第3話:叫び
食事が一段落すると、雅はお茶を用意しながら、ぽつぽつと透真に問いかけた。
どうしてこんな場所に来たのか。
家族は心配していないか。
透真は最初、うまく答えられなかった。
喉まで上がってくる言葉が、どれも重くて、声にするのがひどく億劫だった。
それでも、雅は急かさなかった。
ただ待っていた。無理に慰めるでもなく、責めるでもなく、静かに見ていた。
「……死ぬつもりで、来たっす」
ようやく出たのは、その一言だった。
雅は目を伏せた。
驚いた顔はしなかった。
ただ、すぐには何も言わなかった。
「そっか」
「家……もうなくて」
「うん」
「親も……まぁ、いないっていうか」
そこまで言って、透真は口を閉ざした。
もうこれ以上は言いたくなかった。
言葉にすると、また涙がこぼれてしまいそうだった。
雅はそれ以上深くは聞かなかった。
代わりに、湯呑みを置いて、何でもないことのように言った。
「着てきた服、ボロボロだったよね。今着てる服は全部あげるから、あの服は処分しても大丈夫?」
「……っす。むしろ、すいません」
そして、彼女は当たり前のような声で言った。
「今夜は泊まっていきなよ」
「……え」
「もう遅いし、ね?」
「いや、でも……」
「大丈夫だって。乱ちゃんだって鬼じゃないんだから追い出したりはしないよ~」
そのあまりに楽観的な言い方に、透真は曖昧に笑うしかなかった。
いや、あの人は普通に追い出しそうだな、と少し思ったけれど。
雅は奥の扉を開けて隣の部屋へ入り、透真を手招きした。
入ってみると、その部屋は宿直部屋だったらしく、六畳くらいの畳敷きになっていた。
雅は押し入れから布団を引っ張り出し、手際よく敷いていく。
「はい、今日の寝床。何かあったら呼んで。二階の、上がってすぐ右側が私の部屋」
「……ありがとうございます」
「ううん、怖がらせちゃったお詫びだから」
透真はどう答えればいいのかわからず、ただ少しだけ頭を下げた。
雅は気にした様子もなく、にこっと笑う。
「おやすみ、透真くん」
「……おやすみ、なさい」
扉が閉まる音がして、部屋は静かになった。
敷かれた布団は柔らかかった。
清潔なシーツの匂いがする。
透真が横になると、身体は信じられないくらい深く沈み込んだ。
こんなの、駄目だと思った。
こんなところにいたら、もう少し生きてみてもいいんじゃないか、なんて思ってしまいそうだった。
風呂も、飯も、布団も。
どれも当たり前みたいに差し出されて、気づけばそれに縋りたくなっている自分が嫌だった。
――ここにいてはいけない。迷惑をかけるだけだ。
何より、赤髪の女は明らかに自分を歓迎していなかった。
そう思うのに、瞼が落ちる。
久しぶりの安心に、身体の方が先に折れた。
*
どれくらい眠っていたのかわからなかった。
透真が目を覚ました時、部屋の明かりは消えていて、校舎のどこかで木が軋む音だけが小さく響いていた。
音を立てないように、そっと起き上がる。
包帯を巻かれた膝が、じわりと痛んだ。
――出ていこう。
これ以上ここにいたら、きっと出ていけなくなる。
布団を抜け出し、ドアを少しだけ開けてダイニングキッチンの様子を伺う。
すでに食事の片付けもされていて、誰もおらず、真っ暗になっていた。
廊下に出ると校舎内は薄暗く、夜の気配に沈んでいた。
気づかれないように、透真は静かに歩き出した。
板張りの廊下は古いぶん、少し踏み損なえばすぐに軋む。
息を潜め、足裏の感覚だけで鳴らない場所を探しながら進む。
昇降口の引き戸を少し開いた、その時だった。
「出てくんな!」
低く、鋭い声が闇の向こうから飛んだ。
透真はびくりと肩を震わせ、反射的に手を引っ込める。
心臓が嫌な跳ね方をした。
外に目を凝らすと、月明かりを背にした細い影がひとつ、昇降口の少し先に立っていた。
深紅の髪が夜風に揺れる。
「……あ、の」
返事はなかった。
背を向けたまま、彼女はゆっくり刀を抜いた。
月明かりの下、細い刃が青白く光った。
その時ようやく、透真は異変に気づいた。
校庭の端。木々の影。
夜の暗がりのあちこちに、いくつもの気配がある。
低い唸り声が、地を這うように響いた。
「……っ!」
野犬だ、と透真は思った。
けれど、どこか違う。
輪郭は犬のようなのに、目だけがぎらぎらと濁った光を放っていて、口元からは異様に長い牙が覗いている。
体躯も熊のように大きく、毛並みも不自然に逆立ち、四肢は骨ばって見えた。
それらが、じわり、じわりとこちらへにじり寄ってきた。
そこへ、昇降口の庇の上から、雅がひらりと舞い降りた。
手には薙刀を持っていた。
月光を受けて、その刃が静かに冴えていた。
「お待たせっ!こっちは任せて!」
「ああ」
赤髪の女は短く返し、次の瞬間にはもう駆けていた。
速い、というより、透真の目では追えなかった。
気づけば群れの一番前にいた獣の喉元を斬り裂いていた。
血とも泥ともつかない黒いものが飛び散り、遅れて獣の巨体が崩れ落ちる。
雅は校舎の正面に陣取り、薙刀で間合いを制していた。
長い柄を滑らせるように操り、飛び込んできた一匹の脚を払った。
そのまま刃を返し、首元を断つ。
動きに無駄がない。
赤髪の女の戦い方が炎なら、雅のそれは冷たい氷だった。
透真は昇降口の内側で立ち尽くしたまま、息を呑んだ。
出てくるなと言われた理由が、ようやく分かった。
獣たちは次々と飛びかかってくる。
赤髪の女はそれを正面から斬り伏せていくが、動きには一切の躊躇がない。
深く踏み込み、最短で首を狙う。
後ろの獣が彼女の肩先を抉っても、構わず次の標的の急所を狙っていた。
「乱ちゃん、右!」
「わかってる!」
そう吐き捨てて、女は右から襲ってきた獣を斬り払う。
けれど、数が多い。
一匹倒しても、また暗がりから別の影が現れる。
目の前の信じがたい光景に足がすくむ。
逃げたくても、どう逃げればいいのかわからない。
透真は無意識に拳を握りしめた。
自分は何をしているんだ。
助けてもらって、風呂に入れてもらって、飯を食わせてもらって、布団まで借りておいて。
そのくせこっそり出ていこうとして、今はただ見ているだけだなんて。
雅が一匹を仕留める間に、赤髪の女は二匹、三匹と斬り伏せていった。
あれほど強いのに、彼女はどこか危うく見えた。
彼女が斬り込むたび、一歩深く入りすぎている気がした。
倒した数が増えるほど、彼女の身体にも深い傷が増えていった。
自分の身体のことなんて、まるで頭にないような――
「……っ!」
赤髪の女が獣の喉を断ち切って着地した、その瞬間だった。
瀕死の獣が彼女の足に喰らいついた。
わずかに、体勢が崩れた。
考えるより先に、透真は飛び出していた。
自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。
「……透真くん!?」
雅が振り返った時、透真はもう彼女には止められないところまで走っていた。
赤髪の女が、足元の獣にとどめを刺した。
その背後から、残っていた一匹が飛び込んだ。
太い前脚が大きく持ち上げられ、鋭い爪が月光を裂いた。
彼女はまだ、後ろを振り向けていない。
「っ、危な――」
叫びは、最後まで形にならなかった。
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次回は、5月15日(金)19:00更新予定です。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




