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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第5章『残り十日の体温』

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第24話「空の児童書コーナー」

 棚の二段目に手を伸ばした。九月二日、水曜日、午後四時。閉店まで十一日。


 指先が背表紙に触れる。カバーのPP加工のつるりとした感触。一冊抜く。次の一冊。また次。

 児童書コーナーの最終返本日。今日でこの棚の本を全て搬出する。


 棚の上段から始めた。絵本。低学年向けの児童文学。中学年向け。高学年向け。YA。

 順番に下ろしていく。一冊ごとにタイトルが目に入る。


 『とんでいったふうせんは』。五年前に入荷した絵本。常連の母子が三回読んでから買っていった。お母さんが「もう一回読んで」と言われるたびに笑っていた。

 『星をさがしに』。ゆりちゃんが最初にPOPを書いた本。水色のペンで「私も星を探してる最中です」と書いた。あのPOPで三冊売れた。

 『灯台守のねこ』。藤村さんが孫の誕生日に贈った一冊。「猫が好きな子なの」と微笑んで選んだ。


 一冊抜くたびに名前が浮かぶ。棚に並んでいる間は、本はただの本だった。抜いた瞬間に人の名前が戻ってくる。本の重さの中に、その人の時間が入っている。


 段ボールに入れる。背表紙が下を向く。箱の中で他の本と重なっていく。

 蛍光灯の光が空いた棚板の奥まで届いている。さっきまで本があった場所に、光だけが残る。



 午後五時を過ぎた。

 棚の下段に最後の一列が残っていた。


 高学年向けの棚。背の高い本が四冊並んでいる。

 その中の一冊に目が止まった。


 『見えない扉の向こうに』。


 背表紙の文字が、蛍光灯の白い光の中で静かに立っている。

 この本だけは——この一冊だけは、ずっと棚の同じ場所にあった。入社した年から。十年間、一度も場所を変えなかった。棚替えのたびに他の本は入れ替わる。でもこの本だけは動かさなかった。ここが定位置。ここがこの本の居場所。


 手を伸ばす。

 指先が背表紙に触れた瞬間、何かが指の奥で震えた。


 十六歳の冬。

 高校に行けなくなった年の十二月。教室の椅子に座れなくなって、三週間が経った頃。母親の顔を見るのが辛くて、朝から外に出た。あてもなく武蔵境の商店街を歩いていて、この店に入った。暖房の効いた店内。本の匂い。どこにも居場所がなかった日に、この棚の前にしゃがみ込んで、この本を開いた。


 「扉は見えなくても、ちゃんとそこにあるのよ」


 主人公の少女に、おばあさんがそう言う場面。第三章の半ば。

 私は書店の床に座ったまま、そのページを三回読んだ。三回読んで、本を棚に戻して、帰った。翌日も来た。翌々日も。一週間通って、八日目に買った。


 表紙の絵を覚えている。古い木の扉が半分だけ開いていて、その向こうに光が射している。

 文翠堂でこの本を見つけた日が、私の始まりだった。


 背表紙から手を離せない。


 棚から抜いた。

 表紙を見る。色褪せている。十年分の蛍光灯の光を浴びて、青が少し薄くなっている。でも木の扉の絵は、十六歳の時に見たままだった。扉の向こうの光が、まだ射している。


 段ボールの中に入れた。

 入れた瞬間——棚が、空になった。



 何もない棚。


 上段から下段まで、白い化粧板が剥き出しになっている。日焼け跡が、絵本の形、児童文学の形、YAの背の高い形を棚板の上に残している。

 十年分の影。この棚に本があったことの唯一の証明。


 蛍光灯の光が空っぽの棚の奥の壁まで届いている。ベニヤの裏板に鉛筆で書いた文字が見えた。「児童書担当 椎名」。入社した年に書いた字。田崎店長が「名前書いとけ、お前の棚だ」と言ってくれた日の字。


 棚の前に座り込んだ。


 膝をカーペットについた瞬間、何かが喉の奥でせり上がってきた。

 声は出ない。声にならないまま喉が詰まる。目の奥が熱い。視界が滲む。蛍光灯の白い光が、水の膜の向こうで揺れている。


 空の棚。何も並んでいない棚。

 ここに私の十年があった。ここが私の教室だった。藤村さんの孫が絵本を選んだ場所。ゆりちゃんが「朱里さんみたいになりたい」と言った場所。不登校の中学生が放課後に来て、三時間座っていた場所。あの子は今年、高校に受かった。


 全部、空になった。


 肩が震えている。手のひらを膝の上で握る。爪が掌に食い込む。


 声を出したくなかった。出したら崩れる。崩れたら、立ち上がれない。


 段ボールの中の『見えない扉の向こうに』が、箱の底でじっとしている。もう棚に戻すことはない。この本はこのまま取次のトラックに積まれて、どこかの倉庫に行く。それか、断裁される。

 十六歳の私を拾った本が、紙くずになる。


 エプロンの裾を握った。布の硬さが手のひらに伝わる。指先が震えている。止まらない。


 棚板の日焼け跡が、涙で歪んで見えた。



 棚の裏から紙の束が出てきた。


 下段の棚板と裏板の隙間に挟まっていた。クリアファイル。中に十枚のメモ用紙。

 入社一年目に書いたブックリスト。一冊ごとに感想を書いて、棚の裏に差し込んでいた。いつか読み返すつもりで。結局十年間、一度も取り出さなかった。


 二十歳の字。丸くて、大きくて、不揃い。今より下手。でも今より力が入っている字。


 一枚目。「『見えない扉の向こうに』——この本に拾われた。だから私がこの棚を作る」。


 二枚目。「『灯台守のねこ』。猫が出てくる本は子供に人気。窓際に置く」。


 三枚目。「『星をさがしに』。夜が怖い子に読ませたい。暗闇は怖くないって教えてくれる本」。


 メモを膝の上に置いた。涙が紙の上に落ちる。インクが滲んで、二十歳の字が少し溶けた。


 声を出さずに泣いていた。

 肩が揺れている。背中が丸まる。空の棚の前で、膝を抱えるように座っている。

 閉店後の二階に、私一人の呼吸だけが響いていた。蛍光灯のハム音が天井の近くで細く鳴り続けている。



 階段を上がった。


 返本作業の進捗を確認するために二階に来た。はずだった。事務室のPCで数字を見ている時に気づいた。朱里さんが一階に降りてこない。児童書の最終返本は午後四時に始まったはずだが、もう二時間以上が経っている。段ボールの回収も、進捗の報告もない。


 二階の売場に入った瞬間、空気が違った。

 蛍光灯の光が明るすぎる。棚が空だからだ。児童書コーナーの棚が、上段から下段まで一冊も残っていない。白い棚板と日焼け跡だけが、蛍光灯の光を受けて剥き出しになっている。

 作業は終わっている。なのに、朱里さんが戻っていない。


 朱里さんが棚の前に座っていた。


 膝を抱えている。肩が震えている。声は出ていない。ただ背中が小さく、不規則に揺れている。カーペットの上に座り込んだ姿勢。エプロンの裾を左手で握りしめている。

 膝の上にクリアファイルがある。古い紙が見える。


 私は足音を殺して近づいた。

 朱里さんの三歩手前で止まる。


 声をかけるべきか。声をかけずに戻るべきか。

 四年前までの私なら、戻っていた。現場の感情に立ち入らない。それが閉店請負人のルール。棚が空になった時に泣くスタッフを、七店舗分見てきた。いつも、見なかったふりをした。


 朱里さんの肩の震えが大きくなった。

 嗚咽が一つ漏れた。小さい。でも確かに聞こえた。


 私は朱里さんの隣に座った。

 何も言わずに。カーペットの上に膝をついて、朱里さんの左隣に。空の棚を同じ角度から見る位置に。


 カーペットの毛足が膝に押し当たる。固い。安い化学繊維の感触。この床を、朱里さんは十年間踏み続けた。


 朱里さんが気づいた。顔を上げかけて、上げなかった。俯いたまま声が漏れる。


「私の居場所が、なくなる」


 声が掠れていた。涙で濡れた声。でも叫んではいない。静かに、確認するように。


「ここが、私の全部だったのに」


 蛍光灯のハム音が天井の近くで鳴っている。売場の空調が止まっていた。閉店後のタイマーで切れたのだ。空気が動いていない。二人の呼吸だけが、空の棚の前で交互に聞こえる。


 私は朱里さんの肩に手を置いた。

 置いた——だけでは足りなかった。


 腕が動いた。考えるより先に。

 朱里さんの背中に腕を回して引き寄せる。朱里さんの頭が私の肩口に当たった。髪から紙の匂いがした。段ボールの埃の匂い。返本作業を何時間も続けた人間の乾いた匂い。その下にシャンプーの甘さが微かに残っている。


 朱里さんの肩の震えが私の腕の中に伝わってくる。体温。骨の細さ。エプロンの布越しに心臓の鼓動が速く、不規則に打っている。


 何も言わなかった。

 言葉がない。合理的な言葉も、業務的な言葉も、ここには必要ない。


 朱里さんの手が私のカーディガンの裾を掴んだ。指先に力が入る。布が引っ張られる感触。しがみつくように。離さないように。


 蛍光灯の音だけが、空の棚の前に残っている。

 棚板の日焼け跡が、私たちの影の横で薄く光っている。



 朱里さんの肩の震えが少しずつ収まっていった。


 何分経ったのかわからない。五分か、十分か。

 朱里さんが私のカーディガンから手を離した。顔を上げる。


 涙で濡れた頬。目元が赤い。鼻先がほんのりと色づいている。睫毛が濡れて束になっている。

 蛍光灯の光がその顔を白く照らしていた。影がない。空の棚の前では光がどこからでも届く。隠れる場所がない。


 私の手が朱里さんの顎に触れた。

 触れて、顔を持ち上げた。指先に涙の湿り気が伝わる。


 朱里さんの目が私を見ている。

 涙が一筋、頬の上に残っていた。乾きかけて光を反射している。その下にもう一筋。


 棚の影の中。

 蛍光灯の真下から少しだけ外れた場所。空の棚が作る影が、二人の肩に薄く落ちている。


 唇が触れた。


 紙の匂い。涙の塩味。朱里さんの唇が温かい。震えている。私の唇も震えている。

 蛍光灯の微かなハム音だけが、空の売場に響いている。静かすぎる空間。本がないと、音を吸うものがない。二人の呼吸の音が、裸の棚板に反響して返ってくる。


 ——これは仕事じゃない。


 いつも心の中で唱えていた言葉が、裏返った。

 「これは仕事です」。四年間、閉店のたびに自分に言い聞かせてきた言葉。小田原で。熊谷で。所沢で。調布で。川越で。藤沢で。水戸で。七つの店を閉めるたびに唱えた呪文。

 その言葉の嘘に、今、唇が触れている。


 朱里さんの目が閉じていた。

 まつ毛に涙の粒が残っている。その一粒が、蛍光灯の光を受けて小さく光る。


 唇が離れた。

 数ミリ。息の届く距離。朱里さんの吐息が私の唇に触れている。


 朱里さんが目を開けた。

 泣いた後の赤い目が、私の眼鏡のレンズの向こうから私を見ている。


 何も言わなかった。

 二人とも、何も。

 空の棚の前で、蛍光灯のハム音だけが天井の近くで細く鳴り続けていた。

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