序章 第1話:樹海
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「っ、……はぁ、はっ」
喉が焼けるようにひりついた。
まともに息を吸えているのか、自分でもわからない。
それでも透真は足を止められなかった。
いつのまにか、闇はすっかり身体にまとわりついていた。
月を探して空を見上げても、生い茂る木々がその姿を完全に隠している。
初秋の樹海の夜気は、もう冷たかった。
擦り切れた長袖一枚では心もとないはずなのに、透真にはそれすら気にする余裕がない。
覚束ない足取り。
靴裏に溶岩石のごつごつとした感触が伝わる。
巨木の根や湿った苔に何度も足を取られそうになる。
――ただ死ぬことさえ、叶わないのだろうか。
とっくに限界を迎えた身体を木の幹へ預け、透真は息を整えた。
樹海へ踏み入ってから、どれほど経っただろう。
もう方向すらわからない。疲労が思考を鈍らせていく。
――もっと、奥まで……
見つからない場所へ。誰にも迷惑をかけないように。
そんな考えだけが、朦朧とした頭の中をぐるぐると巡っていた。
深く息を吐き出し、どうにか呼吸を整える。
ぐ、と体を起こそうとして幹に手をついた。
しかしうまく力が入らなかったのか、透真はバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。
顎と腰に鈍い痛みが走る。
「……ってぇ……、……?」
手に違和感があった。
何か丸くて、すべすべしたものを掴んでいる。
嫌な汗が背中を伝った。
ざあ、と風が吹き、頭上の木々が大きくざわめく。
次の瞬間、月の光がわずかにこぼれ落ち、透真が掴んでいたものを白く照らした。
「……っ! ぁああああああッ!!!!」
ぽっかりと空いた二つの穴が、じっとこちらを見つめていた。
――人の、頭の骨だ。
そう理解するより先に、透真はどこへともなく走り出していた。
死ぬためにこの場所へ来たはずなのに、胸の奥底で、いやだ、と何かが悲鳴を上げた。
何度も転び、それでも立ち上がって、ただひたすらその場所から離れようとした。
無我夢中で走った。
だが、大きな岩に張りついた苔に足を取られ、透真は地面に叩きつけられた。
倒れた拍子に、数枚の香典袋が辺りに散らばった。
透真は起き上がれずに、そのままうずくまった。
「はぁっ、はっ、……ひっ、ぐ……うっ……」
荒い呼吸に嗚咽が混じる。
低木に引っかけたのか、転んだ時に切ったのか。
あちこちが熱を持っていたのが、次第に痛みとなって伝わってきた。
「……かえ……りたい……」
思わず零れた言葉に、頭のどこかがすっと冷えた。
――もう、帰る場所などないというのに。
数時間前の出来事がフラッシュバックする。
『おかあさん、だぁれ~?』
電話から聞こえた子どもの声と、その後に続いた女の明るい声が、焼き付いて離れない。
『知らない人よ』
また、視界が滲む。
鼻の奥がつんと痛んだ。
バシャッ……
「……え?」
突然、水の音が響いた。雫が落ちるようなものではない。
もっと大量の水が、一気にぶちまけられたような音だった。
異様なその音に、透真はじっと耳を澄ませた。
ザバッ……
近くに水場があるのか。それとも、野生動物が沼にでも落ちたのか。
透真は上体を起こし、ふらつく身体をどうにか立ち上がらせた。
そして、その音の方へ、吸い寄せられるように歩き出した。
しばらく進むと、音は聞こえなくなってしまった。
それでも、一歩、また一歩と進むたび、なぜか確信は深まった。
――この先だ。
自分の背丈よりやや高い笹藪を、手でかき分けながら進んでいく。
肌に笹の葉がちりちりと食い込むが、そんなことはもうどうでもよかった。
――もうすぐ藪を抜ける。
最後のひとかきをして踏み出すと、透真の目の前に異様な光景が広がった。
「……学校……?」
満月が煌々と照らすグラウンドの向こうに、古びた木造校舎が静かに佇んでいた。
大きな時計が見える。
校舎の脇には、小屋のような建物もいくつか並んでいた。
(なんで……?)
彷徨っているうちに人のいる場所へ出てしまったのか。
樹海には民宿街のような場所もあると聞いたことがある。
たしかそこには学校もあったはずだ。
――けれど、違う。
透真はこの学校を知っていた。
幼い頃、祖父の家から通った母校だ。
祖父の家は東北にあった。
まったく違う場所に、まったく同じ校舎があるはずがない。
しかもあの校舎は、もうとっくに取り壊されたと聞いている。
昇降口には、昭和じみた傘を被った小さな白熱灯がぽつりと灯っていた。
まるで、透真を出迎えているように。
怖いはずなのに、透真の足は校舎へ向かって歩き出していた。
*
(懐かしいな……)
昇降口の前で二階建ての木造校舎を見上げながら、透真は郷愁に浸った。
――あの頃は楽しかった。じいちゃんの家で暮らして、裏山で遊んで……
古びた昇降口の引き戸に手をかけると、乾いた音を立てて小気味よく開いた。
「お邪魔します……」
小さくそう呟き、透真は恐る恐る足を踏み入れた。
古い校舎だったが、不快ではない木の匂いがする。
外を照らす白熱灯と、窓から差し込む満月の光で、校舎の中は思ったより明るかった。
長時間暗闇にいたせいで、目もすっかり慣れているのだろう。
幼い頃にはあんなに高く感じていた下駄箱が、今は目線よりも低い。
そのことに、透真は少しだけ笑みをこぼした。
靴を脱ぎ、校舎にあがる。
目の前には階段があり、左右に長い廊下が伸びている。
左へ行けば職員室、右には保健室があっただろうか。
二階には図書室や教室があったはずだ。
記憶を手繰りながら見渡していると、ぎっ、と階段が軋む音が響いた。
透真の身体が強張る。
一定のリズムで鳴るその音に、二階から誰かが下りてきているのだとわかった。
透真は驚いて踊り場へ目を向けた。
だが、階段は折り返しになっていて、その姿は見えない。
(人……?)
――それとも、幽霊の類だろうか。
そんな馬鹿げた考えがよぎる一方で、鼓動はうるさく鳴り始める。
踊り場には月光が落ちていた。
その影から、すらりとした白い手が伸びて、手すりに置かれる。
ひと呼吸遅れて、若い女が姿を現した。
その一瞬は、まるでスローモーションのようだった。
紅蓮の眼差し。深紅の髪。
風呂上がりなのか、白い肌の薄いところがほのかに上気している。
タンクトップにショートパンツという無防備な格好で、片手は髪にかけたタオルを押さえていた。
燃えるようなその瞳が、透真を射抜く。
現れたのが人の形をしていたことに、透真は一瞬ほっとした。
だがその安堵は、女の様相を見てたちどころに霧散した。
無防備な姿を見てはいけないと、透真は慌てて視線を逸らした。
何か言おうと息を吸ったその瞬間だった。
「……っぐ!?」
背中全体と鳩尾に凄まじい衝撃が走った。
間髪入れず、喉元と腹の上に強い圧迫感がのしかかる。
生理的な涙で滲む視界の中、白い腕が喉元を押さえつけているのが見えた。
気づけば透真は床に叩きつけられ、女が馬乗りになっていた。
右手には鈍く光る日本刀が握られていて、その切っ先が容赦なく向けられている。
「よくもまあ堂々と入って来たな」
「……っ、……!」
喉を緩めようと必死に力を込めても、その腕はびくともしない。
――勝手に入ったことを怒っているのだろうか。謝らなければ。
そう思うのに、喉が潰れて何も言えない。
「消えろ」
殺される、と思った。
なのに、透真を見た女の瞳が、ふいに揺れた。
刀の切っ先が、止まる。
(……?)
濡れた髪からこぼれた雫が、透真の頬にぽたりと落ちた。
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