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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第4章『探す手、届ける手』

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第20話「前倒し」

「桐生、聞こえるか」


 スピーカーフォンの向こうから、神原室長の声が事務室に入ってきた。八月十八日、火曜日、午前九時。閉店まで二十六日。


「聞こえています」


「本部の経営企画から、一つ話が来ている」


 事務室には私と田崎店長の二人だった。

 田崎店長が自分のデスクの前の椅子に座って、腕を組んでいる。背もたれに体重を預けた姿勢。眉間に薄く皺が寄っていた。


「武蔵境店のビルの次テナントが、早期入居を希望している」


「早期入居」


「閉店日を二週間前倒しできないか。九月十二日を八月二十九日に」


 私の右手が机の上のボールペンを握った。

 握ったことに一秒遅れて気づいた。


「八月二十九日」


「経営企画は前向きに検討しろと言っている。ビルの賃貸契約の打ち切り条件も、次テナント側が持つ。本部としてはコストの面で悪い話ではない」


 神原室長の声は平たかった。

 数字の話をする時の、いつもの声。感情のない透明な声。


「桐生、どう思う」


 私の頭の中でガントチャートが動いた。

 九月十二日の赤い線が八月二十九日に移動する。残り二十六日が残り十二日になる。


 閉店フェアの後半が潰れる。

 朱里さんが組んでいる「最後の棚替え」の計画が途中で切れる。

 藤村さんの本は、まだ見つかっていない。


「現場の状況を考慮すると、困難です」


 私の声が事務室の空気の中に落ちた。


「困難、か」


「はい。閉店フェアの後半に予定している企画の準備が完了していません。在庫の返本スケジュールも、取次との調整が九月前半に集中しています。前倒しは現場の工程を破綻させます」


 神原室長の声がスピーカーフォンの向こうで半秒止まった。


「桐生」


「はい」


「感情で判断していないか」


 私の右手がボールペンを強く握った。

 ペンの軸が指の間でわずかに軋む。


「感情ではありません。工程管理上の判断です」


「工程は調整できる。お前は四年間で七店舗を閉めてきた。工程の圧縮はできるはずだ」


「できます。ですが」


「ですが、何だ」


 私の口が一瞬止まった。

 止まった場所に、昨日の雨の匂いが薄く残っていた。靖国通りの雨。朱里さんの濡れた髪。喫茶店の窓ガラスを伝う水の筋。


「スタッフの士気に影響します」


「士気は閉店が決まった時点で下がるものだ。前倒しが二週間早まるだけで、本質は変わらない」


「……」


「桐生、返答は明日の午前中までに」


「了解しました」


 スピーカーフォンが切れた。

 事務室の中に通話の余韻が薄い膜のように残っていた。


 私はスピーカーフォンのボタンを押して回線を切った。

 押した指の先が冷たい。八月の事務室の空調が指先にだけ届いている。


 神原室長の最後の一言が、まだ耳の中にある。「感情で判断していないか」。

 四年前の小田原店でも同じ言葉を聞いた。あの時は聞いた瞬間に姿勢を正すことができた。今は——正せない。正せないことが答えになっている。



 事務室の空気が重かった。

 空調の音だけが天井の近くで低く回っている。窓の外から武蔵境の商店街を走るトラックのエンジン音が薄く聞こえた。


 田崎店長が腕組みを解いた。

 椅子の背もたれから背中を起こす。


「桐生」


「はい」


「本部の言い分はわかる。次テナントの入居が早まれば、ビルのオーナーとの関係も維持できる。経営企画としては当然の判断だ」


 田崎店長の声は穏やかだった。

 穏やかで低い。事務室の空気にゆっくりと沈んでいく声。


「でもな」


 田崎店長が自分のデスクの上の日めくりカレンダーを見た。

 八月十八日。カレンダーの紙が薄くめくれかけている。


「ここのスタッフには、最後まで全うさせてやりたい」


 私の手がボールペンを机の上に戻した。


「全う、ですか」


「椎名は十年いるんだ。三嶋も二年。アルバイトの連中も。閉店の日まで、この棚で本を売る。それがここで働く人間の最後の仕事だ」


 田崎店長の目が私の方を見た。

 四十五歳の中間管理職の目だった。疲労と諦めの下に、何かがまだ残っている目。


「俺の権限じゃどうにもならんのはわかっている。だが桐生、お前が本部に言えることがあるなら」


「言います」


「頼む」


 田崎店長が立ち上がった。

 デスクの引き出しから煙草の箱を取り出して、事務室のドアに向かった。ドアノブに手をかけてから一度振り返る。


「調布駅前店の時もな。俺は何も言えなかった。今度は言っておきたかったんだ」


 ドアが静かに閉まった。

 屋上の喫煙スペースに向かう田崎店長の足音が階段を上がっていく。


 調布駅前店。

 子どもたちが手紙をくれた店。あの時の店長が田崎だった。


 私は一人になった事務室でボールペンをもう一度手に取った。

 ペンの先で手元のメモ帳の端に数字を書いた。


 二十六日。

 十二日。


 二つの数字の間にある十四日。

 その十四日の中に、朱里さんの棚替え計画と、フェアの後半と、藤村さんの本が入っている。



 午前十一時。

 一階の売場に朱里さんが立っていた。

 平台の前で新刊の並びを確認している。エプロンのポケットからボールペンを取り出して、メモ帳に何かを書き込んでいた。


 私は階段の踊り場からその姿を見ていた。


 前倒しのことを言わなかった。

 言えなかった。


 朱里さんの手が平台の上の本の位置を二センチ右にずらした。

 ずらしてから、もう一度全体を見渡す。頷く。満足した時の小さな頷き。


 私は踊り場から事務室に戻った。

 戻りながら自分の役割をもう一度確認した。


 閉店請負人。

 閉店の工程を管理する人間。スタッフに工程を伝え、期日を守らせ、棚を空にし、什器を解体し、鍵を返す。それが私の仕事。


 でも今、私がやろうとしていることは工程の管理ではなかった。

 朱里さんの棚を一日でも長く守ること。


 売場からレジのバーコードリーダーのピッという音が聞こえた。午前の客が本を一冊買った。朱里さんの声が「ありがとうございます」と低く返している。


 これは仕事です——と心の中で言ってみた。

 いつもより声が小さかった。


 前倒しを止められるかどうかはわからない。

 神原室長の判断は合理的だ。合理的に考えれば、二週間の前倒しは許容範囲だろう。私自身、四年前の自分なら即座に承認していた。


 今、承認できないのは数字のせいではない。

 階下で「ありがとうございます」と言い続けている声のせいだった。



 午後八時。

 武蔵境駅北口のビジネスホテル。

 ベッドの上に座ってノートPCを開いた。本部への報告書のテンプレートが画面の中で白く光っている。


 報告書の文面を三回書き直した。

 「工程管理上の観点から、閉店日の前倒しは困難」。一回目の草稿はそう書いた。

 二回目は「現場スタッフのモチベーション維持の観点」を加えた。

 三回目は「取次との返本スケジュール調整の不可逆性」を数字で裏付けた。


 三回目の草稿を保存した。

 明日の朝、神原室長に送る。送った後、神原室長が何と返すかはわからない。「却下する。前倒しを受け入れろ」と言われたら——その時は。


 ノートPCの画面の光がホテルの壁に四角い影を落としている。

 ベッドの上のシーツの洗剤の匂いが鼻の奥に薄く残る。


 ノートPCを閉じかけた時、スマートフォンが振動した。

 メールの通知。


 差出人は見たことのない名前だった。

 静岡県の個人経営の古書店。


 件名——「トンプスン著『丘の上のラビット先生』初版の件」。


 指が画面に触れた。


「桐生様。当店にて、佐伯澄子訳『丘の上のラビット先生』朝日書房刊、一九五四年初版(函入り・布表紙・状態良)を一冊、所蔵しております。ご確認ください。坂本古書店 坂本」


 私の手がスマートフォンの画面の上で止まった。


 所蔵しております。

 一冊。

 函入り。布表紙。状態良。


 ホテルの部屋の空調が低く回っている。

 窓の外の武蔵境の夜の街灯がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。


 私の指がスマートフォンの画面から離れなかった。

 離れないまま、朱里さんの電話番号を探していた。


 時計は午後八時十七分を指している。

 遅い時間だった。業務時間外だった。


 でも私の指は電話番号の上で止まっていた。

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