第29話「シャッター」
鍵を差し込んで、回す。金属の噛み合う音が九月十二日の朝の空気に響いた。
午前八時。閉店当日。
シャッターを上げる。
巻き上げの金属音が、商店街の通りに流れ出ていく。ガラガラガラ、と鉄が鉄を擦る音。何百回と聞いた音。今日が最後の一回。
売場の中に朝の光が差し込んだ。
一階の棚は半分以上が空になっている。残っているのは文芸の棚と、レジ周りの雑貨棚。閉店セールの赤い値札が朝日を受けて鈍く光っていた。
後ろで足音がした。
「おはよう」
朱里さんの声。
振り返ると、エプロン姿。ローファー。いつも通りの朱里さん。ただ、目の下の影が昨日よりも薄い。夜のことを思い出しかけて、意識を切る。今は、仕事だ。
「おはようございます」
私の声。仕事の声。朱里さんも聞き取っている。頷いて、レジに向かう。
レジの電源を入れる。起動音。バーコードリーダーの赤い光が一瞬、天井に走った。
*
午前九時。田崎店長と三嶋さんが出勤した。
四人で売場に立つ。最後の朝礼。
「今日で最後だ。十八時にレジを閉める。それまで、いつも通りやってくれ」
田崎店長の声は穏やかだった。
それ以上は言わない。二十年の店長が、最後の日に長い訓示をしない。その簡潔さが、この人らしかった。
午前十時。開店。
自動ドアの電源を入れる。ガラスの向こうに、すでに人が立っていた。
松本さん。
毎週火曜日の常連が、土曜日に来ている。
「おはよう。最後に来たかったから」
「ありがとうございます」
朱里さんがレジに立つ。松本さんは文庫を一冊。カバーをかけて渡す。
松本さんの指が紙袋を受け取る。一瞬、朱里さんの指に重なった。
「朱里ちゃん、元気でね」
「ありがとうございます。松本さんも」
松本さんが自動ドアから出ていく。その背中が見えなくなる前に、次の客が入ってくる。
十時半。一人。十一時。三人。十一時半。二人。
途切れない。
花束が届いた。
午前十一時四十分。配達の女性が持ってきた黄色いガーベラの花束。カードには「十年間ありがとうございました」。差出人の名前に見覚えがない。朱里さんに見せると、目を見開いた。
「三年前に引っ越された岡田さんだ。児童書コーナーの常連だった方」
花束をレジカウンターの横に置いた。黄色い花弁が蛍光灯の光の下で揺れている。
*
午後一時。昼休憩を交代で取る。
私は事務室で、コンビニのおにぎりを一つだけ食べた。二つ目に手が伸びない。
午後二時。
エレベーターのドアが開く音。杖のゴム底がフローリングの上でことりと鳴った。
藤村さん。
白いブラウス。薄いカーディガン。右手に杖、左手に小さな紙袋を提げている。
「朱里ちゃん」
「藤村さん、いらっしゃい」
朱里さんが二階に上がっていた。人文書の棚の最後の確認をしていた。
藤村さんが窓際の椅子に向かって歩く。
「最後に、ここに座りたくて」
「どうぞ、藤村さん」
「ありがとう。今日は、座るだけ」
藤村さんが椅子に腰を下ろした。窓からの午後の光が白い髪を照らしている。
朱里さんが藤村さんの隣に立つ。黙って。
「朱里ちゃん」
「はい」
「あなたに会えてよかった」
藤村さんの声は静かだった。いつもと変わらない穏やかさ。
「主人も、きっと」
朱里さんが頭を下げた。深く。七十五歳の手が朱里さんの肩に軽く触れた。
五分ほどして、藤村さんが立ち上がった。紙袋を朱里さんに渡す。
「これ、開けないで。帰ってから開けて」
「はい」
紙袋の重さ。薄い。軽い。手紙だろう、と思った。
*
午後三時。藤村さんをエレベーターまで送った。
杖の音が遠ざかっていく。エレベーターのドアが閉まる。最後に見えたのは、藤村さんの穏やかな目と、かすかに上げた左手。
紙袋をエプロンのポケットに入れた。
軽い。でも重い。十年分の感謝が入っている重さ。
階段を降りて一階に戻ると、売場に客が五人いた。午後三時でこの人数は多い。最終日だからだ。
レジに入る。バーコードリーダーを手に取った。
午後四時を過ぎた。
客足が途切れない。最終日だと知って来る人。たまたま通りかかった人。以前この店で買い物をしたことがある人。顔を知っている人もいれば、知らない人もいる。紙袋の在庫が午前中に切れて、午後はビニール袋で代用している。
全ての人に、同じように声をかける。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
同じ言葉。でも、一人ずつ声が変わっていく。最初は業務の声。途中から、何か別のものが混じる。感謝なのか、惜別なのか、自分でもわからない。
桐生さんがレジの隣に立っていた。
スーツ姿。眼鏡。ノートPCは閉じてある。最後の二時間を、桐生さんは売場に立つことを選んだ。事務室ではなく。
並んで立つ。
桐生さんの肩が、私の肩から十五センチの距離にある。この距離を、九十日かけて縮めた。
午後五時。残り一時間。
客が三人、同時にレジに来る。私がスキャンして、三嶋さんが袋に入れて、桐生さんが紙袋を渡す。三人の流れ作業。桐生さんの手が客に紙袋を差し出す動きが書店員のそれだった。四年間一度もやっていなかったはずの動作。でも、手が覚えている。三鷹店の頃の手。
「桐生さん、手つき書店員ですね」
三嶋さんが小さな声で言った。桐生さんは何も答えなかった。唇の端がわずかに動いただけ。
午後五時四十五分。
最後の客が入ってきた。サラリーマン風の男性。文芸棚の前で一冊選んで、レジに持ってくる。
「すみません、今日で最後なんですよね」
「はい。本日で閉店です」
「昔、ここでよく買ってたんです。転勤で離れてたんだけど、今日、たまたまこっちに用事があって」
私がカバーをかけて、紙袋に入れる。
男性が紙袋を受け取った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
自動ドアが閉まる。男性の背中が商店街の方へ消えていく。
午後六時。
レジの画面を見る。本日の売上。数字が並んでいる。
桐生さんがレジの横に立っていた。
「閉めましょう」
桐生さんの声。
レジの電源を落とした。
画面が暗くなる。緑色のランプが一つ消える。バーコードリーダーの赤い光が消える。
レジが沈黙する。
田崎店長が一階に降りてきた。
缶コーヒーは持っていない。手ぶら。腕組みもしていない。両手を下ろして、空になった売場を一度見回してから、私たちの方を向いた。
「みんな、ご苦労さん」
田崎店長の声が空になった売場に響く。反響が長い。本がないと、音を吸うものがない。声が棚の奥まで届いて、壁に当たって返ってくる。
「椎名。十年間、よくやった」
朱里さんではなく、椎名。店長が部下に向けて出す、名字の呼び方。最後までそれを崩さない人だった。
「ありがとうございました、店長」
私の声は震えなかった。震えないことに驚いた。泣くと思っていた。この瞬間に。でも涙は来ない。代わりに、足の裏がフローリングの冷たさを感じていた。十年踏んだ床。ローファーのゴム底越しに、最後の温度を拾っている。
三嶋さんの目が赤くなっていた。
唇を噛んでいる。泣くまいとしている。でも、鼻を一度啜った。
「三嶋さん」
桐生さんが三嶋さんの名前を呼んだ。
「お疲れさまでした」
「ありがとう、ございました」
三嶋さんの声が震える。頷いて、エプロンの裾で目元を押さえた。
自動ドアの電源を切った。
ガラスの向こうに、商店街の夕暮れが見えている。六時を回った九月の空。まだ明るい。空が橙色に染まっている。
蛍光灯を一列ずつ消していく。
一階の手前。奥。レジの上。
最後に残ったのは、入口の照明だけだった。その光が黄色いガーベラの花束を照らしている。
*
シャッター。
店の前に立った。田崎店長と三嶋さんと朱里さんが、歩道の上に並んでいる。
私がシャッターの脇のボタンに手をかけた。
電動式。ボタンを押せば降りる。
指がボタンの上で止まった。
朱里さんの視線が私の背中に当たっているのがわかる。
九十日前、このシャッターの前で、私は初めてこの店を見た。六月の湿気。赤字三年目。看板の文字。隣のクリーニング店。反対側の空きテナント。
ボタンを押した。
シャッターが降り始める。金属の巻き下ろし音。ガラガラガラ。朝と逆の音。光が遮られていく。売場の床が、入口から奥に向かって暗くなっていく。
シャッターの下端が地面に近づいていく。
残り三十センチ。二十。十。
金属が地面に触れた。鍵をかける。
終わった。
振り返った。
朱里さんが歩道の上に立っている。エプロンはもう外している。白いブラウスとデニム。九月の夕暮れの光の中で。
朱里さんが歩いてきた。
私の前に立つ。距離が三十センチ。
朱里さんの手が私の手を握った。
「ありがとうございました」
敬語。
仕事としての感謝。九十日間の閉店業務を完了した、本部の人間への礼。
でも、手を離さない。
朱里さんの指が私の指の間に入っている。温かい。力が入っている。離さない力。
田崎店長と三嶋さんが、少し離れた場所にいる。見ているのか、見ていないのか。わからない。
私も握り返した。
シャッターの金属面が夕暮れの橙色を反射している。その光の中で、二人の手が繋がっていた。




