第7話:鋏の音
昼食は、雅と一緒に簡単な焼きそばを作った。
傷に響くからと、雅は重いフライパンには触らせてくれなかった。
その代わり、細かな仕事を次々に渡された。
透真は言われた通りに、具材にする野菜を切り、使い終えた包丁を洗った。
それを見て、雅は笑顔で褒めてくれた。
「透真くん、手際いいねぇ」
「そうっすか?」
「うん。助かる助かる」
どれもささいな作業ばかりだった。
けれど、誰かに「助かる」と言われながらする家事は、家で黙って押しつけられていたそれとは、少し違っていた。
「今のうちにテーブル拭いてくれる?」
「わかりました」
雅が持つフライパンの中で、焼きそばがじゅう、と音を立てた。
ソースの焦げる香ばしい匂いが、ふわりとダイニングキッチンに広がる。
透真は布巾を濡らして絞り、ダイニングテーブルに向かった。
手を伸ばすと、わずかに背中の傷が痛んだ。
六人分の椅子が並ぶ大きなテーブルを、端から少しずつ拭いていく。
透真がこの場所で食事をするようになったのは、一週間ほど前からだった。
まだ動くのが大変だった間は、透真の部屋まで食事を運んでもらっていた。
けれど、鎮痛剤に頼らなくてもどうにか歩けるようになってからは、「リハビリになるし、こっちで一緒に食べよう」と雅が誘ってくれた。
雅と一緒に食事をするのは、素直に楽しいと思えた。
誰かと向かい合って、なんということもない会話をしながら同じものを食べる。
そんな食事を最後にしたのがいつだったのか、透真にはすぐに思い出せなかった。
思い出せないことが、少しだけ胸に痛かった。
焼きそばが出来上がると、雅は手際よく皿に盛りつけていった。
今日は、四つの皿に焼きそばが盛られた。
雅はたびたび、一人分多く作ることがあった。
それをあとで二階へ持っていくところも、透真は何度か見ていた。
この校舎には、まだ自分の知らない同居人がいる。
そう聞いてはいたけれど、透真はそれ以上を尋ねなかった。
聞いていいことなら、きっと雅の方から話してくれる。
そんな気がした。
雅は四皿のうち一つにラップをかけ、流し台の端へ置いた。
「透真くん、こっちの三皿、運んでくれる?」
「はい」
透真は短く頷き、三人分の焼きそばをダイニングテーブルに並べて、箸を添えた。
「乱ちゃーん! お昼~!」
雅が廊下に顔を出し、二階に向かって呼びかけた。
透真はちらりと階段の方に視線を向けた。
昨日まで、透真がダイニングキッチンにいる間、乱珠はほとんど姿を見せなかった。
雅がこうして呼びかけても、彼女は二階の自室から降りてこなかった。
雅は「できたてが美味しいのにね」と言いながらも、彼女の分にはラップをかけて冷蔵庫に入れていた。
けれど昨日、乱珠は透真がここにいることを、条件付きで許してくれた。
二度と、俺より前に出るな。
できないなら、すぐに叩き出す。
許された、というより、追い出されずに済んだだけかもしれない。
勝手に飛び出して怪我をしたことを謝れば、なにか変わるかもしれない、と思っていた。
それでも、今朝も彼女と食事をすることはなかった。
――自分と顔を合わせて食事をするのが、いやなのだろうか。
雅は乱珠を待つことなく席につき、透真にも座るよう促した。
「さ、食べよ~。いただきます!」
「……いただきます」
ここで食事をするようになってから、透真はいつも迷っていた。
乱珠より先に食べ始めてもいいのか。
けれど、食べないと雅が気にしてしまう。
透真は箸を持って、ひと口目を口に運ぼうとした。
その時、ギッ、と階段の軋む音が聞こえた。
開けっ放しだった扉から階段の方を見ると、乱珠の姿が見えた。
箸を握る手が強張る。
乱珠は、ダイニングキッチンへ入ってくると、何も言わずに雅の隣へ座った。
そして、小さく「いただきます」と言って焼きそばを食べ始めた。
初めて、彼女と同じ食卓についた。
それだけのことなのに、透真はどうしていいかわからなくなった。
箸を止めたまま、その様子を見てしまった。
雅の方を見ると、彼女もまた、少し驚いたような顔で乱珠を見ていた。
呼びはしたものの、本当に降りてくるとは思っていなかったようだった。
けれどすぐに、嬉しそうに目元をゆるめた。
「……じろじろ見てんじゃねぇよ」
睨むわけでもなく、乱珠は静かにそう言った。
「す、すいません」
透真は慌てて視線を外した。
ふと雅と目が合う。
彼女は、声に出さずに笑っていた。
透真は少し冷めかけた焼きそばを口に運んだ。
不思議と、さっきより温かく感じた。
*
昼食を終えた透真に最初に与えられた“ミッション”は、取り込んであった洗濯物をたたむことだった。
座ったままでもできる仕事だったので、身体への負担はほとんどなかった。
気を遣われている。
そう思うと、ありがたいのに、少しだけ落ち着かなかった。
洗濯物は、どれもよく乾いていた。
タオルからは、知らない柔軟剤の匂いがする。
けれど嫌な匂いではなかった。
清潔で、少し甘くて、この場所で誰かが普通に暮らしているのだとわかる匂いだった。
透真は一枚ずつ、角を揃えてたたんでいく。
こういう作業は嫌いではない。
手を動かしていれば、少なくともその間だけは、自分がここにいてもいい理由があるような気がした。
タオルを数枚たたみ終わると、あとは長袖やズボンのような衣類だけだった。
下着類はあらかじめ抜いておいてくれたのだろう。
女性ものの下着があったらどうしようかと少し困っていたので助かった。
洗濯物がそんなに多くなかったこともあって、すんなりとミッションは終了した。
「終わりました、雅さん……?」
ダイニングキッチンを覗きに行ったが、そこには誰の姿もなかった。
「雅さーん!」
部屋にいるのだろうか、と二階へ向かって声をかけた。
「ごめん透真くん、こっちー!」
階段のすぐ上から雅の声がした。
なにかしているのだろうか、と透真は階段を上がった。
「洗濯物たたみ終わったっす……わっ!?」
階段を上がった先には、ブルーシートが広がっていた。
散らばった赤と青のコントラストが透真の目を奪う。
一瞬、血かと思った。
けれど、床に散っていたのは赤い髪だった。
ポーチを腰に下げた雅が、鋏を手に持って立っている。
彼女の前の椅子には乱珠が座っていた。
「ありがと~! 乱ちゃんの髪切ってたから、ちょっと待ってね」
「……はい」
シャキ、シャキとリズムよく、心地のいい音が響いていた。
透真は、雅の鋏の動きを目で追った。
「ん? どした?」
「雅さん、髪切れるんすね」
「ほっとくと乱ちゃん自分で切っちゃうんだよね。美容室行きなって言ってるのに」
「……他人が刃物持って背後にいるの、嫌なんだよ」
乱珠の言い方は冗談には聞こえなかった。
まるで、そういう状況で生きてきたみたいだった。
「……自分も、どちらかと言えば苦手かもしれないっす」
刃物を持った他人が後ろにいる。
言葉通りに想像してみると、透真も背筋が冷えた気がした。
「透真くんもそうなの? んじゃ、切ってあげよっか?」
「え」
「ほい、乱ちゃんOK」
「さんきゅ」
雅は乱珠に掛けていたケープを外した。
乱珠は短く礼を言って、伸びをした。
「風呂入るわ」
そう言うと、彼女は階段を降りていった。
「ほら、座って座って!」
「いや大丈夫っすよ、自分で切るんで」
伸びたら適当に切る。
それで困ったことは、少なくともここ数年はなかった。
誰かに整えてもらう、という発想の方が、透真にはよほど遠いものだった。
「自分で切ると後ろガタガタになっちゃうでしょ! だ~め! いいから座る!」
雅に背中を押されて、透真は無意識に抵抗した。
鋏を持った雅が怖いわけではない。
彼女が自分を傷つけるとは思っていない。
それでも、背後に立たれることも、首筋の近くで刃物が鳴ることも、身体が先に拒んでしまった。
「動くと耳切っちゃうよ~?」
「……っす」
雅の声はいつもどおりなのに、有無を言わさぬ迫力に負け、透真はおとなしく椅子に座った。
「透真くん、だいぶ伸びてるねぇ。どれくらい切る?」
そう言われて、透真はここ数ヶ月、髪の毛など気にしていなかったことを思い出した。
「……短くて大丈夫っす。なんなら坊主でも」
「うえ~? バリカンもあるけど……今どきの子が坊主ってどうよ」
雅はくすくす笑いながら、透真の髪を指で梳いた。
「まあ、この雅様におまかせあれ! かっこよくしてあげる♡」
「お願い、します」
雅は霧吹きで髪を湿らせ、櫛を通した。
髪を梳かれるたび、頭皮がやわらかく引かれる。
ひと束ずつすくい上げられた髪が、シャキ、シャキと小気味いい音を立てて落ちていく。
冷たい水が首筋に触れて、鋏の音が耳のすぐそばで鳴った。
怖いはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
――気持ち、いいかも。
透真は目を閉じて鋏の音に耳を傾けた。
小気味いいリズムが、遠い記憶を呼び起こした。
ずっと昔、まだ家族が幸せに暮らしていた頃。
祖父の家の縁側で、母が新聞紙を広げてくれた。
風に揺れる洗濯物と、畳の匂い。
母の指が髪を梳く感触。
そんなものを、透真はぼんやりと思い出していた。
(母さん……)
透真が無意識に呼んだその名前は、口からも小さく溢れた。
「誰が母さんじゃい!」
「うわぁ!」
霧吹きを首元に吹きかけられ、透真は飛び上がった。
「気持ちよさそうでよかった♡」
雅は笑っていた。
けれど、その目だけがほんの少し、透真の顔に留まった。
「ほら、こんな感じでどう?」
「はい」と大きめの手鏡を透真に渡した雅は、透真の後ろで二つ折りの鏡を広げた。
「うお……!」
鏡に映っていたのは、少しだけまともに見える自分だった。
泥だらけで、死ぬ場所を探していた時の顔とはまるで違う。
髪の毛でこんなに印象が変わるのかと、透真は顔を傾けたり、横を向いたりしながら、鏡に映る自分を何度も確かめた。
「すげぇ……ありがとうございます!」
「ふふん。また伸びたら切ってあげるね」
雅は得意げに鋏を鳴らした。
ちょうどそのとき、風呂上がりの乱珠が階段を上がってきた。
透真を一瞥した彼女の足が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
けれど乱珠は何も言わず、そのまま自分の部屋へ戻っていった。
「……?」
「どしたの、透真くん」
「いや……なんでもないっす」
透真はもう一度、鏡の中の自分を見た。
――こんなにたくさんのことをしてもらって、いいのだろうか。
いや、返そう。
ここに置いてよかったと、思ってもらえるくらい。
透真は、鏡越しに雅を見た。
「はい。また、お願いしたいっす」
お読みいただきありがとうございます。
次回は6/12(金)19:00です。
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