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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第5章『残り十日の体温』

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第25話「退職届」

 目が覚めた時、カーテンの隙間から差す光がベッドの上の私の腕に触れていた。九月三日、木曜日、午前六時十二分。閉店まで十日。


 ビジネスホテルの天井。白い壁紙。空調の送風口が音もなく空気を送り出している。

 昨夜のことが、まぶたの裏に残っている。空の棚。蛍光灯のハム音。朱里さんの涙。唇の温度。


 シャワーを浴びた。

 熱い湯を肩に当てながら、昨夜の自分の行動を反芻する。感情で動いた。四年間、一度もやらなかったことをやった。

 後悔が——来ない。来るはずなのに。


 鏡の中の自分の顔を見た。眼鏡を外した裸眼の顔。水滴が頬を伝っている。この顔で、昨夜、朱里さんの唇に触れた。


 後悔は来ない。

 代わりに来たのは、奇妙な静けさだった。嵐が過ぎた後の空気に似ている。



 午前八時四十五分。武蔵境店の裏口から入った。

 事務室のドアを開ける。PCを立ち上げる。メールチェック。取次からの搬出スケジュール確認。返本残数の更新。


 九時、開店。

 一階の売場に降りた。朱里さんがレジカウンターの中にいた。


 目が合った。


 朱里さんのエプロンの紐がいつもと同じように腰で結ばれている。髪がいつもと同じ高さで結ばれている。表情が同じではなかった。頬に昨夜の泣いた痕跡が残っている。目の下に薄い影。でも目そのものは、泣いた後の澄んだ色をしていた。


「おはようございます」


 朱里さんの声。いつもの声。業務の声。


「おはようございます」


 私の声。いつもの声。だと思う。


 何も変わっていないように振る舞う。売場の巡回。返本段ボールの搬出準備。朱里さんが棚番号を読み上げ、私がリストに照合する。


 その最中に、朱里さんの手から段ボール用のカッターを受け取った。

 指が触れた。


 二人とも動きが止まった。


 〇・五秒。いや、一秒。カッターの金属が二人の指の間で動かない。冷たい刃の感触と、朱里さんの指先の温度が同時に伝わってくる。


 朱里さんが先に手を離した。

 私もカッターを握り直した。


 何も言わない。


 でも、朱里さんの耳が赤かった。前髪の隙間から右耳の縁が見える。朝の蛍光灯の下で、はっきりと。



 午前十一時。事務室に戻った。


 PCの前に座る。メールの受信箱に坂本古書店からの返信が届いていた。


「桐生様。ご依頼の件、発送手配いたしました。佐伯澄子訳『丘の上のラビット先生』朝日書房刊、一九五四年初版、函入り布表紙。代金引換にて明後日到着予定です。坂本古書店 坂本」


 画面を見たまま三秒止まった。

 到着予定。明後日。九月五日。


 見つかった。

 静岡の坂本古書店。あのメールから二週間。状態確認、価格交渉、発送手配。全てが完了した。


 藤村さんの本が——手に入る。


 私は椅子の背もたれに体を預けた。天井の蛍光灯を見上げる。白い光が眼鏡のレンズに入ってくる。


 朱里さんに言わなければ。

 でも今言うと、昨夜のことと混じる。業務の報告が、個人の感情と混じる。


 ——もう混じっている。とっくに。

 「これは仕事です」は、昨夜死んだ。


 スマートフォンを取り出した。朱里さんの番号を表示する。

 電話ではなく、売場に降りて直接言えばいい。それだけのことだ。


 椅子から立ち上がる。



 午後一時。本部に電話をかけた。


 事務室に一人。田崎店長は昼休憩で外に出ている。

 回線が繋がる。神原室長の直通。三回のコール。


「桐生か」


「はい。閉店日の前倒しの件で、正式にご回答します」


 神原室長の呼吸が、受話器の向こうで一つ聞こえた。


「前倒しは不可能です。現場が対応できません」


 八月十九日の報告書と同じ結論。

 でも、今日の声は違う。報告書を書いた時の声ではない。あの時はまだ、合理的な判断を装えた。今日は装えない。


「経営企画からは、すでに内部却下の連絡が来ている。ビルオーナーとの契約条件が折り合わなかった」


 知っている。先週、神原室長自身がそう言った。

 だから、この電話の意味は「結果報告」ではない。


「わかっています。ですが、正式に私の判断として記録に残したい。前倒しは不可能です」


 沈黙が三秒。


「桐生。それは、命令だったんだが」


 神原室長の声が低くなった。電話越しに温度が下がるのがわかる。


「命令であっても、です」


 自分の声が、受話器を持つ手の中で震えていないことを確認した。震えていない。声は平坦。でも言葉の中身は、四年間で初めて上司の命令を拒んだ事実そのものだった。


 神原室長が息を吐いた。長い息。


「……お前は変わったな、桐生」


 責める声ではなかった。

 確認する声でもなかった。何か別のもの。諦めに近いが、諦めだけではない。四年前の自分を思い出している声。


「閉店日は九月十二日です。予定通り完了させます」


「そうか」


 通話が切れた。

 受話器を置く。手のひらにプラスチックの熱が残っている。



 午後三時。田崎店長が事務室に戻ってきた。


 デスクに座って、缶コーヒーのプルタブを開ける音が事務室に響いた。ブラック。武蔵境駅の自販機で買ったいつもの缶。


「桐生」


「はい」


「お前、変わったな」


 神原室長と同じ言葉。

 でも田崎店長の声はもっと穏やかだった。缶コーヒーを一口飲んでから、デスクに肘をついてこちらを見ている。


「三鷹にいた頃のお前に戻ったみたいだ」


 三鷹店。七年前。田崎店長は当時、三鷹店の隣の調布駅前店の店長だった。合同の研修で何度か顔を合わせている。あの頃の私を、田崎店長は知っている。


「三鷹の頃の私」


「ああ。棚を組んでいた頃のお前だ。数字ばかり見てた本部のお前じゃなくて」


 田崎店長が缶コーヒーをデスクに置いた。アルミの底が木の天板に軽い音を立てる。


「椎名のおかげか」


 質問ではなかった。確認でもなかった。

 中間管理職が二十年の経験で見抜いているだけだった。


 私は何も答えなかった。答えの代わりにPCの画面を見た。

 受信箱に坂本古書店からのメール。明後日到着。


「田崎店長」


「ん」


「藤村さんの本が見つかりました。明後日届きます」


 田崎店長の目がわずかに開いた。


「……本当か」


「静岡の古書店です。佐伯澄子訳の初版。函入り、布表紙、状態良好」


 田崎店長が缶コーヒーを持ち上げた。一口飲む。飲んでから小さく頷いた。


「よかった。椎名に言ったのか」


「これから伝えます」


「そうか」


 田崎店長が椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げている。


「あと十日か」


「はい」


 十日。

 その十日の間に、残りの返本を終え、什器の撤去計画を確定し、スタッフの最終勤務日を決め、閉店当日のスケジュールを田崎店長と詰める。


 そして、藤村さんに本を届ける。

 それだけは、ガントチャートの外にある仕事。



 午後十時。ビジネスホテルの部屋。


 ベッドの上に座ってノートPCを開いた。

 今日の業務メールを確認する。取次の返本最終便は九月十日。什器撤去業者との打ち合わせは九月八日。閉店当日の人員配置案を田崎店長に共有済み。


 全てが、終わりに向かって動いている。


 メールを閉じた。

 ブラウザを開く。新しいタブ。


 画面に人事システムのログイン画面が表示された。IDとパスワードを入力する。社員用のポータルサイト。左のメニューから「各種届出」を選ぶ。


 退職届のテンプレートが画面に表示された。


 白い画面。明朝体のフォント。「退職届」の三文字が画面の上部に黒く並んでいる。

 その下に記入欄。退職理由。退職希望日。所属部署。氏名。


 カーソルが「退職理由」の欄の上で点滅している。


 書かなかった。

 まだ書けない。十日後に何をするのか。この会社を辞めるのか。辞めて、どうするのか。


 でも——画面を閉じなかった。


 テンプレートを表示したまま、PCの画面を見ている。白い光が顔に当たっている。ホテルの部屋の壁に、画面の光が四角い影を落としている。


 閉じない。


 まだ書かない。でも閉じない。

 その二つの動作の間——書かないことと閉じないことの間に、私の今の全部がある。


 窓の外の武蔵境の夜がカーテンの隙間から細く見えていた。商店街の街灯。遠くの踏切の警報音。九月の夜の空気が窓ガラスの向こうで静かに動いている。


 退職届の白い画面が、暗い部屋の中で光り続けていた。

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