラウスの第一ボタンを外す。

 シャワーを浴びて、髪をタオルで拭きながらデスクに座った。


 ノートPCを開く。

 フォルダを一つ開く。「閉店報告書」と名前をつけたフォルダで、中に七つのサブフォルダが並んでいる。


 「小田原店」「熊谷店」「所沢店」「調布駅前店」「水戸店」「川越店」「藤沢店」。


 七店舗。四年間。

 フォルダの作成日を見る。一番古い小田原店が四年前の秋。一番新しい藤沢店が三ヶ月前。

 どのフォルダも同じ構成で並んでいる。私がそう決めた。テンプレートを作って、毎回同じ手順で処理する。閉店を効率化するとは、そういうことだ。


 小田原店のフォルダを開いた。

 報告書のPDFが並ぶ。日報、週報、閉店フェア企画書、什器撤去スケジュール、最終精算書。全部で百二十ファイル。一店舗を閉めるのに、これだけの書類がいる。


 ——小田原。


 私が最初に閉めた店。

 あの時はまだ、手が震えた。


 異動して半年。リストラクチャリング推進室に配属されて、最初の案件が小田原店。

 現場に入った日、事務室で待っていたのは佐々木だった。三鷹店で一緒に棚を作った元同僚。私より三つ年上で、私に平台の組み方を教えてくれた人。


 佐々木は私の顔を見て、最初は笑った。

 「桐生じゃん、久しぶり」と。

 それから私のスーツに目を落として、笑顔が消える。


 『お前がやるのか』


 佐々木の声が、今も耳に残っている。

 問い詰める声ではなかった。確認する声でもない。ただ、事実を受け止めようとして、受け止めきれなかった人間の声。


 私は閉店通告書を渡した。手順通りに。スケジュールを説明し、返本計画を示し、工程を組んだ。

 佐々木は何も言わなかった。

 最後の日まで一言も文句を言わず、黙って返本作業をこなした。


 閉店日の夜、シャッターを降ろした後、佐々木が私に言った。


 『桐生。お前、これからもこの仕事やるのか』


 やります。


 『——そうか。頑張れよ』


 佐々木は笑って去った。あの笑い方は、三鷹店で一緒に平台を組んでいた頃と同じ。

 翌月、佐々木は文翠堂を辞めている。転職先は聞いていない。


 小田原の次は熊谷。その次は所沢。

 店ごとに人がいて、棚があり、常連客がいる。全部違う。でも手順は同じだ。

 通告書を渡し、スケジュールを組み、返本し、フェアを打ち、什器を撤去し、引き渡す。

 三店舗目の所沢あたりで、手が震えなくなった。

 感情を殺す技術は、誰かに教わるものではない。一回ずつ、閉めるたびに身につくものだ。


 小田原店のフォルダを閉じる。


 次に目に入ったのは、四番目のフォルダだった。


 「調布駅前店」。


 カーソルが、フォルダの上で止まる。

 ダブルクリックすれば開く。中には百五十を超える報告書と、一通のスキャンデータがある。

 子供たちの手紙。閉店日にシャッターの隙間から差し込まれた、折り畳んだ便箋。クレヨンの文字。宛名は現場のスタッフで、私の名前ではなかった。


 四店舗目。児童書フェアが地域に根付いていた店。

 あの店にも、椎名さんのような人がいたのだろうか。


 ——開かなかった。


 ノートPCの画面を閉じる。

 ヒンジの音が硬い。

 両手をデスクに置く。右手の人差し指が、小さく揺れている。


 空調の唸りだけが、部屋に残る。

 明日も朝から返本作業がある。次は三十冊。ガントチャートの赤い線は、一日ずつ右に進む。

 眼鏡を外して、枕元に置いた。レンズに蛍光灯の光が映って、天井に小さな四角い影を作る。


 七店舗。四年。

 八店舗目の武蔵境は、これまでと何も変わらない。

 ——変わらないはずだ。

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