第30話「栞日」
三月の光がガラスの向こうで白く弾けている。
二〇二七年三月十二日、金曜日、午前十時。
吉祥寺の路地裏。中央線の高架から歩いて四分。井の頭通りから一本入った細い道の角に、十五坪の空きテナントがある。
元はコーヒーの焙煎所だった。壁にはまだ豆の焦げた匂いが微かに染みている。天井が高い。南向きの窓が二面。春の光が床のコンクリートの上に四角く落ちている。
私はスーツを着ていない。
白いシャツにグレーのカーディガン。デニム。スニーカー。銀縁の眼鏡だけが、半年前と同じ。
退職届を出したのは十月一日だった。
武蔵境店の閉店報告書を本部に提出した翌営業日。神原室長は何も言わなかった。書類を受け取って、一度だけ私の顔を見て、「そうか」と言った。あの時の神原室長の目には、安堵があったように見えた。
有休消化を含めて十二月末で退職。一月から三月は、物件を探していた。
「ここ、いいと思う」
朱里さんの声ががらんどうのテナントの中に響く。
朱里さんは入口の近くに立っている。エプロンではなく、薄い水色のワンピース。三月の吉祥寺。私服の朱里さんを見る回数がまだ少ない。見るたびに新鮮な違和感がある。エプロンなしの朱里さんは、腕の輪郭が見える。肩が細い。
「天井が高いから、棚を三段にできる」
朱里さんが壁際に歩いていく。靴音が響く。ローファーではない。白いスニーカー。コンクリートの床を踏む音が、書店のフローリングとは違う音を立てる。
「南の窓際に児童書。入口の正面に文芸。奥に人文書とエッセイ。レジは入口の右手」
朱里さんの手が空中を動く。見えない棚を描いている。
その手の動きを目で追いながら、私はこの人の十年が今この空間に注がれていくのを見ていた。空のテナントに本は一冊もない。でも朱里さんの目には、もう棚が見えている。
「平台は一つ。入口すぐの場所に。二十冊だけ積む。全部、手書きPOPをつける」
「二十冊」
「多すぎると選べなくなる。少ないから、一冊ずつ目が止まる」
朱里さんが振り返る。目が光っている。本の話をする時の速さで言葉が出ている。
「お客さんの名前で本を覚える店にしたい。武蔵境と同じ」
武蔵境と同じ。
あの店は九月十二日に閉まった。でも朱里さんの中では閉まっていない。棚の組み方も、客の名前を覚える習慣も、POPの文字数制限も。全てがこの十五坪の中に引っ越そうとしている。
「いいですね」
自分の声が出た。短い。でもそれで十分だった。
*
テーブルの上に、A4のノートを広げた。
窓際に二人で座る。朱里さんが持ってきた折りたたみの椅子。テナントには家具がない。椅子二つとテーブル代わりの段ボール箱一つ。
私はボールペンを持って、ノートの白いページに書き始めた。
工程表。
三月下旬、内装打ち合わせ。四月、棚の発注。五月、電気工事と照明設置。六月、什器搬入と棚組み。七月、仕入れ開始。八月、プレオープン。九月、グランドオープン。
数字を書く。見積もり金額。棚の寸法。電気容量。開業届の提出先。
閉店の工程表を四年間作ってきた手が、開店の工程表を書いている。書いている動作は同じだ。ボールペンのインクがノートの紙に染みていく感触。線を引いて枠を作って、日付を書いて、担当を割り振る。
ガントチャートの色は赤ではない。
青いボールペンで書いている。意図していたわけではない。手に取ったペンがたまたま青だった。でも、赤い線で埋められたあの画面とは違う色で工程を組んでいることが、妙にはっきりと意識に残る。
「桐生さん、字がきれい」
「工程表は字が汚いと読み間違える」
「仕事の癖ですね」
「……元、仕事の癖です」
朱里さんが笑った。声を出さない笑い。肩が小さく揺れる。
窓の外で、路地を歩く人の足音がする。スーツケースの車輪が石畳に引っかかる音。吉祥寺の春の昼。人通りは多くない。でも、ここは駅から近い。武蔵境の商店街とは立地が違う。
「店名」
私が言った。
「決めてましたよね」
朱里さんがノートの上段を指で示す。工程表の一行目に、私はすでに書いていた。
栞日。
「しおりび」
朱里さんが声に出した。
「私が考えた名前、桐生さんが書くと、なんか正式に見える」
「店名は開業届に記載するので、正式です」
「そういうところ」
朱里さんの声にまた笑いが混じる。
栞日。
本に栞を挟む日。読みかけのページに印をつけて、また明日続きを読む。終わりではなく、途中。
この名前を朱里さんが言った時、私は何も反対しなかった。
合理的に考えれば、もっと認知されやすい店名にすべきだった。ひらがなの方が検索に引っかかる。漢字二文字は読みにくい。でも、反対しなかった。
*
午前十一時半。
窓の外を、人影が横切った。
ガラス越しに覗いている。白い髪。カーディガン。杖。
藤村さん。
自動ドアはまだない。私が入口の引き戸を開けた。
「藤村さん」
「あら、桐生さん。朱里ちゃんも」
藤村さんが路地に立っている。杖を持った右手で、テナントの中を覗き込んでいる。
「散歩の途中でね。看板の紙が見えたから」
入口の横に、朱里さんが手書きで貼った紙がある。「栞日——準備中」。マジックペンの丸い文字。
「まだ何もないんです。棚もないし、本もない」
朱里さんが言う。
「でも、秋にはオープンします」
藤村さんの眼鏡の奥で目が細くなった。
「楽しみにしているわ。主人にも報告するわね」
藤村さんはそれだけ言って、杖の音を鳴らしながら路地の先へ歩いていった。白いカーディガンの背中が三月の木漏れ日の中で小さくなっていく。
朱里さんが入口の枠に肩を預けて、藤村さんの背中を見送っている。
「来てくれますかね」
「来ますよ。吉祥寺は武蔵境から二駅です」
「二駅」
「中央線で四分」
朱里さんが入口から体を戻す。テナントの中に向き直って、天井を見上げた。高い天井。剥き出しの配管。春の光が壁を白く照らしている。
*
午後一時。
朱里さんのスマートフォンが鳴った。
「あ、ゆりちゃん」
朱里さんが出る。私はノートに工程表の続きを書いている。
「うん、場所決まったよ。吉祥寺。秋くらいにオープン予定」
通話の向こうで、三嶋さんの声が高くなるのが聞こえる。何を言っているかは聞き取れないが、声量が上がっているのはわかる。
「来てよ。四月から灯台社でしょ。仕事帰りに寄れる場所にする」
朱里さんが笑っている。電話口で、半年前の武蔵境の時と同じ声で。
「うん。じゃあ、また。桐生さんにもよろしくって言ってた」
電話が終わった。
「三嶋さんが、桐生さんによろしくと」
「伝えてください。就職おめでとうございます、と」
「自分で言ったらいいのに」
「工程表が終わったら」
朱里さんがまた笑う。
ノートの上のボールペンが止まった。
八月のプレオープンに間に合わせるには、来週中に内装業者を決めなければいけない。棚のサイズは朱里さんが決める。電気容量の申請は私がやる。取次との口座開設も私の仕事だ。
仕事。
この作業を「仕事」と呼ぶことに、違和感がない。
四年間、仕事は「閉める」ことだった。ガントチャートの赤い線は常に右端の閉店日に向かっていた。今、青い線は右端の開店日に向かっている。
閉める手つきと開ける手つきは同じだ。工程を組み、日程を管理し、リスクを洗い出し、担当に振る。変わったのは方向だけ。
朱里さんが窓際に戻ってきた。
椅子に座る。段ボール箱のテーブルの向こうで、私のノートを覗き込む。
「九月オープンなら、ちょうど一年」
「一年?」
「武蔵境が閉まってから、一年」
私のペンが止まった。
九月。
一年前の九月十二日。シャッターのボタンを押した日。金属が地面に触れた音。あの日、朱里さんの手を握った。
「合理的に考えて——」
言いかけた。
いつもの口癖。防衛の言葉。本心と逆のことを言う前振り。四年間、八店舗分、繰り返してきた接頭語。
でも、その先が出てこなかった。
代わりに、口の端が動いた。
唇が横に引かれる。頬の筋肉が持ち上がる。
笑っている。
自分が笑っていることに、一秒遅れて気づいた。
朱里さんが目を丸くしている。
「……桐生さん、今、笑った?」
笑っている。なぜだかわからない。合理的に考えて、開業は茨の道だ。独立書店の生存率。資金繰り。固定費。大手チェーンとの競合。ネット通販。電子書籍。数字を並べれば、絶望的な方が多い。
でも笑っている。
「あなたの好きなように組んでください」
声が出た。自分でも聞いたことのない声だった。笑いが混じっている。笑いが言葉の中に入っている。
「棚も、平台も、POPも、客注の仕組みも。あなたの好きなように」
朱里さんが、まだ目を丸くしている。
「私は、見ています」
朱里さんの唇がゆっくり横に引かれた。
歯が見える。笑っている。二人で笑っている。がらんどうのテナントの中で。本のない空間で。本がこれから入ってくる空間で。
三月の光が窓から差し込んでいた。
コンクリートの床に落ちた四角い光の中に、椅子が二つ。段ボール箱が一つ。ノートが一冊。青いボールペン。
栞日。
この場所に、秋が来る。




