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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第5章『残り十日の体温』

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22/30

第22話「営業時間外」

 シャッターが降りきった音を確認してから、売場の蛍光灯を消した。八月二十五日、火曜日、午後九時十五分。閉店まで十九日。


 非常灯の緑色だけが天井の角に残った。

 朱里さんが一階のエンド台に被せた養生シートの端をガムテープで止めている。明日の朝、取次のトラックが来たら、このエンド台ごと搬出する。


「おつかれさまでした」


 朱里さんの声が暗い売場に落ちた。

 私の方を見ている。非常灯の光が朱里さんのエプロンの白を薄い緑に染めていた。


「おつかれさまです」


 事務室に戻ってPCをシャットダウンした。返本の進捗表を保存し、明日の搬出スケジュールをメールで取次に確認する。送信完了のポップアップ。画面が暗くなる。


 時計は午後九時二十三分。


 朱里さんが事務室のドアに寄りかかっている。エプロンを外して腕にかけたまま。


「桐生さん、ごはん食べました?」


「まだです」


「私も。——どこか行きませんか」


 業務時間外の誘い。

 私の指が閉じたPCの蓋の上で止まった。


「……はい」



 武蔵境駅の北口を出て、三分歩いた先にファミレスがあった。

 店名の看板が駐車場の街灯に照らされて白く光っている。午後九時半。窓の中に数組の客の影が見える。


 入口の自動ドアが開いた瞬間、冷房の空気とファミレス特有の匂いが同時に来た。油と洗剤と焼けたパン。


「二名です」


 朱里さんが店員に告げた。窓際の四人席に通される。

 テーブルのメニュー立てには「ドリンクバーセット 三百九十八円」の文字。朱里さんが迷わずドリンクバーを頼む。


「桐生さんも飲みません? コーヒーあるし」


 私もドリンクバーを頼んだ。

 朱里さんがメロンソーダを選んで戻ってきた。緑色の液体に氷が浮かんでいる。ストローで一口飲んで「甘い」と呟く。子供の飲み物を選ぶ人だった。


 私はホットコーヒーを選んだ。陶器ではなく紙コップ。薄い酸味と機械的な苦み。喫茶店のコーヒーとは違う味。でも温かさだけは同じだった。


 朱里さんがストローの先を唇で咥えたままメニューをめくっている。


「ポテト食べたい。桐生さんは?」


「同じものを」


「ほんとに? 桐生さんってポテト食べるんですか」


「食べますよ。普通に」


 朱里さんが笑った。

 店の外では見せない笑い方。歯が少し見える。肩の力が抜けている。


 ポテトが来た。ケチャップの赤い容器がトレイの端に載っている。

 朱里さんが一本つまんでケチャップをたっぷりつけて口に運ぶ。


「桐生さん」


「はい」


「大学って、行きましたか」


 唐突な問いだった。

 朱里さんの目がポテトの皿の上から私を見ている。


「行きました。経営学部」


「ですよね。頭いいですもんね」


 朱里さんのメロンソーダのストローがくるくると指の間で回る。


「私は、行ってないんです」


「知っています。履歴書に書いてありました」


「高卒で文翠堂に入って。——お金がなかったのもあるけど」


 朱里さんの視線が窓の外の駐車場の街灯に向いた。


「この店が大学だった。棚のジャンルが全部講義みたいで。哲学も、歴史も、文学も、児童書も。十年かけて全部のジャンルを担当させてもらって。それって四年制大学より長い」


 声に悲しさはなかった。

 事実を言っている声。自分の十年を過不足なくテーブルの上に置く声。


「後悔は」


「ないです。今でも」


 メロンソーダの氷がグラスの中で軽く動いた。



 ポテトが半分になった頃、朱里さんが聞いた。


「桐生さんって、最初から本部だったんですか」


 コーヒーの紙コップを両手で包んでいた。温度はもうぬるい。


「いいえ。最初は三鷹店の売場でした」


「三鷹店」


 朱里さんの声が少し高くなる。


「二年いました。棚を組んで、POPも書いて。平台で新刊を売るのが好きでした」


「……桐生さんが、POPを」


「下手でしたけど」


 三鷹店。駅の南口から四分の路面店。ワンフロアで三十坪。小さい店だった。

 配本が少ないから選書で勝負するしかない。棚一つの精度がそのまま売上に出る。二十四歳の私は毎週の売上データを見ながら棚を一段ずつ組み替えていた。


「閉まったんです。三鷹店。私がいた時に」


 朱里さんの手がポテトの上で止まった。


「何もできなかった。数字が悪いのは知ってた。でも私は売場の人間で、経営判断には入れなくて。朝出勤したら店長に呼ばれて、来月閉店だと」


 テーブルの向こうで朱里さんが息を吸った音が聞こえた。


「その日に本部への異動を志願しました。二度と、知らないまま店が消えるのは嫌だったから」


 紙コップの中の残りのコーヒー。表面に天井の蛍光灯が小さく映っている。


「だから閉店請負人を」


「ええ。現場にいて何もできないより、判断する側にいたかった。——そう思ったんです。四年前は」


 四年前は。

 今は違うのかと、朱里さんは聞かなかった。聞かない代わりにメロンソーダの最後の一口を飲み干した。ストローが空気を吸って軽い音を立てる。



「もし。——もし書店を一から作るなら」


 朱里さんが空いたグラスをテーブルの端に寄せながら言った。


「どんな店にしますか」


 窓の外の駐車場に車が一台入ってきた。ヘッドライトの光がテーブルの上を横切る。


「十五坪くらいの、小さい店」


 私の口から出た言葉は、考えてから出たものではなかった。


「棚は全部自分で組む。ジャンルの仕切りは曖昧にして、小説と人文書の境目に詩集を挟む。レジは一台。椅子が二脚」


 朱里さんの目がまっすぐ私を見ていた。


「カフェスペースは?」


「いらない。本だけ。でも窓際に椅子を一脚置いて、常連さんが座れるようにする」


「藤村さんみたいな人が来る椅子」


「ええ」


 朱里さんが頬杖をついた。窓の外の街灯の光がその横顔に斜めに当たっている。


「私もそういう店がいい。でも二階も欲しい。児童書だけの二階」


「採算が」


「合わなくてもいいんです。児童書は回収を考える棚じゃない」


 朱里さんの声が速くなっていた。本の話をする時のリズム。


「子供が放課後に来て、階段を上がって、二階の隅で本を読む。お金がなくてもいい。買わなくてもいい。ただそこに本がある場所」


 私はコーヒーの紙コップを置いた。

 朱里さんの横顔が窓から差す街灯の白い光の中にある。唇が動いている。言葉が速い。目がどこか遠くを見ている。


 ——綺麗だ。


 その言葉が頭の中に浮かんだ。浮かんだだけで口には出さない。出さないまま、紙コップの縁を指で一度だけ撫でる。



 午後十一時過ぎ。ファミレスの外に出た。


 八月の夜の空気がまだ生ぬるい。駐車場のアスファルトが昼間の熱をまだ手放せずにいる。自動販売機の明かりが朱里さんの足元を青白く照らしていた。


 武蔵境駅まで三分。同じ方向に歩く。

 二人の間は腕一本分。売場を歩く時と同じ距離。でも売場には棚があり、本があり、業務がある。今、二人の間には夜の空気しかない。


「桐生さん」


 朱里さんが立ち止まった。

 駅のロータリーが見える場所。タクシーのテールランプが一台、赤く光って通り過ぎた。


「明日も一緒に返本しましょう」


 朱里さんの声が夜の空気の中に落ちた。


 一緒に。

 その三文字は、業務報告の「共同作業」とは違う響きを持っていた。

 返本は私の仕事ではない。本来は朱里さんと田崎店長の売場業務。私の業務は工程管理であって、段ボールを詰めることではない。

 今日手伝ったのは業務命令ではなかった。


 朱里さんの「明日も一緒に」は、それを知った上での言葉。

 命令ではなく、願い。


「……はい。明日も」


 私の声が自分の耳に静かに届いた。

 朱里さんが少しだけ笑って、駅の改札の方に歩いていった。ローファーの音がタイルの上で軽く弾んでいる。


 私はその背中を見送った。

 改札のゲートが閉まる音。朱里さんの姿が改札の向こうに消える。


 駅前のロータリーに一人で立っていた。タクシーのエンジン音と遠くの踏切の警報音。八月二十五日の夜が肌に触れている。

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