第27話「最終営業週」
入口の自動ドアの横に白い紙が貼ってあった。
九月九日、水曜日、午前九時五十五分。閉店まで四日。
A3のコピー用紙。明朝体。田崎店長の字ではない。桐生さんが作ったものだろう。余白が多く、文字は大きく、過不足がない。
「長い間ご愛顧いただき、誠にありがとうございました。文翠堂武蔵境店は、九月十二日(土)をもちまして閉店いたします。最終営業日まで、通常通り営業しております」
私はその紙を自動ドアの外側から読んだ。出勤して、鞄を持ったまま立ち止まっている。
知っていたことだ。六月から知っている。でも、こうして紙に印刷されると、言葉が別の重さを持つ。
自動ドアが開いた。
中に入る。朝の売場。蛍光灯が全灯している。空調の送風音。一階の平台はもう半分以上が撤去されていた。残っているのは文芸の新刊棚とレジ周りの雑貨だけ。
レジカウンターの中に朱里さんがいた。
「おはよう、ゆりちゃん」
「おはようございます」
朱里さんの声はいつも通りだった。エプロンの紐が腰できちんと結ばれている。前髪が額に落ちて、その下の目が私を見ている。
いつも通り。でも、いつも通りのその目の奥に、私の知らない何かが座っている。七月の朱里さんとは違う。何がとは言えない。ただ、距離が変わったのだ。誰かとの距離が。
バックヤードに入ってタイムカードを押した。
*
十時の開店と同時に常連の松本さんが来た。
自動ドアが開いて、入口の張り紙を一瞥して、それからレジに向かってまっすぐ歩いてくる。
「朱里ちゃん、最後まで、いるんだね」
三ヶ月前にも聞いた言葉。あの時、朱里さんは「います」と答えた。今日も同じ答えだった。
「います。十二日まで」
松本さんは文庫を二冊買った。カバーをかけて渡す。松本さんの手が紙袋を受け取る時、指が少しだけ長く止まった。何か言いたそうに見えた。でも「ありがとう」とだけ言って、自動ドアの向こうに出ていった。
十時半。親子連れ。二階の児童書コーナーは空なので、一階のレジ横に残してある絵本の棚を案内する。
十一時。背広姿の男性。実用書の棚で十分ほど立ち読みしてから、一冊も買わずに出ていく。棚を確認しに来たのだろう。閉店前の書店にはこういう客が増える。
十一時二十分。高校生の女の子が二人。制服のスカート丈が短い。コミックの棚の前で三十分。私がレジに立っていると、二人で五冊持ってきた。
「ここ、なくなるんですか」
「九月十二日で閉店です」
「えっ、まじで」
女の子は会計を済ませた後も、しばらく売場をうろうろしていた。もう一人がスマートフォンで棚の写真を撮っている。
こういう光景を見るたびに喉の奥が詰まる。
この店がなくなることを知った人の顔。驚く人もいれば、頷く人もいる。泣く人はいない。でも紙袋を受け取る手の力加減が少しだけ変わる。
*
午後一時。休憩を終えて売場に戻ると、二階から桐生さんが降りてきた。
桐生さんの歩き方を、私は七月からずっと見ている。
最初は靴音が硬かった。コンクリートの上を歩くみたいに、かかとが床を打っていた。今は違う。足音が軽い。同じ靴のはずなのに、着地が柔らかくなっている。
朱里さんがレジカウンターから顔を上げた。
桐生さんが朱里さんを見る。
二人の視線が交差する。
一秒もない時間。でもその一秒の中に何かがある。桐生さんの視線が朱里さんのエプロンの胸元あたりに一瞬落ちて、すぐに目線の高さに戻る。朱里さんは口元がわずかに動いて、声にならない何か——たぶん「お疲れさまです」の形——を唇で作る。
二人の間の距離が七月と違う。
七月は二メートル以上あった。レジカウンターの幅。事務室のデスクの間。常に業務の距離が保たれていた。
今は一メートルもない場所を二人が平気で通り過ぎる。朱里さんが棚の前に立っている横を、桐生さんが書類を持って通る時、肩がほとんど触れそうになる。触れない。でも避けもしない。
私はレジの後ろでバーコードリーダーを拭く布を握ったまま、二人を見ていた。
*
午後三時。田崎店長が事務室から降りてきた。
レジカウンターの前に桐生さんと朱里さんと私が並んでいる。田崎店長が腕組みをして私たちを見た。
「十二日の話をしておく」
缶コーヒーを一口飲む。ブラック。
「最終営業は十二日の午後六時まで。六時にレジを閉めて、六時半にシャッターを降ろす。什器撤去は翌週月曜日から業者が入る。在庫の最終搬出は十一日の金曜、取次のトラックが午後二時に来る」
桐生さんが手元のノートにペンを走らせている。日付と時刻を記録する手つき。
「桐生。お前の撤収はいつだ」
「閉店翌日に本部に報告書を提出して、翌週から次の案件に入ります」
田崎店長が缶コーヒーをデスクに置く。アルミの底が木の天板に軽い音を立てた。
「次も、閉店か」
「そうなると思います」
桐生さんの声は平坦だった。
でも朱里さんの右手がカウンターの縁を握ったのが、私の位置から見えた。指の関節が一瞬だけ白くなる。
「椎名は十二日が最終勤務だ。退職届は来週中に出してくれ。俺の方で処理する」
「はい」
朱里さんの返事は短かった。声が震えていない。揺れてもいない。ただ、短い。
「三嶋。お前も十二日まででいい。最後の給料は振込だ」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げながら、自分の声が妙にしっかりしていることに驚いた。
田崎店長が腕組みを解いた。
「みんな、ご苦労さん。あと四日だ」
田崎店長が事務室に戻っていく。
その背中を見送りながら、桐生さんが手元のノートを閉じた。
*
午後五時。売場に客がいない時間帯。
朱里さんが残っている文芸棚の前で面陳の位置を直していた。閉店四日前の棚をまだ整えている。
私は言わなければいけないことがあった。
「朱里さん」
「ん?」
「あの、報告があって」
朱里さんが本を棚に差したまま振り向く。
「出版社に内定をもらいました」
朱里さんの手が棚から離れた。
「灯台社です。編集の児童書部門」
朱里さんは数秒、何も言わなかった。
口が開いて、閉じて、また開く。
「灯台社」
「はい」
「『見えない扉の向こうに』の」
「はい」
朱里さんの目が大きくなった。
唇が横に引かれる。歯が見える。笑っている。朱里さんが笑うと頬の線が丸くなる。
「ゆりちゃん、すごい」
「ありがとうございます」
「灯台社。児童書。——すごいよ、それ」
朱里さんの声が速くなっていた。本の話をする時と同じ速さ。
「来年の四月からですか」
「はい。来年の四月から」
「ゆりちゃんが児童書を作る側に行くんだ」
朱里さんが棚に背中を預けた。腕を組んで私を見ている。目が細い。笑っている顔。
私の目の奥が急に熱くなった。
「朱里さんのおかげです」
「きっかけ、でしょ」
七月の休憩室の会話。覚えている。
「理由は自分で決めたんでしょ」
「はい」
朱里さんが腕組みを解いて、私の肩を軽く一度叩いた。
手のひらの温度が制服のブラウスの上から伝わる。
そのまま棚に向き直ろうとした朱里さんに、私は聞いた。
「朱里さんは、この後どうするんですか」
朱里さんの肩が止まった。
棚の方を向いたままゆっくり振り返る。
振り返った先で、朱里さんの視線は私ではなく、レジカウンターの向こうに立っている桐生さんに向いていた。
桐生さんがそれに気づく。
ノートPCの画面から顔を上げて朱里さんを見る。眼鏡越しの視線。
桐生さんが小さく頷いた。
唇は動かない。表情もほとんど変わらない。でも顎が一センチだけ下がって、戻った。
朱里さんが私に向き直った。
「まだ、決まってない」
声は穏やかだった。
「でも、本のそばにいます」
朱里さんの声の中に「まだ」と「でも」がある。
決まっていないのに、迷ってはいない。その矛盾が、私にはとても自然に聞こえた。
閉店四日前の売場。蛍光灯の光が半分空になった棚を照らしている。
二人の間の距離がまた少し縮まっているのが見える。縮まっているというより、もう距離を測っていないのだろう。
私だけが、外からその距離を見ている。




