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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第6章『閉店と栞日』

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第28話「店の外で」

 鍵を回した時、時計は午後九時四十分を指していた。

 九月十一日、金曜日。閉店まで二日。


 シャッターを半分降ろして、裏口に回る。蛍光灯を消す。空調を切る。防犯装置のスイッチを入れる。

 閉店後の手順。毎晩同じ。ただし今夜は、明日がある。明日で最後。


 裏口の鉄扉を引いて外に出ると、九月の夜気が首筋に触れた。まだ暑い。昼間の熱がアスファルトに残っている。商店街の街灯が等間隔に道路を照らしていた。


 朱里さんが店の前の歩道に立っている。

 エプロンは外している。白いブラウスにデニム。ローファー。鞄を右肩にかけて、店のシャッターを見上げていた。


「お疲れさまです」


「お疲れさまです」


 二人ともシャッターの方を見ている。

 半分降りたシャッターの下に、売場の暗闇が覗いている。明日の朝、このシャッターをもう一度上げる。それが最後の開店になる。


「桐生さん」


「はい」


「今日は帰りたくないです」


 朱里さんの声は静かだった。要求でも依頼でもない。ただ、今の自分の状態を正確に述べている声。


 私も帰りたくなかった。

 ビジネスホテルの白い天井。ノートPCの画面。退職届のテンプレート。あの部屋に帰って、一人で明日を待つことができる気がしない。


「私も、帰りたくありません」


 朱里さんが私を見た。

 商店街の街灯の光が朱里さんの横顔を照らしている。半分は光、半分は影。暗い茶色のセミロングが肩のあたりで揺れている。


「……うちに、来ますか」


 朱里さんの声が小さくなった。

 私は頷いた。



 武蔵境駅から歩いて七分。朱里さんのアパートは、商店街を抜けた先の住宅街の角にあった。

 二階建て。外壁はクリーム色。階段の手すりに錆が浮いている。二〇四号室。


 ドアを開けた瞬間、紙の気配に包まれた。

 インクと埃。書店のそれとは違う。もっと私的な、生活と混じった空気。


 六畳のワンルーム。

 本棚が三つ。壁の二面を埋めている。文庫、単行本、児童書、人文書。ジャンル別ではなく、朱里さんの中の何かの順序で並んでいる。棚に入りきらない本が床に積まれている。五つの塔。高さがそれぞれ違う。

 ベッドと小さなテーブルと椅子が一つ。テーブルの上にマグカップが一つと、読みかけの文庫が一冊。


 朱里さんが玄関の照明をつけた。


「散らかってて、すみません」


「いえ」


 靴を脱ぐ。スリッパはない。朱里さんが押し入れから予備のスリッパを出してくれた。


「お茶、淹れます」


「ありがとうございます」


 台所の蛇口から水が出る音。やかんに水を注ぐ音。ガスコンロの点火音。

 私は部屋の中に立ったまま、本棚を見ていた。


 朱里さんの本棚。朱里さんの部屋。朱里さんの生活。

 四年間の閉店業務で、スタッフの自宅に入ったことは一度もない。仕事と私生活の境界は、閉店請負人にとって最も厚い壁だった。


 その壁の向こうに、今、立っている。


「桐生さん」


 朱里さんが緑茶のマグカップを差し出した。白い陶器。取っ手の付け根に小さな欠けがある。


「ありがとうございます」


 マグカップを受け取った。両手で包む。温度が手のひらに沁みる。九月だが、夜の部屋は少し冷えていた。


 朱里さんが床に座った。本の塔の横。私も向かいに座る。テーブルを挟んで。

 床に座ると、本棚が壁のように迫ってくる。文庫の背表紙の列が目線の高さに来る。小さな活字のタイトルが並んでいる。朱里さんの十年が、この壁に詰まっている。


 緑茶を一口飲んだ。渋みが舌の奥に残る。安い茶葉。でもその渋みが、今の喉には合っていた。


 窓の外で、遠くの踏切が鳴った。中央線の終電が近い時間。金属の警報音が住宅街を抜けて届いてくる。


「明日ですね」


 朱里さんが言った。マグカップの縁に唇を当てたまま。


「明日です」


 私が答えた。


 それ以上の会話が出てこない。

 二人ともマグカップを両手で持って、黙っている。天井の丸い照明が薄いオレンジ色の光を落としている。時計の秒針が動く音だけが、テーブルの上の文庫本の横で鳴っていた。

 沈黙が重くないことに驚く。この人の隣で黙っていることが怖くない。


 朱里さんの目が私の顔を見ていた。


「桐生さん」


「はい」


「眼鏡、外してもらっていいですか」


 言われて初めて、自分がまだ眼鏡をかけていることに気づいた。仕事の顔のまま、ここに来た。


 眼鏡を外した。

 視界が少し滲む。朱里さんの輪郭が柔らかくなる。照明の光が広がって、部屋の境界線が曖昧になった。


 朱里さんが手を伸ばした。

 私の手の中のマグカップを取って、テーブルに置く。二つのマグカップが並ぶ。


 朱里さんの指が私の手に触れた。


 指先から手の甲へ。ゆっくり確かめるように。

 朱里さんの手は温かい。お茶を持っていた手の温度。その温度が私の皮膚の上を移動していく。


 呼吸が浅くなっている。自分の呼吸が聞こえる。朱里さんの呼吸も聞こえる。二つの呼吸が六畳の部屋に満ちている。


 朱里さんの唇が近づいた。

 目を閉じた。


 唇が触れる。二度目のキス。書店の蛍光灯の下ではなく、六畳の部屋のオレンジの灯りの中で。朱里さんの唇は温かい。緑茶の渋みが、かすかに。

 指先が朱里さんの頬に触れている。柔らかい。自分の指がこれほど冷たいことに、触れて初めて気づいた。朱里さんの肌の温度で、自分の冷たさを知る。


 朱里さんの手が私のスーツの襟に触れた。

 ボタンに指がかかる。その動きが止まった。


「……いいですか」


 朱里さんの声。囁き。吐息の中に言葉が混じっている。


 私は頷いた。声が出なかった。代わりに、朱里さんの手首を握って、自分の胸元に引き寄せた。



 照明が消えていた。

 カーテンの隙間から、商店街の街灯の光だけが入ってくる。白い光。薄い。


 朱里さんの肩の丸みが、その光の中にある。

 鎖骨の影。首筋の産毛。暗い茶色の髪が枕の上に広がっている。


 体温が近い。

 掛け布団の下で、二人分の熱が混じっている。朱里さんの背中に触れた手の平に、脈拍が伝わってくる。ゆっくり。規則的。眠りに落ちる直前の鼓動。


 朱里さんの呼吸がゆるんでいた。

 唇が微かに開いている。吐息が私の首元に触れるたび、くすぐったさとも安堵ともつかない感覚が胸の底に沈んでいく。


 本の匂いが、この部屋に満ちている。

 壁の本棚から。床の本の塔から。朱里さんの髪から。この部屋のすべてが本でできている。本の中で、この人と二人でいる。


 明け方。

 カーテンの向こうが薄く白んでいた。


 朱里さんの寝顔を見ている。

 まつ毛が長い。頬にかかった髪の一筋が、吐息のたびにかすかに揺れる。眉間に力がない。起きている時は、いつも何かに抗っている顔をしている人だ。棚を組む時も、客に本を渡す時も、私と対峙する時も。

 今は、抗っていない。


 額に汗が薄く滲んでいる。九月の夜。窓を少し開けたが、明け方はまだ蒸す。

 朱里さんの髪に手を伸ばした。額にかかった一筋をそっと横に流す。指先が肌に触れた。滑らかで、少し湿っている。


 明日——いや、もう今日だ。

 今日、この人の店を閉める。


 私の手が朱里さんの髪の上で止まった。


 合理的に考えて。合理的に考えれば、矛盾している。この人の仕事を奪う人間が、この人の隣にいる。閉店請負人がスタッフのベッドにいる。

 矛盾を知っている。

 知っていて、ここにいる。


 朱里さんの髪に触れたまま、目を閉じなかった。

 薄明の光が本棚の背表紙を一列ずつ照らし始めている。タイトルが読めるようになっていく。上段から下段へ。光が降りてくる。


 六畳の部屋の中で、朱里さんの呼吸だけが動いている。

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