第2話「九十日の地図」
九十日を四分割した工程表を、事務室の壁に貼った。
六月十七日、水曜日。残り八十八日。
A3用紙二枚をテープで繋ぎ、横軸に日付、縦軸に工程を並べてある。
第一段階、在庫精査と返本計画。第二段階、閉店フェア。第三段階、什器撤去と原状回復。第四段階、引き渡し。
色分けは四色。赤、青、緑、黒。各段階の期限にはマーカーで縦線を引いた。
田崎店長がコーヒーの紙コップを片手に、壁の前に立つ。
「細かいな」
「七店舗分の知見を反映しています」
「知見、か」
田崎店長はそれ以上何も言わず、紙コップに口をつけた。
インスタントコーヒーの安い匂いが事務室に広がる。
一昨日、椎名さんに宣言された言葉がまだ耳に残っている。
だが私の仕事は変わらない。工程表の通りに進める。八店舗目も、七店舗目までと同じだ。
——同じでなければ困る。
*
売場の確認に入った。
まず一階。月曜に見た印象と大きくは変わらない。平台の新刊は相変わらず高さが不揃いで、雑誌棚の歯抜けも目立つ。
文庫の棚を一列ずつ確認する。背表紙を指で追いながら、在庫の回転率を頭の中で弾いていく。三ヶ月以上動いていない本が、目視だけでも二割は超えている。
レジカウンターの横を通りかかると、若い女性スタッフがバーコードリーダーで返品伝票を処理していた。ピッ、ピッ、と小さな電子音がリズムを刻む。
「あの、桐生さん……ですよね」
声をかけられた。
栗色のポニーテール。文翠堂のエプロンの下にボーダーのカットソー。名札には「三嶋」とある。
「はい。本部の桐生です」
「三嶋ゆりです。アルバイトで、大学四年です」
バーコードリーダーを胸の前で握ったまま、三嶋さんは小さく頭を下げた。就活中の学生特有の、背筋の正し方。
「閉店のこと、田崎店長から聞きました。その……」
言葉が続かない。三嶋さんの視線が二階への階段に向いた。
「朱里さんのこと、ご存じですか。あの、どんな人か」
「人事資料は確認しています」
「資料じゃなくて」
三嶋さんの声が少し強くなる。それから慌てたように目を伏せた。
「すみません。でも——朱里さんは常連さんの顔と好きな本を、全部覚えてるんです。本当に全部」
全部、という言葉に力が入っている。
私は黙って聞く。
「火曜日に来る斎藤さんはエッセイ、木曜日の小林さんは時代小説、土曜日の親子連れの安藤さんはいつも絵本を三冊。朱里さんは入荷したら取り置きして、棚に手書きのメモを挟んでおくんです。『斎藤さんへ、新刊出ました』って」
バーコードリーダーのランプが緑に点滅している。三嶋さんはそれに気づかず、続けた。
「私、就活でうまくいかなくて、ここのバイトも辞めようかなって思ったことがあって。そしたら朱里さんが一冊くれたんです。『これ読んでみて』って。古本で、カバーもなかったけど」
「何の本ですか」
「覚えてないです、タイトル。でも中身は覚えてます」
三嶋さんはそこで口を閉じた。
バーコードリーダーを持ち直して、返品伝票に目を落とす。話は終わり、という仕草。
言葉にできないのではなく、しないのだと思った。大事なものを預かっている人間の沈黙。
*
二階に上がる。
階段を上がった瞬間、空気の密度が変わる。天井が低く、棚が三方を囲んでいるせいだろう。一階の雑多な空気から隔てられた、静かな空間。
人文書の棚の前で立ち止まった。
一昨日も見た棚だ。だが今日は、数を数えるために来ている。
POPの枚数を数え始めた。
哲学の棚、三十八枚。心理学、三十枚。エッセイ、三十五枚。
児童書コーナーに移る。ここでも三十五枚。
絵本の表紙の横に、クレヨンみたいな太いペンで書かれたものもある。子供に向けた文字だ。丸くて、大きい。
文芸の棚。ここが一番多い。四十枚を超えたところで、数えるのをやめた。
合計で二百枚近い。
一枚ずつ紙の質が違う。色画用紙、コピー用紙、メモ帳の切れ端。インクもボールペン、サインペン、色鉛筆と統一されていない。
つまり、まとめて作ったものではない。毎日少しずつ、本を読んでは書き、読んでは書いた痕跡。
POPの一枚に触れた。
指先に紙の繊維が当たる。角がわずかに丸まっている。何度も客の手が触れたのだろう。
『夜明けの行進』——「歩くだけで泣ける。」
八文字。
この八文字を書くために、椎名さんはこの本を最後まで読んでいる。二百冊分のPOPは、二百冊分の読書時間。それが全部、この棚の前に並んでいる。
眼鏡のブリッジを押し上げた。
工程表の第一段階は「在庫精査と返本計画」。この棚の本は全て、返本対象になる。POPごと。
*
地下倉庫に降りた。
蛍光灯が一本切れていて、奥が薄暗い。埃とダンボールの匂いが鼻を突く。湿気がスーツの肩に貼りつく感触。
在庫量が、異常だった。
通路の両側にダンボール箱が積み上がり、人がすれ違えない。棚卸しリストと照合するまでもなく、返本が滞っている。
田崎店長を探して一階に戻り、レジ裏で声をかけた。
「地下の在庫が過剰です。返本処理が遅れています」
「わかってる」
「理由を教えてください」
田崎店長は腕を組んだ。視線が二階への階段に向く。
「……椎名が、返したがらないんだ」
「返したがらない」
「あいつに言わせると、全部『必要な本』なんだよ。売れなくても、棚にあるべき本だと。返本伝票を出しても、翌日には取り消してる」
私は手帳に「返本遅延・原因:担当者判断」と書いた。
書きながら、ペンの先が紙を引っ掻く音を聞いている。
「明日から返本計画を始めます。在庫リストを今日中にいただけますか」
「ああ。——桐生、一つだけ」
「はい」
「地下の奥に、椎名が私物みたいに管理してる箱がある。あれは俺も中身をよく知らん」
*
その日の夜、閉店後に地下倉庫へ戻った。
蛍光灯は全灯にしたが、奥の隅はまだ暗い。スマートフォンのライトで照らしながら進む。
倉庫の最奥、壁際に積まれたダンボール箱を見つけた。
五箱。他の在庫用ダンボールとは違い、ガムテープが丁寧に貼られている。箱の側面にマジックで「返本不可」と書いてある。椎名さんの丸い字だ。POPと同じ筆跡。
一番上の箱を開けた。
ガムテープを剥がす音が、静かな倉庫に響く。
本が詰まっていた。
文庫、単行本、絵本。ジャンルはばらばら。だが一冊一冊に、小さな付箋が貼ってある。
付箋を読む。
「斎藤さん(火曜)」
「小林さん(木曜・時代小説)」
「安藤さん親子(土曜・絵本)」
客の名前だった。
三嶋さんが言っていた常連の名前と一致する。
二箱目を開けた。同じだった。三箱目も。全ての本に付箋がついている。
付箋には名前だけではなく、「前に買った本の続き」「お孫さんの誕生日に」「就活が終わったら読んでほしい」と、理由まで書いてある。
返本できない本。
売れるかどうかではなく、届ける相手が決まっている本。
五箱目の底に、ノートが一冊あった。
表紙に「お客さまノート」とだけ書いてある。開くと、名前、曜日、好みのジャンル、過去に買った本のリストが、何ページにもわたって記録されていた。
ノートを閉じる。
蛍光灯のハム音だけが、地下に響いている。
工程表の第一段階は「在庫精査と返本計画」。
この五箱は、帳簿上は返本可能な過剰在庫だ。合理的に考えて、返すべき本。
だが付箋の文字が、指先に残っている。
紙の粘着が薄れかけた、古い付箋。何度も貼り直した跡がある。
——この箱を、どう扱えばいい。
ノートPCを開こうとした手が、止まった。




