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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第3章『最後の選書フェア』

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第15話「名前の距離」

 七月三十一日、金曜日の朝、八時五十分。事務室の机の上で、私は、コーヒーの紙コップを両手で包んでいた。

 スマートフォンが鳴った。


「フェアの数値、見たぞ」


 神原室長の声がスピーカーから私の耳に届いた。


「初日完売、平日も継続して通常の二倍。地域紙にも載った」


「はい」


「数字としては、優秀だ。だが——」


 神原室長の声に、私の知っている、神原さんの声のもう一つの層が重なった。

 評価する声と、釘を刺す声が同じ口から続けて出ている。


「目的を、忘れるなよ」


「閉店は」


「予定通りだ。フェアの目的は、在庫処分と、地域住民の閉店受容の促進。それ以上でも、以下でもない」


「……分かっています」


「桐生」


「はい」


「お前の声、いつもより、低いぞ」


 私は、紙コップを机の上に置いた。

 コーヒーの表面がわずかに揺れた。


「業務上の、疲労です」


「横浜元町を、思い出せ」


「神原室長」


「俺が、十年前に閉めた店だ。あの時、俺は、現場の店長と感情的にぶつかって、フェアを混乱させた。結果、閉店日が二週間延びた」


「……はい」


「あれ以来、俺は、感情を業務に持ち込まないと決めた。お前を推進室に引っ張ったのは、お前にも同じことができると思ったからだ」


「はい」


 神原室長の声が、半秒、止まった。

 止まってから、また戻ってきた。


「だが、お前の弱さも、知っている」


「弱さ」


「お前は、書店員上がりだ。今でも、棚の前に立つと、業務を忘れる時がある。同じ轍を踏むな」


 私の右手が、眼鏡のフレームの端を押し上げていた。

 神原室長の言葉の半分が私の頁の中に残った。


「分かりました」


「武蔵境店の閉店、九月十二日。予定変更なし。本部報告、来週月曜日の朝一」


「了解しました」


「切る」


 通話が切れた。

 私の指がスマートフォンを机の上に戻した。


 事務室の窓のブラインドの隙間から、夏の朝の光が机の上に薄く差していた。

 光の中にコーヒーの湯気がゆっくりと立ち上っていた。



 午前十時。

 椎名さんが事務室に入ってきた。

 ノートPCを抱えている。私が貸したノートPCだった。


「桐生さん、ちょっと、座っていいですか」


「どうぞ」


「藤村さんの客注、木曜日に、お渡ししました」


「ええ」


「それと、古書店、回ってます」


 椎名さんがノートPCを開いた。

 画面にエクセルの表が開かれていた。私が教えたファイルの体裁とは違う表だった。椎名さんが自分で組んだ表だった。


「都内と、近郊の、古書店のリスト。四十八店」


「四十八」


「神保町、早稲田、本郷、中央線沿線。あと、千葉と埼玉と、神奈川の、稀覯本扱う店」


「全部、電話を」


「半分は、メールで在庫照会。半分は、直接、回ります」


 椎名さんの指が画面の表を辿った。

 各店舗の名前の横に連絡日と回答が書き込まれている。

 ——「該当書なし」「該当書なし」「該当書なし」。


 二十七店、すでに回答が来ていた。

 二十七店とも初版の初期装丁の在庫はなかった。


「椎名さん」


「はい」


「これは、業務時間に」


「夜と、出勤前と、休みの日です」


「ですが」


「桐生さん」


 椎名さんが私の言葉を止めた。

 止めてから、ノートPCを半分、私の方に向けた。


「手伝って、いただけませんか」


 私の手が、自分のノートPCのキーボードの上で止まった。

 画面に月曜日の本部報告書のテンプレートが開かれていた。


 手伝うこと、と、本部報告書を書くこと。

 この二つは、書店員としての私と、リストラ推進室の私の、それぞれの仕事だった。


 私は、自分のノートPCを閉じた。

 椎名さんの、ノートPCの方に椅子を半歩近づけた。


「……いいんですか」


「業務外です」


「ありがとうございます」


「椎名さんの、検索キーワードを、見せてください」


 椎名さんが、ラウザの検索履歴を開いた。

 画面に検索キーワードの履歴が並んでいる。

 「丘の上のラビット先生 初版」「G・A・トンプスン 一九五四」「佐伯澄子 訳 初版 函入り」。


 私の指がトラックパッドの上を滑った。

 日本の古書店総合検索サイトを開いた。


「ここの、稀覯本データベースで、もう一度、絞り込みます」


「絞り込み」


「装丁の状態と、初版表示を、条件指定。あと、店主のメモ欄に、『初期装丁』のキーワードが入っている本だけ」


 椎名さんが、私の手元を覗き込んだ。

 椎名さんの髪が、私の肩のすぐ近くで揺れた。


 古い本の紙の匂いがした。

 売場で、椎名さんが、何度も、棚から本を抜いてきた、その指先の匂いが、私の左の鎖骨のあたりに届いた。


 検索結果が画面に表示された。

 九件ヒットした。そのうち、初版の初期装丁の在庫を現時点で持っているのは——ゼロ件。


「……ない、ですね」


「ありません」


「現時点では」


「現時点では」


 椎名さんがノートPCの画面から目を上げた。

 私の方を見ていた。

 眼鏡越しに私の目が椎名さんの目を見た。


「桐生さん」


「はい」


「明日、もう一度、別のルートで、調べます」


「別のルート」


「お客さまノートに、書店業界の方の名前が、三人、入っているんです。古本市の主催者と、退職した編集者と、それから」


 椎名さんがノートPCの画面を別のタブに切り替えた。

 お客さまノートのデジタル版だった。椎名さんが桐生さんに見せるために、今朝、急いで入力したものだった。


 椎名さんの頁の深さが画面の中に並んでいた。

 私が十年、文翠堂の数字を見てきたそのデータとは別の種類の深さだった。



 夜、九時。

 武蔵境駅の北口のビジネスホテル。

 私の部屋の机の上にノートPCを置いて、私は明日の本部報告書の続きを書いていた。


 書きながら私の頭の中に椎名さんのエクセルの表が残っていた。

 四十八店。二十七店、該当なし。残り、二十一店。


 椎名さんの指が、画面を辿った時の爪の短さ。

 椎名さんの髪から、本の匂いがしたこと。

 椎名さんが、私の言葉を止めた時の声の強さ。


 私の指がキーボードの上で止まっていた。

 画面の報告書の未入力の欄が空いたまま待っていた。


 閉店までに四十四日です。


 午前中、私が棚の前で椎名さんに言った言葉が私の頭の中でもう一度再生された。

 その時、私は椎名さんを、椎名さん、と呼んだ。

 ずっと、椎名さん、と呼んできた。十年、文翠堂の同僚は、姓で呼んできた。


 でも。


 私の頁の中に、別の呼び方が浮かんでいた。

 椎名さんが、藤村さんに呼ばれている呼び方。朱里ちゃん、ではなく、その間にある別の名前。


 朱里、さん。


 口に出さなかった。

 ホテルの部屋には、私一人だった。声に出すべき相手は、ここにはいない。


 でも、私の口の上顎の裏側で、その五文字が一度、形を作って消えた。


 明日、椎名さんを何と呼ぶか。

 ノートPCの報告書の空いた欄を私は見ていた。

 画面の白さの中に、その問いだけが、薄く、残った。


***


 翌朝、八月一日、土曜日。

 九時三分。

 事務室の私の向かいの席に、椎名さんが座っていた。


 ノートPCの画面に、昨日の古書店リストが開かれている。

 椎名さんが、今朝、出勤前に新しい三店からの回答メールを転送してきた。

 三店とも該当書なし。


「桐生さん、おはようございます」


「おはようございます」


「昨日の稀覯本データベース、もう一度見ました」


「ええ」


「店主のメモ欄に、もう一つ、キーワードを入れて絞り込めば」


 椎名さんがノートPCを私の方に滑らせた。

 椎名さんの爪の短い指が画面を指した。


 私の口が半分開いた。

 昨夜、ホテルの部屋の上顎の裏側で形を作って消えたその五文字が、今、私の口の前に立っていた。


 業務の引き出しの中の敬語の言葉ではなく、別の引き出しの別の言葉が。


「朱里、さん」


 声に出した。

 声に出してから、私は自分の声が自分のものだとは、信じられなかった。


 椎名さんの指が画面の上で止まった。

 止まったまま、動かなかった。


 椎名さんが、私の方を見ていた。

 いつもの、ポケットのボールペンに触れる指も、髪を後ろで束ねた首筋も、椎名さんの体の、どこも、動かなかった。


 ただ、椎名さんの目が、半秒、揺れた。

 眼鏡をかけていない、椎名さんの目が、私の眼鏡のレンズの向こうを見ていた。


「……はい」


 椎名さんの声が、半分、震えていた。

 でも、震えながらその「はい」は、椎名さんの口からまっすぐ出てきた。


 事務室の蛍光灯のハム音が、私と、椎名さんの間に、低く残った。

 電気ポットが、ことり、と音を立てた。


 窓の外の、武蔵境の商店街は、土曜日の朝の支度を始めていた。

 夏の光が、ブラインドの隙間から机の上のノートPCの画面に、薄く差していた。


 椎名さんの指は、まだ画面の上で止まっていた。

 私の指も、キーボードの上で止まっていた。


 二人の間の、机の上の紙コップのコーヒーが湯気を立てていた。

 その湯気の、わずかな、ほのかな苦さの匂いが、私の鼻の奥に届いた。

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