第14話「藤村さんの依頼」
「椎名、これ、見たかい」
田崎店長がレジカウンターの上に新聞を半分に折って置いた。
七月二十七日、月曜日の朝、九時四十分。フェア二日目を終えて最初の月曜日。
地域紙、《武蔵境タイムス》の生活面の右下。
「閉店書店、最後の選書フェア。常連客に手書きのメッセージ」という、十二字の見出しが私の目に入った。
記事の半分がフェアの写真だった。
藤村さんの手元の緑色の本が写真の中央に映っている。藤村さんの顔は写っていなかった。記者が藤村さんに配慮したのだろう。
「店長、これ」
「うちの社の広報には、まだ、何も言ってない。記者の篠原さんが、土曜の午後、勝手に取材に来てたんだ」
「篠原さんって」
「お前のページに、四年前から、名前が載ってる人だ」
お客さまノートの私の頁の十二ページ目。
篠原靖さん、四十二歳、地域紙の記者、ノンフィクション読み。
私はその頁を頭の中でめくっていた。
桐生さんが階段を降りてきた。
ノートPCを抱えて、レジの方に歩いてくる。スーツの肩のラインが、月曜の朝らしく整っていた。
「椎名さん、新聞、見ましたか」
「はい、たった今」
「SNSの方も、同じ記事の写真が、土曜の夜から、四百回、共有されています」
「……四百」
「ネット書店の中古市場で、『手紙のかたち』が、品薄表示になっています」
桐生さんが、ノートPCを開いた。
画面に検索結果の一覧が並んでいた。
「これ、本部への報告に、入れます」
「桐生さん」
「フェアの数値が出れば、本部の判断材料になる。ただし——」
「ただし」
「閉店が撤回されるわけでは、ありません」
桐生さんの声が、最後の一文でわずかに低くなった。
眼鏡のフレームの端を左の親指で一度だけ押した。
「分かってます」
「念のため、申し上げました」
「はい」
桐生さんが、ノートPCを抱え直して、二階に上がっていった。
ヒールの音が階段を、八段、九段、十段と、上がっていく。
*
午前十一時。
藤村さんが来店した。
杖の先が自動ドアの敷居でいつもと同じく、二度、止まった。
私はレジをゆりちゃんに任せて、藤村さんに近づいた。
「藤村さん、おはようございます」
「朱里ちゃん」
「今日も、棚を見にこられて」
「ええ。あと——」
藤村さんの目が、いつもと違っていた。
目の奥に何かが揺れていた。私が十年、見てきた藤村さんの土曜日の笑顔とは別の表情だった。
「二階で、お話、いいかしら」
「はい」
「立ち話で、長くなるかもしれないけど」
「事務室、お使いください」
桐生さんが、レジの斜め後ろから私たちを見ていた。
私の目と、桐生さんの目が、一秒だけ、合った。桐生さんが頷いた。
*
事務室の来客用の丸椅子に、藤村さんが座った。
私は紙コップに熱いほうじ茶を淹れた。インスタントコーヒーは、藤村さんの口には合わなかった。
藤村さんは紙コップを両手で包んでいた。
杖を机の脚に立てかけてある。藤村さんの背中がいつもより少し丸かった。
「朱里ちゃん」
「はい」
「主人の話、聞いてくれる」
「もちろん」
藤村さんが紙コップに口をつけた。
一口ゆっくりと飲んでから、藤村さんは机の上に視線を落とした。
「主人ね、子供の頃、お父さんに、本を、買ってもらったの。一冊だけ」
「お父様から」
「戦後の、物のない頃。主人が、小学三年生の時。お父さんが、おこづかいを、ためて、神保町まで、買いに行ってくれた」
藤村さんの指が紙コップの縁を撫でていた。
爪が短く、薄い色の透明なマニキュアを塗っている。
「『丘の上のラビット先生』。G・A・トンプスン、っていう、英国の作家。佐伯澄子さんの訳で、一九五四年に出た、初版」
「初版」
「函入りの、布表紙の。今は、もう、復刻版が出ているらしいけど、主人が読んだのは、その、最初の装丁の」
藤村さんが紙コップを机の上に置いた。
両手が空になって、膝の上で互いを握っていた。
「主人が、亡くなる、二週間前にね。病院のベッドで、私に言ったの。あの本を、もう一度、読みたかった、って」
「……はい」
「家中、探したのよ。書斎の本棚、押し入れ、屋根裏。十年前の引越しで、紛失してしまったの、たぶん。古い本だから、捨ててしまったかもしれない。家族の誰かが」
藤村さんの目が、私の方を見上げた。
目の奥の揺れていたものが、今、半分、こちらにこぼれそうになっていた。
「主人の、書斎を、まだ、片付けていないの。あの人が亡くなって、一年たつのに」
「藤村さん」
「あの本を、書斎の机の上に、置いてあげたい。それで、書斎の、ドアを、閉めようと思って」
私の口が半分開いた。
頭の中のお客さまノートの頁が、藤村さんの頁の新しい行に、その依頼を書き込もうとしていた。
でも、その行はお客さまノートに書いていい行ではなかった。
古書店を回って、初版を探す。
それは、書店員の業務の範囲を大きく超えていた。
「藤村さん」
「ええ」
「必ず、見つけます」
言葉が口から勝手に出ていた。
私の頭が決める前に。
藤村さんの目から水分が薄く滲んだ。
藤村さんは紙コップをもう一度、両手で握った。
「ありがとう、朱里ちゃん」
「私が、お約束します」
「あなたは、いつも——」
藤村さんが言葉を切った。
切ってからほうじ茶をもう一口飲んだ。
「いつも、私の話を、覚えていてくれる」
*
藤村さんを、自動ドアの外まで見送った。
夏の昼前の光が商店街のアーケードの隙間から、藤村さんの白いブラウスの肩に落ちていた。
杖の音が、十回、十一回、十二回と、遠ざかっていく。
私は店内に戻った。
桐生さんが、二階の階段の上から私を見ていた。
眼鏡のレンズに二階の蛍光灯が薄く反射していた。
私が、二階に上がる。
桐生さんが、人文書の島の空いた棚の前で足を止めた。
「椎名さん」
「桐生さん」
「藤村さんに、何を、お約束しましたか」
桐生さんの声は、低かった。確認する声だった。
「ご主人が、子供の頃に読んだ本を、探します」
「タイトルは」
「『丘の上のラビット先生』。佐伯澄子訳、一九五四年の、初版。函入り、布表紙」
「現在、流通しているか」
「復刻版は、あります。でも、藤村さんが、欲しいのは、初版の、最初の装丁」
「古書店」
「はい」
桐生さんが半歩、私の方に近づいた。
眼鏡の奥の目が棚の方ではなく、私の顔の方を見ていた。
「椎名さん。それは、書店員の業務の、範囲を、超えています」
「分かっています」
「超えていると、分かっていて、約束したんですか」
「はい」
桐生さんが唇を一度、結んだ。
言葉をもう一度、選び直しているような間があった。
「閉店までに、四十八日です」
「四十八日」
「その間、椎名さんは、フェアの中核業務を、回しています。古書店を回る時間は」
「夜と、休みの日に、調べます」
「業務外の時間で、お客さん一人のために、それを」
「桐生さん」
私が、桐生さんの言葉を止めた。
止めてから、自分が桐生さんの言葉を止めたことに気づいた。
「超えてます」
「ええ」
「でも、藤村さんは、十年間、毎週、この店に、来てくれた人です」
桐生さんの口が半分、開いた。
反論の言葉が出かかって、止まった。
私は棚の方を見た。
空になった棚板の、その奥の、もう本を差さなくなった木目を。
「閉店までに、四十八日。藤村さんが、私たちに、もう、本を買いに来てくれる回数は、多くて、十回くらいです」
「……十回」
「その十回のうちの、一回を、私は、藤村さんのために、使いたい」
桐生さんが視線を棚から私の足元の方に落とした。
桐生さんの右手が左の腕の袖の生地を一度、握った。
桐生さんはすぐには答えなかった。
反論の言葉も、賛成の言葉も、桐生さんの口からは出てこなかった。
ただ、桐生さんは棚の前に立っていた。
空の棚板の、その上の空白を、桐生さんは見ていた。
夏の昼の二階の窓から差す光が、桐生さんの眼鏡のレンズに薄く反射していた。
私にはその光の下の桐生さんの目が、どこを見ているのか、よく分からなかった。




