表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第6章『閉店と栞日』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/30

第27話「最終営業週」

 入口の自動ドアの横に白い紙が貼ってあった。

 九月九日、水曜日、午前九時五十五分。閉店まで四日。


 A3のコピー用紙。明朝体。田崎店長の字ではない。桐生さんが作ったものだろう。余白が多く、文字は大きく、過不足がない。


「長い間ご愛顧いただき、誠にありがとうございました。文翠堂武蔵境店は、九月十二日(土)をもちまして閉店いたします。最終営業日まで、通常通り営業しております」


 私はその紙を自動ドアの外側から読んだ。出勤して、鞄を持ったまま立ち止まっている。

 知っていたことだ。六月から知っている。でも、こうして紙に印刷されると、言葉が別の重さを持つ。


 自動ドアが開いた。

 中に入る。朝の売場。蛍光灯が全灯している。空調の送風音。一階の平台はもう半分以上が撤去されていた。残っているのは文芸の新刊棚とレジ周りの雑貨だけ。


 レジカウンターの中に朱里さんがいた。


「おはよう、ゆりちゃん」


「おはようございます」


 朱里さんの声はいつも通りだった。エプロンの紐が腰できちんと結ばれている。前髪が額に落ちて、その下の目が私を見ている。

 いつも通り。でも、いつも通りのその目の奥に、私の知らない何かが座っている。七月の朱里さんとは違う。何がとは言えない。ただ、距離が変わったのだ。誰かとの距離が。


 バックヤードに入ってタイムカードを押した。



 十時の開店と同時に常連の松本さんが来た。

 自動ドアが開いて、入口の張り紙を一瞥して、それからレジに向かってまっすぐ歩いてくる。


「朱里ちゃん、最後まで、いるんだね」


 三ヶ月前にも聞いた言葉。あの時、朱里さんは「います」と答えた。今日も同じ答えだった。


「います。十二日まで」


 松本さんは文庫を二冊買った。カバーをかけて渡す。松本さんの手が紙袋を受け取る時、指が少しだけ長く止まった。何か言いたそうに見えた。でも「ありがとう」とだけ言って、自動ドアの向こうに出ていった。


 十時半。親子連れ。二階の児童書コーナーは空なので、一階のレジ横に残してある絵本の棚を案内する。

 十一時。背広姿の男性。実用書の棚で十分ほど立ち読みしてから、一冊も買わずに出ていく。棚を確認しに来たのだろう。閉店前の書店にはこういう客が増える。


 十一時二十分。高校生の女の子が二人。制服のスカート丈が短い。コミックの棚の前で三十分。私がレジに立っていると、二人で五冊持ってきた。


「ここ、なくなるんですか」


「九月十二日で閉店です」


「えっ、まじで」


 女の子は会計を済ませた後も、しばらく売場をうろうろしていた。もう一人がスマートフォンで棚の写真を撮っている。


 こういう光景を見るたびに喉の奥が詰まる。

 この店がなくなることを知った人の顔。驚く人もいれば、頷く人もいる。泣く人はいない。でも紙袋を受け取る手の力加減が少しだけ変わる。



 午後一時。休憩を終えて売場に戻ると、二階から桐生さんが降りてきた。


 桐生さんの歩き方を、私は七月からずっと見ている。

 最初は靴音が硬かった。コンクリートの上を歩くみたいに、かかとが床を打っていた。今は違う。足音が軽い。同じ靴のはずなのに、着地が柔らかくなっている。


 朱里さんがレジカウンターから顔を上げた。

 桐生さんが朱里さんを見る。


 二人の視線が交差する。

 一秒もない時間。でもその一秒の中に何かがある。桐生さんの視線が朱里さんのエプロンの胸元あたりに一瞬落ちて、すぐに目線の高さに戻る。朱里さんは口元がわずかに動いて、声にならない何か——たぶん「お疲れさまです」の形——を唇で作る。


 二人の間の距離が七月と違う。

 七月は二メートル以上あった。レジカウンターの幅。事務室のデスクの間。常に業務の距離が保たれていた。

 今は一メートルもない場所を二人が平気で通り過ぎる。朱里さんが棚の前に立っている横を、桐生さんが書類を持って通る時、肩がほとんど触れそうになる。触れない。でも避けもしない。


 私はレジの後ろでバーコードリーダーを拭く布を握ったまま、二人を見ていた。



 午後三時。田崎店長が事務室から降りてきた。


 レジカウンターの前に桐生さんと朱里さんと私が並んでいる。田崎店長が腕組みをして私たちを見た。


「十二日の話をしておく」


 缶コーヒーを一口飲む。ブラック。


「最終営業は十二日の午後六時まで。六時にレジを閉めて、六時半にシャッターを降ろす。什器撤去は翌週月曜日から業者が入る。在庫の最終搬出は十一日の金曜、取次のトラックが午後二時に来る」


 桐生さんが手元のノートにペンを走らせている。日付と時刻を記録する手つき。


「桐生。お前の撤収はいつだ」


「閉店翌日に本部に報告書を提出して、翌週から次の案件に入ります」


 田崎店長が缶コーヒーをデスクに置く。アルミの底が木の天板に軽い音を立てた。


「次も、閉店か」


「そうなると思います」


 桐生さんの声は平坦だった。

 でも朱里さんの右手がカウンターの縁を握ったのが、私の位置から見えた。指の関節が一瞬だけ白くなる。


「椎名は十二日が最終勤務だ。退職届は来週中に出してくれ。俺の方で処理する」


「はい」


 朱里さんの返事は短かった。声が震えていない。揺れてもいない。ただ、短い。


「三嶋。お前も十二日まででいい。最後の給料は振込だ」


「はい。ありがとうございます」


 頭を下げながら、自分の声が妙にしっかりしていることに驚いた。


 田崎店長が腕組みを解いた。


「みんな、ご苦労さん。あと四日だ」


 田崎店長が事務室に戻っていく。

 その背中を見送りながら、桐生さんが手元のノートを閉じた。



 午後五時。売場に客がいない時間帯。

 朱里さんが残っている文芸棚の前で面陳の位置を直していた。閉店四日前の棚をまだ整えている。


 私は言わなければいけないことがあった。


「朱里さん」


「ん?」


「あの、報告があって」


 朱里さんが本を棚に差したまま振り向く。


「出版社に内定をもらいました」


 朱里さんの手が棚から離れた。


「灯台社です。編集の児童書部門」


 朱里さんは数秒、何も言わなかった。

 口が開いて、閉じて、また開く。


「灯台社」


「はい」


「『見えない扉の向こうに』の」


「はい」


 朱里さんの目が大きくなった。

 唇が横に引かれる。歯が見える。笑っている。朱里さんが笑うと頬の線が丸くなる。


「ゆりちゃん、すごい」


「ありがとうございます」


「灯台社。児童書。——すごいよ、それ」


 朱里さんの声が速くなっていた。本の話をする時と同じ速さ。


「来年の四月からですか」


「はい。来年の四月から」


「ゆりちゃんが児童書を作る側に行くんだ」


 朱里さんが棚に背中を預けた。腕を組んで私を見ている。目が細い。笑っている顔。

 私の目の奥が急に熱くなった。


「朱里さんのおかげです」


「きっかけ、でしょ」


 七月の休憩室の会話。覚えている。


「理由は自分で決めたんでしょ」


「はい」


 朱里さんが腕組みを解いて、私の肩を軽く一度叩いた。

 手のひらの温度が制服のブラウスの上から伝わる。


 そのまま棚に向き直ろうとした朱里さんに、私は聞いた。


「朱里さんは、この後どうするんですか」


 朱里さんの肩が止まった。


 棚の方を向いたままゆっくり振り返る。

 振り返った先で、朱里さんの視線は私ではなく、レジカウンターの向こうに立っている桐生さんに向いていた。


 桐生さんがそれに気づく。

 ノートPCの画面から顔を上げて朱里さんを見る。眼鏡越しの視線。


 桐生さんが小さく頷いた。

 唇は動かない。表情もほとんど変わらない。でも顎が一センチだけ下がって、戻った。


 朱里さんが私に向き直った。


「まだ、決まってない」


 声は穏やかだった。


「でも、本のそばにいます」


 朱里さんの声の中に「まだ」と「でも」がある。

 決まっていないのに、迷ってはいない。その矛盾が、私にはとても自然に聞こえた。


 閉店四日前の売場。蛍光灯の光が半分空になった棚を照らしている。

 二人の間の距離がまた少し縮まっているのが見える。縮まっているというより、もう距離を測っていないのだろう。

 私だけが、外からその距離を見ている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ