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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第5章『残り十日の体温』

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第21話「返本の山」

 ガムテープを引く音が地下倉庫に響いた。八月二十一日、金曜日、午前十時。閉店まで二十三日。


 取次のトラックが裏口に停まっている。

 四トンの箱型。荷台の扉が開いたまま、排気ガスの匂いが裏口の通路に流れ込んでいる。今週で三回目。来週からは毎日になると、田崎店長が朝礼で言っていた。


 段ボール箱の底を組んで、ガムテープで十字に止める。テープを切る金属音。箱の中に本を入れる。一冊、また一冊。背表紙の文字が指の下を通り過ぎていく。

 『存在と時間』。『構造と力』。『文化の窮状』。

 十年かけてこの棚に置いた本が、二十分で段ボール一箱に収まる。


「朱里さん、そっちの棚、あと何冊ですか」


 ゆりちゃんの声が二メートル先の書架の向こうから聞こえた。


「数えてない」


「数えましょうよ。じゃないと段ボール足りなくなりますよ」


 数える気になれなかった。

 数えたら、この棚に残っている本の数がはっきりしてしまう。はっきりした数字は減っていく。明日また何十冊か減り、明後日また減り、最後にゼロになる。その過程を数字で見届ける気力が、今日はない。


 手元の一冊を段ボールの中に入れた。入れる前に背表紙を親指で一度だけ撫でる。布装丁の細かい織り目が指の腹に残る。

 次の一冊。カバーのPP加工が汗ばんだ指に引っかかる。

 また、撫でる。


「朱里さん」


 ゆりちゃんが棚の端から顔を出した。

 私の顔を見て、一瞬、口を閉じる。それから少し声を落として。


「泣かないでくださいよ」


 声が優しかった。二十一歳の、まだ学生の声。就活のエントリーシートを昼休みに書いているゆりちゃんの、大人になりかけの声。


「泣いてないよ」


 嘘だった。

 頬が濡れている。いつから濡れていたのかわからない。段ボールの中の本の表紙に水滴が一つ落ちた。慌ててエプロンの袖で拭う。紙が水を吸う前に。間に合った。


「……ほんとに泣いてないから」


「はいはい」


 ゆりちゃんが何も言わずに、自分のエプロンのポケットからティッシュを一枚差し出した。

 受け取る。鼻を押さえる。ダンボールの中の本から立ち上る、乾いた紙とインクの匂いがティッシュ越しにまだ鼻の奥に届く。


 この匂いが、いつか、なくなる。



 正午を過ぎた頃、二階に上がった。


 人文書の棚が半分空になっていた。


 棚板が剥き出しになっている。

 白い化粧板の表面に本の形の影がくっきり残っていた。日焼け跡。十年分の紫外線が、本があった場所だけを白く残し、それ以外を薄い飴色に変えている。


 新書サイズの影が七冊分。その隣に文庫の影が十二冊分。四六判の影が奥の方に五冊分。

 一冊ごとの厚みまで棚板に刻まれている。


 私が並べた本の痕跡。

 本はもう段ボールの中にあるのに、棚板だけがそこに本があったことを覚えている。


 この棚を初めて組んだのは二十歳の冬だった。田崎店長に「好きに組んでいい」と言われて三日かけた。哲学の棚の隣に宗教学を置き、その横に文化人類学を並べた。「人間について考える棚」——そう名付けたのは入社二年目の私。あの頃は棚の向こうに未来が見えていた。

 今、その未来が段ボールの底でじっとしている。


 空いた棚の前に立ち尽くす。

 蛍光灯の光が空いた棚板にまっすぐ当たっている。影のない光。本がないと、蛍光灯はその奥まで届いてしまう。いつもは本の背が吸い込んでいた光が、行き場をなくして白く跳ね返っている。


 棚の裏板が見える。ベニヤの薄い板に鉛筆で数字が書いてあった。

 「2016.11.03 人文1段目 組替」。

 私の字。九年前の丸くて幼い字。



 午後二時。

 一階の売場で返本リストの確認をしていると、階段を降りてくる靴音が聞こえた。


 桐生さんだった。


 スーツではない。紺のカーディガンに白いブラウス。でも靴だけはいつものパンプスで、階段を降りる音が硬い。売場のカーペットに足が着いた瞬間、音が消える。


「手伝います」


 それだけ言って、桐生さんが私の隣に立った。

 返本用の段ボールの前に膝をついて、リストと棚番号を照合し始める。ノートPCは持っていない。紙のリストとボールペンだけ。


 私が棚から本を抜く。桐生さんが段ボールに並べる。

 二人の間に会話はほとんどなかった。


 リストの冊数を読み上げる桐生さんの声。私が棚から本を取り出す、背表紙と棚板が擦れる音。段ボールの底に本が当たる軽い音。

 三つの音だけが、閉店後の売場に交互に鳴っている。空調の低い唸りがその隙間を埋める。


 私が本を渡す時、桐生さんの指先に触れた。

 紙の埃がついた私の指と、桐生さんの冷たい指先。爪の先がほんの二ミリだけ重なる。


 触れた瞬間、桐生さんの手が止まった。止まったのは一秒にも満たない。

 でも私にはそれがわかった。


 何も言わない。

 本を渡す。受け取る。段ボールに入れる。


 もう一冊。

 今度は触れなかった。桐生さんの指が本の端だけを正確に掴む。触れなかったことが、触れた時より意識に残る。


 段ボールがいっぱいになった。桐生さんがガムテープを引いて蓋を閉じる。

 テープを切る手つきが慣れている。四年で七店舗を閉めた手だ。この動作を何千回繰り返してきたのか。


 次の箱を組みながら、桐生さんの横顔を見た。

 眼鏡の奥の目がリストの文字を追っている。淡々と。でも、さっき私の指に触れた時の一瞬の停止を、私はもう忘れられない。



 午後五時。地下倉庫の整理に降りた。


 蛍光灯のスイッチを入れると、白い光がコンクリートの壁と積み上がった段ボールの山を同時に照らす。湿気を含んだ空気。ガムテープの接着剤と古いダンボールの、甘いような埃っぽい匂い。


 今日だけで二十三箱。

 取次のトラックに積みきれなかった分が倉庫の壁際に並んでいる。明日の朝一番で引き取りに来ると、ドライバーが言っていた。


 桐生さんが棚板の在庫リストを確認しながら倉庫の奥に入っていく。

 蛍光灯の光が桐生さんの肩の線をくっきり浮かび上がらせている。


 私はその背中に向かって口を開いた。


「桐生さん」


「はい」


「あの本のこと——藤村さんの本」


 桐生さんの背中が止まった。

 振り返る。蛍光灯の光が眼鏡のレンズに白く入っている。表情が一瞬だけ読めなくなる。


「何か見つかりましたか」


 神保町では全滅だった。永田書店は在庫なし。丸山書房は先月売れた。篠崎堂は休業。京都は去年売却済み。

 あの雨の日から四日。佐伯澄子訳『丘の上のラビット先生』、朝日書房、一九五四年初版、函入り布表紙。手がかりは消えたものだと思っていた。


 桐生さんが三秒ほど黙った。

 眼鏡のブリッジを人差し指で一度だけ押し上げる。その動作の後、口が開く。


「……一件、手がかりがあります」


 私の足が一歩前に出た。段ボールの角に膝が当たったが、痛みは後から来る。


「静岡の古書店から連絡がありました。佐伯澄子訳、朝日書房の一九五四年初版。函入り、布表紙、状態良好——所蔵していると」


 段ボールの山に囲まれた地下倉庫の中で、桐生さんの声が低くはっきり響いた。コンクリートの壁がその声をわずかに反響させる。


「まだ確定ではありません。実物の状態確認も、取り寄せの可否もこれからです」


 桐生さんの声は慎重だった。いつもの数字を扱う時の声。

 でも言葉の端にほんの少しだけ温度がある。火曜日の夜にメールを受け取ってから金曜日の今日まで。五日間、私に言わずにいた。確認が取れるまで期待させたくなかったのだろう。


 桐生さんらしい。


「見つかるかもしれない」


 私の声が自分で思ったより大きかった。

 倉庫のコンクリートの壁に反響する。段ボールの山がその残響を吸い込んでいく。


 桐生さんが小さく頷いた。


「まだ、かもしれない、です」


「でも、ゼロじゃない」


 桐生さんの唇の端がわずかに動いた。笑顔と呼ぶには小さすぎる動き。蛍光灯の影の角度では、他の誰にも気づかれないだろう。

 でも、私には見えた。


 地下倉庫の湿った空気の中に、ほんの一瞬、別の温度が混じる。

 段ボールの山は変わらない。返本リストの数字も変わらない。明日もトラックが来る。棚はまた空く。二十三日後にこの店の本は一冊も残らない。


 でも、ゼロじゃない。


 階段を上がる時、私の足取りがさっきより速いことに自分で気づいていた。

 コンクリートの階段の一段一段が、ローファーの底を通じて足の裏に伝わってくる。冷たくて、硬くて、それでも確かな感触。

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