第22話「営業時間外」
シャッターが降りきった音を確認してから、売場の蛍光灯を消した。八月二十五日、火曜日、午後九時十五分。閉店まで十九日。
非常灯の緑色だけが天井の角に残った。
朱里さんが一階のエンド台に被せた養生シートの端をガムテープで止めている。明日の朝、取次のトラックが来たら、このエンド台ごと搬出する。
「おつかれさまでした」
朱里さんの声が暗い売場に落ちた。
私の方を見ている。非常灯の光が朱里さんのエプロンの白を薄い緑に染めていた。
「おつかれさまです」
事務室に戻ってPCをシャットダウンした。返本の進捗表を保存し、明日の搬出スケジュールをメールで取次に確認する。送信完了のポップアップ。画面が暗くなる。
時計は午後九時二十三分。
朱里さんが事務室のドアに寄りかかっている。エプロンを外して腕にかけたまま。
「桐生さん、ごはん食べました?」
「まだです」
「私も。——どこか行きませんか」
業務時間外の誘い。
私の指が閉じたPCの蓋の上で止まった。
「……はい」
*
武蔵境駅の北口を出て、三分歩いた先にファミレスがあった。
店名の看板が駐車場の街灯に照らされて白く光っている。午後九時半。窓の中に数組の客の影が見える。
入口の自動ドアが開いた瞬間、冷房の空気とファミレス特有の匂いが同時に来た。油と洗剤と焼けたパン。
「二名です」
朱里さんが店員に告げた。窓際の四人席に通される。
テーブルのメニュー立てには「ドリンクバーセット 三百九十八円」の文字。朱里さんが迷わずドリンクバーを頼む。
「桐生さんも飲みません? コーヒーあるし」
私もドリンクバーを頼んだ。
朱里さんがメロンソーダを選んで戻ってきた。緑色の液体に氷が浮かんでいる。ストローで一口飲んで「甘い」と呟く。子供の飲み物を選ぶ人だった。
私はホットコーヒーを選んだ。陶器ではなく紙コップ。薄い酸味と機械的な苦み。喫茶店のコーヒーとは違う味。でも温かさだけは同じだった。
朱里さんがストローの先を唇で咥えたままメニューをめくっている。
「ポテト食べたい。桐生さんは?」
「同じものを」
「ほんとに? 桐生さんってポテト食べるんですか」
「食べますよ。普通に」
朱里さんが笑った。
店の外では見せない笑い方。歯が少し見える。肩の力が抜けている。
ポテトが来た。ケチャップの赤い容器がトレイの端に載っている。
朱里さんが一本つまんでケチャップをたっぷりつけて口に運ぶ。
「桐生さん」
「はい」
「大学って、行きましたか」
唐突な問いだった。
朱里さんの目がポテトの皿の上から私を見ている。
「行きました。経営学部」
「ですよね。頭いいですもんね」
朱里さんのメロンソーダのストローがくるくると指の間で回る。
「私は、行ってないんです」
「知っています。履歴書に書いてありました」
「高卒で文翠堂に入って。——お金がなかったのもあるけど」
朱里さんの視線が窓の外の駐車場の街灯に向いた。
「この店が大学だった。棚のジャンルが全部講義みたいで。哲学も、歴史も、文学も、児童書も。十年かけて全部のジャンルを担当させてもらって。それって四年制大学より長い」
声に悲しさはなかった。
事実を言っている声。自分の十年を過不足なくテーブルの上に置く声。
「後悔は」
「ないです。今でも」
メロンソーダの氷がグラスの中で軽く動いた。
*
ポテトが半分になった頃、朱里さんが聞いた。
「桐生さんって、最初から本部だったんですか」
コーヒーの紙コップを両手で包んでいた。温度はもうぬるい。
「いいえ。最初は三鷹店の売場でした」
「三鷹店」
朱里さんの声が少し高くなる。
「二年いました。棚を組んで、POPも書いて。平台で新刊を売るのが好きでした」
「……桐生さんが、POPを」
「下手でしたけど」
三鷹店。駅の南口から四分の路面店。ワンフロアで三十坪。小さい店だった。
配本が少ないから選書で勝負するしかない。棚一つの精度がそのまま売上に出る。二十四歳の私は毎週の売上データを見ながら棚を一段ずつ組み替えていた。
「閉まったんです。三鷹店。私がいた時に」
朱里さんの手がポテトの上で止まった。
「何もできなかった。数字が悪いのは知ってた。でも私は売場の人間で、経営判断には入れなくて。朝出勤したら店長に呼ばれて、来月閉店だと」
テーブルの向こうで朱里さんが息を吸った音が聞こえた。
「その日に本部への異動を志願しました。二度と、知らないまま店が消えるのは嫌だったから」
紙コップの中の残りのコーヒー。表面に天井の蛍光灯が小さく映っている。
「だから閉店請負人を」
「ええ。現場にいて何もできないより、判断する側にいたかった。——そう思ったんです。四年前は」
四年前は。
今は違うのかと、朱里さんは聞かなかった。聞かない代わりにメロンソーダの最後の一口を飲み干した。ストローが空気を吸って軽い音を立てる。
*
「もし。——もし書店を一から作るなら」
朱里さんが空いたグラスをテーブルの端に寄せながら言った。
「どんな店にしますか」
窓の外の駐車場に車が一台入ってきた。ヘッドライトの光がテーブルの上を横切る。
「十五坪くらいの、小さい店」
私の口から出た言葉は、考えてから出たものではなかった。
「棚は全部自分で組む。ジャンルの仕切りは曖昧にして、小説と人文書の境目に詩集を挟む。レジは一台。椅子が二脚」
朱里さんの目がまっすぐ私を見ていた。
「カフェスペースは?」
「いらない。本だけ。でも窓際に椅子を一脚置いて、常連さんが座れるようにする」
「藤村さんみたいな人が来る椅子」
「ええ」
朱里さんが頬杖をついた。窓の外の街灯の光がその横顔に斜めに当たっている。
「私もそういう店がいい。でも二階も欲しい。児童書だけの二階」
「採算が」
「合わなくてもいいんです。児童書は回収を考える棚じゃない」
朱里さんの声が速くなっていた。本の話をする時のリズム。
「子供が放課後に来て、階段を上がって、二階の隅で本を読む。お金がなくてもいい。買わなくてもいい。ただそこに本がある場所」
私はコーヒーの紙コップを置いた。
朱里さんの横顔が窓から差す街灯の白い光の中にある。唇が動いている。言葉が速い。目がどこか遠くを見ている。
——綺麗だ。
その言葉が頭の中に浮かんだ。浮かんだだけで口には出さない。出さないまま、紙コップの縁を指で一度だけ撫でる。
*
午後十一時過ぎ。ファミレスの外に出た。
八月の夜の空気がまだ生ぬるい。駐車場のアスファルトが昼間の熱をまだ手放せずにいる。自動販売機の明かりが朱里さんの足元を青白く照らしていた。
武蔵境駅まで三分。同じ方向に歩く。
二人の間は腕一本分。売場を歩く時と同じ距離。でも売場には棚があり、本があり、業務がある。今、二人の間には夜の空気しかない。
「桐生さん」
朱里さんが立ち止まった。
駅のロータリーが見える場所。タクシーのテールランプが一台、赤く光って通り過ぎた。
「明日も一緒に返本しましょう」
朱里さんの声が夜の空気の中に落ちた。
一緒に。
その三文字は、業務報告の「共同作業」とは違う響きを持っていた。
返本は私の仕事ではない。本来は朱里さんと田崎店長の売場業務。私の業務は工程管理であって、段ボールを詰めることではない。
今日手伝ったのは業務命令ではなかった。
朱里さんの「明日も一緒に」は、それを知った上での言葉。
命令ではなく、願い。
「……はい。明日も」
私の声が自分の耳に静かに届いた。
朱里さんが少しだけ笑って、駅の改札の方に歩いていった。ローファーの音がタイルの上で軽く弾んでいる。
私はその背中を見送った。
改札のゲートが閉まる音。朱里さんの姿が改札の向こうに消える。
駅前のロータリーに一人で立っていた。タクシーのエンジン音と遠くの踏切の警報音。八月二十五日の夜が肌に触れている。




