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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第4章『探す手、届ける手』

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16/30

第16話「顔と本」

 一階の平台の前で閉店セールの値札と在庫リストを照合していた。八月三日、月曜日、午後二時四十分。閉店まで四十一日。


 空調の冷気がうなじを薄く撫でた。

 売場に流れている有線放送のメロディが低く、棚と棚の間に沈んでいた。


「桐生さん」


 朱里さんが文芸の棚の方から戻ってきた。レジカウンターに向かいながらこちらを見た。

 名前を呼ぶことにはもう慣れたつもりだった。それでも、口の上顎の裏側でその五文字が、わずかに形を作ってから声になる。


 ずっと「椎名さん」だった。この店に来てからの五十日、ずっと。今は——朱里さん。

 ホテルの部屋で、机の前で、何度か口に出して練習した。


 朱里さんがレジカウンターの内側に入った。

 エプロンの腰のあたりに紙の埃が薄くついていた。


 自動ドアが、ことり、と動いた。

 白髪の男性が入ってきた。


「あら、いらっしゃい」


 朱里さんの声が私の隣で、わずかに上がった。


「井上さん、お久しぶりです」


「うん。先月の文学賞、結局、誰になったんだったかね」


「乙原寛子さんです。井上さんが、二年前に取り置きされた、あの方ですよ」


「ああ。あの作家か」


 朱里さんが棚の方を指で示した。

 井上さん、と呼ばれた男性が文芸棚の方にゆっくり歩いていく。


 私の手がリストの上で止まった。

 二年前の取り置きを朱里さんは覚えていた。


「桐生さん」


「はい」


「井上さんは、月に二回、来てくれてる方です。退職された化学の先生」


「化学」


「最初は、新書の科学書しか買わなかったんですけど、三年前から、海外文学を読み始めて」


「海外文学」


「最初の一冊が、トーマス・マンの『魔の山』でした。上下巻、両方、平台から」


 朱里さんの指がレジの脇のメモ帳を軽く叩いた。

 お客さまノートだった。朱里さんが十年書き続けてきた、紙の方の控え。


 ノートの背は布のテープで補強されている。十年の間に何度か貼り直された跡が、薄く層を作っていた。


 私の頁の中にその厚みが残った。

 業務報告書の中の来店客数。そこに数えられた一人ひとりが、朱里さんの中では、井上さん、田中さん、藤村さん——名前を持っていた。


 井上さんが、文芸棚の前で本を一冊抜いた。表紙を見て、また棚に戻した。隣の本を抜いた。


 その動きを朱里さんは、レジカウンターの内側から目の端で追っていた。

 私は朱里さんのその目の動きを追っていた。



「……あの、すみません」


 女性の声が平台の向こうから届いた。

 四十代前半。眼鏡の縁が薄い緑色をしている。手に新書二冊と文庫一冊を抱えていた。


「この店、本当になくなっちゃうの」


 私の手がリストの上で半秒、止まった。

 手の止まった分、私の口はいつもの言葉を引き出した。


「九月十二日に、閉店させていただきます」


「そう。寂しいね」


「……」


「閉店は」


 女性が自分でその先を口にした。


「始まりでもあります、っていうのよね。前にチラシで読んだ」


「……はい」


 私の声がわずかに揺れた。

 いつも私が客に向けて言ってきた言葉を客が先に口にした。


 その時、初めて自分の定型句の紙の薄さに気づいた。


「うん。最後に、来てよかった」


 女性が本を抱えたままレジの方に歩いていった。

 朱里さんの「いらっしゃいませ」がカウンターの向こうから聞こえた。


 私はリストに視線を戻した。

 戻しながら、自分の指先がわずかに冷たいのに気づいた。



 井上さんがレジの前に戻ってきた。手には文庫が二冊。

 朱里さんがレジに入った。


「井上さん、今日は、こちらだけですか」


「うん。次の楽しみは、二週間後にしようと思って」


「閉店までに、もう、二回、来てくださいますか」


「行くよ。最後の日も」


「お待ちしています」


 井上さんが紙袋を受け取って自動ドアの方へ歩いていった。

 ドアが、ことり、と動いた。


 朱里さんが紙袋の予備をレジ台の下から補充した。動きに迷いがなかった。



 午後四時を過ぎて、平台の前で朱里さんが一人の女性と話していた。


「これね、私、向いてないかも」


「読み始めの三十頁は、確かに、入りにくいかもしれません」


「でしょ」


「でも、田中さん、去年、『ハドリアヌス帝の手記』を最後まで読まれましたよね」


「あれは、難しかったけど」


「あれが大丈夫なら、これは、四十頁から、絶対、変わります」


 田中さん、と呼ばれた女性が本を手の中でひっくり返した。

 朱里さんがもう一冊、平台から抜いた。


「もし、それでも合わなかったら、こちらの新刊が近い感触です。短編集ですけど、最後の一編がおそらく、田中さんが好きな種類の余韻です」


「朱里ちゃんが言うなら」


「両方、レジまでお持ちしますか」


「うん、両方買う」


 私は人文書の補充棚の前でその遣り取りを聞いていた。

 聞きながら、自分の頁の中でいつかの研修資料の一行が薄く浮かんだ。

 ——「ハンドセルとは、店員の主観によって、顧客に商品を直接推薦する販売手法を指す」。


 研修資料の中の「商品」が、朱里さんの口の中では「本」だった。

 そして、朱里さんの口の中の「本」は田中さんの読書履歴と結びついていた。


 売っているのではなかった。

 届けているのだった。


 その違いを、私は自分の頁の中の研修資料の一行に書き足したくなった。



 午後六時半。

 平台に夕方の光が薄く差していた。


 客足はいつの間にか途絶えていた。一階のフロアに、私と朱里さん、レジ周りで在庫を整理しているゆりさん——三嶋ゆりさんしか残っていない。


 平台の文芸新刊の一角に空きスペースが二箇所できていた。

 返本に出した本の跡だった。


 私の指がその空白の上をわずかに滑った。

 平台の板の薄い艶が指の腹に残った。


 空きスペースを何かで埋めなくてもいい。

 返本のたびに棚は薄くなっていく。それを隠すための補充は、もうしなくていいと、私が先週、朱里さんに伝えた。


 朱里さんはその時、頷いただけだった。

 空く棚は、空く棚として見せる。閉店までの四十一日の私のガントチャートの上の決定事項だった。


 平台の隅に、朱里さんの手書きのPOPが一枚残っていた。

 文字数、十九字。

 ——「八月の終わりは、本の中で過ごしませんか」。


 売場の蛍光灯の微かなハム音が、空調の風の音と低く混ざっていた。



 売場の階段を上って、二階の事務室に戻った。

 ノートPCを開いて、本日の売上速報の入力を始めた。


 階下の売場から、ゆりさんの声が上がってきた。

 階段の踊り場の空気の通り道を辿って、事務室の半分まで届く。


「朱里さんって、この店がなくなったら、どこで働くんですか」


 私の指が、キーボードの上で止まった。


 売場のレジ前の方角から、朱里さんの声が戻ってきた。

 声はいつもよりわずかに低かった。


「考えてない」


「えっ、本当にですか」


「うん」


「だって、もう、四十日くらいですよ」


「四十一日」


「桐生さんから、何か、言われたりとか」


「ない」


 私のノートPCの画面で、未入力の欄が白く待っていた。

 売上速報の平台の項目。空白に私の入力を要求している。


 階段下からもう一度、ゆりさんの声が上がってきた。


「就活、難しいですか。あの、いま」


「私、そういうのは、わかんないよ」


「えっ」


「次のこと考え始めたら、今日の棚が組めなくなるから」


 朱里さんの声が途中で途切れた。

 途切れたその隙間に、私の頁の中のある言葉が紛れ込んだ。

 ——四十一日。


 私が毎日、ガントチャートの上で数えている数字。

 その数字を朱里さんも今、口にした。


 朱里さんは、その日までの仕事を見ていた。

 私は、その日の向こう側を見ていた。

 同じ数字を見ていながら、二人の視線の角度は少し、ずれていた。


 私は、ノートPCのキーボードに指を戻した。

 戻したつもりだったが、指はまだ、止まっていた。


 階段の下から、ゆりさんの「すごい……」という声が薄く聞こえた。

 その声の上に自動ドアの、ことり、という音が重なった。

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