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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第4章『探す手、届ける手』

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17/30

第17話「主人がね」

「朱里ちゃん、おはよう」


 藤村さんの声が、二階の階段の踊り場から聞こえた。八月七日、金曜日、午前十時十分。閉店まで、三十七日。


 杖のゴム底の、ことりという音が、児童書コーナーの方へゆっくりと進んでいた。

 私は人文書の棚の前で、補充の本を一冊棚差しに戻していた。


「藤村さん、いらっしゃい」

「今日は、いつもの席、空いてる?」

「空いてます」


 窓際の布張りの椅子。二階の児童書コーナーの隅にある、一人用の読書スペース。藤村さんが十年前から決まって座る場所だった。


 藤村さんの白いブラウスの袖口に、朝の光が薄く当たっていた。


「ゆっくりしていってください」


「ありがとう。——朱里ちゃん、あとで少しお話があるの」


「はい」


 私の指が、棚に戻しかけた本の背表紙の上で半秒止まった。

 止めてから、その本を棚に最後まで差し込んだ。



 棚に残りの本を三冊戻した。

 一冊ずつ背表紙の位置を揃えて差し込む。最後の一冊の背を手のひらで軽く押した。棚板の上で本が隣の本にぴったりと寄り添った。

 手帳をエプロンの胸ポケットに確かめてから、窓際の藤村さんの方へ歩いた。

 藤村さんは椅子に腰を下ろして窓の外を見ていた。杖を椅子の脇に立てかけている。

 朝の光が白いブラウスの肩に柔らかく落ちていた。児童書の棚の前の、この小さな窓際の空間だけが、売場の中で少し別の時間を流しているように見えた。



「お待たせしました」


「ありがとう。今日は、座っていって」


「はい」


 藤村さんの向かいの児童書コーナーの低い椅子に、エプロンのまま腰を下ろした。

 藤村さんの手が膝の上で静かに重なった。

 白い指の関節のあたりに、染みが薄くいくつか浮いていた。


「あのね、朱里ちゃん」


「はい」


「『丘の上のラビット先生』のことなんだけど」


「進捗、ご報告します」


 私はエプロンの胸ポケットから小さな手帳を取り出した。

 古書店の連絡記録の最新版だった。


「現時点で四十八店中、三十九店から回答が来ています」


「三十九」


「全て初版の初期装丁の在庫はありません」


「そう」


「ですが、桐生さんと一緒にまだ別のルートを」


 藤村さんが薄く微笑んだ。

 眼鏡の奥の目尻の皺がゆっくり深くなった。


「いいのよ、朱里ちゃん」


「藤村さん」


「見つからなくても、いいのよ」


「……」


「あなたがこんなに探してくれているだけで、もう私は」


 藤村さんの膝の上の手がゆっくりと組み替わった。

 白い指先に窓からの光が薄く当たっていた。


 私の手がエプロンの紐の端を軽く握った。

 握ってから、すぐに力を抜いた。


「絶対に、見つけます」


 言葉が考えるより先に私の口から出た。

 藤村さんがゆっくりと目を伏せた。



「主人がね」


 藤村さんの口がその三文字を静かに置いた。

 窓の外の武蔵境の住宅街の夏の朝の光が、藤村さんの白いブラウスの肩を薄く撫でていた。


「この店が、開店した日のことなんだけど」


「はい」


「私と主人と二人で初日に来たのよ。あの頃はお互いまだ五十代の終わりくらいかしらね」


「五十代」


「主人が文芸棚の前に立って、しばらく動かなかったの。何か見つけたんだなって、すぐわかった」


「藤村さんのご主人」


「ええ。正一さんっていうの」


 藤村さんの指がブラウスの袖口をゆっくり撫でた。


「正一さんがその日抜いてきた本が『丘の上のラビット先生』だったの。古書じゃなくて新しく出ていた版。装丁は違うけれど、中身は同じ」


「新しく出ていた版」


「ええ。出版社は変わってしまっていたけれど。表紙の絵が別の画家の方の絵になっていた」


「……」


「『これは僕の父が僕に読んでくれた本だ』って。主人がその日、本を抱えて半時間くらい棚の前に立ち尽くしていた」


 藤村さんの声がそこで少し柔らかくなった。遠い日を手のひらの上に置くような声だった。


 藤村さんの目がゆっくりと自分の膝の上の手に降りた。


「父親っていうのは戦争を生きて帰ってきた人でね。あまり口数のない人だったらしいのよ。その父親が唯一、子供の正一さんに繰り返し読んでくれた本」


「『丘の上のラビット先生』」


「そう」


 藤村さんの目が窓の外の夏の空を見ていた。遠くを見る目だった。


「毎晩ね、寝る前に布団の中で読んでくれたんですって。口数の少ない人の唯一の長い声だったそうよ。正一さんはその声の低さと温かさを大人になっても忘れなかったの」


 私の喉の奥がわずかに詰まった。

 堪えるというよりも、その詰まりを藤村さんの言葉の方に戻したかった。


 私の目の縁に水分が薄く滲んだ。零れるほどではない。零れないようにまばたきを一度した。



 藤村さんが自分の両手をもう一度膝の上で重ねた。

 さっきよりも指が深く組まれていた。白い指の関節が薄く浮いて、手の甲の染みがはっきり見えた。


「主人が亡くなる十日くらい前にね」


「……はい」


「ベッドの上で私の手を握って、こう言ったの」


「藤村さん」


「『あの本を、もう一度、読みたい』って」


 藤村さんの声が静かなまま、低い場所に降りた。

 窓の外の商店街の配達の自転車のチャイムの音が遠く聞こえた。


「読みたいって言ったの、最後に。あの本のことを思い出していたのね、最後まで」


「……」


「十年前の引越しの時に私が誤って紛失してしまって」


「藤村さんが」


「ええ。私の責任。それを主人は一度も責めなかった。だから、もう責められなくなる前に」


 藤村さんの手が膝の上でゆっくりと開いた。

 窓の外の光の角度がわずかに変わっていた。話し始めた頃よりも日が高くなっている。


「主人の書斎の机の上にもう一度置いてあげたいのよ。同じ装丁の」


「絶対に、見つけます」


 私の口からまた同じ言葉が出た。

 藤村さんがゆっくり頷いた。

 頷いてから、窓の外に目を向けた。


 窓からの光が藤村さんの白い髪を静かに照らしていた。長い話だった。でもその長さの中に正一さんの声が残っていた。



 十一時を過ぎていた。

 藤村さんが椅子からゆっくり立ち上がった。杖のゴムの先がフローリングの上で薄く軋んだ。


 私は藤村さんの隣をエレベーターホールまで歩いた。

 エレベーターのボタンを押す前に、藤村さんが立ち止まった。


「朱里ちゃん」


「はい」


 藤村さんの白く染みの浮いた手が、私のエプロンの上に出ている手の甲に軽く重なった。

 杖を握っていない方の左手だった。

 その手のひらの温度が私の手の甲の皮膚に薄く染みた。


「あなたがこの店にいてくれて、よかった」


「……」


「主人にもずっとそう言われていたのよ。『あの椎名さんに本を選んでもらえる店はいい店だ』って」


 私の喉がもう一度わずかに詰まった。

 今度はその詰まりを藤村さんの言葉の方に戻すことができなかった。


「ありがとう、ございます」


 私の声が少しだけ震えた。

 震えながらまっすぐ藤村さんの方に出た。


 エレベーターのドアが開いた。


「気をつけて、お帰りください」


「ありがとう。また、来週ね」


「お待ちしています」


 藤村さんがエレベーターに乗った。

 杖を左手に持ち替えた。右手でボタンの数字を押した。

 ドアがゆっくり閉まった。

 閉まるその薄い隙間の向こうで、藤村さんがもう一度私に向かって軽く頭を下げた。


 私の手の甲の上の藤村さんの手のひらの温度は、ドアが閉まってからもまだ薄く残っていた。

 その温度を私の手は児童書コーナーの棚の方へ運んでいった。


 絶対に、見つける。

 売場の中で声には出さなかった。

 でも棚と棚の間の空気の中で、その言葉が私の頁の中に低く降りていった。

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