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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第4章『探す手、届ける手』

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18/30

第18話「古書の海」

 事務室の時計が午後七時二十分を指していた。

 八月十二日、水曜日。閉店まで、三十二日。


 私の右手が受話器を置いた。

 左手がスプレッドシートの四十三行目に「該当なし」と打ち込む。


 受話器を持ち上げる。番号を押す。呼び出し音が四回鳴った。


「はい、澤口書房です」


「突然のお電話、失礼します。文翠堂の桐生と申します。古書のお問い合わせなのですが」


「どうぞ」


「佐伯澄子訳、G・A・トンプスン著『丘の上のラビット先生』。朝日書房刊、一九五四年初版の函入り布表紙版をお持ちではないでしょうか」


 三秒の沈黙。


「ああ、あれは滅多に出ないよ。トンプスンの児童書自体はたまに見かけるけど、朝日書房の初版で函付き、布表紙のやつでしょう。うちにはないね」


「左様ですか」


「そもそも佐伯訳の初版を流通で見たのは、この十年で二回か三回じゃないかな」


「二、三回」


「一度は神保町の即売会で見かけたけど、函がなかった。もう一度は京都の知り合いの店で見た気がするが、もう五年以上前の話だ」


 私の左手がスプレッドシートに「函なし版は過去に流通あり。初版函入りは極めて稀少。京都に手がかり」と入力した。


「ありがとうございます。もしお心当たりが出ましたら、ご連絡いただけると助かります」


「番号は控えたよ。何かあったら連絡する」


 受話器を戻した。

 四十三店目。全て該当なし。


 事務室の蛍光灯が天井の近くで微かにハム音を立てている。

 売場は閉まっている。一階のシャッターを降ろしたのは午後六時半だった。


 私の眼鏡のレンズに蛍光灯の光が薄い帯になって映っている。

 レンズを外してブラウスの裾で拭いた。拭きながら、スプレッドシートの画面を裸眼のぼやけた視界で見ていた。


 四十三行の「該当なし」。朱里さんが作った古書店リストの四十八店から、さらに私が追加した十二店。合計六十店のうち四十三店が終わった。


 残り十七店。



 事務室のドアが軽く鳴った。


「まだいたんですね」


 朱里さんがエプロンを外した姿で入ってきた。

 ローファーの底がリノリウムの床をとんと踏む。手にはノートPCと紙の束。


「桐生さんこそ」


「電話、あと十七店あります」


「知ってます。スプレッドシート、共有してもらってるから」


 朱里さんが私の向かいの机に腰を下ろした。

 ノートPCを開く。画面に古書検索サイトのタブが四つ並んでいた。


「今日、ネットの方で三件新着が出てました」


「三件」


「うち二件は現行版の重版。装丁が違います。もう一件は——」


 朱里さんの指が画面を差した。


「朝日書房の名前が出ているんですけど、一九七二年の改訂版で、函なし。布表紙じゃなくてペーパーバック」


「違いますね」


「はい」


 朱里さんがノートPCの画面から顔を上げた。

 私のスプレッドシートの画面を、向かいの席から覗き込む。


「桐生さん」


「はい」


「一緒にやりましょう、って、この前言ってくれましたよね」


「ええ」


「今日も、ですか」


「残業扱いにはなりません」


「それは、わかってます」


 朱里さんの声がわずかに低くなった。

 低くなってから、また元の高さに戻った。


「ありがとうございます」


 私は椅子を少し朱里さんの方に向けた。

 向けてから、手元のスプレッドシートの残り十七店のリストを指で辿った。


「朱里さん」


 名前を呼ぶ。まだ口の上顎の裏で音が少し引っかかる。


「あなたは、文翠堂の閉めた店舗を全部回ったことがあるんですよね」


 朱里さんの手がノートPCのキーボードの上で止まった。


「閉めた店」


「七店舗です。小田原、熊谷、所沢、調布駅前、水戸、川越、藤沢」


「……ええ、行きました。全部」


「何のために」


「閉店フェアの後です。閉まった後に。まだ看板が残っているうちに行きました」


 朱里さんの声がゆっくりと事務室の空気の中に置かれていった。


「棚がなくなった床を見たかったんです。書店だった場所が何もない空間になるのを見たかった」


「見て、どうでしたか」


「所沢はコインランドリーになってました。川越はドラッグストア。調布はまだ空きテナント」


 朱里さんの指がノートPCのキーボードの端を軽く叩いた。


「熊谷に行った時は前の日に雨が降って、アスファルトの匂いがしたんです。書店の匂いじゃないものが同じ場所にあるのが不思議で」


「不思議」


「この場所に本があった。お客さんが来て、棚があって、POPが貼ってあった。全部消えてる。でも建物は残ってる」


 朱里さんが私の方を見た。


「それを見て回ったから、今、古書店にも電話できるんだと思います。消えたものを探すことが怖くないから」


 私の右手が眼鏡のブリッジを押し上げていた。

 朱里さんの言葉が、私の頁の中の閉めてきた七つの店舗の名前の上に重なった。


 小田原店。佐々木がまだいた店。

 調布駅前店。子どもたちから手紙をもらった店。


 私が閉めた店を、朱里さんが後から見に行っていた。

 その事実が私のスプレッドシートの行の間に静かに挟まった。



 午後九時を回った。

 事務室のコーヒーメーカーの最後の一杯を二人で分けた。紙コップの中の黒い液体はもうぬるい。苦みだけが舌の上に残る。


 私は電話番号をまた一つ押した。

 四十四店目。名古屋の古書店。呼び出し音が六回鳴って、留守番電話に切り替わった。


 朱里さんはネットの古書検索サイトを三つ同時に開いて、キーワードを変えながら検索を繰り返している。

 「トンプスン 佐伯訳 初版」「朝日書房 一九五四 函入り」「ラビット先生 布表紙」。


「桐生さん、名古屋、出ませんでしたか」


「留守電でした。明日、かけ直します」


「私の方、ネットは今日はゼロです」


「そうですか」


 私のノートPCの画面の中で、スプレッドシートの四十四行目に「留守電・翌日再架電」と入力した。


 窓の外が暗い。

 八月の夜の空気の重さが、事務室の窓ガラスの向こうに溜まっている。


 朱里さんがコーヒーを一口飲んだ。

 紙コップの中の液体が少しだけ減った。


「見つけたいです」


 朱里さんの声が私のノートPCの画面の光の中に落ちた。


「藤村さんのご主人が最後に読みたいと言った本。函入りの布表紙の。あの装丁じゃなきゃだめなんです」


「ええ」


「現行版じゃだめなんです。ペーパーバックの改訂版でもだめなんです」


「わかっています」


「……すみません、何度も同じことを」


「同じことを、何度でも言ってください」


 私の口からその言葉が出た。

 出てから、自分の声の温度に少し驚いた。


 業務外の、残業扱いにもならない時間に事務室で古書店に電話をかけている。

 合理的に考えて、これは——。


 合理的に。

 その言葉が私の頁の中で薄く止まった。止まったまま、先に進まなかった。



 午後十時十二分。

 朱里さんが先に帰った。

 ローファーの底が事務室の床を一歩ずつ遠ざかっていく。


 一人になった事務室で、私はスマートフォンを確認した。

 メールの通知が一件。


 差出人は神保町の老舗古書店。今日の午後、私が電話をかけた四十一店目の店主だった。


 件名——「お問い合わせの件について」。


 本文を開いた。


「桐生様。本日はお電話ありがとうございました。佐伯訳『丘の上のラビット先生』朝日書房初版(一九五四年刊・函入り布表紙)の件、当店には在庫がございませんが、京都の知人の古書店主に心当たりがあるかもしれません。先方に確認を取りますので、少々お待ちください。宮脇」


 私の手がスマートフォンの画面の上で止まった。


 京都。

 澤口書房の店主も京都と言っていた。


 蛍光灯の光がスマートフォンの画面のガラスに白く反射している。

 私の眼鏡のレンズにも同じ光が映っていた。


 「少々お待ちください」の一行が、画面の中で静かに光っていた。

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