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Given No Name  作者: 真白しょう太
序章:中原透真
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第4話:誰かの名前

赤髪の女めがけて振り下ろされる爪の前へ、透真(とうま)は飛び込むように身体を割り込ませた。

次の瞬間、背中から脇腹にかけて凄まじい衝撃が走る。


――熱い。いや、痛い。


何かが破れた感触と一緒に、身体の奥へ氷のようなものが突き刺さる。

視界がぐらりと傾いた。


「……は?」


赤髪の女の声がした。

動揺したような、怒っているような声だった。


透真の身体が地面に叩きつけられる寸前、(みやび)が横から飛び込んだ。

薙刀を片手に、もう片方の手で透真の肩口を掴む。

そのまま後ろへ身を引き、獣の足元から透真を引きずり出した。

獣の爪が、ほんの少し前まで透真のいた地面を抉った。


赤い瞳が、月の下でひどく揺れている。


「……っざけんな――」


その言葉は、最後まで聞こえなかった。

次の瞬間、獣の胴は真っ二つに切り裂かれていた。

黒い飛沫が宙に散る。


「透真くん!」


雅が透真のそばへ膝をついて叫んだ。

赤髪の女は、ただその場で呆然とその光景を見ていた。


透真は何か返そうとした。

けれど、喉の奥からは掠れた空気しか漏れない。


校庭は静かになった。

その静けさが、逆に恐ろしかった。


赤髪の女が近づいてきたのがわかった。

月を背負っているせいで、表情はよく見えない。


誰かの名前を呼んでいる。


それが怒鳴り声なのか、掠れた呟きなのか、もう透真にはわからなかった。


視界が白く滲む。

痛みが遅れて全身へ広がっていく。


――ああ、迷惑をかけてしまう。……でも。


(これでよかったんだ……)


そう思ったところで、意識が途切れた。







早朝の診療所は、妙に静かだった。

廊下の長椅子に腰掛けた赤髪の女は、腕を組んだまま、一度も処置室の方を見ようとしなかった。

蛍光灯の白い光が、無機質に廊下の床を照らしている。

消毒液の匂いが鼻についた。


パタパタと足音が近づいてきて、彼女はようやく顔を上げた。


「……透真くんは?」

「……安定したって」

「よかった……」


雅は隣に腰を下ろし、薄い封筒を取り出した。


(あおい)兄様に頼んで、透真くんの素性を調べてもらった」


女の眉間に深く皺が寄る。


「……んなことしてたのかよ」

「だって、ほとんど何も教えてくれなかったんだもん。このままだとご家族にも連絡できないし、もし殺人犯とかだったら困るでしょ~」


雅は封筒から数枚の紙を取り出した。


「あの子の荷物、空の香典袋と小銭だけだった。なんか訳ありっぽい――」


そこで、雅の声が止まった。

調査報告書に目を落としたまま、表情からいつもの軽さがすっと消える。


「……うわ」


小さく漏れた声に、赤髪の女がわずかに目を細めた。


「なんだよ」

「人生ハードモードすぎるわ、あの子……」


雅はため息とともに報告書を女へ差し出す。

けれど、彼女は手を伸ばさなかった。

赤い瞳が紙束を一瞥する。

それきり、視線を逸らした。


「見ないの?」

「……」

(らん)ちゃん」


呼ばれても、彼女は答えない。

その沈黙が、逆に何かを知るのを拒んでいるようにも見えた。


「……似てるよね、あの子」

「……似てねぇだろ」


雅は小さく息を吐くと、差し出していた報告書を自分の膝へ戻した。


「あの子、しばらくうちに置く」


女の肩が、ほんのわずかに強張った。


「いいよね、乱ちゃん」


静けさが、ふたりの間に落ちた。


赤髪の女は何も言わなかった。

肯定も、否定も。


ただ、組んだ腕に力を込めたまま、長く息を吐く。

雅はその横顔を見て、報告書を封筒へ戻した。


これ以上は、もう言わなくてもいいと思った。

否定しないなら、それで十分だった。







透真がゆるゆると目を開けた時、天井は白かった。


意識がはっきりしない。

一瞬、死んだのかと思った。


けれど鼻をつく消毒液の匂いと、廊下の向こうで聞こえるかすかな足音が、ここが現実であると突きつけてくる。


(……病院……?)


身体を起こそうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走って息を呑む。


「起きた?」


柔らかな声に顔を向けると、カーテンの隙間から雅が覗き込んでいた。

今日は薙刀ではなく、代わりにコンビニのコーヒーカップを持っていた。


「……ぁ」


何か言おうとしたのに、掠れた空気が漏れただけだった。

喉が焼けるみたいに痛い。

口の中もからからで、舌が上顎に張りつく。


「しゃべらなくていいよ。ほら、少しだけ水飲める?」


雅が水の入った紙コップを透真の口元に寄せる。

透真は唇を湿らせるように一口だけ含んだ。

冷たい水が喉を通った瞬間、ひりつく痛みに小さく眉を寄せる。

それでも、少しだけ楽になった。


「……っ、ぅ……」


まだちゃんとした声にならない。

雅はそんな透真を見て、少しだけ声音をやわらげた。


「大丈夫。ちゃんと処置してもらったから」

「……こ、こって」

「近くの診療所。かなりざっくりやられちゃったからね~」

「……そ、っすか」

「も~、そんな軽い返しで済むような怪我じゃなかったんだよ?」


口調は柔らかくとも、雅の言葉には少しだけ怒気が込められているようだった。


「……すい、ません」

「乱ちゃんにも言ってあげて。あの子、昨日からずっと機嫌最悪」


そう言われて、透真は曖昧に視線を落とした。


(あの人は、無事だったんだ……)


透真の心に安堵が広がった。

それと同時に、自分の命が終わらなかったことを、少し滑稽に思った。

あの人を助けて、そのまま死んでいたら――こうして迷惑をかけることもなかったのに。


白いシーツの上、自分の身体にはきちんと包帯が巻かれている。

傷口の処置も、着替えも、全部誰かがやってくれたのだろう。


「治療費は心配しなくていいからね」

「……え」

「あと、治るまではうちにいなよ。むしろちゃんと治すまで帰さないよ」

「でも」

「でもじゃない。そんな状態で放り出したら、あとで夢見悪いも~ん」


雅は軽く笑った。


その軽さに救われる半面、透真の胸の奥には重たいものが沈んだ。


助けてもらった。

風呂も飯も寝床ももらった。

怪我の治療までしてもらった。


なのに自分は、何ひとつ返せていない。


「……ありがとう、ございます」

「はい、よく言えました」


雅はもう一度紙コップを差し出した。

冷たい水が喉を通り、少しだけ生き返った気がした。



お読みいただきありがとうございます。


次回、序章「中原透真」最終話です。

5月22日(金)19:00更新予定です。

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