第2話:赤髪の女
――パァン!
「はーい、そっこまでー!」
場にふさわしくない明るい声と、やけに大きな柏手が響いた。
その瞬間、首を締めていた手の力が緩む。
ようやく圧迫感から解放され、透真は激しく咳き込んだ。
うずくまったまま見上げると、深紫の長髪の女性が傍らに立っていた。
「乱ちゃん、この人、たぶん違う」
「雅……」
透真に跨っていた女は、少し間をおいてから、無言で立ち上がった。
雅――そう呼ばれた女は、透真のすぐ横にしゃがみ、尋ねた。
「あなた、だあれ?」
「自分、は……中原、透真っす……」
予想外の返答だったのか、雅は少し驚いた顔をした。
「んーと、そういうことじゃないんだけど」
赤髪の女を振り返って、雅はウインクをした。
「ほらね?」
「……」
赤髪の女は刀を鞘に納めた。
けれど、透真から目を離せないでいるようだった。
「その、勝手に入ってすんません……」
「ううん、こちらこそ驚かせちゃってごめんね」
「……懐かしくて。母校だったんす、自分の」
「えー!そうなの!?」
雅が、ぱっと表情を明るくする。
「なんでこんなところに、って思って……」
「それには、海より深~い事情があるのよん」
「そう、っすか……」
雅は立ち上がって壁のスイッチを押し、廊下の蛍光灯をつけた。
パッと明るくなった屋内に、透真はようやく肩の力が抜けた。
まだ、透真の手は震えていた。
「乱ちゃんはなんで廊下にいたのよ?」
「洗濯物置いてくんの忘れた」
「あ! また髪の毛乾かしてない!」
これがついさっきまで人を殺そうとしていた人のする会話だろうか。
そう思いながら、透真は二人を呆然と眺めていた。
ふと、雅が透真を振り返った。
「って、え!? 君めっちゃ怪我してるじゃん!」
「へ……」
何度も転んで泥だらけになった身体を見下ろし、透真はようやく自分のひどい有様に気づく。
「お風呂お風呂!とりあえず泥落としておいで。そのあと手当てしよう」
「おい雅!」
「このままほっぽり出すわけにいかないでしょ~」
反対だと言わんばかりに、赤髪の女は雅を睨んだ。
雅は気にする様子もなくパタパタとスリッパを鳴らして走り出した。
「私、新しいタオルとか出してくるから。お風呂案内してあげて、乱ちゃん♡」
「……」
二人に、ただ重い沈黙が残された。
「……あの、大丈夫っす。自分、出ていき――」
「来い」
赤髪の女は透真の腕を掴み、そのまま廊下の奥へと歩き出した。
「多目的室」と書いてある扉の前で彼女は立ち止まり、勢いよく木製の扉を開いた。
室内には、まだ湯気が残っていた。
洗面台や洗濯機、棚や日用品がきれいに並び、生活感にあふれている。
パーテーションの奥の床はタイル張りになっていて、猫足のバスタブが見えた。
「これがシャンプーとコンディショナー。ボディソープはこれ。そっちのは使うな。雅が怒る」
「はぁ……」
「シャワーはすぐお湯が出るから、湯船に入る前に体流せよ」
ぶっきらぼうに説明をした赤髪の女は、近くにあった棚を開けて、何かを取り出した。
「……あとこれ」
「……?」
彼女が差し出したのは、数枚の大きな防水絆創膏だった。
「……必要なら使え」
透真は一瞬だけそれを見つめ、それから小さく頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
赤髪の女が出ていくと、浴室には急に水音の余韻だけが残った。
透真はしばらく絆創膏を手にしたまま立ち尽くしていた。
彼女に乱暴に腕を掴まれた感触が、まだ皮膚に残っている。
あれだけの殺気を向けてきた相手が、風呂の使い方を教えて、絆創膏まで渡してきた。
そのちぐはぐさに、どう反応していいのかわからなかった。
「……なんなんだ、あの人……」
小さく呟いて、自分の泥だらけの服を見下ろした。
肩口も袖も土で黒ずみ、乾いた泥がぱりぱりと落ちた。
膝は擦りむけ、あちこちに細かい切り傷がいくつもある。
言われてみれば、ひどい有様だった。
透真は服を脱ぎ、軽くたたんでパーテーションの手前のカゴに入れた。
大きな傷口の泥は払い落とし、絆創膏を貼った。
湯気の残る浴室は、ほんのりと石鹸の匂いがした。
シャワーのノズルを捻ると、すぐに暖かいお湯が出てきた。
細かな傷はわずかに沁みたが、絆創膏のおかげで出血していた傷は痛まなかった。
髪や体についた泥を洗い流し、バスタブに向かう。
タイル張りの床は冷たかったが、バスタブの湯を指先で触れた瞬間、思わず息を呑む。
まだ温かい。
恐る恐る肩まで沈むと、張り詰めていたものが一気にほどけた。
じん、と全身に熱が広がる。強張った体が、少しずつ溶けていくようだった。
――こんな風に湯に浸かったのは、いつぶりだろう。
目を閉じると、喉の奥が勝手に震えた。
湯気に紛れるように、一粒だけ涙が落ちた。
「……あったけぇ……」
それだけ呟いて、透真はしばらく動けなかった。
*
透真がバスタブから立ち上がると、バシャンと大きな水音が響いた。
「……あ」
樹海の中で聞こえた水音と同じだった。
さっきの赤髪の女が入浴していたのかと想像しそうになって、透真はぶんぶんと頭を振った。
パーテーションから顔を出すと、カゴの隣に畳まれたタオルと、見覚えのない服が置いてあった。
新品のボクサーパンツにTシャツとスウェット。真新しいスリッパまで置いてある。
いつのまに置いて行ってくれたんだろう。
……なんで、男物の下着があるんだろう。
そんなことを考えながら、濡れた髪を雑に拭いて服を着る。
少し大きい。けれどそれが逆に心地よかった。
乾いた布が肌に触れるだけで、こんなに安心するものなのかと透真は思った。
廊下へ出ると、先ほどまでの緊張が嘘みたいに静かだった。
昇降口の向こうの部屋から明かりが漏れている。
そこへ近づくと、雅がひょいと顔を出した。
「お、あがったね。こっちこっち」
「職員室」と書かれた部屋に入ると、広いダイニングキッチンのようなしつらえになっていた。
大きなテーブルと、テレビにソファまである。
おそらく雅の趣味なのだろう、可愛らしくも使い勝手のよさそうな部屋を透真は見回した。
ふとテーブルを見ると、そこには救急箱が広げられていた。
その隣には湯気の立つ料理が並んでいる。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
白いご飯と味噌汁。焼き魚に卵焼き、おひたし。
豪華、というほどではないのかもしれない。
でも透真には、それが眩しいくらいにちゃんとした食事に見えた。
「ご飯の前に手当てしちゃおう。ほら、座って」
雅に促され、透真はおずおずと椅子に腰かけた。
「……あれ? これ、乱ちゃんの……」
絆創膏を見て、雅は驚いた顔をした。
「あ、あの人がくれたんす」
「へぇ……」
雅の顔は、なんとも汲み取れない表情を浮かべていた。
「傷、洗い流した?」
「いや、洗ってないっす」
「じゃあ、ちょっとはがしちゃうね」
雅は絆創膏をはがし、少量の水をかけながらタオルで泥を優しく拭き取った。
傷口に水がかかって、びく、と透真の肩が跳ねる。
「沁みる?」
「……ちょっと」
「ちょっとどころじゃない顔してるよぉ」
雅はくすくす笑いながらも、手つきは驚くほど丁寧だった。
転んだ時についたらしい細かな傷まできちんと見て、薬を塗り、絆創膏や包帯を巻いていく。
「はい、おしまい」
救急箱をぱたんと閉じて、彼女は立ち上がった。
「お腹空いてるでしょ?好きなだけ食べていいよ」
「いや、自分……」
「遠慮しないで~!余りもので悪いけど」
「余りものって量じゃないっすけど……」
雅は楽しそうに笑った。
その笑い方があまりに自然で、透真はようやく、ここでいきなり殺されることはないのかもしれないと思った。
「いただきます」
箸を取って、一口目を口に運ぶ。
味がした。
ちゃんと、あたたかい味がした。
それだけのことなのに、喉の奥がまた詰まりそうになる。
自分がどれだけ腹を空かせていたのか、そこで初めて思い知らされた。
透真は夢中で食べた。
途中で恥ずかしくなるくらい無我夢中でかき込んで、それからようやく顔を上げる。
雅は向かい側で頬杖をつきながら、そんな透真を静かに見ていた。
「……おいしい?」
「……っす」
「そっか。よかった」
透真は短い返事しかできなかった。
うまい、なんて言葉では済ませたくないくらいだったのに、言葉が出てこなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回からは、毎週金曜19:00更新です。
透真たちの物語に、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




