第6話 ジャイアントブル討伐作戦
熱気に満ちた酒場の狂騒が嘘のように静まり返った翌朝。太陽が昇りきらぬうちから、迷宮三層『ジャイアントブルの間』には、不穏な空気が充満していた。
迷宮の三層は、荒涼とした岩場と草原が広がり、そこに古代の遺跡を思わせる巨大な大理石の柱が林立する、殺風景な領域だ。静寂の中、かすかに聞こえるのはロゼの呑気な鼻歌だけだった。
「ふんふーん♪準備万端!昨日、お肉食べたしぃ、今の私は無敵だよぉ!」
ロゼは立ったまま軽く肩を回し、ストレッチをする。愛用の大剣を片手で軽々と扱うその動作には、常人であれば背骨が軋むほどの重厚な金属音が伴う。彼女にとって、これから命を賭けた死闘を繰り広げることなど、ただの散歩と大差ないように見える。
「ねえ、アッシュぅ!ジャイアントブルって美味しいのかなぁ?牛さんなら、きっと焼肉にしたら最高だよねぇ!」
彼女の瞳には、一切の迷いも恐怖もない。そして何より、『自分の振るう一撃が、どれほどの災害を招くか』という自覚が決定的に欠けている。ただ純粋に、美味しい牛肉が手に入るかもしれないという食欲だけが、彼女を突き動かしていた。
アッシュは、深いため息をついた。
(……こいつ、本当に分かってねぇ。自分がその剣を本気で振れば、あの山みたいな岩壁だって更地になっちまうってことを)
地響きのような足音とともに、体長四メートルを誇る漆黒の雄牛、ジャイアントブルが姿を現す。太い角を突き出し、怒りに満ちた唸り声を上げて前足を地面に叩きつけた。
「よぉし、いっくよぉぉ!!」
ロゼが突撃の構えを取る。
「待て、ロゼ!まだ動くな!その場から右に二歩スライドしろ!」
ロゼの後方、約五メートル後ろの安全な岩陰から、アッシュが複合弓を引き絞りながら鋭い声を飛ばした。
「えーっ!? なんでぇ? あいつ、今隙だらけだよぉ!さっと行って、上からドカンってやれば一撃だよぉ?」
ロゼが抗議の声を上げる。彼女の視界には『獲物』しか映っていない。しかし、アッシュの目には、その背後に広がる『莫大な借金のリスク』という名の地雷原がくっきりと見えていた。
「バカ言え! お前が力任せに突っ込んでいけば、周囲の大理石の装飾壁が全て風圧で吹き飛ぶんだよ! そんなことしたら、修繕費で借金が倍になるぞ!」
アッシュの叫びに、ロゼは周囲をきょろきょろと見渡す。古びた壁の装飾が、風で容易く崩れそうに脆くなっていることに気づく。
「ほんとだぁ!」
「その壁を守りつつ、牛を仕留める。いいから右に二歩ずれろ! ブルがお前の方に突っ込むように仕向けるから、ブルがお前の間合いに入ったら『剣の刃を下にしたまま水平にスイング』だ! 叩きつけるな、払うようにな!」
「分かったぁ! 右に二歩、そして横に、ブンねぇ!」
「よし、作戦開始だ!」
アッシュは深く呼吸を整え、引き絞った弦を放した。ピシュン!と空気を切り裂いた矢は、寸分の狂いもなくジャイアントブルの左目を射抜いた。
「ブモォォォ!!!」
激痛に狂った雄牛が、アッシュの予測通りロゼの移動先へと突進してくる。
「今だ、いけぇぇぇ、ロゼ!!」
「チャーシューメーーン!!」
ロゼの脚力が、地面を粉砕せんばかりに大地を踏みしめる。アッシュの指示通り、大剣を水平に保持したまま、最短の軌道で加速した。
――メキメキッ!!!!
鋭い金属音と、頭蓋骨が砕ける重苦しい音が重なり、巨大な雄牛の体躯が力なく崩れ落ちる。
アッシュが素早く状況を把握する。
「ロゼの損傷、周囲の損壊、ゼロ」
アッシュの緻密な誘導とロゼの規格外のパワーが噛み合い、伝説の『完全ノーダメージ討伐』が成し遂げられた。
「……ふぅ。討伐時間、十秒ちょいか」
アッシュは弓を収め、時計の魔導具を見ながら不敵に笑った。
「完璧だ。……これならギルドの査定官も文句のつけようがねぇはずだ」
アッシュは確信していた。昨日酒場で高値で売りさばいた手形は、これで全て『額面通りの価値』に変わる。だが、これはあくまで『小銭稼ぎ』の幕開けに過ぎない。カブトの胸の奥底に眠る、もっと巨大で、もっと邪悪な計画の――これがほんの序章なのだ。
「やったぁ! アッシュ、私初めて素材回収できるよぉ!」
倒した獲物の横で、ロゼは子供のように無邪気に笑う。アッシュは、その姿を冷静なな狩人の目で見つめながらも、努めて穏やかに答えた。
「あぁ、ロゼ、おめでとう。…街の反応が楽しみだな」
二人は、行きよりも遥かに重くなった素材の詰まった袋を担ぎ、迷宮街へと帰還する。
迷宮の深淵に響くのは、彼らの足音だけではない。
それは、カブトが地下倉庫で夢想し続けた『不労所得で暮らす』という下心が、いよいよ現実の形を成し始めた合図でもあった。
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