第13話「完売」
私は二階の踊り場で、シャッターが上がるのを待っていた。
七月二十五日、土曜日の朝、九時五十八分。フェア初日、開店二分前。
階下から、田崎店長の声が上がってくる。
「お、椎名、降りてこい」
「はい」
階段を降りた、私の足が踊り場の最後の一段で止まった。
文翠堂武蔵境店の入口の自動ドアの向こうに人が立っていた。一人、二人——七人。シャッターの隙間から外の光に影が差していた。
「これは」
田崎店長がレジの後ろで首を傾げていた。
「フェアの広告、地域紙の一面の隅に、四日前に出した。それだけで、これか」
私の指がエプロンの紐を握っていた。
爪の先が紐の生地に食い込んでいた。
「桐生さんは」
ゆりちゃんが私の隣に並ぶ。レジ準備のために髪を後ろで結び直していた。
「二階の事務室。八時から、ずっと、データを見てる」
「呼びましょうか」
「お客さんが来てから、降りてくる人だよ」
自動ドアが開いた。
夏の外気が店内のエアコンの冷気と入れ替わる。最初に入ってきたのは小林さんだった。エッセイ読みの、木曜日の常連の。
「椎名さん、おはよう」
「小林さん、ありがとうございます」
「あなたが選んでくれた本、もう、決めてるの。私のページ、藤村さんの隣の」
小林さんの目が、私のページの何ページ目に、自分の名前が書かれているかまで覚えていた。
お客さまノートが私のレジ下の引き出しから私とお客さんを繋いでいた。
私は小林さんの手を二階に導いた。
「人文書の島、二列目です」
「分かった。ゆっくり、見るね」
小林さんの後ろに、もう、四人、並んでいた。
藤村さんの姿は、まだない。
*
午前十一時。
平台の本が、二列、減っていた。
私が新しい本を補充する手の爪の先が、紙の角で軽く切れた。痛みは感じなかった。
「椎名さん、これ、お会計お願いします」
ゆりちゃんが、レジから私を呼んだ。
「お客さん、椎名さんから直接、買いたいって」
私は、レジに入った。
お客さんは、私の知らない若い男性だった。眼鏡をかけている。背表紙を選ぶ指が、慣れていない指だった。
「あの、僕、ここに、初めて来たんですけど」
「ありがとうございます」
「妹が、入院してて。本が好きなんで、何か、見舞いに」
「妹さんの、お歳は」
「二十二歳です。看護学校の、最後の年で——」
私の手が、止まった。
彼の言葉の最後の半分を、私は私の頁の中の、新しい行に書き込んだ。
「『夜と昼の手紙』、いかがですか」
「どんな本ですか」
「ベッドで、片手で、読める軽さです。三十二編の短い手紙が、入ってます。妹さんが、一日に一編ずつ、読めるように」
「……一日一編」
「三十二日分、あります」
彼の目が、平台の上の一冊に止まった。
淡い水色の薄い本だった。私が昨日、平台の右端に置いたばかりの本だった。
「これ、ください」
「ありがとうございます」
彼が本を抱えて、自動ドアの方に歩いていく。
ドアが開く瞬間に、彼は、一度、振り返った。私に軽く頭を下げた。
私は、レジの中で息を止めていた。
ゆりちゃんが、私の隣で何も言わずにレジ袋を畳んでいた。
*
藤村さんが来たのは、十二時を少し過ぎた頃だった。
杖の先が、自動ドアの敷居を二度、確かめてから店内に入った。白いブラウスと、紺のカーディガン。今日も、いつもと同じ服だった。
「藤村さん」
私は、レジを離れて藤村さんの方に歩いた。
「お待ちしてました」
「朱里ちゃん。今日、すごい人ね」
「皆さん、最後だから」
「私もよ」
藤村さんの目が、店内をゆっくりと見回した。
平台の前に立つ、見知らぬお客さんたちを藤村さんは見ていた。
私は、藤村さんを二階に案内した。
人文書の島の二列目の棚。私が、藤村さんのために組んだ棚の前に、私たちは立った。
「藤村さん」
「ええ」
「『手紙のかたち』。藤村さんに、選びました」
藤村さんの手が棚から本を引き抜いた。
布張りの装丁の、緑色の本だった。藤村さんの、亡くなったご主人が、最後に開いた本と装丁の色が似ていた。
藤村さんは、本を両手で持っていた。
杖が藤村さんの右手から、一度、傾いた。私の手がその杖を支えた。
「朱里ちゃん」
藤村さんの声が半分震えていた。
「ありがとう」
藤村さんの目に薄く水分が滲んでいた。
涙、と呼ぶには、控えめな量だった。藤村さんは、それを拭わずに私の方をまっすぐ見ていた。
「主人が、生きてたら、この本を、読ませたかった」
「藤村さん」
「いいの。私が、読むわ」
藤村さんが本を胸に抱えた。
布の装丁の感触を藤村さんの掌が確かめていた。
私のエプロンの紐を握っていた手がようやく紐から離れた。
*
午後三時。
桐生さんが二階に上がってきた。
手にノートPCを抱えている。フェア用の特設棚のガラスの仕切りの前で、桐生さんは足を止めた。
「椎名さん」
「桐生さん」
「人文書の特設棚、完売です」
桐生さんの声が、二階の床の白いタイルの上に落ちた。
私の頁の中でその言葉がゆっくりと形になった。完売。
「……全部」
「全部です」
「『言葉の輪郭について』も」
「最後の一冊が、二時四十七分に、レジを通過しました」
桐生さんは棚の前に立っていた。
空になった棚板を桐生さんは見ていた。私が、昨夜、最後に差した、その棚。
階段の方から、田崎店長の声が上がってきた。
「桐生、椎名。信じられん」
「店長」
「俺、書店員、二十二年やってるけど。閉店フェアの初日で、完売、初めてだ」
田崎店長が、フロアの真ん中に立っていた。
藤色のネクタイがいつもより少しだけずれていた。
桐生さんは田崎店長の方を見なかった。
空の棚を、もう一度、見ていた。
***
午後七時、閉店後。
事務室の蛍光灯の下で椎名さんがノートPCの画面に売上の数字を入力していた。
私は椎名さんの向かいの席で、棚卸しデータとレジの集計を突き合わせていた。
画面の下のセルに、合計値が出た。
平日の通常売上の、三倍と、少し。
……三倍。
数字を私は、二度、確認した。
「椎名さん」
私の声を私は抑えていた。
目の前の画面の数字に、私はまだ、半分しか追いついていなかった。
「はい」
「通常の、三・一倍です」
「……三倍」
「特設棚の完売分と、通常棚の連動売上を、合わせて」
椎名さんが、机の向こうで頷いた。
頷いてから、椎名さんはレジの集計表を机の上に置いた。
そして、椎名さんが、笑った。
私が、見たことのない笑い方だった。
頬の筋肉が自然に緩んでいた。眉の下がわずかに下がっていた。一日中、立ち通しでレジに入り、お客さんに頭を下げ、商品を補充して、それでも、その笑顔が椎名さんの顔に残っていた。
疲れた顔だった。
でも、その疲れの下に別のものがあった。
「桐生さん」
「はい」
「私、十年、この店にいて」
「ええ」
「こんなに、本を売った日、初めてです」
椎名さんの声が、半分だけ、震えていた。
震えながら、椎名さんの口が、もう一度、笑った。
私のノートPCのキーボードに置いた指が、止まった。
ファンの低い音だけが、事務室の空気の中に残った。
胸の奥で、何かが動いた。
数字でも、業務でもない何かが、私の頁の奥の方で、一度、揺れた。
「……椎名さん」
椎名さんは私の方を見ていた。
笑顔のまま、私の言葉の続きを待っていた。
私の口が、半分だけ、開いた。
続きが出てこない。私の頭の中の業務用の言葉の引き出しの、どこを開けても、今、この瞬間、返す言葉がなかった。
眼鏡のブリッジを私の中指が押し上げた。
画面の光がレンズに白く反射した。
椎名さんは、私が何も言わないことを責めなかった。
集計表をもう一度、揃え直した。椎名さんの指が、胸ポケットのボールペンの位置を直した。
事務室の電気ポットが、ことり、と音を立てた。
保温の温度が下限を割って、ヒーターが自動的に入った音だった。
私の口の中に午前中の紙コップのインスタントコーヒーの苦さがまだ残っていた。
その苦さの下に、ほのかな甘さがあったことを、私は、今、思い出していた。




