第16話「顔と本」
一階の平台の前で閉店セールの値札と在庫リストを照合していた。八月三日、月曜日、午後二時四十分。閉店まで四十一日。
空調の冷気がうなじを薄く撫でた。
売場に流れている有線放送のメロディが低く、棚と棚の間に沈んでいた。
「桐生さん」
朱里さんが文芸の棚の方から戻ってきた。レジカウンターに向かいながらこちらを見た。
名前を呼ぶことにはもう慣れたつもりだった。それでも、口の上顎の裏側でその五文字が、わずかに形を作ってから声になる。
ずっと「椎名さん」だった。この店に来てからの五十日、ずっと。今は——朱里さん。
ホテルの部屋で、机の前で、何度か口に出して練習した。
朱里さんがレジカウンターの内側に入った。
エプロンの腰のあたりに紙の埃が薄くついていた。
自動ドアが、ことり、と動いた。
白髪の男性が入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
朱里さんの声が私の隣で、わずかに上がった。
「井上さん、お久しぶりです」
「うん。先月の文学賞、結局、誰になったんだったかね」
「乙原寛子さんです。井上さんが、二年前に取り置きされた、あの方ですよ」
「ああ。あの作家か」
朱里さんが棚の方を指で示した。
井上さん、と呼ばれた男性が文芸棚の方にゆっくり歩いていく。
私の手がリストの上で止まった。
二年前の取り置きを朱里さんは覚えていた。
「桐生さん」
「はい」
「井上さんは、月に二回、来てくれてる方です。退職された化学の先生」
「化学」
「最初は、新書の科学書しか買わなかったんですけど、三年前から、海外文学を読み始めて」
「海外文学」
「最初の一冊が、トーマス・マンの『魔の山』でした。上下巻、両方、平台から」
朱里さんの指がレジの脇のメモ帳を軽く叩いた。
お客さまノートだった。朱里さんが十年書き続けてきた、紙の方の控え。
ノートの背は布のテープで補強されている。十年の間に何度か貼り直された跡が、薄く層を作っていた。
私の頁の中にその厚みが残った。
業務報告書の中の来店客数。そこに数えられた一人ひとりが、朱里さんの中では、井上さん、田中さん、藤村さん——名前を持っていた。
井上さんが、文芸棚の前で本を一冊抜いた。表紙を見て、また棚に戻した。隣の本を抜いた。
その動きを朱里さんは、レジカウンターの内側から目の端で追っていた。
私は朱里さんのその目の動きを追っていた。
*
「……あの、すみません」
女性の声が平台の向こうから届いた。
四十代前半。眼鏡の縁が薄い緑色をしている。手に新書二冊と文庫一冊を抱えていた。
「この店、本当になくなっちゃうの」
私の手がリストの上で半秒、止まった。
手の止まった分、私の口はいつもの言葉を引き出した。
「九月十二日に、閉店させていただきます」
「そう。寂しいね」
「……」
「閉店は」
女性が自分でその先を口にした。
「始まりでもあります、っていうのよね。前にチラシで読んだ」
「……はい」
私の声がわずかに揺れた。
いつも私が客に向けて言ってきた言葉を客が先に口にした。
その時、初めて自分の定型句の紙の薄さに気づいた。
「うん。最後に、来てよかった」
女性が本を抱えたままレジの方に歩いていった。
朱里さんの「いらっしゃいませ」がカウンターの向こうから聞こえた。
私はリストに視線を戻した。
戻しながら、自分の指先がわずかに冷たいのに気づいた。
*
井上さんがレジの前に戻ってきた。手には文庫が二冊。
朱里さんがレジに入った。
「井上さん、今日は、こちらだけですか」
「うん。次の楽しみは、二週間後にしようと思って」
「閉店までに、もう、二回、来てくださいますか」
「行くよ。最後の日も」
「お待ちしています」
井上さんが紙袋を受け取って自動ドアの方へ歩いていった。
ドアが、ことり、と動いた。
朱里さんが紙袋の予備をレジ台の下から補充した。動きに迷いがなかった。
*
午後四時を過ぎて、平台の前で朱里さんが一人の女性と話していた。
「これね、私、向いてないかも」
「読み始めの三十頁は、確かに、入りにくいかもしれません」
「でしょ」
「でも、田中さん、去年、『ハドリアヌス帝の手記』を最後まで読まれましたよね」
「あれは、難しかったけど」
「あれが大丈夫なら、これは、四十頁から、絶対、変わります」
田中さん、と呼ばれた女性が本を手の中でひっくり返した。
朱里さんがもう一冊、平台から抜いた。
「もし、それでも合わなかったら、こちらの新刊が近い感触です。短編集ですけど、最後の一編がおそらく、田中さんが好きな種類の余韻です」
「朱里ちゃんが言うなら」
「両方、レジまでお持ちしますか」
「うん、両方買う」
私は人文書の補充棚の前でその遣り取りを聞いていた。
聞きながら、自分の頁の中でいつかの研修資料の一行が薄く浮かんだ。
——「ハンドセルとは、店員の主観によって、顧客に商品を直接推薦する販売手法を指す」。
研修資料の中の「商品」が、朱里さんの口の中では「本」だった。
そして、朱里さんの口の中の「本」は田中さんの読書履歴と結びついていた。
売っているのではなかった。
届けているのだった。
その違いを、私は自分の頁の中の研修資料の一行に書き足したくなった。
*
午後六時半。
平台に夕方の光が薄く差していた。
客足はいつの間にか途絶えていた。一階のフロアに、私と朱里さん、レジ周りで在庫を整理しているゆりさん——三嶋ゆりさんしか残っていない。
平台の文芸新刊の一角に空きスペースが二箇所できていた。
返本に出した本の跡だった。
私の指がその空白の上をわずかに滑った。
平台の板の薄い艶が指の腹に残った。
空きスペースを何かで埋めなくてもいい。
返本のたびに棚は薄くなっていく。それを隠すための補充は、もうしなくていいと、私が先週、朱里さんに伝えた。
朱里さんはその時、頷いただけだった。
空く棚は、空く棚として見せる。閉店までの四十一日の私のガントチャートの上の決定事項だった。
平台の隅に、朱里さんの手書きのPOPが一枚残っていた。
文字数、十九字。
——「八月の終わりは、本の中で過ごしませんか」。
売場の蛍光灯の微かなハム音が、空調の風の音と低く混ざっていた。
*
売場の階段を上って、二階の事務室に戻った。
ノートPCを開いて、本日の売上速報の入力を始めた。
階下の売場から、ゆりさんの声が上がってきた。
階段の踊り場の空気の通り道を辿って、事務室の半分まで届く。
「朱里さんって、この店がなくなったら、どこで働くんですか」
私の指が、キーボードの上で止まった。
売場のレジ前の方角から、朱里さんの声が戻ってきた。
声はいつもよりわずかに低かった。
「考えてない」
「えっ、本当にですか」
「うん」
「だって、もう、四十日くらいですよ」
「四十一日」
「桐生さんから、何か、言われたりとか」
「ない」
私のノートPCの画面で、未入力の欄が白く待っていた。
売上速報の平台の項目。空白に私の入力を要求している。
階段下からもう一度、ゆりさんの声が上がってきた。
「就活、難しいですか。あの、いま」
「私、そういうのは、わかんないよ」
「えっ」
「次のこと考え始めたら、今日の棚が組めなくなるから」
朱里さんの声が途中で途切れた。
途切れたその隙間に、私の頁の中のある言葉が紛れ込んだ。
——四十一日。
私が毎日、ガントチャートの上で数えている数字。
その数字を朱里さんも今、口にした。
朱里さんは、その日までの仕事を見ていた。
私は、その日の向こう側を見ていた。
同じ数字を見ていながら、二人の視線の角度は少し、ずれていた。
私は、ノートPCのキーボードに指を戻した。
戻したつもりだったが、指はまだ、止まっていた。
階段の下から、ゆりさんの「すごい……」という声が薄く聞こえた。
その声の上に自動ドアの、ことり、という音が重なった。




