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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第6章『閉店と栞日』

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第29話「シャッター」

 鍵を差し込んで、回す。金属の噛み合う音が九月十二日の朝の空気に響いた。

 午前八時。閉店当日。


 シャッターを上げる。

 巻き上げの金属音が、商店街の通りに流れ出ていく。ガラガラガラ、と鉄が鉄を擦る音。何百回と聞いた音。今日が最後の一回。


 売場の中に朝の光が差し込んだ。

 一階の棚は半分以上が空になっている。残っているのは文芸の棚と、レジ周りの雑貨棚。閉店セールの赤い値札が朝日を受けて鈍く光っていた。


 後ろで足音がした。


「おはよう」


 朱里さんの声。

 振り返ると、エプロン姿。ローファー。いつも通りの朱里さん。ただ、目の下の影が昨日よりも薄い。夜のことを思い出しかけて、意識を切る。今は、仕事だ。


「おはようございます」


 私の声。仕事の声。朱里さんも聞き取っている。頷いて、レジに向かう。

 レジの電源を入れる。起動音。バーコードリーダーの赤い光が一瞬、天井に走った。



 午前九時。田崎店長と三嶋さんが出勤した。

 四人で売場に立つ。最後の朝礼。


「今日で最後だ。十八時にレジを閉める。それまで、いつも通りやってくれ」


 田崎店長の声は穏やかだった。

 それ以上は言わない。二十年の店長が、最後の日に長い訓示をしない。その簡潔さが、この人らしかった。


 午前十時。開店。

 自動ドアの電源を入れる。ガラスの向こうに、すでに人が立っていた。


 松本さん。

 毎週火曜日の常連が、土曜日に来ている。


「おはよう。最後に来たかったから」


「ありがとうございます」


 朱里さんがレジに立つ。松本さんは文庫を一冊。カバーをかけて渡す。

 松本さんの指が紙袋を受け取る。一瞬、朱里さんの指に重なった。


「朱里ちゃん、元気でね」


「ありがとうございます。松本さんも」


 松本さんが自動ドアから出ていく。その背中が見えなくなる前に、次の客が入ってくる。


 十時半。一人。十一時。三人。十一時半。二人。

 途切れない。


 花束が届いた。

 午前十一時四十分。配達の女性が持ってきた黄色いガーベラの花束。カードには「十年間ありがとうございました」。差出人の名前に見覚えがない。朱里さんに見せると、目を見開いた。


「三年前に引っ越された岡田さんだ。児童書コーナーの常連だった方」


 花束をレジカウンターの横に置いた。黄色い花弁が蛍光灯の光の下で揺れている。



 午後一時。昼休憩を交代で取る。

 私は事務室で、コンビニのおにぎりを一つだけ食べた。二つ目に手が伸びない。


 午後二時。

 エレベーターのドアが開く音。杖のゴム底がフローリングの上でことりと鳴った。


 藤村さん。

 白いブラウス。薄いカーディガン。右手に杖、左手に小さな紙袋を提げている。


「朱里ちゃん」


「藤村さん、いらっしゃい」


 朱里さんが二階に上がっていた。人文書の棚の最後の確認をしていた。

 藤村さんが窓際の椅子に向かって歩く。


「最後に、ここに座りたくて」


「どうぞ、藤村さん」


「ありがとう。今日は、座るだけ」


 藤村さんが椅子に腰を下ろした。窓からの午後の光が白い髪を照らしている。

 朱里さんが藤村さんの隣に立つ。黙って。


「朱里ちゃん」


「はい」


「あなたに会えてよかった」


 藤村さんの声は静かだった。いつもと変わらない穏やかさ。


「主人も、きっと」


 朱里さんが頭を下げた。深く。七十五歳の手が朱里さんの肩に軽く触れた。


 五分ほどして、藤村さんが立ち上がった。紙袋を朱里さんに渡す。


「これ、開けないで。帰ってから開けて」


「はい」


 紙袋の重さ。薄い。軽い。手紙だろう、と思った。



 午後三時。藤村さんをエレベーターまで送った。

 杖の音が遠ざかっていく。エレベーターのドアが閉まる。最後に見えたのは、藤村さんの穏やかな目と、かすかに上げた左手。


 紙袋をエプロンのポケットに入れた。

 軽い。でも重い。十年分の感謝が入っている重さ。


 階段を降りて一階に戻ると、売場に客が五人いた。午後三時でこの人数は多い。最終日だからだ。

 レジに入る。バーコードリーダーを手に取った。


 午後四時を過ぎた。

 客足が途切れない。最終日だと知って来る人。たまたま通りかかった人。以前この店で買い物をしたことがある人。顔を知っている人もいれば、知らない人もいる。紙袋の在庫が午前中に切れて、午後はビニール袋で代用している。

 全ての人に、同じように声をかける。


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 同じ言葉。でも、一人ずつ声が変わっていく。最初は業務の声。途中から、何か別のものが混じる。感謝なのか、惜別なのか、自分でもわからない。


 桐生さんがレジの隣に立っていた。

 スーツ姿。眼鏡。ノートPCは閉じてある。最後の二時間を、桐生さんは売場に立つことを選んだ。事務室ではなく。


 並んで立つ。

 桐生さんの肩が、私の肩から十五センチの距離にある。この距離を、九十日かけて縮めた。


 午後五時。残り一時間。

 客が三人、同時にレジに来る。私がスキャンして、三嶋さんが袋に入れて、桐生さんが紙袋を渡す。三人の流れ作業。桐生さんの手が客に紙袋を差し出す動きが書店員のそれだった。四年間一度もやっていなかったはずの動作。でも、手が覚えている。三鷹店の頃の手。


「桐生さん、手つき書店員ですね」


 三嶋さんが小さな声で言った。桐生さんは何も答えなかった。唇の端がわずかに動いただけ。


 午後五時四十五分。

 最後の客が入ってきた。サラリーマン風の男性。文芸棚の前で一冊選んで、レジに持ってくる。


「すみません、今日で最後なんですよね」


「はい。本日で閉店です」


「昔、ここでよく買ってたんです。転勤で離れてたんだけど、今日、たまたまこっちに用事があって」


 私がカバーをかけて、紙袋に入れる。

 男性が紙袋を受け取った。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 自動ドアが閉まる。男性の背中が商店街の方へ消えていく。


 午後六時。

 レジの画面を見る。本日の売上。数字が並んでいる。

 桐生さんがレジの横に立っていた。


「閉めましょう」


 桐生さんの声。


 レジの電源を落とした。

 画面が暗くなる。緑色のランプが一つ消える。バーコードリーダーの赤い光が消える。

 レジが沈黙する。


 田崎店長が一階に降りてきた。

 缶コーヒーは持っていない。手ぶら。腕組みもしていない。両手を下ろして、空になった売場を一度見回してから、私たちの方を向いた。


「みんな、ご苦労さん」


 田崎店長の声が空になった売場に響く。反響が長い。本がないと、音を吸うものがない。声が棚の奥まで届いて、壁に当たって返ってくる。


「椎名。十年間、よくやった」


 朱里さんではなく、椎名。店長が部下に向けて出す、名字の呼び方。最後までそれを崩さない人だった。


「ありがとうございました、店長」


 私の声は震えなかった。震えないことに驚いた。泣くと思っていた。この瞬間に。でも涙は来ない。代わりに、足の裏がフローリングの冷たさを感じていた。十年踏んだ床。ローファーのゴム底越しに、最後の温度を拾っている。


 三嶋さんの目が赤くなっていた。

 唇を噛んでいる。泣くまいとしている。でも、鼻を一度啜った。


「三嶋さん」


 桐生さんが三嶋さんの名前を呼んだ。


「お疲れさまでした」


「ありがとう、ございました」


 三嶋さんの声が震える。頷いて、エプロンの裾で目元を押さえた。


 自動ドアの電源を切った。

 ガラスの向こうに、商店街の夕暮れが見えている。六時を回った九月の空。まだ明るい。空が橙色に染まっている。


 蛍光灯を一列ずつ消していく。

 一階の手前。奥。レジの上。


 最後に残ったのは、入口の照明だけだった。その光が黄色いガーベラの花束を照らしている。



 シャッター。


 店の前に立った。田崎店長と三嶋さんと朱里さんが、歩道の上に並んでいる。

 私がシャッターの脇のボタンに手をかけた。


 電動式。ボタンを押せば降りる。

 指がボタンの上で止まった。


 朱里さんの視線が私の背中に当たっているのがわかる。

 九十日前、このシャッターの前で、私は初めてこの店を見た。六月の湿気。赤字三年目。看板の文字。隣のクリーニング店。反対側の空きテナント。


 ボタンを押した。


 シャッターが降り始める。金属の巻き下ろし音。ガラガラガラ。朝と逆の音。光が遮られていく。売場の床が、入口から奥に向かって暗くなっていく。

 シャッターの下端が地面に近づいていく。


 残り三十センチ。二十。十。


 金属が地面に触れた。鍵をかける。


 終わった。


 振り返った。

 朱里さんが歩道の上に立っている。エプロンはもう外している。白いブラウスとデニム。九月の夕暮れの光の中で。


 朱里さんが歩いてきた。

 私の前に立つ。距離が三十センチ。


 朱里さんの手が私の手を握った。


「ありがとうございました」


 敬語。

 仕事としての感謝。九十日間の閉店業務を完了した、本部の人間への礼。


 でも、手を離さない。


 朱里さんの指が私の指の間に入っている。温かい。力が入っている。離さない力。


 田崎店長と三嶋さんが、少し離れた場所にいる。見ているのか、見ていないのか。わからない。


 私も握り返した。


 シャッターの金属面が夕暮れの橙色を反射している。その光の中で、二人の手が繋がっていた。

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