第19話「雨の神保町」
地下鉄の出口の階段を上がると、靖国通りの車の音が一度に耳に入ってきた。八月十七日、月曜日、午前十一時。閉店まで、二十七日。
隣を歩く桐生さんの靴が歩道のタイルを規則正しく叩いている。
神保町。
地下鉄の出口を出た瞬間、古い紙の匂いが湿気を含んだ空気の中に混じっていた。すずらん通りの入口に古書店の看板が三軒並んでいる。
「一軒目は、岩波通りの永田書店です」
桐生さんがスマートフォンの画面を私に見せた。
地図アプリの上に今日回る三軒の古書店がピンで刺してある。桐生さんが昨夜のうちにルートを組んでくれていた。
「永田書店、宮脇さんから紹介された京都の古書店主と取引がある店です」
「はい」
「その次が、すずらん通りの中程にある丸山書房。三軒目は、靖国通り沿いの篠崎堂」
桐生さんの声は業務報告のトーンだった。
休日の私服姿でも、桐生さんは桐生さんだった。紺のブラウスに膝丈のスカート。スーツではないけれど、背筋の線が同じようにまっすぐ伸びている。
私の方は白いTシャツに薄いカーディガン。ローファーはいつもの通勤用と同じもの。
店の外で桐生さんと二人きりで歩くのは初めてだった。
歩幅が合わない。桐生さんの歩幅は私より六センチほど広い。
私が半歩早くすると桐生さんが半歩遅くする。互いに合わせようとして、ぎこちない間隔が二人の間に揺れている。
信号が赤に変わった。
立ち止まった瞬間、排気ガスと湿気の混じった風が靖国通りの車道の方から吹いてきた。エアコンの室外機が回っている音がビルの隙間から低く漏れている。
「桐生さん、朝、何か食べました?」
「コンビニのおにぎりを一つ」
「一つだけ」
「十分です」
桐生さんの答えが短い。いつものこと。
でも、店の中で聞く時と靖国通りの歩道で聞く時とでは、同じ短さの温度が少し違う。
*
永田書店は、靖国通りから一本入った路地の二階建ての木造建築だった。
木枠の引き戸の取っ手が手のひらに冷たく当たる。
ガラス戸を開けると、古い紙と埃と木の匂いが一度に鼻の奥に入ってきた。武蔵境店の匂いとは違う。もっと濃くて、もっと古い。棚板の木が何十年分の湿気を吸って暗い色になっている。
「いらっしゃい」
店主は六十代の男性だった。カウンターの向こうで老眼鏡を額に押し上げてこちらを見ている。
「お電話した文翠堂の桐生です」
「ああ、宮脇さんのところから聞いた。佐伯訳のトンプスンだろう」
「はい」
「うちにはない。京都の木下さんに聞いたが、あちらにもなかった」
桐生さんの表情が変わらなかった。
眼鏡のレンズの奥の目が一瞬だけ薄く止まる。それだけだった。
「朝日書房の初版で、函入り布表紙。あの装丁はね、刷り部数が少なかったんだよ。一九五四年、戦後の紙不足の時代だからね。流通に乗った数自体が限られている」
「数自体が」
「仮に百冊として、七十年の間に散逸、破損、廃棄。今残っているのは、たぶん片手で数えられるくらいだろう」
私の指先が冷たくなった。
カウンターの木の縁に爪が軽く触れた。
「ありがとうございました」
桐生さんが名刺を置いて頭を下げた。
私も頭を下げた。店を出る時、引き戸のガラスに二人の影が薄く映った。
*
すずらん通りの丸山書房は、間口が狭く奥に長い店だった。
棚と棚の間を肩を斜めにして進む。桐生さんの肩が私の肩の十五センチ先を動いている。
「トンプスンの佐伯訳、初版ね」
店主の女性がカウンターの奥の帳簿をめくった。
「先月、一冊出たのよ。函なしだったけど」
「先月」
「即売会で。布表紙はそのままだったけど、函がなかったの。お客さんがすぐ買っていった」
先月。
たった一ヶ月前に、この通りにあの本が存在していた。
「函なしでも、布表紙の初版だったんですか」
「ええ。状態は悪くなかったわ。ただ、背の布が少し褪せていたかな」
私の胸の奥がきゅっと締まった。
締まったものを息を吐くことで押し返す。
「買われた方の連絡先は」
「それは、お教えできないのよ。ごめんなさいね」
桐生さんが静かに頷いた。
私の方を見なかった。見ないことで、私の顔に出ているものを見なかったことにしてくれていた。
*
三軒目の篠崎堂はシャッターが降りていた。
靖国通り沿いのビルの一階。鉄のシャッターに「本日休業」の貼り紙。
貼り紙のテープの端が少し剥がれて風に揺れていた。
「休みですね」
桐生さんがスマートフォンで篠崎堂の電話番号を確認した。
発信した。呼び出し音が七回。応答なし。
「明日、改めて連絡します」
「はい」
私はシャッターの前に立っていた。
鉄の表面が午後の湿った空気に薄く曇っている。
三軒回って、ゼロ。
先月売れた一冊は函がなかった。京都の手がかりも消えた。
桐生さんがスマートフォンをポケットに戻した。
「京都の木下書店にも、念のため直接電話してみます」
桐生さんが番号を押した。
四回のコール。相手が出た。
桐生さんの声が靖国通りの歩道の上で低く響いた。
「佐伯澄子訳『丘の上のラビット先生』、朝日書房の一九五四年初版——」
「ああ、それなら一冊持っていたよ。去年の春に売れたけどね」
「去年の春」
「函入り、布表紙、状態良好。あれは良い本だった。買い手は個人のコレクターだったな。名前はちょっと覚えていないが」
桐生さんの右手がスマートフォンを握ったままわずかに下がった。
「ありがとうございます。もし思い出されましたら——」
「うん、連絡するよ」
通話が切れた。
桐生さんがスマートフォンをゆっくり耳から離した。
靖国通りの空が灰色に曇っていた。
空気が重い。八月の湿気が古書店街の上に低く垂れている。
最初の一粒が私の腕に落ちた。
冷たくはない。八月の雨は生ぬるい。
私は靖国通りの歩道の端で立ち止まった。
車道を挟んだ向こう側に古書店の看板がもう三軒並んでいる。今日は回れない店。明日も回れるかわからない店。
桐生さんが二歩先で振り返った。
「朱里さん」
「……見つからないかもしれないですね」
口に出してしまった。
言ってから、自分の声の弱さに驚いた。お客さまの前では絶対に出さない声だった。
桐生さんが何も言わなかった。
二歩の距離のまま私の方を見ていた。
*
雨が強くなった。
靖国通りの歩道の上で傘を持っていなかった。
桐生さんも持っていなかった。
五秒で本格的な降りになる。
アスファルトの上に雨粒が跳ねて、小さな水の花が咲いている。
桐生さんのブラウスの肩に雨の染みが広がり始めた。
私のカーディガンの袖が腕に張り付く。髪が首筋に貼りつく感触。
「どこかに」
桐生さんの声が雨の音にかき消されかけた。
「入りましょう」
走った。
靖国通りの歩道を二十メートルほど。桐生さんの靴底が濡れたタイルの上を速く叩いている。
喫茶店の看板がビルの一階に見えた。「珈琲舎トキワ」。木枠のガラス扉を押して中に入った。
*
喫茶店の中は暗かった。
天井の低い古い店。カウンターと四人がけのテーブルが三つ。壁際に本棚がある。古書店街の喫茶店らしく、棚には文庫や新書が隙間なく並んでいた。
窓の外で雨が強くなっている。
ガラス窓を打つ雨音が店内のジャズのピアノと混じり合っていた。
朱里さんの髪が濡れていた。
暗い茶色の髪が雨の水分でいつもより重く肩に張り付いている。カーディガンの袖で頬の水滴を拭っている。
私の眼鏡にも雨粒が付いていた。
レンズを外して紙ナプキンで拭く。裸眼の視界の中で朱里さんの輪郭が少し滲んだ。
「ブレンドを、二つ」
カウンターに声をかけた。
眼鏡をかけ直す。視界が戻る。朱里さんの濡れた髪の一本一本が蛍光灯の光の中で見えた。
「桐生さん」
朱里さんの声がテーブルの向こうから聞こえた。
「はい」
「見つからないかもしれない」
朱里さんの手がテーブルの上で組まれていた。
指先が白い。雨の冷たさがまだ残っている。
「永田書店はなかった。丸山書房は先月売れた。篠崎堂は閉まってた。京都は去年売れた」
朱里さんの声が一つずつ事実をテーブルの上に置いていく。
「片手で数えられるくらいしか残っていないって。もしその全部がもう誰かの手の中にあったら」
朱里さんの目がテーブルの木目を見ていた。
私の方を見ていなかった。
「見つからないかもしれない」
同じ言葉がもう一度。
今度は声が少し震えていた。
コーヒーが運ばれてきた。
白い陶器のカップに黒い液体。湯気が二つ、テーブルの上で立ち上がっている。
私はコーヒーに手を伸ばさなかった。
朱里さんの指先を見ていた。白い指先がテーブルの上で組まれたまま動かない。
窓の外の雨音が一段強くなった。
排水口に水が流れ込む音がガラスの向こうから低く響いている。
「諦めるのは、まだ早い」
私の口からその言葉が出た。
合理的に考えて——とは言わなかった。
合理的に考えれば、片手で数えられる残存数、そのうち一冊は函なし、一冊は去年売却済み。確率は低い。数字は嘘をつかない。神原室長ならそう言う。
でも、「合理的に考えて」という言葉は私の口の中で形を作らなかった。
代わりに出てきた言葉はスプレッドシートの中にはない言葉だった。
「まだ十七店残っています。篠崎堂にも明日連絡を取ります。丸山書房の先月の買い手も、即売会の主催者経由で辿れるかもしれない」
朱里さんがテーブルの木目から顔を上げた。
濡れた髪が頬に一筋張り付いている。
「桐生さんは」
朱里さんの声が雨音の隙間に入ってきた。
「優しいですね。閉店請負人なのに」
窓の外の雨がガラスを叩いている。
喫茶店のジャズのピアノが低い音で一つ鍵盤を押さえた。
私のコーヒーカップの取っ手に指が触れた。
触れただけで持ち上げなかった。
「……優しくない」
私の声がテーブルの上の二つの湯気の間に落ちた。
「ただ、あなたが見つけたいと言うから」
朱里さんの目が私の目を見た。
眼鏡のレンズにまだ拭き残した雨粒が一つ残っていた。その水滴の向こうに朱里さんの目がある。
コーヒーの苦い湯気が私の鼻先に薄く届いた。
雨音だけが残った。
窓のガラスを流れる水の筋がテーブルの上に薄い影を落としている。
朱里さんがコーヒーカップに手を伸ばした。
一口飲んだ。カップを両手で包む。
藤村さんの手を思い出した。何かを大切に包むような、あの白い両手の形。
私はそのことに気づいてしまった。
コーヒーの味が舌の上に遅れて広がる。苦い。酸味がある。カウンターの奥でマスターが豆を挽いている音が低く聞こえた。
朱里さんの濡れた髪から雨の匂いがしていた。
いつもの紙の匂いではない。八月の雨とアスファルトと古書店街の空気が混じった匂い。
窓の外の雨はまだ止まない。
テーブルの上の二つのコーヒーカップから湯気がゆっくりと天井の方へ昇っていた。




