第28話「店の外で」
鍵を回した時、時計は午後九時四十分を指していた。
九月十一日、金曜日。閉店まで二日。
シャッターを半分降ろして、裏口に回る。蛍光灯を消す。空調を切る。防犯装置のスイッチを入れる。
閉店後の手順。毎晩同じ。ただし今夜は、明日がある。明日で最後。
裏口の鉄扉を引いて外に出ると、九月の夜気が首筋に触れた。まだ暑い。昼間の熱がアスファルトに残っている。商店街の街灯が等間隔に道路を照らしていた。
朱里さんが店の前の歩道に立っている。
エプロンは外している。白いブラウスにデニム。ローファー。鞄を右肩にかけて、店のシャッターを見上げていた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
二人ともシャッターの方を見ている。
半分降りたシャッターの下に、売場の暗闇が覗いている。明日の朝、このシャッターをもう一度上げる。それが最後の開店になる。
「桐生さん」
「はい」
「今日は帰りたくないです」
朱里さんの声は静かだった。要求でも依頼でもない。ただ、今の自分の状態を正確に述べている声。
私も帰りたくなかった。
ビジネスホテルの白い天井。ノートPCの画面。退職届のテンプレート。あの部屋に帰って、一人で明日を待つことができる気がしない。
「私も、帰りたくありません」
朱里さんが私を見た。
商店街の街灯の光が朱里さんの横顔を照らしている。半分は光、半分は影。暗い茶色のセミロングが肩のあたりで揺れている。
「……うちに、来ますか」
朱里さんの声が小さくなった。
私は頷いた。
*
武蔵境駅から歩いて七分。朱里さんのアパートは、商店街を抜けた先の住宅街の角にあった。
二階建て。外壁はクリーム色。階段の手すりに錆が浮いている。二〇四号室。
ドアを開けた瞬間、紙の気配に包まれた。
インクと埃。書店のそれとは違う。もっと私的な、生活と混じった空気。
六畳のワンルーム。
本棚が三つ。壁の二面を埋めている。文庫、単行本、児童書、人文書。ジャンル別ではなく、朱里さんの中の何かの順序で並んでいる。棚に入りきらない本が床に積まれている。五つの塔。高さがそれぞれ違う。
ベッドと小さなテーブルと椅子が一つ。テーブルの上にマグカップが一つと、読みかけの文庫が一冊。
朱里さんが玄関の照明をつけた。
「散らかってて、すみません」
「いえ」
靴を脱ぐ。スリッパはない。朱里さんが押し入れから予備のスリッパを出してくれた。
「お茶、淹れます」
「ありがとうございます」
台所の蛇口から水が出る音。やかんに水を注ぐ音。ガスコンロの点火音。
私は部屋の中に立ったまま、本棚を見ていた。
朱里さんの本棚。朱里さんの部屋。朱里さんの生活。
四年間の閉店業務で、スタッフの自宅に入ったことは一度もない。仕事と私生活の境界は、閉店請負人にとって最も厚い壁だった。
その壁の向こうに、今、立っている。
「桐生さん」
朱里さんが緑茶のマグカップを差し出した。白い陶器。取っ手の付け根に小さな欠けがある。
「ありがとうございます」
マグカップを受け取った。両手で包む。温度が手のひらに沁みる。九月だが、夜の部屋は少し冷えていた。
朱里さんが床に座った。本の塔の横。私も向かいに座る。テーブルを挟んで。
床に座ると、本棚が壁のように迫ってくる。文庫の背表紙の列が目線の高さに来る。小さな活字のタイトルが並んでいる。朱里さんの十年が、この壁に詰まっている。
緑茶を一口飲んだ。渋みが舌の奥に残る。安い茶葉。でもその渋みが、今の喉には合っていた。
窓の外で、遠くの踏切が鳴った。中央線の終電が近い時間。金属の警報音が住宅街を抜けて届いてくる。
「明日ですね」
朱里さんが言った。マグカップの縁に唇を当てたまま。
「明日です」
私が答えた。
それ以上の会話が出てこない。
二人ともマグカップを両手で持って、黙っている。天井の丸い照明が薄いオレンジ色の光を落としている。時計の秒針が動く音だけが、テーブルの上の文庫本の横で鳴っていた。
沈黙が重くないことに驚く。この人の隣で黙っていることが怖くない。
朱里さんの目が私の顔を見ていた。
「桐生さん」
「はい」
「眼鏡、外してもらっていいですか」
言われて初めて、自分がまだ眼鏡をかけていることに気づいた。仕事の顔のまま、ここに来た。
眼鏡を外した。
視界が少し滲む。朱里さんの輪郭が柔らかくなる。照明の光が広がって、部屋の境界線が曖昧になった。
朱里さんが手を伸ばした。
私の手の中のマグカップを取って、テーブルに置く。二つのマグカップが並ぶ。
朱里さんの指が私の手に触れた。
指先から手の甲へ。ゆっくり確かめるように。
朱里さんの手は温かい。お茶を持っていた手の温度。その温度が私の皮膚の上を移動していく。
呼吸が浅くなっている。自分の呼吸が聞こえる。朱里さんの呼吸も聞こえる。二つの呼吸が六畳の部屋に満ちている。
朱里さんの唇が近づいた。
目を閉じた。
唇が触れる。二度目のキス。書店の蛍光灯の下ではなく、六畳の部屋のオレンジの灯りの中で。朱里さんの唇は温かい。緑茶の渋みが、かすかに。
指先が朱里さんの頬に触れている。柔らかい。自分の指がこれほど冷たいことに、触れて初めて気づいた。朱里さんの肌の温度で、自分の冷たさを知る。
朱里さんの手が私のスーツの襟に触れた。
ボタンに指がかかる。その動きが止まった。
「……いいですか」
朱里さんの声。囁き。吐息の中に言葉が混じっている。
私は頷いた。声が出なかった。代わりに、朱里さんの手首を握って、自分の胸元に引き寄せた。
*
照明が消えていた。
カーテンの隙間から、商店街の街灯の光だけが入ってくる。白い光。薄い。
朱里さんの肩の丸みが、その光の中にある。
鎖骨の影。首筋の産毛。暗い茶色の髪が枕の上に広がっている。
体温が近い。
掛け布団の下で、二人分の熱が混じっている。朱里さんの背中に触れた手の平に、脈拍が伝わってくる。ゆっくり。規則的。眠りに落ちる直前の鼓動。
朱里さんの呼吸がゆるんでいた。
唇が微かに開いている。吐息が私の首元に触れるたび、くすぐったさとも安堵ともつかない感覚が胸の底に沈んでいく。
本の匂いが、この部屋に満ちている。
壁の本棚から。床の本の塔から。朱里さんの髪から。この部屋のすべてが本でできている。本の中で、この人と二人でいる。
明け方。
カーテンの向こうが薄く白んでいた。
朱里さんの寝顔を見ている。
まつ毛が長い。頬にかかった髪の一筋が、吐息のたびにかすかに揺れる。眉間に力がない。起きている時は、いつも何かに抗っている顔をしている人だ。棚を組む時も、客に本を渡す時も、私と対峙する時も。
今は、抗っていない。
額に汗が薄く滲んでいる。九月の夜。窓を少し開けたが、明け方はまだ蒸す。
朱里さんの髪に手を伸ばした。額にかかった一筋をそっと横に流す。指先が肌に触れた。滑らかで、少し湿っている。
明日——いや、もう今日だ。
今日、この人の店を閉める。
私の手が朱里さんの髪の上で止まった。
合理的に考えて。合理的に考えれば、矛盾している。この人の仕事を奪う人間が、この人の隣にいる。閉店請負人がスタッフのベッドにいる。
矛盾を知っている。
知っていて、ここにいる。
朱里さんの髪に触れたまま、目を閉じなかった。
薄明の光が本棚の背表紙を一列ずつ照らし始めている。タイトルが読めるようになっていく。上段から下段へ。光が降りてくる。
六畳の部屋の中で、朱里さんの呼吸だけが動いている。




