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Given No Name  作者: 真白しょう太
第一章:望月雅
8/9

第8話:望月紗耶華

(みやび)に髪を切ってもらった後、透真(とうま)は細かい毛を流すために風呂に入った。

その後、少しだけ休憩を挟んで、今度は夕飯の準備を手伝っていた。


朝から動いていたせいで、病み上がりの身体は少し重かった。

けれど、心地のいい疲れだった。

何かを任されて、できる範囲で手を動かしている方が、ただ横になっているよりずっと落ち着いた。


「は~い、完成!」


夕飯は和風ハンバーグとサラダ、それにご飯とみそ汁。

昼と同じく、透真が材料を切ったり混ぜたりして、雅が力の必要な作業を担当した。


雅の作るご飯は、いつもちゃんと美味しかった。


透真の療養中は、「横になる時間が長いから」と、ずっと消化にいいものを作ってくれていた。


こんなしっかりしたメニューは久しぶりだった。

透真は思わず喉をごくりと鳴らした。


「いっただっきまーす♡」

「いただきます」

「……いただきます」


夕飯も、三人で食卓を囲んだ。

乱珠(らんじゅ)は相変わらず口数が少なかったが、雅と透真が話をしていても、何も言わなかった。


何も言わなくても、自分がいても乱珠が避けなくなったことに、安堵した。


食後、洗い物をするために流し台の前に立つと、窓ガラスに映る自分の輪郭が、朝よりも少しだけ知らないものに見えた。

髪を切ってもらったせいか、首元が少し涼しかった。


「いや~、透真くんに家事手伝ってもらえるの、研究の時間も確保できるしほんと助かる~♡」

「そう言ってもらえると嬉しいっす」


雅は透真の隣に立ち、食器を洗い始めた。

乱珠は食器を流しに下げたあと、すぐに自室に戻ってしまった。


以前は当番制で家事を回していたらしい。

だが、乱珠は力加減を間違えて皿を割るし、他の同居人も大雑把なところがあって、結局分担制に落ち着いたのだと透真は聞いていた。


水を流す音と、皿を重ねる音が、流し台の前で小さく響いていた。


雅が洗い、透真が拭く。

濡れた皿を受け取るたびに、指先が少し冷える。

けれど、その冷たささえ、今は嫌ではなかった。


「そういえば、雅さんの研究室(ラボ)ってなにを研究してるんすか?」

「お薬とか、毒とか」

「ど……」

「いや、毒はいざという時のだからね!? 人には使わないよ~」


雅はけらけらと笑った。

その笑顔があまりにも明るくて、透真は余計に判断に困った。


「薬の研究って、仕事……なんすか?」

「お仕事ではないんだけどねぇ」


雅は皿を洗いながら、困ったように笑った。

どう説明するか迷っている、というより、どこまで話していいかを選んでいるように見えた。


望月(もちづき)家って、私たちのパトロンみたいな感じで――あ、パトロンってわかる?」


聞いたことはある気がするが、詳しく分からなかった透真は首を振った。


「資金援助とか人脈サポートとかしてくれる人のことなんだけど」


雅は食器を洗う手を止めずに話し始めた。


「私たちがこうして暮らせてるのは望月家からの資金援助のおかげなの。割と大手の製薬会社さんでね」

「望月……もしかして、望月製薬っすか!?」

「お、知ってる?」

「知ってますよ! CMも見たことあるっす!」

「も~ちづ~き、せい~やく~、ってやつね」


CMソングを歌う雅に、透真は思わず吹き出した。


「実家が大企業ってことは……雅さん、お嬢様なんすね」

「いやいや、私はそんな大層なものじゃないのよん」


そう言いながらも、雅はどこか曖昧に笑った。


紗耶華(さやか)にも望月家にもお世話になってるから、そこの新薬開発を手伝ってる~って感じ」

「なるほど……」


透真は少し迷ってから、朝から気になっていたことを口にする。


「その、紗耶華さん? って人も、同居人なんすよね? どんな人なんすか?」


それまで絶えず動いていた雅の手が、ぴたりと止まった。


流し続けていた水の音だけが、しばらく二人の間に残った。

雅は少し考えてから、蛇口をひねって水を止めた。


水音が消えた途端、部屋の空気まで変わった気がした。


「会ってみる?」

「……へ?」


そう言って、雅は静かに目を閉じた。

呼吸ひとつ分の静寂。

それだけで、場の空気がすっと張り詰める。


『……ごきげんよう。透真さん』


目を開けた彼女は、もう雅ではなかった。


やわらかな笑みは消え、代わりに凛とした静けさが宿っている。

背筋はすっと伸び、立ち姿ひとつに無駄がない。


彼女は優雅な所作で裾を摘まむようにし、淀みなくカーテシーを見せた。

エプロンが、ドレスのように見えた。


「え……え!?」

『直接お話しするのは初めてですわね』

「雅さん……?」

『失礼。わたくし、望月紗耶華と申します』


透真はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

目の前にいるのは、さっきまで一緒に皿を洗っていた人のはずだ。

なのに、纏う空気も、声の質も、別人のようだった。


『驚かせてしまったこと、まずはお詫び申し上げますわ』


そう言って、紗耶華はまた華麗な仕草で頭を下げた。


『わたくしたちのことは、今は“同じ身体にいる別人”とでも思っていただければ問題ありません』

「……は、ぇ」


理解が追いつかず、自分でも情けない声が出たと思う。

紗耶華はそれにも動じず、まっすぐ透真を見つめた。


『今日は、貴方にお伝えしたいことがありますの』

「は、はい!」


紗耶華は、透真へ静かに手を伸ばした。

反射的に、身体が強張る。

肩がびくりと跳ね、透真は思わず目を閉じた。


叩かれると思ったわけではない。

それでも、誰かの手が頭上へ近づくと、身体が勝手に備えてしまう。


けれど、その手は優しく頭の上に置かれただけだった。


『……過酷な環境の中、それでもここまで生き延びた自分を誇りなさい』


その言葉に、透真はそっと目を開けた。

紗耶華の瞳は、まっすぐにこちらを見据えていた。

厳しいのに、少しも冷たくない。


『これから先の人生は、いくらでも切り拓けますわ』


凛とした声が、胸の奥へまっすぐ落ちてくる。


『貴方が望むのなら、わたくしが支えます』


言葉が出なかった。


どうしてそこまで言ってくれるのか、透真にはわからなかった。


けれど紗耶華は、透真の事情を知っているようだった。

ただ憐れんでいるのではない。

その目には、同情よりも、もっと強い感情が宿っている。


怒っているのだと、透真は思った。

自分のためにではなく、自分をここまで追い詰めた何かに対して。


驚いたまま見つめ返していた透真の頬に、一筋の涙が伝う。


『泣くのはおよしなさい』


ぴしゃりと言いながらも、紗耶華の声音はどこか柔らかい。


『人前で涙を見せるものではありませんわ』

「すい、ませ……っ」


喉が詰まる。

止めようとしても、涙は次々に滲んできた。


『助けが必要になれば、いつでもわたくしをお呼びなさいな。では、ごきげんよう』


目を奪われるほど美しい一礼を残して、紗耶華は静かに目を伏せる。

次の瞬間、空気がふっとほどけた。


「わあああ! 紗耶華が泣かせてごめんよ~っ」

「雅、さ……」


そこにいたのは、もういつもの雅だった。

申し訳なさそうな顔で透真に飛びつく。


飛びつかれた瞬間、透真の身体は一度だけ強張った。

けれど、雅の腕には責める力も、押さえつける力もなかった。

ただ、ぽんぽんと背中を撫でられる。


「紗耶華は厳しい人だけどね、本当はすっごく優しいの」


透真は何度も瞬きをした。

さっきまでの凛とした気配がもうどこにもなくて、余計に頭が追いつかない。


「私たちも、透真くんを追い出したりしない。だから、大丈夫」


その言葉に、胸の奥がほどけた。


うまく息ができない。


嬉しいのに、苦しい。


込み上げる涙を止めることは、もう、できなかった。


「……自分っ、嬉しくて……っ、こんなに、してもらっていいのかなって……!」


雅はくしゃっと笑う。


「いいのいいの! こういう時は、素直に受け取っとけばいいんだよ」


頭を撫でる雅の手は、紗耶華とは違って遠慮がない。

けれど、その乱暴なくらいの優しさが、今の透真にはありがたかった。


ここに来てから、何度も泣いている気がする。

情けないと思うのに、止められない。


それでも、ここでは泣いても怒鳴られなかった。


透真はもう何も言えず、ただ何度も頷いた。


流し台には、洗いかけの皿と、まだ泡のついたスポンジが置きっぱなしのままだった。



お読みいただきありがとうございます。


次回は6/19(金)19:00です。

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