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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第5章『残り十日の体温』

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第23話「室長の視察」

「来るぞ」


 田崎店長の声が事務室に短く落ちた。八月二十九日、土曜日、午前十時。閉店まで十五日。


 窓の外に黒い車が一台、裏口の前に停まる。運転手が先に降りて後部座席のドアを開けた。

 降りてきた男は紺のスーツに身を包んでいた。細身。髪を後ろに撫でつけている。動きに無駄がない。裏口から店内に入るまでの歩数が数えられるほど規則的だった。


 神原玲。開発推進室・室長。三十五歳。

 私の上司。四年間、電話とメールで指示を出し続けた人間が、初めて武蔵境の売場に立っている。



 神原室長が売場に入った瞬間、空気が変わった。


 一階の棚を歩いている。足音は静かだった。革靴の底がカーペットの上を滑るように動く。右手が一度だけ棚板に触れ、その指先が本の背の並びを辿った。


「この棚の在庫数は」


「百二十八冊。先週の返本で六十冊減らしましたが」


「まだ多い。閉店十五日前にしては減りが遅い」


 神原室長の目が棚の端から端まで動いた。視線の速度が速い。一秒で一棚分の情報を読み取っている。数字を見る目。効率を量る目。


「二階は」


「人文書棚が五割返本済み。児童書はまだ七割残っています」


「七割」


 その一語に温度はなかった。事実の確認。それだけ。


 一階の奥、文芸書の棚の前で足を止めた。

 棚板の三段目に閉店フェアのPOPが挟んである。朱里さんの字。丸くて柔らかい字で「最後に読んでほしい一冊」と書いてある。水色のマーカーが蛍光灯の下で淡く光っている。


「これは誰が」


「現場の店員です。椎名」


 神原室長の指がPOPの端に触れた。触れただけで剥がさない。

 次の棚に移る。その判断が速い。三秒以上、一つの場所に留まらない。壁際の平台を見て、エンド台の養生シートを見て、レジカウンターの片付け状況を見る。すべてが三秒以内。


 二階に上がる。

 神原室長の足音が階段を昇っていく。私は二歩後ろを歩いた。田崎店長は事務室に残している。


 二階の売場に出た時、朱里さんが棚の前にいた。

 返本用のリストを手に持って一冊ずつ棚番号を確認している。エプロン姿。髪を低い位置でまとめている。


 神原室長の視線が朱里さんに向かった。


 一瞬、本当に一瞬だけ、神原室長の目が何かを思い出すように狭まった。

 すぐに戻る。元の温度のない目に。


 朱里さんが振り返った。

 来客に気づいて軽く頭を下げる。神原室長が誰なのか、朱里さんはまだ知らない。


「桐生さんの」


「室長です」


 私の声が硬いことに自分で気づいた。


 神原室長は朱里さんに声をかけなかった。視線だけが三秒間、朱里さんの姿を追っていた。返本リストを持つ手。棚に向かう横顔。十年分の棚を手放す作業をしている人間の背中。


 横浜元町店の時も、こういう店員がいたのだろうか。

 神原室長が閉店請負人だった時代。四年前のことだ。彼もまた誰かの棚を空にした。



 事務室に戻った。

 田崎店長は席を外していた。屋上の喫煙スペースに逃げたのだろう。神原室長の視察中に田崎店長がいなくなるのは、逃避か、それとも配慮か。私と室長の間に入る余地がないことを、長年の中間管理職の勘で察したのだ。


 事務室のドアが閉まる。

 部屋の中に二人分の呼吸と空調の低い音だけが残った。送風口からの冷気がデスクの上の返本リストの端をわずかに揺らしている。


 神原室長が私のデスクの前に立った。

 返本の進捗表がPCの画面に出ている。ガントチャートの赤い線が九月十二日を指している。神原室長の目がその画面を一秒見て私に戻った。


「桐生」


「はい」


「あの店員に感情移入しているな」


 声が低い。

 質問ではなかった。確認だ。


「していません」


「嘘をつくな。私にはわかる」


 神原室長が椅子に座らず、立ったまま私を見下ろしている。

 眼鏡なしの裸の目。四年間、電話越しにしか聞いたことのない声が、今、一メートルの距離にある。スーツの繊維と石鹸の残り香。この人にも身体があるのだ。電話の向こうの声だけの存在ではない。


「お前の報告書を読んだ。八月十九日付の前倒し不可の報告書。文面は合理的だ。工程管理上の判断として筋は通っている」


 間を置いた。

 窓の外から武蔵境の商店街を歩く人の声がかすかに届いている。土曜日の午前。店の外の世界は動いている。


「だが、お前があの報告書を書いた理由は工程ではない。違うか」


 私の右手がデスクの上のマウスの横で止まっていた。

 動かせない。動かせば何かを認めてしまう。


「閉店日は動かせない」


 神原室長の声が事務室の空調の音を切った。


「九月十二日。予定通りだ。前倒しは経営企画の内部で却下された。ビルオーナーとの調整が間に合わなかった。だから閉店日は動かない」


 前倒し問題が——消えた。

 私の報告書の効果ではない。経営企画の内部事情。結果的に、守ろうとしたものは守られた。でもそれは私の力ではなかった。偶然だ。


「ただし」


 神原室長が一歩近づいた。デスクとの距離がさらに縮まる。


「お前が壊れる前に終わらせろ」


 壊れる。

 その言葉の重さを私は知っている。横浜元町店の時、神原室長自身が壊れかけた。現場の店員に入れ込み、閉店作業が二週間遅延した。本部から強制介入。その後、三ヶ月の休職。復帰後に現場を離れ管理職になった。今の神原室長が作られたのは、あの三ヶ月の空白の後だ。


「私は壊れません」


「横浜元町の時の私も、そう言った」


 神原室長の声に初めてかすかな苦味が混じった。

 四年前の自分を見ているのだろう。私の中に。同じ過ちの予感を。


 事務室のドアが開いた。田崎店長が戻ってきた。煙草の匂いがかすかに。


「失礼します。神原室長、お車の準備ができました」


 運転手が裏口で待っている。


 神原室長が頷いた。

 デスクから離れてドアに向かう。スーツの肩の線が事務室の蛍光灯の下でまっすぐだった。折り目のない肩。迷いのない背中。


 ドアを開ける前に振り返った。


「桐生。十五日だ。十五日で終わらせろ」


 ドアが閉まった。

 革靴の音が廊下を歩いて遠ざかっていく。階段を降りる。裏口の鉄のドアが開閉する音。車のドアが閉まる重い音。エンジンがかかる。


 事務室に静寂が戻った。



 裏口から黒い車が出ていくのを二階の窓から見ていた。


 朱里さんが隣に立っている。

 いつの間にか上がってきていた。返本リストを胸の前に抱えたまま車のテールランプを見送っている。


「あの人が、桐生さんの上司ですか」


 朱里さんの声が静かだった。窓ガラスに二人の影が薄く並んでいる。


「ええ」


 車が角を曲がった。テールランプが消える。

 窓の外には武蔵境の商店街のいつもの景色が戻っていた。八月の土曜日の午前。買い物客の姿が歩道を行き交っている。文翠堂の看板の下をベビーカーを押した女性が通り過ぎた。


「桐生さんも、いつか、ああなるんですか」


 朱里さんの問いかけは、先ほどの神原室長の問いかけと形が似ていた。確認。事実を知りたいだけの声。

 でも声の温度が全く違う。


「ええ。私の未来の姿です」


 窓ガラスに自分の顔が薄く映っていた。眼鏡のレンズに外の光が反射して目が見えない。


「嫌です、そんなの」


 朱里さんの声が即答だった。

 振り返ると、朱里さんが返本リストを握る手に力が入っていた。紙がわずかに歪んでいる。


「桐生さんがあの人みたいになるの。嫌です」


 理由は言わなかった。

 直感が先に来る人。考える前に口が動く人。その言葉が窓際の午前の光の中で、私の胸の内側に触れた。


 何と答えればいいのかわからなかった。

 「嫌です」と言われて——嫌だと、私も思い始めている。それが問題だった。


 答えない代わりに窓の外の商店街を見ていた。朱里さんが返本リストを持ったまま階段を降りていく。カーペットの上の足音が小さくなる。ローファーの踵が最後の一段で軽く跳ねた。


 十五日。

 あと十五日でこの店を閉める。


 神原室長の声がまだ事務室の空気に残っている。「壊れる前に、終わらせろ」。

 朱里さんの声も残っている。「嫌です、そんなの」。


 二つの声の間で、私はデスクの椅子に座り直した。

 PCの画面に返本の進捗表が光っている。赤い線が九月十二日を指している。その線の手前に十五個の日付が並んでいる。


 一日ずつ、棚が空いていく。

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