第6話:自己紹介
透真が退院してから二週間あまりが過ぎ、包帯も取れた。
乱珠にも条件付きで居座ることを許してもらった、その翌日。
朝食後、部屋で休んでいたところを雅に呼び出された。
ダイニングキッチン兼リビングに入ると、乱珠がソファに身体を預けるように座っていた。
その斜め前には雅も座っていて、透真にも座るよう促した。
「では改めて!」
ぱん、と軽く手を叩いて、雅がにこやかに胸を張った。
「私の名前は望月雅。そして、こっちが~」
「……乱珠」
腕を組んだまま微動だにせず、乱珠がぶっきらぼうに名乗った。
「透真くんが来てから、ちょっとバタバタしちゃったからね。改めて、よろしく♡」
「よろしく、お願いします」
「ちょっといろいろあって、私たちはここで暮らしてるの。他にも同居人はいるんだけど、今は不在だったり……不在じゃなかったりするかな?」
「……?」
乱珠と雅以外に、この校舎で人を見かけたことはまだない。
雅の言い方に少し引っかかりを覚えながらも、透真はとりあえず頷いた。
「あの、聞いてもいいすか」
おずおずと、小さく手を挙げる。
「はい、透真くん!」
「この学校、やっぱり自分の通ってた学校なんすよ。取り壊されたって聞いたんすけど……」
「んー、いい質問!」
雅は得意げに人差し指を立てた。
「たまたま望月家――あ、私と紗耶華の実家ね。そのおじい様が、この学校の所有者と縁があって」
「紗耶華、さん?」
「うん。あとで紹介するね」
知らない名前がふいに飛び出した。
不在だという同居人の名前だろうか。
「それで、取り壊す予定だった校舎を、移築してもらったの♡」
「……それって、めちゃくちゃ金かかったんじゃ――」
「だって、この学校の時計台とステンドグラス、とっても気に入っちゃったんだもん……! こんなに素敵なものを取り壊すなんて、ありえないじゃない? 文化への冒涜よ!」
「はぁ……」
勢いに押されて、透真は曖昧な返事をすることしかできなかった。
「もちろん、老朽化してるから修理もしてるし、暮らしやすいように改築もしてるんだけど」
雅はそこで、ふっと肩をすくめた。
「まさか透真くんの母校だったなんて。世の中狭いね~」
それはほんとにそうだ、と透真は頷いた。
「ま、結果オーライってことで♡ 透真くんだって、知らない場所よりはましでしょ?」
「そ、っすね……」
透真は思わず乱珠の方を見た。
正直に言えば、居心地が悪いのは場所のせいではない。
まだ、乱珠との距離感を掴みきれていないからだ。
「あと、この前の……あの熊みたいなのってなんだったんすか?」
「あ~……やっぱ気になる?」
退院してきたとき、グラウンドには何の痕跡も残っていなかった。
だが、自分の身体にはあれらが紛れもなく実在していたという証拠が残っている。
「あれはね~……たまに私たちを追ってくるんだけど」
雅は言葉を探すように、乱珠へ視線を向けた。
「……あれ、なんて言ったらいいんだろうね、乱ちゃん」
「……俺に振るな」
「う~ん、こう、下っ端というか……雑魚キャラというか……いや雑魚って言うと違うな……」
雅は困ったように笑って、両手を合わせた。
「ごめん。こういうのちゃんと説明するの、私あんまり得意じゃないんだよね。もうすぐ綾ちゃんが帰ってくるから。そしたら、ちゃんと説明してもらうね」
また、この校舎に住む誰かの名前が出てきた。
雅と乱珠以外に人の気配はないというのに、ここには透真の知らない人間がまだ何人もいるらしい。
「あ。追ってくるヤツね、獣だけじゃないの。だから、知らない人が訪ねてきたら、基本警戒して?」
「わかり、ました」
知らない人。
知らない生き物。
あの日の獣の濁った目と、異様に長い牙が脳裏をよぎる。
あれがまた現れるかもしれないのだと思うと、思わず傷のあたりに手が伸びた。
けれど、隣のソファに座る乱珠も、目の前の雅も、焦っている様子はない。
それが少しだけ不思議だった。
同時に、ここではそれが珍しいことではないのだと、嫌でも分かってしまった。
「大丈夫、あれの狙いは私たちだから。透真くんは、絶対にあいつらの前に出ちゃダメ。ね?」
「……はい」
不安を見透かしたように、雅は少しだけ声音をやわらげた。
けれど、最後の言葉だけははっきりしていた。
「さて、ここからが本題!」
ぱっと表情を切り替えた雅が、にやりと黒い笑みを浮かべる。
「私はタダで同居人を増やすほど、甘くはないのよ?」
「な、なんでもやります! 金はないっすけど……」
「金などいらんっ!」
びしっと雅が言い切る。
「透真くんにはここで、家事手伝いをしてもらいますっ」
「……家事」
「今ね~、みんなで手分けしてるとはいえ、全然手が足りてないの」
「自分、家事なら少しできます!」
思わず前のめりになる。
炊事も洗濯も掃除も、一通りはできる。
雅は嬉しそうに手を打った。
「よし、決まり! でもまだ全快してないんだから、無理はしないこと」
「はい!」
透真は強く頷いた。
ここにいていい。
しかも、ただ置いてもらうだけじゃなく、自分がいる理由まで与えられた。
そのことが、胸の奥をじんわりと熱くした。
役に立てるかもしれない。
そう思えただけで、息が少し楽になった。
ただ寝床を借りるだけではない。飯を食わせてもらうだけでもない。
ここにいるために、自分にもできることがある。
それが、透真にはひどくありがたかった。
「よーし! お仕事してもらう前に、学校ツアーしちゃおう♡」
雅はそう言って、弾むように立ち上がった。
「行こっ! 透真くん」
「はい」
立ち上がった透真の横で、乱珠はソファに身体を預けたまま動かなかった。
こちらを見るでもなく、止めるでもない。
昨日までは、彼女の視線ひとつで身体が強張った。
けれど今は、何も言われないことが少しだけ救いになる。
すべて許されたわけではない。
それでも、追い出されてはいない。
その事実だけで、透真は少しだけ肩の力を抜いた。
*
「まずは一階からね。もう使ってるからわかると思うけど、ここがダイニングキッチン兼リビング」
「あっちは透真くんを最初に泊めた部屋だけど」と奥の扉を指さしてから、雅は目の前の扉を開けた。
「こっちにも部屋があって、パントリーとして使ってる」
「うわ……」
室内には業務用の大型冷蔵庫と冷凍庫があった。
棚には、保存のきく食材が所狭しと並んでいる。
ただの買い置き、という量ではない。
米袋、缶詰、調味料、冷凍された肉や魚。
ここで何人かが暮らし、何日も外へ出ずに過ごせるだけの備えがある。
それが、妙に現実味を帯びて見えた。
この校舎は隠れ家ではなく、本当に誰かの生活の場所なのだ。
「気軽に買い物行ける距離じゃないからね~。急に必要になることもあるし」
「そうなんすね」
「そ。食材取ってきてって言われたら基本ここね」
「了解っす」
雅は扉を閉めて、廊下へと歩き出した。
透真はその後ろをついていく。
彼女は、透真を気遣ってゆっくり歩いてくれていた。
「透真くんは料理できる人?」
「簡単なものなら、できると思うっす」
「じゃあ、お昼は一緒に作ってみようか」
「はい」
雅との会話は、不思議と息がしやすかった。
年下だからと雑に扱われるわけでもなく、できないことを責められるわけでもない。
その距離感が、透真にはありがたかった。
雅が隣の部屋の引き戸を開く。
こちらには大型の棚が並び、日用品がジャンルごとに分けられて収納されていた。
「こっちはいろいろ置いてる倉庫」
「おお……」
目の前に並ぶ量に、透真は思わず息を漏らした。
「掃除用具とか、洗剤の詰め替えとか。買い置きしてある食材以外の物もここにあるかな」
「これって、全部雅さんが管理してるんすか」
「今はね~。そのうち、そういうのも透真くんに任せたいなと思ってるよん」
そう言われて、透真は背筋を伸ばした。
「ここって、何人で住んでるんすか?」
「んーと、透真くんを入れて五人……かな」
思い出すように指折り数えて、雅はそう答えた。
「雅さん、乱珠さんに……紗耶華さんと、綾ちゃんって人すか」
「あ~、紗耶華も数えるなら六人になるね」
「けっこう多いんすね……」
人数に加えてこの山奥なら、この量の備えも必要になるのだろう、と透真は納得した。
同時に、まだ名前の出ていない誰かがいることが、頭の片隅に引っ掛かった。
「皆さんにも、ちゃんとあいさつしたいっす」
「そっか、そうね。タイミング見てセッティングするよ」
「お願いします」
その後も雅は一階のあちこちを案内してくれた。
今まで入ったことのない部屋を見るたびに、彼女たちの生活の輪郭が少しずつ見えてくる。
「この部屋は、危ないものも置いてあるから入っちゃダメ」
「雨の日の洗濯物はここで干すの。天気のいい日は校舎裏に物干し台があるから、そっちで干してね」
「お風呂とトイレの洗剤はここね」
何をどこから取ればいいのか。
どこを掃除し、どこに干し、どこへ戻せばいいのか。
雅が丁寧に教えてくれるおかげで、自分がここで何をすればいいのかも、なんとなく分かってきた。
「じゃあ、二階も軽く見ようか」
「はい」
階段を上る途中、透真は踊り場にあるステンドグラスの前で立ち止まった。
「……雅さんが気に入ったっていうステンドグラス、これっすよね」
「そそ」
「これ、自分たちの卒業記念で作ったやつなんすよ」
「そうなの!?」
雅は目を丸くした。
透真は、オレンジ色のガラスを見上げた。
同級生たちと並んで、色ガラスの欠片を選んだことを思い出す。
自分の選んだ欠片が本当に使われるのだと知って、少し誇らしかった。
卒業式の日、祖父と両親がこのステンドグラスを見上げて、いい学校だったな、と笑ってくれたことも。
壊されるはずだったものが、今もここにある。
「あそこのオレンジの丸いガラス、自分が選んだんすよ」
「すご~!」
雅はもう一度、ステンドグラスを見上げた。
目を細めるその横顔は、どこか懐かしいものを見るようでもあった。
「……最初このステンドグラスを見た時に、私、感動したのね」
「たくさんの人の想いが詰まってるって、伝わってきた気がして」
「壊しちゃうなんてもったいないから、ちょっと強引に移築お願いしちゃったんだよね」
雅はぽつぽつと、言葉をこぼすようにそう言って、また階段を上がっていった。
透真は少しだけ、その場に足を止めた。
自分が関わったものが、彼女の心を動かした。
そして今、自分はこの場所にいる。
ただの偶然なのかもしれない。
それでも、自分がこの場所に呼ばれたような気がして、透真はもう一度ステンドグラスを見つめた。
雅を追いかけて階段を上がっていくと、彼女は階段を上がりきったところで待っていてくれた。
「さて、二階は基本的に私たちの部屋だね。
あっちが乱ちゃん、その奥が綾ちゃんの部屋。そこが私、隣が――」
「……?」
雅は何かを言いかけて、やめた。
視線が向けられたその扉だけ、他の部屋より少し静かに見えた。
雅はゆっくりと透真を振り返って、こう続けた。
「……隣の部屋には、入らないでね」
「……はい」
理由はわからない。
けれど、ここだけは不用意に触れてはいけない場所なのだと、透真にも分かった。
雅は少し廊下を進んで、広そうな部屋の扉の前で立ち止まった。
その部屋には「雅の研究室♡」と書いてあるプレートがかけられていた。
「こっちは私の研究室。どこにもいないな~って時は、だいたいここにいるから」
「研究……」
さっきの部屋とは違う意味で、扉の向こうが気になった。
だが、雅が開けた隙間から見えた棚には、見慣れない瓶や器具らしきものが並んでいる。
素人が手を出していい場所ではなさそうだった。
「ここもいろんなものあるから、入らない方がいいね」
「わかりました」
入ってはいけない部屋が多い。
そう思ったが、それだけこの校舎には、自分の知らない事情が詰まっているのだろう。
「校舎はこんなものかなぁ? 外には綾ちゃんのガレージと、物置小屋と……」
雅は指を折りながら、まだまだ案内する場所があると言わんばかりに並べていく。
透真は慌てて頭の中で整理しようとしたが、正直なところ、すべては覚えきれていなかった。
「覚えきれるか不安なんで、わかんなくなったらまた聞いてもいいすか」
「うん、いいよ」
あっさり返ってきた答えに、透真は少しだけほっとした。
「透真くん、疲れてない? 大丈夫?」
ふいに顔を覗き込まれ、透真は反射的に背筋を伸ばした。
たしかに、あちこち歩いたせいで傷は少し引きつっている感覚があった。
けれど、それを言えばまた気を遣わせてしまいそうだった。
「大丈夫っす」
「ほんとに~?」
「ほんとっす」
雅は疑うように目を細めたが、すぐにいつもの笑みに戻った。
「よーし、じゃあお昼ごはん作ろっか」
「はい」
ひと通り校舎の中を見て回っても、雅たちの事情というものはあまり掴めなかった。
それでも、ここで自分が何をすればいいのかは、少しだけ見えてきた。
この校舎が、少しずつ自分の居場所になっていくような気がした。
そう思うことが、まだ少し怖くて、それでも嬉しかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は6/5(金)19:00です。
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