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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第6章『閉店と栞日』

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第26話「最後の一冊」

 小包の角が指の腹に食い込んでいた。

 九月七日、月曜日、午前九時二十分。閉店まで六日。


 事務室のデスクの上。代金引換の伝票が貼られた段ボールの小箱。差出人は「坂本古書店」。静岡県浜松市中央区鍛冶町。金曜に届いたそれを、私は土日の間ずっと開けなかった。

 桐生さんに先に見せるべきだと思った。でも桐生さんは土日、本部に出ていた。


 箱を持ち上げる。軽い。本一冊分の重さ。

 カッターの刃を出してガムテープの端に当てた。刃が粘着面に触れて、かすかに抵抗する。


 テープを切った。

 箱を開ける。緩衝材のプチプチの下に薄い和紙の包み。その中に函。


 函を引き出す。

 紺色の布張り。角がわずかに擦れている。七十二年分の時間が布の手触りに染みている。ざらつきではない。何度も手が触れた場所だけが微かに滑らかになっている。


 函の蓋を持ち上げた。

 中から布表紙の本が現れる。臙脂色の目の細かいリネン。背に金の箔押しでタイトルが刻まれていた。


 『丘の上のラビット先生』

 G・A・トンプスン 佐伯澄子訳

 朝日書房


 一九五四年。初版。

 本を両手で持った。軽い。百八十ページほどの児童文学。でもこの軽さの中に、藤村さんのご主人の父親の声が入っている。戦争から帰ってきた男が息子に繰り返し読んでくれた物語。


 布表紙を右手の親指でゆっくり撫でた。

 リネンの織り目が指紋に引っかかる。乾いた温かい感触。七十二年前にも誰かがこうして触れたはずの布。


 ページを開かなかった。

 これは藤村さんの本だ。最初に開くのは、藤村さんでなければならない。



 事務室のドアが開いた。

 桐生さんが入ってくる。紺のスーツ。銀縁の眼鏡。いつもと同じ姿。でも私の手元を見た瞬間、足が止まった。


「届いたんですね」


 桐生さんの声は静かだった。


「金曜に届いてました。土日、開けずに待ってました」


「見ましたか」


「函から出しただけです。ページは開いてません」


 桐生さんが近づいてきた。デスクの前に立つ。

 私が差し出した函の中の本を見下ろす。臙脂色の布表紙。金の箔押し。


 桐生さんの眼鏡のレンズに蛍光灯の光が一筋入った。


「——状態がいい」


「はい。坂本さんが丁寧に保管してくださっていたみたいです」


 桐生さんが本に手を伸ばしかけて、止めた。

 指がデスクの縁を握る。


「藤村さんに連絡を」


「はい。今から電話します」



 藤村さんは午後二時に来ると言った。

 電話口の声はいつもの穏やかな声だった。でも「見つかったんですか」と聞き返した時だけ、声の奥にかすかな震えがあった。


 午後一時四十五分。

 二階の窓際の椅子を拭いた。藤村さんがいつも座る、布張りの一人用の椅子。


 臙脂色の函を事務室のデスクから持ち上げた。二階に運んで、窓際の椅子の脇に静かに置いた。函の布の角を指先で一度だけ撫でた。


 午後二時三分。

 エレベーターのドアが開く音が聞こえた。

 杖のゴム底が二階のフローリングの上でことりと鳴った。


「朱里ちゃん」


「藤村さん、いらっしゃい」


 藤村さんの白いブラウス。今日は薄いカーディガンを羽織っている。九月に入って朝晩の気温が下がった。杖を右手に持ち、左手でカーディガンの前を押さえている。


 窓際の椅子までゆっくり歩く。

 私が椅子の背を支えて、藤村さんが座った。杖を椅子の脇に立てかける。


 藤村さんの手が膝の上で静かに重なった。白い指に薄い染みがいくつか。あの手でご主人の手を握っていたのだ。最後の十日間。


 私は臙脂色の函を膝の上に載せていた。


「藤村さん」


「うん」


「見つかりました」


 藤村さんの膝の上の手が止まった。


 私は函の蓋を開けた。布表紙の本を取り出して、藤村さんの前に差し出す。

 両手で。本の重さが掌から藤村さんの手へ移る。


 藤村さんが本を受け取った。


 しばらく何も言わなかった。

 窓の外の武蔵境の午後の光が藤村さんの白い髪を照らしている。本の布表紙に窓からの光が斜めに落ちている。臙脂色のリネンが光の中で少しだけ赤く見えた。


 藤村さんの親指が表紙の布を撫でた。

 ゆっくり。何度も。布の織り目を確かめるように。


「これが」


 声が小さい。


「これが、主人の本」


 藤村さんの眼鏡の奥で目が細くなった。

 涙ではない。もっと深いところから来る何かの表情。唇が薄く開いて、閉じて、また開く。


「同じ。同じ手触り」


 藤村さんの左手が表紙から離れて自分の胸元に触れた。カーディガンの布を軽く握る。


「主人が——正一さんが、書斎でね、いつもこうやって撫でていたの。表紙を。読むよりも先に、表紙を触るの」


 声が震えている。穏やかな震え。泣き崩れる手前ではなく、長い時間をかけて溜まったものがゆっくりと静かに溢れている。


 藤村さんの目から涙が一筋、頬を伝った。

 眼鏡のフレームの下を通って顎のあたりまで。白い肌の上を、光を受けて滑っていく。


 私は何も言わなかった。

 窓際の空気の中を午後の光が静かに流れている。


 藤村さんが本を胸に抱いた。

 臙脂色の布がカーディガンの灰色に重なる。本の角が藤村さんの鎖骨のあたりに触れている。


「ありがとう、朱里ちゃん」


「……いえ」


「ありがとう。本当に」


 藤村さんの声がかすかに揺れた。午後の光の中で、その揺れは温かかった。



 午後三時。

 藤村さんをエレベーターまで送った。杖と、本と、カーディガン。三つを持って帰るには手が足りない。紙袋を用意して本を入れた。函に戻して緩衝材で包んで。


「気をつけてお帰りください」


「ありがとう。朱里ちゃん、桐生さんにもお礼を言っておいてね」


「はい」


 エレベーターのドアが閉まった。

 ドアの隙間の向こうで、藤村さんが紙袋を胸に抱えている姿が最後に見えた。


 藤村さんの手の温度が、まだ私の指に残っている。本を手渡した時、藤村さんの指が私の指に一瞬だけ触れた。冷たい。七十五歳の手はいつも少し冷たい。


 事務室に戻った。

 桐生さんがPCの前に座っている。画面にはExcelの表。閉店六日前のガントチャートだろう。


「桐生さん」


「はい」


「藤村さんがお礼を」


「そうですか」


 桐生さんは画面に視線を戻した。マウスを一度クリックする。


「泣いていました」


 私がそう言った時、桐生さんのマウスを持つ手が止まった。


「……そうですか」


 同じ返事。でも二度目の「そうですか」は、一度目より少し低かった。


「桐生さん」


「はい」


「ありがとうございます。全国の古書店に電話してくれたの、知ってます」


 桐生さんが画面から目を離した。

 眼鏡の奥の目が私を見ている。


「私は何もしていません。坂本古書店が在庫を持っていただけです」


「嘘です」


 桐生さんの唇がわずかに動いた。何か言おうとして、言わなかった。


「桐生さんが四十八店に連絡を取って、条件を確認して、発送の手配までしてくれた。全部、私は知ってます。田崎店長から聞きました」


 桐生さんが眼鏡のブリッジを押し上げた。

 人差し指がレンズの縁を一度なぞる。


「これは——」


 言いかけて、止まった。

 「これは仕事です」。その言葉が来ると思った。でも来なかった。


 桐生さんは椅子の背もたれに体を預けた。天井を見る。蛍光灯の白い光が眼鏡のレンズに入っている。


「……藤村さんが喜んでくれたなら、それでいいです」


 桐生さんの声はいつもの事務的な声だった。

 でも「それでいいです」の「いい」の部分だけ、ほんの少し柔らかかった。喉の奥の力が一瞬だけ抜けた音。


 私はそれ以上何も言わなかった。

 桐生さんがマウスに手を戻す。画面がスクロールする。ガントチャートの赤い線が今日を指している。


 閉店まで六日。

 この人が見つけてくれた本が、今日、藤村さんの手に届いた。

 この人はそれを、仕事とも呼ばなかった。

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