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この書店を閉めに来た私と、最後まで本を売りたい彼女の九十日  作者: 霧原 澪
第3章『最後の選書フェア』

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第11話「企画書」

「桐生さん、これも候補に入れていいですか」


 私は、レジ下の引き出しから、A5の薄いノートを抜き出して、事務机の上に置いた。

 表紙が擦り切れている。角が、十年分、丸くなっていた。


「『お客さまノート』です。十年分の、常連さんの記録」


 桐生さんは、ノートPCの画面から目を上げた。

 眼鏡を一度外して、レンズを胸ポケットのクロスで拭き、かけ直す。朝の事務室は、私たち二人と、電気ポットのスイッチランプだけが起きていた。


「中を見ても」


「どうぞ」


 桐生さんが、ノートを開く。

 几帳面な指先だった。私のように、表紙を撫でて、それから開くのではない。指の先で角を持って、まっすぐにめくる。


 月曜日の朝、八時四十五分。

 九十日の閉店カウントダウンの、二十八日目。残り六十二日。

 昨日、桐生さんから「フェア企画書を一緒に作る」と言われて、私は今朝、いつもより十五分早く出てきた。

 桐生さんが閉めた七つの店を、全部回った時と、同じ足取りだった。


 桐生さんがページをめくる音だけが、事務室に落ちる。

 とん、とん。私が背表紙を棚板に押し戻す音と、よく似ていた。


「これは、お客さんの名前ごとに、ですか」


「はい。買った本、探してる本、好きな作家、苦手なジャンル。あと、家族構成」


「家族構成」


「藤村さんなら、ご主人の正一さんが歴史小説好き。お孫さんが小学三年生で、絵本卒業のタイミング。次に来た時、声をかける時の手がかりです」


 桐生さんの指が、藤村さんのページで止まった。

 ページの上半分が、藤村絹江、と私の字で書いてある。下半分が、青いボールペンで——亡夫・正一氏(昨年没)。線が引いてある。線の上を、私がもう一度、なぞった跡もある。


 桐生さんは、線を見て、何も言わなかった。

 眼鏡のフレームの端を、左の親指で、一度だけ押した。


「フェア企画の話に戻ります」


「はい」


「閉店までに六十二日。フェア期間を、八月一日から九月十一日と仮置きしました。四十二日間」


「四十二日」


「在庫処分と、椎名さんの選書企画。二つを同時に走らせます。在庫処分は、すでに一階レジ側の平台で進行中。椎名さんの企画は、一階奥と二階の人文・児童書に展開」


 桐生さんがノートPCに向き直る。

 画面に、まだ何も書かれていない企画書のテンプレートが開かれていた。表題の欄に、桐生さんが文字を打ち込む。


 「この本を、あなたに。——文翠堂武蔵境店 最後の選書フェア」。


 画面の文字を、私は、一度、口の中で読み直した。

 あなたに、の四文字が、私の頁の中で、藤村さんの顔と重なった。それから、小林さんの顔と、安藤さんの娘さんの顔と。


「タイトル、いいですね」


「仮です」


「私、これがいいです」


「決めるのは、書いてからです」


 桐生さんが、画面から目を逸らさずに、そう言った。

 眼鏡のレンズに、画面の白い光が反射していた。



 九時半。

 事務室の電気ポットが、二杯目の湯を沸かし始める。

 桐生さんは、ノートPCの画面に、棚ごとの売上データを並べていた。私には、数字の意味が、半分しかわからない。


「人文書の棚、月平均の販売冊数を出します」


「はい」


「単品ベースで、上位三十冊。これをフェアの中核にします」


「待ってください」


 桐生さんの指が、キーボードの上で止まった。

 眼鏡の奥の目が、私を見る。


「データ上位の三十冊だけだと、棚の流れが死にます」


「流れ」


「私の棚は、一冊が単体で売れてるんじゃないんです。隣の本との並びで、お客さんが手に取る順番ができてる。哲学の入口の本があって、その隣に応用編があって、もっと奥に専門書がある。階段みたいに」


 桐生さんは、私の言葉を、一度、聞き終わってから、口を開いた。


「具体的に」


「『考えることの地図』は、月に五冊くらい売れます。でも、その隣の『言葉の輪郭について』は、月に一冊か二冊。データ上位だけ残すと、『言葉の輪郭』が消える」


「売上の低い本を残す意味は」


「『地図』を買った人が、三ヶ月後、半年後に『輪郭』を買いに来るんです。データに出ない時間差です」


 桐生さんは、ノートPCの画面で、何かを操作した。

 画面に、長い表が出る。私の知らない種類の表だった。横軸が月、縦軸がISBNコード。マス目の数字が、月ごとの販売冊数を表している。


「『言葉の輪郭について』、月平均、〇・八冊」


「……はい」


「『考えることの地図』、月平均、四・六冊」


「はい」


「椎名さんが言った、月に一冊か二冊。〇・八冊だと、二ヶ月に一冊ですね」


 画面を覗き込んだ私の喉が、少しだけ、詰まった。

 でも、〇・八。ゼロじゃない。


「ゼロじゃないです」


「ゼロじゃありません」


 桐生さんは、淡々と繰り返した。

 けれど、画面の数字を、もう一度、見直していた。眼鏡のブリッジを、左手の中指で、一度、押し上げる。


「桐生さん」


「はい」


「もう一冊、見てもらえますか」


 私は、お客さまノートを、桐生さんの方に滑らせた。

 ノートの中ほど、小林さんのページを開く。私の字で、書名が縦に並んでいた。一番下の行に、私が先週書き足した一冊がある。


「『雨と図書館』」


「ええ」


「これ、月に三冊は出ます」


「三冊」


「小林さんみたいな、エッセイ読みの方が、木曜日に多いんです。木曜は私の遅番の日で、私が勧めた本は——」


 言いかけて、止めた。

 私が勧めた、なんて、桐生さんに言うのは、自慢みたいに聞こえないだろうか。


 桐生さんは、私の口が止まったことに、気づかなかったふりをした。

 ノートPCの表を、もう一度、操作する。


 画面が、また切り替わる。

 『雨と図書館』、月平均、二・八冊。


 二・八。

 私の口の中で、その数字が、ゆっくりとほどけた。三冊に、限りなく近かった。


「……二・八です」


「はい」


「三冊じゃありません」


「ほぼ三冊です」


 桐生さんは、画面から目を上げて、私を見た。

 眼鏡の奥の目が、わずかに、動いていた。何かを確かめるような、動きだった。


「椎名さん」


「はい」


「もう一冊、出してください」



 十一時、近く。

 事務室の机の上に、お客さまノートが開かれたままになっていた。私のページは、もう七冊分、桐生さんに「もう一冊」と言われて、めくった。

 七冊とも、桐生さんがデータで確認した数字と、私の感覚は、誤差〇・五冊以内に収まった。


「椎名さん」


「はい」


「フェアの骨子、今から書きます」


「はい」


 桐生さんが、ノートPCに向き直る。

 眼鏡のフレームの端を、一度、押し上げてから、キーボードを叩き始めた。


 ——棚ごとにテーマを設ける。常連客に「最後の一冊」を選んでいただくフェア。選書はお客さまノートに基づき、椎名朱里が担当。在庫処分は別動線で並行進行。


 画面の文字を、私は、肩越しに読んでいた。

 桐生さんの指が、キーを叩く音が、速い。私の知らない速さだった。私が一行のPOPを書く時間に、桐生さんは、画面の上に、五行の文字を生んでいた。


「椎名さん」


「はい」


「企画書、続きは午後にします」


「午後」


「一度、外で打ち合わせをしましょう。事務室だと、見えないものがある気がする」


 桐生さんが、眼鏡を外して、机の上に置いた。

 レンズの内側を、一度、息で曇らせて、それからクロスで拭いた。曇らせたのは、わざとではないみたいだった。私には、そう見えた。



 十二時半。

 武蔵境駅の北口を出て、二筋目の路地のカフェ。

 桐生さんが選んだ店だった。私が十年通った商店街で、私が一度も入ったことのない店だった。


 窓際の二人がけの席。

 桐生さんの前にカフェオレ、私の前にホットコーヒーが置かれた。


 カップに口をつける。

 苦かった。事務室のインスタントよりも、ずっと苦い。豆の匂いが、鼻の奥に残った。

 舌の上に、その苦さが、しばらく居座った。


「椎名さん」


「はい」


「午前中の七冊、全部、誤差が〇・五冊以内でした」


「桐生さんって、数字で本を見てるのに、選ぶ本はいつも正しいですね」


 私は、自分の口から出た言葉を、コーヒーカップの縁越しに、聞いた。

 桐生さんの方じゃなくて、自分の口の方を、確かめていた。

 言うつもりは、なかった。でも、午前中ずっと、私の頁の中に、その言葉が浮かんでいた。


 桐生さんは、すぐには、答えなかった。

 カフェオレのカップに、両手の指を添えていた。爪が、短く切ってある。塗っていない爪だった。


 窓の外で、自転車のベルが鳴った。

 商店街の青果店の前を、エプロンをつけた女性が、段ボールを運んでいる。夏の外気が、店のドアが開くたびに、エアコンの冷気と入り混じった。


 桐生さんが、視線を、私の顔から外した。

 窓の外の、商店街の方を向いた。眼鏡のレンズに、夏の光が、白く反射していた。


「……コーヒー、冷めます」

「はい」


 答えてから、私は、もう一口、カフェオレ——じゃない、コーヒーを飲んだ。

 舌の上に、苦さが、また居座る。

 その苦さの底に、豆の、わずかな甘さが、隠れていた。

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