第1話「閉店請負人」
文翠堂業界紙のインタビューで、私は「閉店請負人」と呼ばれた。
四年で七店舗。看取った書店の合計坪数は千二百坪を超える。
今日からはここ、武蔵境店が八店舗目になる。
中央線の武蔵境駅を出ると、六月の湿気が首筋に貼りついた。
スーツの襟を正す。駅の北口を右に折れて三分。商店街を抜けた先に、文翠堂の看板が見える。
地上二階、地下一階。延床二百四十坪。赤字は三年目に入っている。
隣はクリーニング店で、反対側は空きテナント。シャッターに貸店舗の張り紙が日に焼けていた。駅ビルの大手チェーン書店まで歩いて五分。立地としては、もう勝ち目がない。
鞄の中には閉店通告書が一通。
本部の書式に則ったA4一枚の文書で、私はこれを今日、店長に渡す。
八回目だから手順は身体に染みている。裏口から入り、事務室に直行し、閉店日を告げる。最初に売場には出ない。感情が移る。
合理的に考えて、それが正しい。
裏口の鉄扉を引くと、地下倉庫へ続く階段が現れた。
降りるたびにダンボールとインクが混じった匂いが濃くなる。どの書店の地下も同じ匂いがする。紙と埃と、それから少しだけカビ。八店舗目でも鼻が慣れない。
事務室のドアをノックした。
「はい」
低い声。ドアを開けると、大柄な男がスチールデスクの前に座っていた。
田崎康介、四十五歳。武蔵境店の店長で、課長相当。私がまだ三鷹店の現場にいた頃の上司だった。
「——桐生か」
田崎店長は私の顔を見て、それからスーツに視線を落とした。
現場にいた四年前、私はスーツを着たことがない。エプロンにローファーが制服だった。
「お久しぶりです、田崎店長。本部リストラクチャリング推進室の桐生です」
「堅いな。業界紙で読んだよ、お前のこと」
田崎店長が椅子を引いて、向かいの席を示す。
事務室は狭い。デスク二つとパイプ椅子三脚。壁際の棚にはファイルが詰まり、その上にインスタントコーヒーの瓶と紙コップが載っている。空調の風がファイルの端を揺らしていた。
私は鞄から閉店通告書を取り出した。
「本日付で、武蔵境店の閉店手続きを開始します。閉店予定日は九月十二日。残り九十日です」
田崎店長は通告書を受け取り、一読した。
顔色は変わらない。三年赤字の店を預かる店長なら、この日が来ることは知っていたはずだ。
「——まあ、そうだろうな」
それだけ言って、通告書をデスクの引き出しにしまった。引き出しを閉じる音が、やけに硬い。
「売場を見てもいいですか」
「見ないほうがいいと思うが」
「これは仕事です」
田崎店長と一階に上がった。
月曜日の午前十時。客はまばらで、蛍光灯のハム音がやけに大きく聞こえる。
入口正面の平台を見る。新刊が積まれているが高さが揃わず、積み方に統一感がない。
雑誌棚は歯抜けが目立つ。配本が減らされているのだろう。
文芸の棚には埃を被った文庫が並んでいる。在庫が回転していない。
数字の上では、この店はすでに死んでいる。
私はそれを確認しに来た。
二階に上がった。人文書、児童書、コミック。
階段を上がると、一階とは空気が違う。
紙の匂いが濃い。古い本の酸っぱさと、新刊のインクの甘さが混じっている。
児童書コーナーには小さな椅子が置いてあり、棚の前に座って読めるようになっている。壁に子供の描いた絵が貼ってある。誰かがこの場所を、ただの売場ではなく居場所として作ろうとした痕跡。
——足が止まった。
人文書の棚だけが、異質だった。
背表紙の並びに秩序がある。哲学の横に心理学、その隣にエッセイ。ジャンルの境界が自然で、隣り合う本同士に文脈がある。読者の思考の流れに沿って棚が組まれている。
一冊ごとに手書きのPOPがついていた。小さな紙片に、丸い文字。
『言葉の海を渡る』——「言葉を届ける仕事の話。」
『魔女の庭で眠る』——「帰る場所がない人に。」
POPの枚数を数えかけて、途中でやめた。百枚は下らない。
一枚ずつ、文字の太さもインクの色も違う。一日では書けない。一ヶ月でも足りない。何年もかけて、一冊ずつ書いたものだ。
「この棚は誰が」
「うちの椎名だ。正社員で、事実上の店長代理みたいなもんだよ」
田崎店長が言い終わらないうちに、棚の向こう側から声がした。
「閉店請負人さんですね」
本棚の陰から、女性が一人現れた。
暗い茶色のセミロングがゆるく巻いている。エプロン姿、ローファー。指先に紙の埃がついている。年齢は二十代半ばに見えるが、目だけが据わっていた。
「椎名朱里です。人文書と文芸と児童書の棚を担当しています」
私は名乗っていない。
異動辞令はまだ社内で正式に発表されていない。閉店対象店舗への通達は店長にのみ行うのが本部のルールだ。
「……なぜ、私の名前を」
「業界紙です」
椎名さんは迷いなく答えた。
「リストラクチャリング推進室の桐生詠子さん。文翠堂業界紙に載ってました。『閉店は始まりでもある』って」
四年前のインタビューの引用。
当時は、自分でもそう信じていた。
「よく覚えていますね」
「覚えてます」
椎名さんの声は静かだった。だが、右手がエプロンの紐を掴んでいる。布に皺が寄るほど強く。
「桐生さん。一つだけ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この店を、何日で閉めに来たんですか」
「九十日です」
椎名さんは小さく頷いた。それから、棚に目を戻す。
自分が組んだ棚を、指先で一度だけ撫でた。十年分の仕事が、その指の下にある。
私は何も言わなかった。言うべき言葉を知っている。「閉店は始まりでもあります」。四年間で何十回と口にしてきた台詞。だが、あの棚を見た後では、喉に引っかかって出てこない。
*
一階に戻り、事務室で閉店スケジュールの概要を田崎店長に説明した。
第一段階、在庫精査と返本計画の策定。第二段階、閉店フェアの企画と実施。第三段階、什器撤去と原状回復。第四段階、ビルオーナーへの引き渡し。
九十日を四つに割り、約二十日ずつ進める。
田崎店長は腕を組んで聞いていた。時折頷くが、質問はしない。七店舗分の経験がこのスケジュールを作っている。反論の余地がないことは、店長にもわかるはずだ。
「椎名には、俺から伝える」
「お願いします」
「——あいつ、この店に十年いるんだ。高校の時にアルバイトで入って、そのまま正社員になった。棚も売場も、全部あいつが作った」
知っている。人事資料には目を通してある。
椎名朱里、二十六歳。勤続十年。担当は人文書、文芸、児童書。
数字の上では、主任相当の正社員が一人。
だが二階の棚を見た後では、その一行が別のものに見えた。
田崎店長がコーヒーの瓶に手を伸ばしかけて、やめた。
「……頼むぞ、桐生。うまくやってくれ」
「はい」
事務室を出ようとした時だった。
ドアの前に、椎名さんが立っていた。
いつからいたのかわからない。足音は聞こえなかった。ローファーの底が、安物のカーペットの上で音を殺している。
田崎店長が声を上げる。「椎名、まだ——」
「聞こえてました」
椎名さんの目が、真っ直ぐに私を見ている。棚板を撫でていた指は、今は拳を作って体の横にある。
「桐生さんが閉めた七店舗、全部行きました。——だから絶対、ここでは負けません」
私は何も言えなかった。
眼鏡のブリッジを押し上げる。指先が冷たい。
「……これは仕事です、椎名さん」
自分の声が、八店舗目にして初めて、震えていた。




