表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第3章『最後の選書フェア』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/30

第13話「完売」

 私は二階の踊り場で、シャッターが上がるのを待っていた。

 七月二十五日、土曜日の朝、九時五十八分。フェア初日、開店二分前。


 階下から、田崎店長の声が上がってくる。


「お、椎名、降りてこい」


「はい」


 階段を降りた、私の足が踊り場の最後の一段で止まった。

 文翠堂武蔵境店の入口の自動ドアの向こうに人が立っていた。一人、二人——七人。シャッターの隙間から外の光に影が差していた。


「これは」


 田崎店長がレジの後ろで首を傾げていた。


「フェアの広告、地域紙の一面の隅に、四日前に出した。それだけで、これか」


 私の指がエプロンの紐を握っていた。

 爪の先が紐の生地に食い込んでいた。


「桐生さんは」


 ゆりちゃんが私の隣に並ぶ。レジ準備のために髪を後ろで結び直していた。


「二階の事務室。八時から、ずっと、データを見てる」


「呼びましょうか」


「お客さんが来てから、降りてくる人だよ」


 自動ドアが開いた。

 夏の外気が店内のエアコンの冷気と入れ替わる。最初に入ってきたのは小林さんだった。エッセイ読みの、木曜日の常連の。


「椎名さん、おはよう」


「小林さん、ありがとうございます」


「あなたが選んでくれた本、もう、決めてるの。私のページ、藤村さんの隣の」


 小林さんの目が、私のページの何ページ目に、自分の名前が書かれているかまで覚えていた。

 お客さまノートが私のレジ下の引き出しから私とお客さんを繋いでいた。


 私は小林さんの手を二階に導いた。


「人文書の島、二列目です」


「分かった。ゆっくり、見るね」


 小林さんの後ろに、もう、四人、並んでいた。

 藤村さんの姿は、まだない。



 午前十一時。

 平台の本が、二列、減っていた。

 私が新しい本を補充する手の爪の先が、紙の角で軽く切れた。痛みは感じなかった。


「椎名さん、これ、お会計お願いします」


 ゆりちゃんが、レジから私を呼んだ。


「お客さん、椎名さんから直接、買いたいって」


 私は、レジに入った。

 お客さんは、私の知らない若い男性だった。眼鏡をかけている。背表紙を選ぶ指が、慣れていない指だった。


「あの、僕、ここに、初めて来たんですけど」


「ありがとうございます」


「妹が、入院してて。本が好きなんで、何か、見舞いに」


「妹さんの、お歳は」


「二十二歳です。看護学校の、最後の年で——」


 私の手が、止まった。

 彼の言葉の最後の半分を、私は私の頁の中の、新しい行に書き込んだ。


「『夜と昼の手紙』、いかがですか」


「どんな本ですか」


「ベッドで、片手で、読める軽さです。三十二編の短い手紙が、入ってます。妹さんが、一日に一編ずつ、読めるように」


「……一日一編」


「三十二日分、あります」


 彼の目が、平台の上の一冊に止まった。

 淡い水色の薄い本だった。私が昨日、平台の右端に置いたばかりの本だった。


「これ、ください」


「ありがとうございます」


 彼が本を抱えて、自動ドアの方に歩いていく。

 ドアが開く瞬間に、彼は、一度、振り返った。私に軽く頭を下げた。


 私は、レジの中で息を止めていた。

 ゆりちゃんが、私の隣で何も言わずにレジ袋を畳んでいた。



 藤村さんが来たのは、十二時を少し過ぎた頃だった。

 杖の先が、自動ドアの敷居を二度、確かめてから店内に入った。白いブラウスと、紺のカーディガン。今日も、いつもと同じ服だった。


「藤村さん」


 私は、レジを離れて藤村さんの方に歩いた。


「お待ちしてました」


「朱里ちゃん。今日、すごい人ね」


「皆さん、最後だから」


「私もよ」


 藤村さんの目が、店内をゆっくりと見回した。

 平台の前に立つ、見知らぬお客さんたちを藤村さんは見ていた。


 私は、藤村さんを二階に案内した。

 人文書の島の二列目の棚。私が、藤村さんのために組んだ棚の前に、私たちは立った。


「藤村さん」


「ええ」


「『手紙のかたち』。藤村さんに、選びました」


 藤村さんの手が棚から本を引き抜いた。

 布張りの装丁の、緑色の本だった。藤村さんの、亡くなったご主人が、最後に開いた本と装丁の色が似ていた。


 藤村さんは、本を両手で持っていた。

 杖が藤村さんの右手から、一度、傾いた。私の手がその杖を支えた。


「朱里ちゃん」


 藤村さんの声が半分震えていた。


「ありがとう」


 藤村さんの目に薄く水分が滲んでいた。

 涙、と呼ぶには、控えめな量だった。藤村さんは、それを拭わずに私の方をまっすぐ見ていた。


「主人が、生きてたら、この本を、読ませたかった」


「藤村さん」


「いいの。私が、読むわ」


 藤村さんが本を胸に抱えた。

 布の装丁の感触を藤村さんの掌が確かめていた。


 私のエプロンの紐を握っていた手がようやく紐から離れた。



 午後三時。

 桐生さんが二階に上がってきた。

 手にノートPCを抱えている。フェア用の特設棚のガラスの仕切りの前で、桐生さんは足を止めた。


「椎名さん」


「桐生さん」


「人文書の特設棚、完売です」


 桐生さんの声が、二階の床の白いタイルの上に落ちた。

 私の頁の中でその言葉がゆっくりと形になった。完売。


「……全部」


「全部です」


「『言葉の輪郭について』も」


「最後の一冊が、二時四十七分に、レジを通過しました」


 桐生さんは棚の前に立っていた。

 空になった棚板を桐生さんは見ていた。私が、昨夜、最後に差した、その棚。


 階段の方から、田崎店長の声が上がってきた。


「桐生、椎名。信じられん」


「店長」


「俺、書店員、二十二年やってるけど。閉店フェアの初日で、完売、初めてだ」


 田崎店長が、フロアの真ん中に立っていた。

 藤色のネクタイがいつもより少しだけずれていた。


 桐生さんは田崎店長の方を見なかった。

 空の棚を、もう一度、見ていた。


***


 午後七時、閉店後。

 事務室の蛍光灯の下で椎名さんがノートPCの画面に売上の数字を入力していた。

 私は椎名さんの向かいの席で、棚卸しデータとレジの集計を突き合わせていた。


 画面の下のセルに、合計値が出た。

 平日の通常売上の、三倍と、少し。


 ……三倍。

 数字を私は、二度、確認した。


「椎名さん」


 私の声を私は抑えていた。

 目の前の画面の数字に、私はまだ、半分しか追いついていなかった。


「はい」


「通常の、三・一倍です」


「……三倍」


「特設棚の完売分と、通常棚の連動売上を、合わせて」


 椎名さんが、机の向こうで頷いた。

 頷いてから、椎名さんはレジの集計表を机の上に置いた。


 そして、椎名さんが、笑った。


 私が、見たことのない笑い方だった。

 頬の筋肉が自然に緩んでいた。眉の下がわずかに下がっていた。一日中、立ち通しでレジに入り、お客さんに頭を下げ、商品を補充して、それでも、その笑顔が椎名さんの顔に残っていた。


 疲れた顔だった。

 でも、その疲れの下に別のものがあった。


「桐生さん」


「はい」


「私、十年、この店にいて」


「ええ」


 「こんなに、本を売った日、初めてです」


 椎名さんの声が、半分だけ、震えていた。

 震えながら、椎名さんの口が、もう一度、笑った。


 私のノートPCのキーボードに置いた指が、止まった。

 ファンの低い音だけが、事務室の空気の中に残った。


 胸の奥で、何かが動いた。

 数字でも、業務でもない何かが、私の頁の奥の方で、一度、揺れた。


「……椎名さん」


 椎名さんは私の方を見ていた。

 笑顔のまま、私の言葉の続きを待っていた。


 私の口が、半分だけ、開いた。

 続きが出てこない。私の頭の中の業務用の言葉の引き出しの、どこを開けても、今、この瞬間、返す言葉がなかった。


 眼鏡のブリッジを私の中指が押し上げた。

 画面の光がレンズに白く反射した。


 椎名さんは、私が何も言わないことを責めなかった。

 集計表をもう一度、揃え直した。椎名さんの指が、胸ポケットのボールペンの位置を直した。


 事務室の電気ポットが、ことり、と音を立てた。

 保温の温度が下限を割って、ヒーターが自動的に入った音だった。


 私の口の中に午前中の紙コップのインスタントコーヒーの苦さがまだ残っていた。

 その苦さの下に、ほのかな甘さがあったことを、私は、今、思い出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ