第24話「空の児童書コーナー」
棚の二段目に手を伸ばした。九月二日、水曜日、午後四時。閉店まで十一日。
指先が背表紙に触れる。カバーのPP加工のつるりとした感触。一冊抜く。次の一冊。また次。
児童書コーナーの最終返本日。今日でこの棚の本を全て搬出する。
棚の上段から始めた。絵本。低学年向けの児童文学。中学年向け。高学年向け。YA。
順番に下ろしていく。一冊ごとにタイトルが目に入る。
『とんでいったふうせんは』。五年前に入荷した絵本。常連の母子が三回読んでから買っていった。お母さんが「もう一回読んで」と言われるたびに笑っていた。
『星をさがしに』。ゆりちゃんが最初にPOPを書いた本。水色のペンで「私も星を探してる最中です」と書いた。あのPOPで三冊売れた。
『灯台守のねこ』。藤村さんが孫の誕生日に贈った一冊。「猫が好きな子なの」と微笑んで選んだ。
一冊抜くたびに名前が浮かぶ。棚に並んでいる間は、本はただの本だった。抜いた瞬間に人の名前が戻ってくる。本の重さの中に、その人の時間が入っている。
段ボールに入れる。背表紙が下を向く。箱の中で他の本と重なっていく。
蛍光灯の光が空いた棚板の奥まで届いている。さっきまで本があった場所に、光だけが残る。
*
午後五時を過ぎた。
棚の下段に最後の一列が残っていた。
高学年向けの棚。背の高い本が四冊並んでいる。
その中の一冊に目が止まった。
『見えない扉の向こうに』。
背表紙の文字が、蛍光灯の白い光の中で静かに立っている。
この本だけは——この一冊だけは、ずっと棚の同じ場所にあった。入社した年から。十年間、一度も場所を変えなかった。棚替えのたびに他の本は入れ替わる。でもこの本だけは動かさなかった。ここが定位置。ここがこの本の居場所。
手を伸ばす。
指先が背表紙に触れた瞬間、何かが指の奥で震えた。
十六歳の冬。
高校に行けなくなった年の十二月。教室の椅子に座れなくなって、三週間が経った頃。母親の顔を見るのが辛くて、朝から外に出た。あてもなく武蔵境の商店街を歩いていて、この店に入った。暖房の効いた店内。本の匂い。どこにも居場所がなかった日に、この棚の前にしゃがみ込んで、この本を開いた。
「扉は見えなくても、ちゃんとそこにあるのよ」
主人公の少女に、おばあさんがそう言う場面。第三章の半ば。
私は書店の床に座ったまま、そのページを三回読んだ。三回読んで、本を棚に戻して、帰った。翌日も来た。翌々日も。一週間通って、八日目に買った。
表紙の絵を覚えている。古い木の扉が半分だけ開いていて、その向こうに光が射している。
文翠堂でこの本を見つけた日が、私の始まりだった。
背表紙から手を離せない。
棚から抜いた。
表紙を見る。色褪せている。十年分の蛍光灯の光を浴びて、青が少し薄くなっている。でも木の扉の絵は、十六歳の時に見たままだった。扉の向こうの光が、まだ射している。
段ボールの中に入れた。
入れた瞬間——棚が、空になった。
*
何もない棚。
上段から下段まで、白い化粧板が剥き出しになっている。日焼け跡が、絵本の形、児童文学の形、YAの背の高い形を棚板の上に残している。
十年分の影。この棚に本があったことの唯一の証明。
蛍光灯の光が空っぽの棚の奥の壁まで届いている。ベニヤの裏板に鉛筆で書いた文字が見えた。「児童書担当 椎名」。入社した年に書いた字。田崎店長が「名前書いとけ、お前の棚だ」と言ってくれた日の字。
棚の前に座り込んだ。
膝をカーペットについた瞬間、何かが喉の奥でせり上がってきた。
声は出ない。声にならないまま喉が詰まる。目の奥が熱い。視界が滲む。蛍光灯の白い光が、水の膜の向こうで揺れている。
空の棚。何も並んでいない棚。
ここに私の十年があった。ここが私の教室だった。藤村さんの孫が絵本を選んだ場所。ゆりちゃんが「朱里さんみたいになりたい」と言った場所。不登校の中学生が放課後に来て、三時間座っていた場所。あの子は今年、高校に受かった。
全部、空になった。
肩が震えている。手のひらを膝の上で握る。爪が掌に食い込む。
声を出したくなかった。出したら崩れる。崩れたら、立ち上がれない。
段ボールの中の『見えない扉の向こうに』が、箱の底でじっとしている。もう棚に戻すことはない。この本はこのまま取次のトラックに積まれて、どこかの倉庫に行く。それか、断裁される。
十六歳の私を拾った本が、紙くずになる。
エプロンの裾を握った。布の硬さが手のひらに伝わる。指先が震えている。止まらない。
棚板の日焼け跡が、涙で歪んで見えた。
*
棚の裏から紙の束が出てきた。
下段の棚板と裏板の隙間に挟まっていた。クリアファイル。中に十枚のメモ用紙。
入社一年目に書いたブックリスト。一冊ごとに感想を書いて、棚の裏に差し込んでいた。いつか読み返すつもりで。結局十年間、一度も取り出さなかった。
二十歳の字。丸くて、大きくて、不揃い。今より下手。でも今より力が入っている字。
一枚目。「『見えない扉の向こうに』——この本に拾われた。だから私がこの棚を作る」。
二枚目。「『灯台守のねこ』。猫が出てくる本は子供に人気。窓際に置く」。
三枚目。「『星をさがしに』。夜が怖い子に読ませたい。暗闇は怖くないって教えてくれる本」。
メモを膝の上に置いた。涙が紙の上に落ちる。インクが滲んで、二十歳の字が少し溶けた。
声を出さずに泣いていた。
肩が揺れている。背中が丸まる。空の棚の前で、膝を抱えるように座っている。
閉店後の二階に、私一人の呼吸だけが響いていた。蛍光灯のハム音が天井の近くで細く鳴り続けている。
*
階段を上がった。
返本作業の進捗を確認するために二階に来た。はずだった。事務室のPCで数字を見ている時に気づいた。朱里さんが一階に降りてこない。児童書の最終返本は午後四時に始まったはずだが、もう二時間以上が経っている。段ボールの回収も、進捗の報告もない。
二階の売場に入った瞬間、空気が違った。
蛍光灯の光が明るすぎる。棚が空だからだ。児童書コーナーの棚が、上段から下段まで一冊も残っていない。白い棚板と日焼け跡だけが、蛍光灯の光を受けて剥き出しになっている。
作業は終わっている。なのに、朱里さんが戻っていない。
朱里さんが棚の前に座っていた。
膝を抱えている。肩が震えている。声は出ていない。ただ背中が小さく、不規則に揺れている。カーペットの上に座り込んだ姿勢。エプロンの裾を左手で握りしめている。
膝の上にクリアファイルがある。古い紙が見える。
私は足音を殺して近づいた。
朱里さんの三歩手前で止まる。
声をかけるべきか。声をかけずに戻るべきか。
四年前までの私なら、戻っていた。現場の感情に立ち入らない。それが閉店請負人のルール。棚が空になった時に泣くスタッフを、七店舗分見てきた。いつも、見なかったふりをした。
朱里さんの肩の震えが大きくなった。
嗚咽が一つ漏れた。小さい。でも確かに聞こえた。
私は朱里さんの隣に座った。
何も言わずに。カーペットの上に膝をついて、朱里さんの左隣に。空の棚を同じ角度から見る位置に。
カーペットの毛足が膝に押し当たる。固い。安い化学繊維の感触。この床を、朱里さんは十年間踏み続けた。
朱里さんが気づいた。顔を上げかけて、上げなかった。俯いたまま声が漏れる。
「私の居場所が、なくなる」
声が掠れていた。涙で濡れた声。でも叫んではいない。静かに、確認するように。
「ここが、私の全部だったのに」
蛍光灯のハム音が天井の近くで鳴っている。売場の空調が止まっていた。閉店後のタイマーで切れたのだ。空気が動いていない。二人の呼吸だけが、空の棚の前で交互に聞こえる。
私は朱里さんの肩に手を置いた。
置いた——だけでは足りなかった。
腕が動いた。考えるより先に。
朱里さんの背中に腕を回して引き寄せる。朱里さんの頭が私の肩口に当たった。髪から紙の匂いがした。段ボールの埃の匂い。返本作業を何時間も続けた人間の乾いた匂い。その下にシャンプーの甘さが微かに残っている。
朱里さんの肩の震えが私の腕の中に伝わってくる。体温。骨の細さ。エプロンの布越しに心臓の鼓動が速く、不規則に打っている。
何も言わなかった。
言葉がない。合理的な言葉も、業務的な言葉も、ここには必要ない。
朱里さんの手が私のカーディガンの裾を掴んだ。指先に力が入る。布が引っ張られる感触。しがみつくように。離さないように。
蛍光灯の音だけが、空の棚の前に残っている。
棚板の日焼け跡が、私たちの影の横で薄く光っている。
*
朱里さんの肩の震えが少しずつ収まっていった。
何分経ったのかわからない。五分か、十分か。
朱里さんが私のカーディガンから手を離した。顔を上げる。
涙で濡れた頬。目元が赤い。鼻先がほんのりと色づいている。睫毛が濡れて束になっている。
蛍光灯の光がその顔を白く照らしていた。影がない。空の棚の前では光がどこからでも届く。隠れる場所がない。
私の手が朱里さんの顎に触れた。
触れて、顔を持ち上げた。指先に涙の湿り気が伝わる。
朱里さんの目が私を見ている。
涙が一筋、頬の上に残っていた。乾きかけて光を反射している。その下にもう一筋。
棚の影の中。
蛍光灯の真下から少しだけ外れた場所。空の棚が作る影が、二人の肩に薄く落ちている。
唇が触れた。
紙の匂い。涙の塩味。朱里さんの唇が温かい。震えている。私の唇も震えている。
蛍光灯の微かなハム音だけが、空の売場に響いている。静かすぎる空間。本がないと、音を吸うものがない。二人の呼吸の音が、裸の棚板に反響して返ってくる。
——これは仕事じゃない。
いつも心の中で唱えていた言葉が、裏返った。
「これは仕事です」。四年間、閉店のたびに自分に言い聞かせてきた言葉。小田原で。熊谷で。所沢で。調布で。川越で。藤沢で。水戸で。七つの店を閉めるたびに唱えた呪文。
その言葉の嘘に、今、唇が触れている。
朱里さんの目が閉じていた。
まつ毛に涙の粒が残っている。その一粒が、蛍光灯の光を受けて小さく光る。
唇が離れた。
数ミリ。息の届く距離。朱里さんの吐息が私の唇に触れている。
朱里さんが目を開けた。
泣いた後の赤い目が、私の眼鏡のレンズの向こうから私を見ている。
何も言わなかった。
二人とも、何も。
空の棚の前で、蛍光灯のハム音だけが天井の近くで細く鳴り続けていた。




