第5話 酒場「荒くれ亭」の狂騒
その夜。迷宮街ヤガミのメインストリートから少し外れたところに店を構える酒場『荒くれ亭』は、いつも通り異常な熱気とエールの匂いで満ち返っていた。店内に響く怒号と笑い声。ここは、明日をも知れぬ命知らずたちが、今日の稼ぎを酒に変えて消尽する、欲望の掃き溜めだ。
アッシュは、酒場の中央にある踊り場のような簡易ステージに、音もなくすっと飛び乗った。
「おい、お前ら!毎日毎日、迷宮に潜っちゃ、カネのために命を削る、そんなクソみたいな生活に飽き飽きしてねえか!?」
アッシュの涼やかな、それでいて酒場の雑音を切り裂くような声に、酔っ払った冒険者崩れや、情報の匂いを嗅ぎつけた計算高い商人たちが、一斉に顔を向けた。
「ああん?なんだ、アッシュじゃねえか。またお得意の、ポーション1本のコスト計算の講釈でも垂れに来たか?」
野次が飛ぶ。だが、アッシュは動じない。彼は不敵に笑みを深め、懐から一枚の粗末なメモ用紙――『ロゼ株』を高く掲げた。
「ククク、今日はそんな話をしに来たんじゃねぇ。お前らに、『ここに座って安酒を飲んでる間にカネが勝手に増える方法』を教えてやりに来たんだよ!」
酒場が静まり返る。アッシュはロゼの破壊的な噂を逆手に取り、甘い言葉で獲物を誘い込む。
「ここに、明日ジャイアントブルを狩りに行く、あの『脳筋赤髪』こと、ロゼの証券がある。価格は一枚、銅貨三枚だ。もし明日、ロゼが『被ダメージゼロかつ周辺損壊ゼロ』でジャイアントブルを仕留めた場合…この証券は、夕方には銅貨四枚になって払い戻される!」
一瞬の沈黙。直後、酒場が爆発したような騒ぎになった。
「な、なんだと⋯!?あのロゼが物を壊さずに勝てるわけねえだろ!前回だって迷宮二層の柱ごと魔物を粉砕して、ギルドの査問委員会に引っ張られた脳筋だぞ!」
「そうだ! あいつの剣に掠っただけで、消し炭だ! そんな奴にカネを預けるだと? 正気か!」
周囲が嘲笑と罵倒で渦巻く中、アッシュはただ静かに、冷徹なまでの自信を湛えた眼差しを客席へと向けた。
「そこを、この俺が『リスク管理責任者』として、現場で完璧にコントロールするんだよ」
アッシュは胸を張り、言葉を継ぐ。
「明日は、俺がすべての戦況とロゼの動線をコントロールする。周囲の損壊リスクは限りなくゼロ、ロゼの被弾確率もゼロに抑え込んでみせる。俺が『勝てない勝負』をする男かどうか、お前らが一番よく知ってるだろ?」
冒険者たちが、ハッとして口を閉ざす。
(……確かに。あいつは危ねぇ橋は絶対渡らねぇ主義で有名だぞ。どんな依頼でも徹底した回避策を立てる……)
疑念が、徐々に『期待』という名の手のひらで転がされ始める。そんな中、最前列で証券の内容を覗き込んでいた商人が、血相を変えて叫んだ。
「⋯これはッ!?推進院のロゴ入り⋯しかも、朱肉にたっぷりと浸された承認印が、紙に食い込むように鮮明に捺されている……!」
商人の叫びが、酒場に衝撃を走らせる。
「ギルドの公認……だと……?」
「おい、ギルドが絡んでんならインチキじゃねーぞ!」
勝手な勘違いに尾ひれがつく。
疑念が期待へ、期待が、一瞬で『チャンス』へと振れる。カブトが用意した『推進院のロゴ入り』という小細工は、彼らの眼の中では『ギルドという絶対権力のお墨付き』に変換されていた。
強欲な冒険者たちにとって、それは既に『紙切れ』ではなく、明日、迷宮から湧き出てくるはずの硬貨の引換券に見えたのだ。
「…いいか、明日の夕方、ウチに来ればこの証券と銅貨四枚を交換してやる。だが覚えておけ!証券を紛失したり、汚したりすれば、いかなる理由があろうと『無効』だ。これはギルドの正式な決まりだからな!」
アッシュのアドリブに、冒険者たちは狂ったように財布を叩き開いた。紛失のリスクまでをも『公的な証明』の重みとして受け取り、彼らは自分たちがアッシュの掌の上で躍らされていることなど露ほども気づかない。
「……おい、アッシュ!一枚だ!乗ってやる! 一枚くれ!」
「俺は二枚だ!」
「十枚限定、早いもの勝ちだ!欲しいやつは俺んとこへカネ持って来い!」
アッシュの眼の前で、殺到する冒険者たちの手が乱舞する。彼は落ち着いた手つきで紙切れを一枚ずつ捌き、アッシュの懐には、わずか数十秒でずっしりとした銅貨三十枚の塊が収まった。
酒場の狂騒を背に、アッシュは夜闇の中へと消えていく。その口元には、カブトと同じく、成功を確信したような妖しい笑みが浮かんでいた。
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