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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第1章『開店前の挨拶』

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第3話「棚の持ち主」

 背表紙が一冊、五ミリずれている。

 指先で押し戻す。とん、と棚板に本の背が収まる音。それで正しい位置に戻る。


 金曜日の朝、八時四十分。

 文翠堂武蔵境店の二階は、開店前の四十分間だけ私のものになる。

 蛍光灯はまだ点けない。東向きの窓から入る光だけで、棚の状態は全部わかる。

 人文書の棚を左端から順に見ていく。哲学、心理学、エッセイ。

 背表紙の並びを指で追う。一晩で本は動かないはずなのに、毎朝必ずどこかがずれている。

 空調の風か、建物の振動か。理由はどうでもいい。

 直す。それだけ。


 埃の匂いを吸い込む。紙とインクと、少しだけコーヒー。

 一階の給湯室で田崎店長が淹れたインスタントコーヒーの湯気が、階段を伝って二階まで届く。ずっと、毎朝同じ匂い。


 児童書コーナーに移る。

 絵本の表紙を一冊ずつ正面に向け直す。『おひさまのたまご』の角が少し折れている。

 先週の土曜に安藤さんの娘さんが読んでいた本。四歳の手は、まだ本の扱いを知らない。折れた角を指で伸ばして、棚に戻す。


 ローファーの底が、カーペットの上で小さく鳴る。

 この音を聞くと、一日が始まる。



 十時の開店を過ぎた頃、桐生さんが二階に上がってきた。

 ヒールの音でわかる。低い、硬い音。カーペットの上でも消えない足音。

 私の知っている文翠堂の足音は、スニーカーかローファーだ。ヒールで売場を歩く人間は、本部から来た人間しかいない。


 振り向かなかった。

 児童書の棚を整えている最中だった。手を止める理由がない。


「椎名さん」


 声も硬い。月曜日に初めて聞いた声と同じ、感情を削ぎ落とした響き。


「これを確認してください」


 振り向くと、桐生さんがA4の紙を差し出していた。

 紺のスーツ、銀縁眼鏡。表情は読めない。眼鏡のレンズ越しの目だけが、かすかに私を見ている。

 紙を受け取る。手が触れそうになって、桐生さんのほうが先に引いた。


 ——返本リスト。


 二階の在庫から、売上下位五十冊を抽出したリスト。ISBNコード、タイトル、著者名、過去六ヶ月の売上部数。

 ゼロが並んでいる行が多い。

 私の担当棚から、五十冊。


「六ヶ月間で売上ゼロの在庫です。返本処理を今週中にお願いします」


 リストの一行目を読む。

 『言葉の輪郭について』藤原清彦。哲学エッセイ。

 三年前に入荷して、確かに一冊も売れていない。でも。


「この本は、この棚にいる意味があります」


 声が出ていた。考えるより先に。


「理由を聞かせてください」


 桐生さんの声に、感情はない。業務質問の口調。


「藤原さんのこの本は、隣の『考えることの地図』と並べて初めて意味が出るんです。哲学の入口を探してる人が、まず『地図』を手に取って、次にこの本に手が伸びる。そういう棚の流れを作ってるんです」


「売上データには反映されていません」


「データに出ないから意味がないって話じゃないです」


 声が大きくなっている。自分でわかる。左手の爪が掌に食い込んでいた。


 桐生さんはリストに視線を落とした。


「二行目。『雨と図書館』。これも売上ゼロです」


「小林さんが探してる本です」


「小林さん」


「木曜日に来る常連さんです。時代小説が好きだけど、最近エッセイも読み始めて。次に来たとき、この本を勧めようと思ってました」


 桐生さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。それだけ。


「三行目——」


「『夜を歩く子どもたち』。これは児童書の棚に移す予定でした。表紙が地味だから人文書だと思って入荷されたけど、中身はヤングアダルトです。読めばわかります」


 一冊ずつ。

 私は五十冊の全部に答えられる。この棚に十年いる。

 一冊ずつ触って、読んで、置き場所を決めてきた。売上ゼロの本にも、ここにいる理由がある。


 桐生さんは黙って聞いていた。

 十五冊目まで反論したところで、階段を上がってくる足音がした。重い。スニーカー。


「おい、何の騒ぎだ」


 田崎店長が二階に顔を出した。

 私と桐生さんの間にある空気を見て、一瞬だけ目を細める。それから桐生さんの手にあるリストに気づいた。


「桐生、返本リストか」


「はい。売上下位五十冊の返本指示です」


「椎名、お前——」


「店長、この五十冊には全部理由があります。一冊ずつ説明できます」


 田崎店長は腕を組んだ。大きな体が階段の上り口を塞いでいる。

 ずっと、私の味方でいてくれた人。棚を好きに作らせてくれた人。返本伝票を取り消しても、黙って見ていてくれた人。


「桐生。椎名の言い分も聞いてやってくれ。この棚は——」


「田崎店長」


 桐生さんの声が、田崎店長の言葉を断ち切る。静かだけれど、刃物みたいに正確な声。


「返本計画は本部直轄の業務です。現場の判断で保留することはできません」


 田崎店長の腕が、ほどけた。

 組んでいた腕を体の横に下ろして、それから桐生さんを見た。何か言おうとして、口を開けて、閉じる。


 知っている。

 田崎店長は課長相当で、桐生さんはリストラクチャリング推進室の本部直轄。権限が違う。

 命令系統が違う。この店でいちばん偉かった人が、月曜に来たばかりの人間に、言い返せない。


 手が冷たい。

 棚に触れている左手の指先から、血の気が引いていくのがわかる。


「……わかった。桐生の指示に従う」


 田崎店長はそれだけ言って、階段を降りていった。

 スニーカーの足音が、一段ずつ遠くなる。


 私と桐生さんだけが、二階に残された。


「椎名さん。返本リストの処理は来週月曜までに」


「……はい」


 返事をした自分の声が、自分のものに聞こえない。

 桐生さんがリストを棚の上に置いて、階段に向かう。足音が遠ざかる。とん、とん、と。

 背表紙を棚に押し戻す音と、同じリズム。



 閉店は二十一時。

 レジを締めて、三嶋さんが「お疲れさまです」と帰っていく。

 田崎店長は事務室で日報を書いている。金曜の夜、帰り際の店長の背中はいつもより丸い。


 売場の照明を半分落とす。

 一階は三嶋さんが片づけてくれた。私は二階へ上がる。


 蛍光灯を一列だけ残して、あとは消す。

 窓の外は六月の夜。暗い。

 武蔵境の商店街はもう静かで、居酒屋の看板の光だけが窓ガラスに映っている。


 棚の前に立った。

 朝と同じ場所。人文書の左端、哲学の棚。

 朝は五ミリのずれを直した。今は何もずれていない。私が直したから。


 残り八十六日。

 九月十二日に、この棚はなくなる。本は返本されるか、閉店フェアで叩き売られる。

 POPは剥がされて捨てられる。棚板は什器業者が解体して、トラックに載せて運んでいく。

 十年かけて組んだ棚が、工程表の上では「第三段階:什器撤去」の一行で片づく。


 指先で背表紙を撫でる。

 『考えることの地図』『言葉の輪郭について』『雨と図書館』。返本リストに載った本たち。

 桐生さんのリストでは、ISBNと売上ゼロの数字。私にとっては、一冊ずつ選んで、読んで、隣に何を置くか考えて、場所を決めた本。


 十六歳の冬に、この店に来た。

 学校に行けなくなって、毎日この二階の児童書コーナーで本を読んでいた。椅子に座って、朝から夕方まで。

 当時の店長——田崎店長の前の人——が何も言わずに読ませてくれた。


 ある日、棚の整理を手伝った。本の場所が気になったから。

 絵本の隣にビジネス書が刺さっていて、気持ち悪くて直した。それが最初。


 バイトにならないかと声をかけられた。時給八百五十円。交通費なし。

 でも本に触れる。棚を直せる。それだけで十分だった。


 四年後に正社員になった。田崎店長が推薦してくれた。

 そこから六年。この棚の全部を、私が作った。


 作った、という言い方は正しくないかもしれない。

 育てた。一冊ずつ読んで、置いて、動かして、また読んで。

 お客さんの顔を見て、どの本が誰に届くか考えて。棚は生きている。

 毎日少しずつ変わる。季節が変わり、客が変わり、新刊が入り、絶版が出る。

 その流れの中で、棚を生かし続けること。


 ——あと八十六日。


 手が止まった。

 児童書の棚の、下から二段目。背表紙が日に焼けて、タイトルの金文字がかすれている一冊。

 抜き出す。


 『見えない扉の向こうに』フリードリヒ・ベルクマン。

 ドイツの児童文学。古書店で不思議な本を見つけた少年が、本の中の世界に入り込む物語。

 表紙に指を置いた。紙の手触りが、十年前と変わらない。

 角が丸くなって、背が少し割れている。何度も読んだ本だけが持つ柔らかさ。


 十六歳の冬。学校に行けなくなった私が、この棚の前で最初に手に取った本。

 物語の中の少年は、現実に居場所がなかった。本の中にだけ、自分の居る場所があった。


 表紙の少年と目が合う。

 暗い古書店の中で、一冊の本に手を伸ばしている少年の絵。


「私はこの本に拾われた」


 声に出していた。

 蛍光灯のハム音だけが返事をする。


 本を胸に抱いたまま、棚の前にしゃがみ込む。ローファーの底が床を擦る音。エプロンの膝が、冷たいカーペットに触れる。


 五十冊の返本リストが、棚の上に置かれたままになっている。

 月曜までに処理しろと、桐生さんは言った。


 本を棚に戻さなかった。

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