第12話「棚を組む」
ガムテープの音だった。
地下倉庫から、人文書の棚を一枚、二階の踊り場に台車で運び上げて、私たちは段ボールを開いていた。テープの粘着が剥がれる、低い、引きずるような音。
「桐生さん、ここの棚、半段下げます」
「下げる根拠は」
「藤村さんの目線。背伸びをさせたくない」
桐生さんは、ノートPCのガントチャートを台車の上に開いていた。
画面の隅に、フェア準備工程表が九列の縦線で並んでいる。月曜日の朝、九時十分。フェア初日まで、私たちが残した日数は五日だった。
桐生さんが、私の言葉を一拍だけ受け止めて頷いた。
「棚板の位置、お任せします」
「はい」
ガントチャートの「棚替え」のセルに、緑色のチェックが入った。
桐生さんの指先がトラックパッドの上で迷わなかった。
*
フェア開始を、八月一日から、七月二十五日に前倒しすると桐生さんが決めたのは先週の金曜日だった。
商工会の夏祭りに合わせる、と桐生さんは言った。商店街の人通りが、月末より、七月の最終週に集中する。データに裏打ちされた判断だった。
準備期間は、九日間から五日間に縮んだ。
ガントチャートの工程表が組み直された。赤い線が七月二十五日の朝に新しく引かれていた。
「椎名さん」
「はい」
「人文書の棚、テーマは『最後に選ぶ一冊』。八面ですね」
「八面、はい」
桐生さんが、ペンでフロア図面を指した。
図面の上に、棚の番号が振ってある。一面ごとに、私が選んだテーマと棚の主役本が書き込まれていた。
——「考えることを思い出す棚」「夜に開く棚」「誰かに贈る棚」。
私が棚の名前を考えるのに、三日かかった。
桐生さんが棚の位置と動線を決めるのに、半日。
「動線、確認します」
「はい」
桐生さんが、図面の上をボールペンで辿る。
一階の文芸書の平台から、奥のエスカレーター、二階の人文書の入口、そこから児童書の島まで。一本の線がフロアの上をゆっくりと流れていた。
「ここで、お客さんの足が、一度止まります」
「『誰かに贈る棚』ですね」
「贈る本、というキーワードが、足を止める」
「私もそう思いました」
桐生さんの目が図面から私の方に動いた。
眼鏡の奥の目が何かを確かめてから、図面に戻った。
ペン先の音が二回鳴った。
とん、とん。図面の上で、棚と棚の境目に桐生さんが小さな丸を打つ。
*
昼前、三嶋ゆりちゃんが二階の踊り場に上がってきた。
大学の試験期間が終わって、シフトが復活した日だった。エプロンのポケットのボールペンを私の指が確かめるように押した。明日からは、ゆりちゃんも夜のシフトに入る。
「椎名さん、POP、いくつ書きますか」
「八面分。一面につき、主役本一枚、サブ本三枚。三十二枚」
「三十二」
「ええ。多いよね」
ゆりちゃんが首を傾げて笑った。
短い笑い方だった。困っているけど嫌じゃないという、ゆりちゃんの顔だった。
「私、サブの分、半分書きます」
「いいの」
「練習させてください。椎名さんのPOP、丸い字なんで、私のは尖ってるけど」
「尖ってていいよ。お客さんの目線が、二種類になる」
ゆりちゃんが、頷いて、レジ下の棚から、POP用紙の束を引き抜いた。
桐生さんは、私たちの会話を聞いていないふりをしていた。図面の隅にペン先で何か小さな印を書いていた。
マーカーの蓋を開く音が二つ重なる。
ゆりちゃんのと、私のと。インクの匂いが紙の上で少し滲んだ。
*
午後三時。
平台に、私たちは本を積み始めていた。
ゆりちゃんが私の指示通りに、文庫を三冊、面陳に変える。指先の動きがまだ少しぎこちない。
「椎名さん」
桐生さんが私を呼んだ。
平台の反対側から図面を畳んでこちらに歩いてきていた。スーツのスカートの裾が平台の角を擦らないように桐生さんは半歩、内側を歩いている。
「『誰かに贈る棚』のサブ本、十二冊のうち、二冊、入れ替えていいですか」
「どの本ですか」
「『手紙のかたち』と、『遠い庭の絵本』。この二冊を、平台の手前に出します」
「理由」
「藤村さんの目線で、左から右に追った時、この二冊が、一番先に視界に入る位置になります」
桐生さんの口が半分だけ開いた。
言葉をもう一度、頭の中で組み直しているような間があった。
「動線を、藤村さん基準で組み直したんですか」
「はい」
「フェアは藤村さん一人のためにやるわけじゃ」
「一人のためじゃないです。でも、藤村さんが入口です」
「入口」
「藤村さんが買って、それを見たお客さんが、次に手を伸ばす。そういう棚です」
桐生さんは平台の縁に指を置いた。
爪の短い、塗っていない指だった。私の指が、何度も触れた平台の木目を桐生さんの指が、一度だけ軽く撫でた。
「……入れ替え、お願いします」
「はい」
桐生さんが、図面を脇に抱えて踊り場の階段を降りていった。
ヒールの音が、二段、三段、四段と私の頭の上から遠ざかる。
「椎名さん」
ゆりちゃんがPOPの束を抱えたまま私を見ていた。
「桐生さん、椎名さんに、頷きましたよね」
「……うん」
「最初の頃と、違いますね」
ゆりちゃんが何かを言いかけて、止めた。
私は、平台の上に一冊を置いた。手前から二列目、左端。藤村さんの手が最初に触れる位置だった。
*
夕方、田崎店長が二階に上がってきた。
藤色のネクタイを少しだけ緩めている。フェア準備の進捗を見にきた、というよりは、私たちを見にきた目だった。
「椎名」
「店長」
「お前、桐生に頷いてたな」
「……はい」
「逆もそうだ。桐生がお前に、棚板の位置で、お任せしますって言った」
田崎店長が、二階の窓際で足を止めた。
武蔵境の街並みが夏の遅い陽射しの中で、平らに広がっている。駅前の駅ビルの方を田崎店長は見ていなかった。
「お前ら、三鷹店の頃と、似てるな」
「……三鷹店」
「桐生が、まだ、配属されて二年目の頃だ。あの頃の桐生は、棚を組むのが、上手かった。今のお前みたいに」
田崎店長は煙草を持っていなかった。
胸ポケットに、もう、煙草の箱は入っていない。半年前、奥さんに止められたと店長は前に言っていた。
「桐生さんは、いつから、棚を組まなくなったんですか」
「いつ、というか。閉店ばかり回されるようになってからだ」
「閉店」
「自分が組んだ棚を、自分で畳む。それを四回、五回、繰り返すと——」
田崎店長が言葉を切った。
窓の外を、もう一度、見た。
「人は、棚を、組まなくなる」
その言葉が、私の頭の中に、平台の本のように積まれた。
桐生さんが、午前中、図面の上を辿ったボールペンの線を私は思い出していた。
*
夜、十時を回った。
売場の蛍光灯を、半分、落とした。明日の朝九時から、商工会のテスト点灯がある。私たちが、最後の一面を組み終えるのは今夜中だった。
二階の人文書の島の、最後の棚。
桐生さんが図面を畳んで、棚の前に立っていた。私が棚板の高さを、もう一度、確認していた。
「椎名さん」
「はい」
「上から二段目、もう少し下に下げます」
「藤村さんの目線、もう一度測りますか」
「測ってください」
私が、メジャーを引き出して、棚板の前でしゃがんだ。
藤村さんの身長を私は何度も計っていた。百五十二センチ。杖をついた時の視線の高さは百四十八センチ。
メジャーの目盛りを私は読み上げた。
桐生さんが棚板を二センチ、下に動かす。金属の擦れる低い音が、二人の間に落ちた。
「これで、藤村さんの目に、『手紙のかたち』の背表紙が、入ります」
「入りますね」
「桐生さん」
「はい」
「棚を組むの、覚えてますか」
桐生さんの手が棚板の縁で止まった。
眼鏡のフレームの端を左の親指で、一度、押した。返事はすぐには来なかった。
「……忘れていません」
「そうですか」
「ただ——」
桐生さんの言葉が、そこで途切れた。
半分だけ開いた口の中の続きを、私は見ないふりをした。蛍光灯の白い光が、桐生さんの眼鏡のレンズに薄く反射していた。
私が棚に最後の一冊を差した。
とん、と背表紙が棚板に当たる音が、人文書の島の静寂の上に落ちた。
売場の空気の中に、新刊のインクの匂いがわずかに残っていた。
桐生さんが棚から、一歩、下がった。腕を組んで、棚の正面に立ち、八面分の棚を、ゆっくりと左から右に見渡していた。
「椎名さん」
「はい」
「明日、お客さんが、来てくれるかな」
桐生さんの声が、私の知っている桐生さんの声より少しだけ低かった。
数字を言う時の声でも、業務指示の声でもない声だった。
来ます。
私の口から、その三文字が、躊躇なく出た。
「来ます。——あなたの棚なら」
言ってから、私は自分の言葉に驚いていた。
あなたの、の四文字が、自分の頁の中にまだ波紋のように広がっていた。
桐生さんは棚の方を向いたまま振り返らなかった。
腕を組んだ手の、左の親指が、右の腕の袖の生地を、一度だけ、握った。
蛍光灯の半灯が、私たちの足元に薄い影を作っていた。
明日、この影の上をお客さんが歩く。




