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寿命カウンター持ちの俺は、七日後に死ぬ幼なじみを何度でも助けたい  作者: 妙原奇天


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中編

第八話「保健室のルカ」

 朝のチャイムが鳴る少し前、教室に入った瞬間に、いつもと違う空気だと分かった。

「なあなあ、空木どうした?」

「さっき保健室行ってたよ。顔真っ赤だった」

「マジで? 文化祭前に風邪とかタイミング悪すぎ」

 クラスのざわめきの中心に、ひなたの名前が出てくる。

 自分の席に鞄を置いて、思わず窓際の一番後ろの席を見た。そこにいるはずのひなたの姿はなく、椅子だけがぽつんと残っている。

 そして、そこに浮かんでいるはずの数字も――ない。

 慌てて廊下側の窓から身を乗り出し、反対側の校舎を見下ろした。

 保健室のカーテンの隙間。ベッドが並ぶ影の一つに、見慣れたポニーテールが見える。

 そして、その頭上。

 0000:02:23:40。

 残り二日ちょっと。

 昨日までは「三日」というラインをかろうじて保っていたはずの数字が、あっさりその境界線を切っていた。

「……はやすぎだろ」

 喉の奥で、言葉にならない声が漏れる。

 照明器具から助けた分、一度は三時間ほど増えたはずだ。その揺れを取り戻すみたいに、ここ数時間で一気に削れている。

「朝比奈、席つけー」

 担任の声に、慌てて自分の席に戻る。

 ホームルームが始まっても、先生の話はほとんど頭に入ってこなかった。

 黒板の前で文化祭の日程変更について説明している担任の頭上にも、しっかりとカウンターが浮かんでいる。クラスメイトの数字も、昨日と大きくは変わっていない。

 ひなたのカウンターだけが、明らかに異常なスピードで減っていた。

     ◇

 一時間目の国語が終わるや否や、俺は立ち上がった。

「朝比奈、どこ行く」

「ちょっと保健室」

「授業中だぞ」

 教壇の前でプリントを配っていた国語教師に、即座に止められる。

「空木の様子見てきたいだけです」

「気持ちは分かるが、今は授業中だ。保健室には先生がいる」

「でも――」

「でもじゃない。三時間目と四時間目の間に保健室行く時間はとってやるから。それまで我慢しろ」

 きっぱりと言われて、言葉を飲み込むしかなかった。

 我慢しろ。

 その一言が、やけに重く響いた。

 俺がもたもたしている間にも、ひなたのカウンターは減っていく。

 0000:02:23:40。

 から。

 0000:02:22:10。

 授業中、何度も時計と窓とを見比べてしまい、国語教師に睨まれること数回。ノートには、授業内容ではなく「ひなた 残り 約二日二十二時間」とかいう物騒なメモが増えていくだけだった。

     ◇

「……で、どうしたんだよ朝比奈」

 廊下の隅で、プリントを配り終えた国語教師が苦笑する。

「そんなに心配なら、今の休み時間使って様子見てこい。ただし、五分以内。いいな」

「ありがとうございます」

 頭を下げてから、ほとんど駆け足で保健室に向かった。

 保健室前の廊下は、いつもより静かだった。

 体育の授業は別の棟でやっているし、今日は妙に涼しいせいか、怪我人も少ないのかもしれない。

 ドアの前まで来て、一度だけ深呼吸をする。

 手を伸ばしかけたその瞬間――

 ガラリ、と中からドアが開いた。

「……っと」

 あやうく正面衝突しそうになって、慌てて一歩引く。

 ドアの向こうから出てきたのは、見覚えのない女子生徒だった。

 ほとんど白に近い銀髪。肩より少し長い髪が、さらりと揺れる。制服の着こなしはきちんとしているのに、どこかルーズな空気をまとっている。

 目は薄い灰色。眠たげな二重の奥で、光だけが妙に冷静だ。

 この学校に、こんな目立つやついたか?

「……お先に」

 軽く会釈しようとした瞬間、その少女の視線がぴたりと俺の顔に止まった。

 ほんの一秒。

 けれど、その一秒の間に、全身を針で刺されたみたいな感覚が走る。

「変な匂い」

 少女は、小さくそうつぶやいた。

「は?」

「ううん、こっちの話」

 俺の方をちらりと見ただけで、すれ違うように廊下を歩いていく。

 その頭上。

 条件反射で、寿命カウンターを見た。

 ……見たはず、なのに。

「え?」

 何も、浮かんでいない。

 いや、「何もない」という言い方も違う。

 そこには、数字らしきものが確かにあった。

 けれど、桁が揃っていない。四つのゼロでもなければ、∞記号でもない。砂嵐のテレビ画面を圧縮したみたいな、ノイズ混じりの記号がぐちゃぐちゃに渦巻いているだけだった。

 0000:00:00:00、とも読めないし、その先の何かとも読めない。

 枠だけがあって、中身が壊れているような表示。

 その異様さに、背中を冷たいものが駆け上がる。

(こいつ……)

 人間じゃない。

 直感でそう結論づけていた。

「朝比奈くん?」

 保健室から、看護教諭の落ち着いた声がした。

 ドアの隙間から顔を覗かせた先生が、少しだけ驚いたように目を丸くする。

「どうしたの? 具合悪いの?」

「あ、いえ。空木の様子って、今見ても大丈夫ですか」

「空木さん? 熱はあるけど、少し落ち着いたところよ。顔見せるくらいならいいわ」

 許可をもらい、中に入る。

 さっきすれ違った銀髪の少女は、もうどこにもいなかった。

     ◇

「……あ、さおま」

 カーテンで仕切られたベッドのひとつ。ひなたは、少し赤くなった顔だけを枕から出して俺を見た。

 頭上には、相変わらず容赦ない数字が浮かんでいる。

 0000:02:21:30。

 息をするたびに、秒数の表示だけがかちかちと減っていく。

「大丈夫か」

「だいじょぶじゃなさそうに見える?」

「見える」

「正直でよろしい」

 ひなたは、いつもの調子で笑おうとして、少し咳き込んだ。

「熱、何度くらいだって」

「三十八度ちょい。インフルとかじゃないって」

「それは不幸中の幸い、ってやつか」

「インフルなら堂々と文化祭サボれたのに」

「そこでサボる方向行くなよ」

 ひなたの頭上のカウンターが、会話のたびにちょっとずつ揺れる。

 さっきの銀髪の少女――深雪ルカ、と先生が呼んでいた――の数字が見えなかったせいで、余計にこの「見える数字」が現実を突きつけてくる。

「朝比奈くん」

 ベッドの反対側から、聞き慣れない声がした。

 さっき保健室から出ていった銀髪の少女が、いつの間にか戻ってきていた。

「え、さっき出ていかなかった?」

「先生にプリント届けるだけだよ。教室戻るのめんどくさいから、しばらくここいる」

 堂々と言い切るな、このサボり常連。

 看護教諭は苦笑しつつも、注意するでもなくカルテに何かを書き込んでいた。

「紹介しとくね」

 先生が言う。

「深雪ルカさん。この子、最近よくここで寝てるの」

「紹介の仕方ひどくない?」

 ルカと呼ばれた少女は、ベッドの端に腰掛けて、ひなたの方を見た。

「同じクラスじゃないけど、顔は知ってるよ。空木ひなたさん」

「え、あたし有名?」

「まあね。廊下からでも声聞こえるし」

「それ褒めてる?」

「騒音として認識されてる、って意味では」

 ふたりのやり取りに、思わず口元がゆるむ。

 ひなたの頭上のカウンターが、ほんの少しだけ揺れた。

 0000:02:21:30。

 から。

 0000:02:21:40。

 十秒。

 本当にわずかだけれど、たしかに増えていた。

「ねえ、空木さん」

 ルカが、天井を見上げながらぽつりと言った。

「もしさ」

「ん?」

「もし、自分の残り時間が決まってるって言われたら、空木さんはどうする?」

 保健室の空気が、少しだけ重くなる。

 ひなたは、枕に頬を押し付けたまま、目だけをルカに向けた。

「残り時間?」

「そう。例えばさ」

 ルカは、天井の蛍光灯を指さす。

「『あと三日で死ぬから、好きにしな』って言われたら、どうする?」

「ちょ、なんだよそのにこやかに投げてくる爆弾」

 俺が思わず口を挟むと、ルカはちらっとこちらを見た。

「朝比奈くんには聞いてないよ」

「いや聞けよ」

「今は空木さんのターンだから」

 ルカは、ひなたに視線を戻す。

 ひなたはしばらく黙っていた。

 枕元のカーテンの向こうから、別の生徒の寝息が聞こえる。保健室特有の消毒液の匂いが、鼻をかすめる。

「……そんなのさ」

 ひなたは、ぽつりと口を開いた。

「今まで通り騒ぐよ」

 冗談っぽい言い方じゃなかった。

 シンプルで、まっすぐな声だった。

「時間少ないなら、余計さわいでおかないと損じゃん」

 ひなたは、少し笑って見せる。

「どうせ三日後には全部終わるなら、教室でも廊下でも体育館でも、全部騒いで、全部笑っとく。そっちの方が絶対楽しいし」

「……熱あるやつのセリフじゃねえな」

「熱あるからフィルター壊れてんのかもね」

 ひなたは息を吐いて、天井を見上げた。

「怖くないわけじゃないよ。死ぬの、こわいし」

 頭上のカウンターが、少しだけ揺れる。

「でも、怖いからって静かにしてたら、余計損じゃん。だったら、いつも通りバカやってた方が、あとで後悔少なそう」

 その言葉に、胸の奥がざくりと抉られた。

 俺はここ数日、「怖いから」って理由で足踏みばかりしていた気がする。

 ひなたの寿命が見えるようになってから、数字に怯えて、慎重になって、何も言えなくて。

 守るって決めたくせに、ただ数字の減りを眺めているだけだった。

「……へえ」

 ルカが、小さく笑った。

「それは面白い選択だね」

「面白い?」

「うん。期待してた答えと、ちょっと違う」

 ルカは、ひなたの頭上あたりに視線を向ける。

 あのノイズだらけの表示とは違って、ひなたのカウンターははっきりと数字を刻んでいる。

「でも、今の言い方、さっき見た『結果』と少しだけズレた」

「結果?」

「あ、こっちの話」

 ルカは肩をすくめて、ごまかすように笑った。

「空木さんは、そのままでいればいいと思うよ」

「なにそれ。診断?」

「観察メモみたいなもの」

 ひなたの頭上のカウンターが、また少し揺れた。

 0000:02:21:40。

 から。

 0000:02:22:00。

 二十秒。

 さっきより大きな揺れだった。

 ひなたの「騒ぐ」という選択が、寿命の数字にほんのわずかに影響を与えている。

 俺の「怖がって縮こまっていた態度」とは、根本から違う。

 その事実が、やけにまぶしく見えた。

「朝比奈くん」

 ルカが、ふいにこちらを見た。

「空木さんにはちゃんと、いつも通り騒いでもらいなよ」

「……言われなくても、そうさせるつもりだよ」

「そう」

 ルカは、それ以上何も言わなかった。

 ただ、何かを確認するみたいに、じっと俺の右目を見つめていた。

     ◇

 放課後。

 ひなたは結局、そのまま早退することになった。

「明日には顔出すからー」と手を振っていたが、看護教諭は苦笑しながら「無理しなくていいのよ」と念を押していた。

 ひなたの頭上のカウンターは、帰り際の時点で0000:02:19:00を切っていた。

 残り二日と十九時間。

 数字だけ見れば、冷静に考えている余裕なんてない。

 それでも、ひなたの顔には「いつもの空木ひなた」がちゃんと残っていた。

「朝比奈くん」

 帰り支度をしていると、階段の踊り場で声をかけられた。

 振り返ると、壁にもたれている銀髪の少女――深雪ルカがいた。

 人の気配は少ない。部活動に行く生徒たちの声が、遠くで聞こえる程度だ。

「ちょっといい?」

「……保健室サボり常連さんが、今度は階段で何の用だよ」

「サボりじゃなくて、観察だよ」

 ルカは、薄く笑った。

 その笑い方が、妙に人間臭くて、余計に不気味だった。

「あんたの右目さ」

 ルカは、俺の顔をまっすぐ見た。

「死神の匂いしかしない」

「……」

 図星すぎて、笑えなかった。

 ルカは続ける。

「さっき保健室で会ったときから思ってたけど、その目、完全にこっち側の匂い」

「こっち側?」

「死神側。ライン管理してる方の匂い」

 ルカは、自分のこめかみを指でとんとん叩いた。

「あんたの周り、ぐるぐるにデータが巻きついてる。普通の人間じゃ、そんな匂いにならない」

「……やっぱり、お前」

 人間じゃない。

 さっき廊下で感じた直感が、確信に変わりつつあった。

「クロのこと、知ってるのか」

「クロ?」

 ルカは少し首をかしげ、それから「ああ」と納得したように頷いた。

「あの、黒髪ロングでやる気なさそうな見習いでしょ」

「説明が的確すぎる」

「死神管理局の末端。あたしから見たら、そうとしか見えない」

 ルカは、踊り場の窓から校庭を見下ろした。

「安心しなよ。あんたの契約内容も、大体は把握してる」

「安心できる要素ゼロなんだけど」

「それはそう」

 ルカは、少しだけ肩をすくめた。

「別に、あたしはあんたらの邪魔をしに来たわけじゃないよ」

「じゃあ何しに来たんだ」

「あたしはね」

 ルカは、自分の胸に手を当てた。

「あんたたちの『ちょっと先の結果』を見てるだけ」

「結果?」

「そう」

 ルカの目が、ほんの少しだけ遠くを見る。

「クロたち見習いは、『今』の寿命ラインを管理する係。中堅の死神たちは、『予定』を調整する係。あたしら上位は、そのもう少し先にある『結果』の整合性を取る係」

「整合性って、なんだよ」

「簡単に言うとね」

 ルカは、手すりに肘をついて、面倒くさそうに説明する。

「誰がいつどこで死んで、誰がそのあと生き残って、世界がどういう形で続いていくか。その大きな流れが、変なバグを起こさないように見てる」

「バグって……俺ら、ゲームのデータじゃないんだけど」

「その反応、何回見たか分かんないな」

 ルカは、少しだけ笑った。

「人間から見たらむかつく話だろうけど、あっち側から見たらそうなんだよ」

「あっち側?」

「管理局。死神たちのシステム」

 ルカは、指先で空中に何かを描くような仕草をした。

「で、その管理局がね」

 そこで、目の色がほんの少しだけ変わった。

「今回の『空木ひなた』って案件を、特別監視対象に指定してる」

 予感していた言葉が、あまりにもあっさりと口にされた。

「特別監視?」

「そう」

 ルカは、淡々と続ける。

「普通の高校二年生が一人死ぬ。それだけなら、わざわざ上位が人間界に降りてくる案件じゃない」

「だろうな」

「けど」

 ルカは指を二本立てた。

「ひとつ。あんたみたいな『見える人間』が、契約者として介入していること」

「……」

「もうひとつ。ひなたの死に方のパターンが、ログの中で何度も書き換わってること」

 照明器具の事故。文化祭の準備。体育館の停電。夜の校門で見た謎の人影。

 それらが、一本の線で繋がっていく感覚がした。

「予定された死に方が、何度も何度も揺れる案件ってのはね」

 ルカは、少しだけ真剣な顔をした。

「だいたい、世界のどっかに『バグ』を生む」

「バグ、って」

「誰かが生き残りすぎたり、逆に死にすぎたり。時間が巻き戻ったり、枝分かれしたり。システム的に整合が取れなくなる」

 ルカは、あっさりと言った。

「あたしは、それを早めに見に来てるだけ」

「……ひなたは、そのバグの中心ってことか」

「中心までいくかは、まだ分かんない」

 ルカは首をかしげた。

「ただ、このままだとね」

 ルカの視線が、俺の右目を貫くように刺さる。

「空木さんは、『予定より少しだけ早く』死ぬよ」

 あくまで淡々とした口調だった。

 脅しでも、宣告でもなく。

 天気予報のように、結果だけを告げる声。

「……少しだけ、ってどれくらいだ」

「数字上は、数時間から一日」

 ルカは、窓の外の空を見上げた。

「文化祭本番まで持つ予定だったラインが、準備期間中に切れる可能性がある」

「準備期間中って……今じゃねえか」

「うん。今」

 ルカは、こちらを振り向いて微笑んだ。

「だから、あんたはきっと、今日も明日も明後日も、数字を見て焦ってくれる」

「性格悪い言い方すんなよ」

「事実でしょ」

 言い返せず、俺は歯を食いしばった。

「……お前は、それでいいのかよ」

「それ、どういう意味」

「ひなたが予定より早く死ぬって分かってて、何もしないのか」

 ルカは少しだけ目を細めた。

「何もしない、なんて言ってないよ」

「は?」

「あたしは、あんたたちの『ちょっと先の結果』を見てるだけって言ったでしょ」

 ルカは、指先で俺の胸元を軽くつついた。

「あんたがどう動くかは、あたしの仕事じゃない」

「つまり」

「あんたの選択次第で、『少しだけ早く死ぬ』って結果が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」

 ルカは、そこでふっと笑った。

「本当は、数字どおりに流れてくれた方が、仕事は楽なんだけどね」

「……」

「でも、楽じゃない方を選ぶ人間って、見てて嫌いじゃないよ」

 それは、観測者のくせに、ほんの少しだけ感情が混じった言い方だった。

「だからまあ」

 ルカは背伸びをしてから、踊り場の階段を降り始める。

「せいぜい、あがいてみなよ。あんたとクロと、空木さんと」

「おい、まだ聞きたいこと――」

「今日はここまで」

 ルカはひらひらと手を振った。

「この先は、あたしの『上』の仕事だから」

 そう言い残して、あっさりと廊下の角を曲がって見えなくなった。

 頭上のカウンターを見ようとして、やめた。

 どうせ、あのノイズ混じりの記号しか見えない。

 ただ一つだけ、はっきりしている。

 今の言葉は、ただの冷酷な宣告じゃなかった。

 ほんの少しだけ――本当に少しだけだが、俺たちの側に転がる可能性を残しているように聞こえた。

     ◇

 その夜。

 自分の部屋のベッドに座り、スマホを握ったまま、俺は天井を見ていた。

「……出てこい、クロ」

「あー、呼ばれて飛び出てきたけど、その言い方やめてくれる?」

 窓枠の上に、いつの間にかクロが座っていた。

 外はすっかり暗くなり、夜風がカーテンを小さく揺らしている。

「今日はやけに機嫌悪そうだね、あんた」

「機嫌いいように見えるか」

「見えない」

 クロは、こめかみを指で押さえた。

「こっちもこっちで、上からいろいろ言われてさ。ストレスで髪の毛が増えそう」

「減るんじゃなくて増えるのかよ」

「死神はだいたい逆張りだから」

 いつもの軽口を挟んだあと、クロは俺の顔をじっと見た。

「で。今日は何。文化祭準備の愚痴?」

「違う」

 握りしめていたスマホを、ぎゅっとさらに握る。

「あのルカってやつ、何者なんだ」

 クロの表情が、一瞬で固くなった。

「……会ったんだ」

「保健室で。あと階段で」

 昼の出来事をかいつまんで話す。

 ノイズだらけの寿命表示。死神の匂い。結果だけを見ていると言ったこと。ひなたが「予定より少しだけ早く死ぬ」と言い切ったこと。

 クロは、途中から明らかに顔をしかめていた。

「はあ……マジで来てんのか、あいつら」

「知り合い、なんだな」

「知り合いっていうか」

 クロは、窓枠から降りて、部屋の真ん中までとことこと歩いてきた。

「多分だけどね」

 いつになく真面目な声だった。

「あれは上位の死神が、人間界に降ろしてる仮ボディ」

「仮ボディ?」

「そう。向こう側の本体はあっちに置いたまま、最低限の機能だけこっちに送ってる状態」

 クロは自分の胸を指さす。

「あたしみたいな見習いは、こっちにほぼ丸ごと来てるけどさ。上位は直接来ると負荷がでかいから、ああやって『観測用の端末』だけをこっちに出す」

「……上位、ってどのくらい偉いんだよ」

「ざっくり言うと」

 クロは指を三本立てた。

「あたし、見習い。中堅の死神たち、現場管理。で、その上にいるのが、今回のルカみたいな『結果監査』とか『整合性調整』担当」

「一番めんどくさそうなやつじゃん」

「そう。だから関わりたくなかった」

 クロは正直に言った。

「あいつらがわざわざ人間界に端末降ろすときって、大体ろくなことがないから」

「今回の『ひなたの件』も、そのろくでもないやつの一つってことか」

「ろくでもない、って言い方はやめときなよ」

 クロは苦笑した。

「向こうからしたら、すごく大事な『案件』なんだよ。世界全体のログの流れとか、バランスとか、そういうやつ」

「ひとりの高校生の寿命が、そのレベルの話になるのかよ」

「普通はならない」

 クロははっきりと言った。

「だから『特別監視』なんだよ」

 昼間ルカが言っていた言葉と、ぴたりと重なる。

「あんたの存在と、ひなたの寿命の揺れ。そこに、さっきあんたが見た『カウンターのない人影』とか、別のバグ要因が絡んでる」

「校門のやつか」

「うん。あれ、多分だけど、他の案件から漏れてきた『死に損ない』」

 クロは、軽くため息を吐いた。

「そういうのが、この案件に引き寄せられてきてる時点で、本当は全部止めなきゃいけないの」

「止めなきゃ、って」

「ひなた一人の死で済んでたはずのラインが、変な方向に広がっていくから」

 クロの言葉は淡々としていたけれど、その目はどこか焦っていた。

「だから管理局は、上位を降ろして『結果の監視』を始めた」

「深雪ルカとして?」

「そう」

 クロは頷いた。

「ひなたがいつどこで死ぬのか。あんたがどこまであがくのか。世界のラインにどれだけ歪みが出るのか」

 ひとつひとつ言葉を重ねるたびに、部屋の空気が重く沈んでいく。

「全部、見られてる」

「……」

 こんなの、ひとりの少女の寿命の話じゃない。

 もっとでかい何かが動いている。

「なあ、クロ」

 思わず、声が低くなった。

「お前は、どうしたいんだよ」

「え?」

「管理局のルールは絶対で、ひなたは死ぬのが決まってて、上から監視されてて」

 自分の声が、少し震えているのが分かった。

「それでも、お前は――ひなたを助けたいって思ってんのか」

 クロは、黙った。

 窓の外から、車の走る音がかすかに聞こえる。

 時計の針が、一定のリズムで時を刻む。

「……見習いだからさ」

 クロは、ぽつりと言った。

「あたしにできることなんて、たかが知れてる」

「そんな逃げ方するなよ」

「逃げてない」

 クロは、俺をにらみつけた。

「ルールを曲げたら、あたしもあんたも削除される。さっきも言ったろ」

「削除、ね」

「でも」

 そこから先の言葉は、少しだけ静かだった。

「あたし、あんたとひなた見てるの、嫌いじゃないよ」

「……は?」

「だから、できる範囲で足掻くよ」

 クロは、そう言って肩をすくめた。

「上位の監視があろうが、ルールがうるさかろうが。あんたが本気でやるって言うなら、あたしもできるだけのことはやる」

「それってつまり」

「ルカたちが『結果』を見てるなら、あたしたちは『過程』で悪あがきする担当ってこと」

 クロは、窓の外をちらりと見た。

「世界全体のバランスとか、管理局の都合とか、正直どうでもいいし」

 口元だけが、少し笑っていた。

「あんたとひなたが選んだ『楽じゃない選択』が、どこまで通用するか。見習いとして、ちょっとくらい賭けてもバチは当たらないでしょ」

 ルカが言っていた言葉が、頭をよぎる。

『楽じゃない方を選ぶ人間って、見てて嫌いじゃないよ』

 上位の観測者と、末端の見習い。

 立場も考え方も違うはずなのに、ほんの少しだけ重なっている部分がある。

 それが、唯一の救いのように思えた。

「……分かった」

 握りしめていたスマホから、そっと手を離す。

「だったら、賭けてやるよ」

「賭け?」

「ルカが見てる『結果』を、書き換えられるかどうか」

 自分の声が、思ったよりもはっきりしていた。

「ひなたが予定どおり死ぬってラインを、全部ぶっ壊してやる」

「物騒な目標だね」

「お前が巻き込んだんだろ、最初に」

「それはそう」

 クロは、少しだけ楽しそうに笑った。

「じゃあ、見習い死神クロさんは、契約者様の無謀な挑戦に、全力でつきあうことにします」

「最初からそう言えよ」

「言ったじゃん。今」

 そのやり取りの間にも、ひなたのカウンターは遠くで減り続けている。

 0000:02:18:00。

 0000:02:17:59。

 0000:02:17:58。

 数字は、残酷なほど正確だ。

 でも、数字だけが世界を決めているわけじゃない。

 上位の観測者が「結果」を握っているなら。

 俺たちは、「選択」で殴りにいくしかない。

 そう決めたところで、ようやく少しだけ、息がしやすくなった気がした。


第九話「家族の事情」

 週末。土曜日の午後。

 駅前で待ち合わせをした俺は、コンビニ袋を片手に、ひなたの家があるというアパートへと向かっていた。

「……ここか」

 地図アプリの示す場所の前で立ち止まる。

 古い三階建てのアパート。外階段はところどころ塗装が剥げ、郵便受けにはテープで補修された跡がある。よく言えば味がある、悪く言えば年季が入りまくっている建物だ。

 壁に取り付けられた表札には、かろうじて読める字で「空木」と書いてあった。

 頭の上に浮かぶ数字が、自然と視界に入る。

 0000:02:05:30。

 残り二日と五時間。

 昨日の夜から、少しだけ減った数字は、今もじりじりと秒を削っている。

 インターホンを押そうとしたところで、上の階から足音が聞こえた。

「あ、蒼真!」

 顔を出したのは、見慣れたポニーテールだった。

 階段を駆け下りてくるひなたは、昨日よりも顔色がよくなっている。パーカーにジーンズというラフな格好で、いつもの制服とはまた違った雰囲気だ。

 頭上のカウンターも、ほんの少しだけ揺れていた。

「わざわざありがとね。重かったでしょ、それ」

「まあ、教科書とプリントだけだし」

 コンビニ袋の中身を持ち上げて見せる。

 中には、貸してほしいと言われたノートと問題集。それから、なんとなく買ってきたスポーツドリンクとゼリー飲料が入っていた。

「あと、これ。風邪っぽいって聞いたから」

「気が利く〜。さすが優等生あさぴー先生」

「その呼び方やめろ」

 口ではそう言いながらも、どこかホッとしていた。

 ひなたがちゃんと歩いて、笑っている。その当たり前みたいなことが、今は何より心強い。

「じゃ、上がって上がって」

 ひなたに促され、外階段を上がる。

 二階の奥まった部屋の前で、ひなたは鍵を開けた。

「汚いから、心の準備してね」

「先に言うなよ」

「言っとかないと、ショックで寿命縮んだら困るし」

 軽口を叩きながらドアを開ける。

 玄関をくぐった瞬間、生活感の詰まった空気が押し寄せてきた。

     ◇

 リビング兼ダイニングは、六畳ほどのスペースだった。

 低めのテーブルの上には、開きっぱなしのチラシやプリント、半分読みかけの雑誌が重なっている。壁際には、小さなテレビと、年季の入ったソファ。床には、洗濯物が畳まれかけの状態で積まれていた。

「……思ったよりはマシだった」

「どんな想像してたのよ」

「ゴミ屋敷一歩手前くらい」

「ひどっ」

 ひなたは笑いながら、慌てて洗濯物の山をソファの上に避ける。

「そこ座ってて。テーブル片づけるから」

「手伝う」

「いいって。お客さんなんだから」

 そう言いながらも、ひなたの動きには慣れた感じがあった。散らかっているようで、必要なものの位置はちゃんと把握しているタイプだ。

 頭上のカウンターが、ちょっとだけ揺れる。

 0000:02:05:30。

 から。

 0000:02:05:40。

 十秒分。ほんのほんのわずかだが、確かに増えていた。

「お邪魔します〜」

 片づけが一段落したところで、玄関の方から新しい声がした。

 買い物袋を提げた女性が入ってくる。エプロンを首から提げたままのその姿は、仕事帰りらしい疲れをにじませながらも、笑顔だけは明るかった。

「あら、ひなた。もうお友達来てたの?」

「うん。クラスの朝比奈蒼真。あさぴー先生」

「だからそれやめろって」

 苦情を挟む間もなく、女性――空木さんのお母さんが、ぺこりと頭を下げてきた。

「どうも、いつも娘がお世話になってます」

「あ、いえ、こちらこそ……」

 俺も慌てて頭を下げる。

 近くで見ると、ひなたのお母さんは若く見えた。少しだけ茶色がかった髪を後ろでひとつに結び、薄い化粧で、笑ったときに目尻に小さな皺が寄る。

 頭上のカウンターは、ひなたよりも少しだけ長く、0000:10:***という表示だった。

 決して長いとは言えない数字。けれど、二日しかないひなたの数字と比べると、それはほとんど「未来」と呼べるほど先に思えた。

「今日はバイト休み取ったんだよ」

 ひなたが、母親の買い物袋を受け取りながら言う。

「蒼真来るって言ったら、『じゃあちゃんとしたご飯作らなきゃ』って張り切っちゃってさ」

「やめてよ、そんなこと言わないで」

 お母さんは照れくさそうに笑った。

「でも本当に、ごめんね。こんなボロアパートまで来てもらっちゃって」

「いえ。あの……全然、ボロとかじゃないです」

 口から出た言葉は、半分くらい本心だ。

 たしかに古いけれど、汚いわけじゃない。散らかっているけれど、それは「生活しているから」散らかるタイプの散らかり方だ。

 冷蔵庫の横の壁には、ひなたが子どもの頃に描いたらしい絵がマグネットで留めてある。カレンダーには、バイトのシフトがびっしり書き込まれていた。

「お父さんは?」

 何気なく聞いたつもりだったが、ひなたの肩がほんの少しだけ強張った。

「あー……今月は、出張長いんだって」

 ひなたはテーブルにチラシを重ねながら、どこか曖昧に答える。

 お母さんが、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんね。あの人、ほとんど家にいないのよ」

「単身赴任、ってやつですか」

「ううん。そんな立派なものでもないんだけどね」

 冗談めかして笑う声の奥に、うっすらと疲れが滲んでいた。

 冷蔵庫の扉が開く。中には、安売りのシールが貼られたパックがいくつかと、作り置きのおかずらしきタッパーが並んでいる。

 その隅に、封が半分開いたままの封筒が挟まっていた。そこに書かれた「水道料金お知らせ」の文字が、視界の端をかすめる。

 ひなたの母親の頭上のカウンターが、その封筒を一瞥した瞬間に、ほんの少しだけ揺れた。

 0000:10:***。

 から。

 0000:09:***。

 数字だけが、鼻先で現実を突きつけてくる。

     ◇

「じゃ、ひなたの部屋使ってね」

 軽く雑談を交わしたあと、お母さんにそう言われる。

「夕飯の支度しながらだから、何かあったら呼んで」

「はい」

 ひなたの案内で、奥の小さな部屋に通される。

 六畳に満たないくらいの、こぢんまりした空間だった。

 ベッドと、勉強机と、本棚。それから、制服が掛けられたハンガーラック。物は多いが、不思議と居心地が悪くない。

 机の上には、いくつかの資料が広げられている。

「……進路のやつ?」

「あ、見ないでよ」

 ひなたが慌てて資料をかき集めようとするのを、思わず制した。

「いや、見えるだろこれ」

「見えないようにしようとした努力を評価して」

「失敗してるぞ、その努力」

 言い合いながらも、視線は自然と紙の文字を追っていた。

 「東京デザイン専門学校」「映像クリエイター養成コース」「都内私立大学オープンキャンパス」。

 パンフレットの表紙には、どれも「キャンパスライフ」とか「夢を形に」とか、それらしいキャッチコピーが踊っている。

 逆に、「地元」の文字が入った資料はほとんどなかった。

「……東京、行きたいんだな」

 思ったままを口にすると、ひなたは少しだけ肩をすくめた。

「どこでもいいんだよ、本当は」

 床に座り込んで、進路資料を膝の上に乗せる。

「ここじゃない場所に行けるなら」

「ここじゃない場所」

「うん」

 ひなたは、窓の外をちらりと見た。

 アパートの窓から見える景色は、隣の建物の壁と、細い空の隙間だけだ。

「ここにいるとさ、何となく分かるんだよね」

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

「このまま何もしなかったら、多分ずっとこの辺でぐるぐるして終わるんだろうなって」

「ぐるぐる?」

「高校卒業して、近くのスーパーとかで働いて、たまに同級生と会って、『あの頃楽しかったよねー』って話して」

 ひなたは、自分の指先を見つめる。

「それが悪いことだとは思わないよ。そういう未来だって、ちゃんとした人生だし」

「でも?」

「でも、あたしは、多分その未来見てる途中で爆発する」

「物理的にじゃないよな」

「精神的にだよ」

 ひなたは笑った。

「この街だけ見て生きてくの、たぶん向いてない」

 頭上のカウンターが、わずかに揺れる。

 0000:02:05:40。

 から。

0000:02:05:50。

 屋上で聞いた「どこでもいいから遠くに行きたい」という言葉の続きが、ここにあった。

「でもさ」

 ひなたは、進路資料の山から一枚の紙を取り出した。

「逃げたいからって、全部投げていいわけじゃないじゃん」

 それは、奨学金の説明書だった。

 「貸与型」「給付型」「返還義務」など、聞き慣れない単語が並んでいる。

「お母さん一人にさ、全部押しつけるのも違うなって」

 ひなたは紙を指先でなぞりながら、苦笑した。

「仕送りもらって、授業料出してもらって、家のこと全部任せて、『自分だけ夢追いまーす』って、さすがに言えないでしょ」

「……」

「弟もいるしさ」

「弟?」

「あ、言ってなかったっけ」

 ひなたは、机の端に立てかけられた写真立てを取って見せてくる。

 そこには、小学校低学年くらいの男の子と、まだ幼い頃のひなたが写っていた。スーパーの袋を両手に提げたお母さんが、うしろで苦笑している。

「今は父方の実家にいるんだけどね。いろいろあって」

 いろいろ。

 その一言の中に、きっとたくさんの面倒と問題が詰まっているのだろう。

 でも、ひなたは深入りさせまいとするように、軽く笑った。

「だからまあ。東京行くにしても、奨学金フル活用して、自分でバイトして、できるだけ迷惑かけないように、って考えなきゃいけないわけよ」

「大変だな」

「そうねー。めんどくさいよねー」

 軽い口調の裏で、ひなたの頭上のカウンターが揺れる。

 0000:02:05:50。

 から。

 0000:02:05:20。

 さっき伸びた分を取り戻すみたいに、三十秒分が一気に削れた。

 逃げたい気持ちと、家族への責任感。

 その両方を同時に抱えていることが、ひなたの「寿命のトリガー」に何かしら関わっているのかもしれない。

 数字の揺れが、そう教えていた。

「……なあ、ひなた」

「ん?」

「もしさ」

 屋上や保健室で何度も言いかけて、飲み込んできた話題が、喉の奥でうごめいていた。

「もし、本気で東京行きたいなら」

 そこで一度、言葉が止まる。

 一緒に行こう。

 その続きまで、喉元まで出かかって、ぎゅっと噛み殺した。

 簡単に口に出していい言葉じゃない。

 俺には、そんな覚悟を伴った未来プランなんてまだ描けていない。

 何より、今のひなたにとって一番必要なのは、「俺と一緒に行くこと」なのかどうかも分からない。

「……俺、できるだけ協力するから」

 ひねり出したのは、そんな言葉だった。

「奨学金の書類とか、調べ物とか。勉強もそうだし。ひなたが東京行きたいって決めたなら、そのためにできることは全部やる」

「蒼真……」

 ひなたは、ぱちぱちと瞬きをしたあと、ふっと笑った。

「ありがと」

 頭上のカウンターが、また揺れる。

 0000:02:05:20。

 から。

 0000:02:05:35。

 十五秒。

「そう言ってくれるだけで十分だよ」

 ひなたは、少しだけ寂しそうな笑い方をした。

「それ以上は、自分で何とかするから」

「自分で、って」

「だって、あたしの人生だし」

 ひなたは、資料の束を軽く叩く。

「お母さんにも、あんたにも、クロにも、誰にも代わりに選べないでしょ」

 クロの名前が出て、少しだけ驚く。

「え、クロのこと見えてんの?」

「見えてはないけど、なんか最近ずっと変な気配するし」

 ひなたは、冗談めかして肩をすくめた。

「それに、あたしが東京行くかどうかって話はさ」

 ひなたは、窓の外を見た。

「きっと、あたしの寿命にも関係してくるんだろうなって、何となく思ってるから」

 寿命、という単語に、思わず体が強張る。

「どういう意味だよ」

「さあ?」

 ひなたは笑って誤魔化した。

「深い意味はないよ。ただの勘」

 頭上のカウンターが、その会話の間中、ゆらゆらと不安定に揺れていた。

     ◇

 夕方。

 勉強会は、なんだかんだでそれなりに進んだ。

「一次方程式はもう完璧だな」

「これで数学赤点回避コースに乗れる?」

「たぶん」

「やった。じゃあ先生、次は英語行ってみましょう」

「テンション高いな」

「だってあさぴー先生教え方分かりやすいんだもん」

「だからそのあだ名やめろって」

 そんな会話をしていると、リビングからお母さんの声がした。

「ひなたー、ちょっと手伝ってー」

「はーい。ごめん、蒼真。ちょっとだけ待ってて」

「俺も手伝うよ」

「いいって。お客さんだし」

「さっきも聞いたな、それ」

 言い合いながら、結局三人で台所に立つことになった。

 メニューは、焼きそばと野菜炒めと、卵焼き。それから、安売りだったという冷凍唐揚げ。

「男の子いると助かるわー」

 お母さんは、フライパンを振りながら笑う。

「ひなた一人だと、野菜洗うのも途中で飽きてくるから」

「失礼な。ちゃんとやってるし」

「まあ、途中で歌い出すからね」

「それは否定できない」

 そんな他愛のない会話の間、ひなたの頭上のカウンターが少しずつ揺れていく。

 0000:02:05:35。

 から。

 0000:02:06:10。

 家族で笑っている瞬間。台所で三人で肩を並べている瞬間。野菜炒めを焦がしそうになって慌てる瞬間。

 そういう「ささやかな時間」が、ひなたの寿命をほんの少しだけ伸ばしていた。

 それが、嬉しくて、同時に苦しかった。

 この時間が続けばいいのに、と心のどこかで思いながら。

「……あ、ごめん。電話だ」

 テーブルに置かれたスマートフォンが鳴った。

 お母さんがエプロンのポケットから手を拭きながら、画面を確認する。

 その瞬間、表情がわずかに固くなった。

「ちょっと出てくるね」

 リビングの隅に移動し、小声で通話ボタンを押す。

「もしもし……うん。うん、こっちは大丈夫」

 声のトーンが、先ほどまでの明るさから少し落ちる。

 頭上のカウンターが、揺れた。

 0000:09:***。

 から。

 0000:08:***。

「え、今月も?」

 お母さんの声が、かすかに震える。

「うん、分かった……無理しないでって、そっちこそ」

 通話の内容は、断片的にしか聞こえない。

 でも、なんとなく察しがついた。

 父親からの電話。

 今月も仕送りは厳しい、という事務的な連絡。

 そのわずかな会話で、ひなたの頭上のカウンターが大きく揺れた。

 0000:02:06:10。

 から。

 0000:02:04:40。

 一分半。

 さっきまで家族で笑って増えた分など、あっさり吹き飛ばすほどの減少だった。

「……ふー」

 電話を切ったお母さんは、一度だけ深く息を吐き、すぐに振り返った。

「ごめんね。さ、焼きそば味見して」

 何事もなかったみたいに笑おうとするその横顔に、ひなたの表情が一瞬だけ陰を落とす。

「お母さん」

「なに?」

「今月、あたしバイト増やすから」

「いいよいいよ。ひなたは勉強に集中しなさい」

「でも」

「でもじゃないの」

 お母さんは、ひなたの頭を軽くぽんと叩いた。

「ただでさえ文化祭で忙しいんだから。ここで無理したら、倒れちゃうでしょ」

「……」

 ひなたは何か言いかけて、飲み込んだ。

 その沈黙の間にも、カウンターはじり、と揺れる。

 家族の会話の一つ一つが、ひなたの残り時間に直接触れている。

 応援も、負担も、心配も。

 全部が寿命を削ったり、伸ばしたりしているように見えた。

     ◇

 夕飯は、普通においしかった。

「いただきます」

 三人で手を合わせ、

「この焼きそばのソース、安かったのに当たりだね」

「やっぱり具に豚バラ入れると違うんだよ」

「あさぴー先生、もっと食べていいよ」

「だからそのあだ名をだな」

 他愛のない会話をしながら、食卓を囲む。

 ひなたの頭上のカウンターは、その間も絶えず揺れていた。

 笑い声に合わせて、ほんの少し伸びる。

 誰かがため息をつくと、少し減る。

 まるで、この狭いリビングに満ちている空気そのものが、ひなたの寿命カウンターに直結しているみたいだった。

 この家の「事情」が、そのまま数字になって表れている。

 そんなふうにしか見えなくなっていた。

     ◇

「今日はありがとね」

 片づけを手伝い、何度もお礼を言われてアパートを出る。

 外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。路地の街灯がぽつぽつと灯り、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。

 二階の廊下から、ひなたが身を乗り出して手を振る。

「また月曜ねー」

「お前、ちゃんと休めよ」

「だいじょぶだって」

 ひなたの頭上のカウンターは、0000:02:03:50を切っていた。

 残り二日と三時間五十分。

 昼間よりも、確実に数字は減っている。

 でも、その顔にはまだ、いつもの笑顔があった。

 階段を降り、路地に出る。

 そのまま帰るのももったいなくて、アパートの前の狭い道を少し歩いたところで、ひなたが追いかけてきた。

「蒼真」

「どうした。寒いぞ」

「ちょっとだけ」

 ひなたは、欄干にもたれて夜空を見上げた。

「さっきの話の続き」

「続き?」

「東京のこと」

 ひなたは、少しだけ笑った。

「さっき、『協力する』って言ってくれたじゃん」

「ああ」

「あれ、本当に嬉しかったよ」

 頭上のカウンターが、ふわりと揺れる。

 0000:02:03:50。

 から。

 0000:02:04:00。

 十秒。

「ありがとね」

「……それ以上は、自分で何とかするんだろ」

「うん」

 ひなたは頷く。

「でも、『一緒に考えてくれる』って人が一人いるだけで、全然違うんだよ」

 その言い方が、妙に胸に刺さった。

「なあ、ひなた」

「ん?」

「もしさ」

 また、同じ言葉が喉まで出かかる。

「本気で東京行きたいなら、俺……」

 一緒に行こう。

 そう続けそうになって、また飲み込んだ。

 軽々しく言える言葉じゃない。

 言ってしまったら、多分もう引き返せない。

 ひなたの未来を守ることと、俺がひなたと一緒にいること。

 その二つが、同じ答えになるとは限らない。

 もしかしたら、「ひなたの未来を守るためには、俺がそばにいない方がいい」という結論にたどり着く可能性だってある。

 そんなことを考えてしまった瞬間、足が止まった。

「……ごめん。なんでもない」

 ひなたは、少しだけ不思議そうな顔をした。

「そっか」

 それでも、責めるようなことは何も言わなかった。

「ありがとね、蒼真」

 ひなたは、いつもの笑顔を作る。

「その、今のあたしにできるのってさ」

 夜風に髪を揺らしながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「目の前のこと全部に全力出して、笑っとくことくらいだから」

「……」

「進路も、文化祭も、家のことも」

 ひなたの頭上のカウンターが、かすかに揺れる。

 0000:02:04:00。

 から。

 0000:02:04:10。

「だから、あんたはあんたで、あんたのやり方で協力して」

 その言い方が、妙に大人びて聞こえた。

「そうすればきっと、どっかでちょうどよくなるって」

 根拠はない。

 でも、その言葉に救われたような気がしたのも事実だった。

「……分かったよ」

 短くそう答えることしかできない。

 ひなたはそれで満足したのか、「じゃ、マジで寒いから戻るー」と言って、アパートの方へ走って戻っていった。

 頭上のカウンターが、彼女の背中に合わせて小さく揺れる。

 0000:02:04:10。

 から。

 0000:02:04:05。

 数字は、容赦なく減り続けていた。

     ◇

 帰り道。

 ひなたの家を離れ、駅へ向かう細い道を一人歩きながら、俺は頭を抱えたくなる衝動に駆られていた。

「……どうすりゃいいんだよ」

 街灯の光が、アスファルトに長い影を落とす。

 通りの向こう側を、自転車に乗った親子が通り過ぎる。その頭上には、当たり前のように寿命カウンターが浮かんでいた。

 0000:30:***。

 0000:70:***。

 見知らぬ誰かの未来が、ただ数字としてそこにある。

 でも、俺の頭の中は、ひなたの数字でいっぱいだった。

 0000:02:04:05。

 残り二日と四時間五秒。

 ひなたの未来を守ることと、ひなたと一緒にいること。

 今まで、どこかでそれを同じものだと信じていた気がする。

 ひなたのそばにいれば、守れる。守れれば、一緒に未来に行ける。

 でもさっき、ひなたの家で見たものは、そんなに単純な話じゃなかった。

 家計簿の端。水道料金の封筒。仕送りの電話。奨学金の資料。弟の写真。

 ひなたの人生には、俺が知らなかった「事情」が山ほどあって。

 その全部が、ひなたの寿命に絡みついている。

 ひなたの未来を守る、って言うのなら。

 その「事情」ごと、まるごと背負う覚悟が必要になる。

 俺は、本当にそこまでできるのか。

 ただ「一緒に行こう」と言うだけじゃ済まない。

 東京に行くための学費。生活費。家族のこと。自分の進路。

 考えなきゃならない現実が、いくらでも積み上がっていく。

 そしてその上にさらに、「死神」とか「管理局」とか、「寿命カウンター」とかいう、普通の高校生なら一生関わらずに済むはずのものまで乗っかってくる。

「……ふざけんなよ」

 思わず、夜空に向かって呟いた。

 クロも、ルカも、管理局も。

 ひなたの寿命を「案件」とか「ログ」とか「整合性」とか、そんな言葉で片づけて。

 形の見えない何かの都合で、「二日で終わりです」と決めつけてくる。

 ひなたの未来を守りたい。

 でも、俺がひなたと一緒にいたいって気持ちも、嘘じゃない。

 その二つの答えが、たぶん同じじゃない。

 どこかで、何かを選ばなきゃいけない。

 誰かの未来を優先するってことは、別の誰かの未来を諦めるってことかもしれない。

 ひなたを生かすために、誰かを見捨てるのか。

 世界のバランスとやらを守るために、ひなたを諦めるのか。

 その「誰か」の中に、自分自身も含まれているんじゃないか、という予感が、最悪だった。

「……頭いてえ」

 こめかみを押さえながら、ため息を吐く。

 夜風が少し冷たくて、考えすぎた頭にはちょうどよかった。

 ひなたの未来を守ることと、ひなたと一緒にいること。

 その二つの答えが同じじゃないかもしれない。

 その当たり前のことに気づいてしまったせいで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 それでも、歩みを止めるわけにはいかない。

 ひなたの寿命カウンターは、今も確実に減り続けている。

 俺に残された時間だって、無限じゃない。

 選ばなきゃいけない。

 そのことだけは、はっきりしていた。


第十話「ゼロに近づくカウントダウン」

 文化祭まで、あと二日。

 教室に入った瞬間、俺はひなたの席を見た。

 そこにいる。いつも通り、椅子を半分回転させて、前の席の女子とどうでもいい話で盛り上がっている。

 その頭上。

 0000:01:06:20。

 残り一日と、六時間ちょっと。

 昨日の夜、寝る前に見たときには、まだ「二日」は残っていたはずだ。それが、気づけばあっさりと一日を切っている。

 数字の表示も安定していない。桁が一瞬だけぼやけたり、ノイズみたいな線が走ったりする。

 見ているだけで、胃のあたりがきりきりしてきた。

「おい、朝比奈」

 後ろから肩を叩かれた。

 振り返ると、燈央が立っている。いつも通り、部活用のジャージを腰に巻きつけ、片手にはバスケットボール。

「顔、死んでるぞ」

「元気そうに見える方がおかしいだろ」

「まあな」

 燈央は、ボールを軽く指先で回しながら、ひなたの方を見る。

「ひなた、まだ本調子じゃないっぽいし。お前まで倒れたら、クラス企画マジで終わるから」

「……そうならないように頑張ります」

「そこは『そうならねえ』って言い切れよ」

 燈央は、呆れたように笑って、自分の席に戻っていった。

 その頭上のカウンターは、0000:60:***。

 まだまだ先がある数字。

 この教室のほとんどの連中が、そういう「先のある数字」を持っている。

 ひなたと、俺を除いて。

     ◇

「――で、ここをピンクのリボンで飾って」

「入口に『ご来店ありがとうございます』のポップ貼ろうぜ」

「男子はエプロンと蝶ネクタイな!」

「なんで俺がメイド服じゃねえんだよ」

「そこは譲れよ、男子代表」

 ホームルームが終わると同時に、教室は文化祭準備モードに切り替わった。

 黒板には大きく「クラス企画 メイド喫茶」と書かれ、その下に細かい役割分担やシフト表が並んでいる。女子たちはスカートの丈について真剣に議論し、男子たちはどうやって目立とうか相談している。

 どこを向いてもバタバタしていて、テンションは無駄に高い。

 その喧騒の中で、俺は一人、延長コードを手にしていた。

「朝比奈ー、そっち大丈夫ー?」

 教室の端から、実行委員長が声を張る。

「コンセント三口だから、ここはこの二本だけにしとけ。ドライヤー使うなら別の列から取れ」

「了解ー!」

 文化祭本番でメイドたちが使う予定のホットプレートと電気ポット。そのコンセントの位置を、一つずつ確認していく。

 この教室の電源容量。延長コードの長さ。足を引っかけそうな場所。テープで固定すべきポイント。

 全部、頭の中に地図みたいに描き出していく。

 ひなたがここで転んで、ケトルの熱湯をかぶる未来。

 配線がショートして、煙が上がる未来。

 誰かがパニックになって、非常口が塞がる未来。

 そういう「事故の入口」になりそうな要素を、片っ端から潰していく。

 ガムテープを引っ張り、床に這わせたコードを固定すると、俺の頭上のカウンターが揺れた。

 0000:57:20:00。

 から。

 0000:56:23:10。

 一時間近く、削れている。

「……やっぱりか」

 薄々勘づいてはいた。

 他人の危険を肩代わりするような動き方をすると、その分だけ自分の寿命が削れる。

 照明器具の事故のときもそうだったし、その後の細かい介入でも、少しずつ数字は減ってきていた。

 今日一日だけでも、延長コード、非常口、ステージ裏のパネル、体育館の仮設足場。

 そういう「事故の芽」を潰すたびに、俺の寿命はじりじりと削れていく。

 でも、やめるわけにはいかなかった。

 ひなたのカウンターは、一日を切っている。

 世界のどこかで、管理局の偉い連中が「この子の死をトリガーに大きな流れを動かそうとしている」なんて言っている。

 そんなもんに、素直に従うつもりはなかった。

「朝比奈、顔やべえって」

 机の上から誰かが言った。

「クマひどいぞ。昨日寝てないだろ」

「少し寝た」

「それを人は『寝てない』って言うんだよ」

 冗談を飛ばされても、笑う余裕がない。

 クロの姿が見えないのも、地味にストレスだった。

 いつもなら窓の外や廊下の隅に、やる気なさそうな黒髪ロングがふわふわ浮かんでいるはずなのに。

 今日は姿を見せない。

 呼ぼうとしても、反応がない。

 管理局からの圧力、ってやつらしい。

 死神側がこちらに出せる手札は、どんどん制限されている。

 だったら、人間側がそのぶん動くしかない。

     ◇

 昼休み。

 弁当を持って、屋上に上がった。

 ひなたはフェンスの近くで待っていた。風に髪をなびかせながら、コンビニのおにぎりを開けている。

「遅いー。五分の遅刻ー」

「教室の延長コードの件で――」

「また仕事してたの。まじめか」

 ひなたは、少しあきれたように笑った。

「ほら、座って」

 フェンスのそばに並んで座り、それぞれ弁当を広げる。

 頭上のカウンターが視界に入る。

 0000:01:03:40。

 残り一日と三時間ちょっと。

 数字は、呼吸に合わせるみたいにかすかに揺れている。

「いただきます」

「いただきます」

 ひなたは、おにぎりを一口かじった。

「んー。やっぱりさあ」

「何」

「文化祭前の屋上って、いいよね」

「分かるような分からないような」

「この、ちょっとだけ高い場所からさ。みんながバタバタしてるの見下ろす感じ」

 フェンス越しに見えるグラウンドでは、別のクラスが模擬店のテントを試し張りしていた。体育館の方からは、吹奏楽部の音出しが聞こえてくる。

「あたしたちもさ、明日と明後日はあっちの側にいるんだなーって実感する」

「明日と明後日、ね」

 言葉が、喉の奥で引っかかった。

 ひなたにとって、その二日がどういう意味を持っているのか。

 俺だけが知っている。

「……で?」

 ひなたは、唐突にこちらをじっと見つめてきた。

「な、なんだよ」

「最近さ」

 ひなたは、少しだけ真剣な顔になった。

「あんた、あんたらしくない」

「らしくない?」

「うん」

 おにぎりの具を突きながら、ひなたは言葉を続ける。

「なんか、ずっと遠く見てる感じする」

「遠く?」

「前はさ。あたしがバカやってるとき、ちゃんと突っ込んできたじゃん」

「今もしてるだろ」

「してるけど、心ここにあらずって感じ」

 ひなたは、俺の顔を覗き込む。

「なんかなあ。見てて、やだ」

「やだって、お前な」

「うまく言えないけど」

 ひなたは、フェンスの向こうを見た。

「あんた、どっか遠くに行っちゃいそうで、やだ」

 胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。

 遠くに行きそうなのは、本当は俺じゃなくて、お前の方だろう。

 そう言いそうになって、飲み込む。

 本当のことを言えば、ひなたの頭上のカウンターを指さして、「お前の寿命はあと一日しかない」と叩きつけることになる。

 そんなこと、できるわけがない。

「……行かねえよ」

 出てきたのは、それだけだった。

「どこにも行かねえ。少なくとも、お前を置いては」

「ほんとに?」

「ほんとだ」

 ひなたは、少しだけ安心したように笑った。

 その笑顔と同時に、カウンターが揺れる。

 0000:01:03:40。

 から。

 0000:01:04:00。

 二十秒。

 寿命が延びた。それなのに、怖さの方が勝っていた。

 このままだと、本当に先にいなくなるのは俺の方かもしれない。

 ひなたを守るために動き続けて、自分の寿命を削って。

 気づいたら、ひなたより先にゼロになっていました、なんて笑えない冗談だ。

「ねえ、蒼真」

「ん」

「あたしさ」

 ひなたは、おにぎりを持ったまま、空を見上げた。

「今がわりと、好きなんだよね」

「今?」

「こうやってさ。屋上でだべって、バカみたいな企画で文化祭やって、先生に怒られて」

「怒られる前提で話すな」

「高校って、面倒くさいけど楽しいよね」

 ひなたは、少し目を細めた。

「だからさ。あんた、どっか遠く見てないで」

 俺の方を、まっすぐ見る。

「ちゃんと今も見ててよ」

 カウンターが、小さく揺れた。

 0000:01:04:00。

 から。

 0000:01:04:10。

 数字は、まだ一日を切ったままだけど。

 今、この瞬間だけは、確かに伸びていた。

「……分かったよ」

 そう答えるしかなかった。

     ◇

 午後。

 予定にはなかった音が、空から落ちてきた。

 ごろごろ、と腹の底に響く低い雷鳴。続けて、窓ガラスを叩きつけるような雨音。

「やば。ゲリラ豪雨じゃん」

「さっきまで晴れてたのに」

「体育館の方、大丈夫か?」

 教室のざわめきが、雨音にかき消される。

 数分後、校内放送が鳴った。

『全クラスに連絡します。体育館周辺で雨漏りと一部浸水が確認されました。文化祭のプログラム変更については、各実行委員を通じてお知らせします』

「マジかよ」

「ステージ発表どうなんの」

 LINEの通知音が、一斉に響き始める。

 文化祭実行委員のグループから、「ステージ枠の時間再調整」「リハーサル中止」「音響機材の移動」など、怒涛の連絡が流れてくる。

 それに連動するように、教室中の寿命カウンターが揺れた。

 ひなたの頭上の数字も、はっきりと乱れる。

 0000:01:04:10。

 から――一瞬、ノイズが走る。

 桁が崩れ、砂嵐の画面みたいな表示になったかと思うと、次の瞬間には別の数字に書き換わっていた。

 0000:00:08:50。

「……は?」

 思わず、声が漏れた。

 残り八時間と五十分。

 一日あったはずの時間が、雷雨とプログラム変更の一瞬で、一気に圧縮されている。

 体育館の浸水。ステージ発表の順番変更。客の動線の組み直し。

 その全部が、「本来予定されていた事故パターン」を大きく書き換えたのだ。

 世界の側が、「死ぬタイミング」を調整している。

 ひなたをトリガーに、「もっと大きな流れ」を動かそうとしている。

 そのことが、数字の変動だけで嫌というほど分かった。

「どうしたの、蒼真」

 ひなたが、不安そうに俺の顔を覗き込む。

 その頭上の数字が、視界の真ん中に居座っていた。

 0000:00:08:49。

 0000:00:08:48。

 刻一刻と減っている。

「……なんでもない」

 そう言うしかなかった。

 現実を叩きつける覚悟も、優しい嘘をつく器用さも、今の俺にはない。

 ただ、心臓だけがやたらとうるさく鳴っていた。

     ◇

 夜。

 自分の部屋。机の上に広げたプリントを眺めていても、頭に入ってこない。

 スマホの画面には、文化祭企画のグループLINEが延々と更新され続けている。

「ステージ発表の入場口、体育館裏に変更だって」

「メイド喫茶の待機列、廊下じゃなくて中庭側に伸ばすらしい」

「雨止んだら外企画復活ワンチャン!」

 そのどれもが、明日の人の流れを変える情報だ。

 誰がどこで立ち止まり、どこで集まり、どこで転び、どこで躓くか。

 その全てが、ひなたのカウンターと繋がっている。

「……クロ」

 呼んだ。

 部屋の中に、黒い影が現れる。

 窓枠の上。いつもより、少し距離を取った場所に、クロが座っていた。

「久しぶり」

「今日一日、どこ行ってたんだよ」

「こっちの台詞なんだけど」

 クロは、少し疲れた顔でため息をついた。

「あたしだって、好きで姿隠してたわけじゃないよ。上から『干渉控えろ』って怒られてさ」

「管理局からの圧力、ってやつか」

「まあ、そんなところ」

 クロは、窓の外をちらりと見る。

「世界側もさ」

 いつもより真面目な声だった。

「この子――空木ひなたって案件をトリガーに、大きな流れを動かそうとしてる」

「大きな流れ?」

「学校単位とか、街単位とかじゃない」

 クロは、自分の指先をじっと見つめた。

「もっと広い範囲。たぶん、この地域の『死の分布』ごと調整したいんだと思う」

「分布……?」

「雷雨も、体育館の浸水も、プログラム変更も」

 クロは、机の上のプリントを指さした。

「あれ全部、向こう側からしたら『事故の形を調整するためのパラメータ』だよ」

「ふざけんなよ」

 思わず、机を拳で叩いた。

「ひなた一人殺しといて、それを起点に何人かまとめて死なせる、みたいな話かよ」

「言い方雑だけど、大体そんな感じ」

 クロは、苦笑ともため息ともつかない息を吐いた。

「だからこそ、向こうはあたしたちに口出しされたくない」

「……お前は、それでいいのかよ」

 感情が、どうしても抑えられなかった。

「管理局の事情がどうとか、世界のバランスがどうとか知らねえよ」

 こみ上げてくるものを、そのまま言葉にする。

「ひなたを殺して、その上で『うまくバランス取れました』って満足してる連中の言うことなんか、聞いてたまるか」

「蒼真」

「お前だって、嫌だろ」

 クロは、少しだけ目を伏せた。

「……嫌だよ」

 小さく、でもはっきりと。

「あたしだって、人の死をログの数字だけで見るの、好きじゃない」

 クロは、窓枠から降りてきた。

「でもね」

 顔を上げる。

「それでも、あたしには限界がある」

 クロの目が、いつもより冷静だった。

「見習いのくせに、これだけライン書き換えて、事故ずらしして、契約者守って」

 指で、俺の右目を指さす。

「あんたと一緒にやってきたことは、向こうからしたら完全にアウト」

 クロは、自分の胸を軽く叩いた。

「あたしのカウンターも、もうけっこう削れてる」

「お前にも、カウンターあんのかよ」

「あるよ、そりゃ」

 軽く笑ったあと、クロは表情を引き締めた。

「これ以上の介入は、ガチで止められてる」

「つまり?」

「正面からラインを書き換えるとか、事故そのものを消し飛ばすとか」

 クロは、指を一本立てた。

「そういうやり方は、もう使えない」

「ふざけんな」

「ふざけてない」

 クロは、珍しく語気を強めた。

「あんたを守るためでもあるんだよ」

「俺を守る?」

「契約者がこれ以上ラインに触りすぎるとね」

 クロは、俺の頭上を見上げる。

「管理局は、『契約者ごと案件を削除』って選択を普通にしてくる」

「削除って、前も言ってたよな」

「人間的な意味でも、システム的な意味でも、全部消える」

 淡々とした口調だった。

「空木ひなたの案件に関わった死神と契約者をまとめて消す。それで『バグ要因排除、整合性回復』ってログに書く」

 クロは、机の上に座った。

「そうなる前に、あたしは介入を止めないといけない」

「……お前は、それを受け入れるつもりなのか」

「見習いだからね」

 クロは、どこか自嘲気味に笑う。

「上から言われたら、従うしかない」

「上から言われたら、ひなたを見殺しにするのか」

 問い詰めると、クロは黙った。

 数秒の沈黙のあと、視線をそらす。

「……それは」

「答えろよ」

「蒼真」

「答えろ!」

 声が荒くなった。

 クロは、唇を噛んだ。

「あたしは」

 ようやく絞り出された声は、今にも消えそうに小さかった。

「ひなたを助けたいよ」

「じゃあ――」

「でも、あんたまで消えていいなんて、思えない」

 クロは、俺をまっすぐ見た。

「どっちか一人ならまだしも、二人まとめて消されるのは、絶対に嫌」

「そんな条件、飲めるかよ」

「飲まなきゃ、どっちも失う」

 クロの言葉が、胸に突き刺さる。

「向こうはそういう、えげつない選択肢を平気で出してくる」

 机の上で、クロは拳を握った。

「あたしは、あんたを選ぶしかない」

「ふざけんな」

 即答だった。

「俺は、ひなたの命守ろうとしてんだぞ」

「知ってるよ。ずっと見てた」

「お前が最初に、俺の寿命書き換えてまで助けたんだろ」

「そうだよ」

「だったら最後までつきあえよ」

 クロは、それでも首を横に振った。

「あたしが今ラインに触ったら、マジで全部終わる」

「じゃあ」

 息を吸い込む。

「お前は、もう何もしなくていい」

 クロの目が、大きく見開かれた。

「は?」

「お前が動けないなら、あとは俺がやる」

「蒼真、意味分かって言ってる?」

「分かってるよ」

 自分の頭上のカウンターを見る。

 0000:56:23:10。

 そこから、文化祭準備やら何やらで、さらに削れて。

 今は、0000:45:**:**くらいになっている。

 計算なんて得意じゃない。でも、「そんなに余裕がない」ことだけは、見れば分かる。

「世界のバランスとか、整合性とか、正直どうでもいい」

 胸の奥をかき回されるような恐怖を、無理やり押し込めた。

「俺はひなたを生かすために、この目をもらったんだろ」

「それは――」

「お前が選んだラインだ」

 クロは、言葉を失っていた。

「俺の寿命がどれだけ減ろうが、関係ない」

 口に出した瞬間、自分でも「やべえこと言ってるな」と思った。

 でも、もう引き返せなかった。

「ひとり目の犠牲者がひなたなんだろ」

 昼間、ルカから聞いた話が頭をよぎる。

「だったら、ひとり目を止めれば、続きの連鎖も止められる」

「そんな保証、どこにも――」

「保証なんかいらない」

 クロの言葉を、遮る。

「賭けるしかないんだよ、もう」

 クロは、ぎゅっと拳を握った。

「……バカ」

「知ってる」

「バカで、無謀で、救いようがなくて」

「散々言ってくれんな、おい」

「でも」

 クロは、ゆっくり息を吐いた。

「あたしが好きになった人間、だ」

 その言葉に、心臓が一瞬だけ止まった気がした。

「……今の、どういう意味」

「どういう意味に聞こえた?」

「やめろそういう言い方」

 クロは、ふっと視線をそらした。

「とにかく」

 わざとらしく咳払いをしてから、俺の方を見る。

「あんたがそこまでやるって言うなら」

 クロは、胸元から黒い帳簿を取り出した。

 契約のときに見た、寿命のログがびっしり書き込まれた帳簿。

 ただし、今日は中を開かない。

「これ以上、あたしはラインに触れない」

「……」

「その代わり」

 クロは、俺の額を指先で軽く弾いた。

「最後まで見ててやるよ」

「見てるだけってことかよ」

「見てるだけじゃない」

 クロの目が、真剣だった。

「あんたが世界に喧嘩売って、どこまで食らいつけるか」

 指先が、俺の右目の周りをなぞる。

「ちゃんと証人になってやる」

 それは、死神なりの最大限の覚悟表明なのかもしれない。

「……明日」

 俺は、問う。

「明日、何が起きる」

 クロは、しばらく黙っていた。

 窓の外の街灯の光が、カーテン越しに差し込む。

 やがて、観念したように口を開いた。

「この学校で」

 ひとつひとつ、噛みしめるように言葉を並べる。

「一人目の犠牲者が出る」

 その名前は、言われなくても分かっていた。

「空木ひなた」

 喉が、ぎゅっと締めつけられる。

「そこから先は」

 クロの視線が、少し遠くを見た。

「もっと大きい範囲の話」

「もっと大きい範囲?」

「学校だけじゃない。地域単位、下手すりゃもっと広い」

 クロは、それ以上は言わなかった。

「一人目の犠牲者が、空木ひなた」

 そのフレーズだけが、頭の中で何度も反芻される。

「……いい」

 立ち上がる。

「十分だ」

「十分?」

「ひとり目を止めれば、連鎖も止められる可能性がある」

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。

「だったら、やることは変わらない」

 クロは、何も言わなかった。

 ただ、どこか祈るような目でこちらを見ていた。

     ◇

 夜が更ける。

 机に伏せたまま、スマホの画面を見つめていた。

 ひなたからのトークは、夕方の「今日ありがとね」で止まっている。

 送ろうと思えば、いくらでも送れる。

「明日、絶対守るから」とか。

「文化祭、一緒に回ろうな」とか。

 でも、どの言葉も、変に軽く思えて、打てなかった。

 時計を見る。

 23時58分。

 ひなたの頭上に浮かぶカウンターを、イメージする。

 0000:00:01:01。

 残り一時間と一秒。

 さっきまでは、もう少し余裕があった気がする。

 文化祭準備の後片づけ。帰り道でのちょっとした段差の躓き。家での家事。そんな「日常の動き」で、じわじわと削れていったのだろう。

 23時59分。

 秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

 0000:00:00:59。

 0000:00:00:58。

 まだ、ひなたは明日のことを考えながら眠っているだろうか。

 メイド喫茶のこと。ステージのこと。クラスのみんなのこと。

 そのどれもが、「最後の一日」に詰め込まれている。

 やがて、スマホの画面上の時計が変わる。

 00:00。

 日付が変わる瞬間。

 頭の中のひなたのカウンターも、切り替わる。

 0000:00:00:01。

 から。

 0000:00:00:00。

 ゼロに最も近い数字が、暗闇の中で、真っ白に浮かび上がっていた。


第十一話「七日目の朝」

 文化祭当日の朝は、いつもの登校風景とは別物だった。

 校門の前からして、既に色が違う。カラフルな布で巻かれたアーチ、手作り感満載の看板、校庭には模擬店のテントがずらりと並び、焼きそばやらフランクフルトやらの匂いが、まだ準備中だというのに早くも漂っている。

 いつもは眠そうに歩いている連中も、この日ばかりは足取りが軽い。クラスTシャツやら、コスプレみたいな衣装やら、写真を撮るには困らないほどの騒がしさだ。

 その中で、俺だけは場違いみたいに、ひとりで冷えた心臓を抱えていた。

 校門をくぐる瞬間、無意識に右目を細める。

 視界のあちこちに、数字が浮かび上がる。

 0000:00:05:40。

 0000:30:**:**。

 0000:70:**:**。

 七十年近くある数字もあれば、今日中にゼロになる気配のものもある。けれど、今一番見たくて一番見たくない数字は、決まっていた。

 昇降口の前。クラスメイトの輪の中心で騒いでいる、ポニーテール。

「おはよー! 今日も一日、うちのクラスがナンバーワンにぎやかにしまーす!」

 ひなたは、相変わらずのテンションで両手を上げていた。メイド服の上にまだパーカーを羽織っているが、その姿だけで既にやたらと目立つ。

 その頭上。

 0000:00:03:20。

 残り三時間と二十分。

 昨日の夜、日付が変わる瞬間に見えた「ゼロに最も近い数字」から、少しだけ巻き戻ったような値だった。増えたのか、調整されたのか。どちらにしても、笑っていい差ではない。

「朝比奈ー」

 ひなたがこちらに気づき、手を振る。

「今日は一日、専属の客としてうちのクラスに貢献すること!」

「なんだその専属って」

「メイド喫茶で全メニュー制覇して、スイーツ完売させるの。分かった?」

「金がいくらあっても足りねえよ」

 口ではそう返しながらも、足は自然とひなたの方へ向かっていた。

 近づくにつれて、数字がくっきりと視界に入り込む。

 0000:00:03:19。

 0000:00:03:18。

 秒単位で減っている、当たり前だけど残酷な現実。

「お、あさぴー先生だ」

 そこへ、燈央が背後からひょいと現れた。クラスTシャツの上からバスケ部のジャージを羽織り、手にはポスターの束を抱えている。

「偉いじゃん。ちゃんと時間通り来てる」

「人を遅刻常習犯みたいに言うな」

「いや、最近お前、準備のときも朝からずっと動き回ってたからさ。今日もどっかで倒れるんじゃないかって実行委員が賭け始めてる」

「縁起でもないことを賭けのネタにするな」

 燈央は笑いながら、ひなたの頭をぽん、と軽く叩いた。

「ほら、空木。メイド喫茶の客引き、頼んだぞ。お前のテンションにかかってるからな」

「任せなさい!」

 ひなたは胸を張って敬礼ポーズを取る。頭上のカウンターが、その瞬間、わずかに揺れた。

 0000:00:03:18。

 から。

 0000:00:03:22。

 四秒。笑顔ひとつで増減するには、あまりにも軽すぎて、でも今はそれでもありがたかった。

「じゃ、準備に行ってくる」

 燈央は、ポスターを肩に担いで体育館の方へ向かう。その背中の数字は、相変わらず余裕のある値を保っていた。

 俺はひなたに向き直る。

「無理して走り回るなよ」

「えー、メイドが走らずにどうするの」

「接客業の基本は落ち着きだぞ」

「しれっと嘘つかないでよ」

 ひなたは笑って、くるりとその場で回った。パーカーの裾から、白いエプロンがちらりと見える。

 その動きに合わせて、カウンターがまた揺れる。

 0000:00:03:22。

 から。

 0000:00:03:21。

 数字が減ったのか、ただ揺れただけなのか、一瞬では判別できない。でも、ゼロに近づいている事実だけは変わらない。

「じゃ、行ってくるね」

 ひなたは、教室の方へ駆け出していった。

 その背中を、俺は思わず追いかけそうになって、足を止める。

 追いかけて手を引いたところで、寿命が止まってくれるわけじゃない。

 やるべきことは、もっと別のところにある。

     ◇

 開会式が終わると同時に、校内は本格的に祭りの空気に飲み込まれた。

 一年の廊下はお化け屋敷で暗幕が張られ、二年のフロアには飲食系の模擬店が集中している。三年は進路展示と、比較的落ち着いた企画だ。

 その中で、事故のトリガー候補は山ほどあった。

 ガスコンロ。ホットプレート。たこ焼き機。油の入ったフライヤー。大量の延長コード。段ボールで作った段差の多い迷路。人が押し寄せる狭い廊下。湿った階段。

「おい朝比奈、そんなところで何やってんだよ」

「消火器の位置確認」

「仕事人かよ」

 廊下を歩きながら、俺は壁に並んだ消火器と非常ベルをひとつずつ確認していく。いつでも使えるように周辺のダンボールをどかし、足を引っかけそうなものをテープで留める。

 そのたびに、自分の頭上のカウンターが揺れる。

 0000:45:**:**。

 から。

 0000:44:50:**。

 0000:44:10:**。

 今何時間残っているのか、正確に数える余裕はない。それでも、午前中だけで相当削っている感覚があった。

 視界の端に時々、黒髪ロングの影が見えた気がする。けれど、振り返っても何もいない。

 クロは、今日は本当に遠くから見ているだけらしい。

「お客さん、いらっしゃいませー!」

 二年のフロアに戻ると、ひなたの声が飛び込んできた。

 クラスのメイド喫茶は、廊下からでも分かるくらいの盛況ぶりだ。入口には「喫茶ひなた」のポップな看板。教室の中では、メイド服に身を包んだ女子たちと、エプロン姿の男子たちが慌ただしく動き回っている。

 その入口で、ひなたが客引きをしていた。

「今なら開店記念でクッキーサービスですよー! かわいいメイドさんと、そこそこイケメンな執事もいますよー!」

「そこそこ言うな」

「いや、謙虚にいっとかないとクレームくるから」

 客に混じって入っていこうとすると、ひなたがこちらを見てニヤリと笑った。

「あ、あさぴー先生だ。今日はお財布、覚悟してきましたか」

「お前の店、ぼったくる気満々だな」

「文化祭限定だからセーフ」

 そう言いながら、ひなたは通り過ぎていく客にチラシを配る。その一挙一動に、頭上のカウンターが細かく揺れていた。

 客が笑ってくれると、数秒増える。

 つまずきそうになった子どもの手をとると、十秒増える。

 忙しさで足元がおぼつかなくなった瞬間、逆に数十秒減る。

 まるで、この教室の空気そのものが、ひなたの寿命と直結しているみたいだった。

「なに難しい顔してんの」

 ひなたが、ふいにこちらへ顔を寄せてきた。

「どうせまた、変なこと考えてるんでしょ」

「変なことってなんだよ」

「世界の危機とか、寿命とか、そういう方向の」

 図星すぎて言葉が詰まる。

「ばっか。文化祭の日くらい、もうちょっとお気楽に構えてよ」

 ひなたは、軽く肩をつついた。

「あたし、今けっこう楽しいんだから」

 頭上の数字が、その言葉に反応する。

 0000:00:03:10。

 から。

 0000:00:03:25。

 十五秒。

 それだけのために、今までどれだけの時間を削ってきたのか分からない。

 けれど、その十五秒が、今は何よりも貴重に思えた。

     ◇

 昼過ぎ。

 ひととおりクラスの仕事を見届けたあと、俺は体育館へ向かった。

 体育館の入口は、いつもよりも派手だった。カラーテープと風船で飾られ、「ステージイベント会場」と書かれた大きな横断幕が張られている。

 中に入ると、照明と音響のチェックが続いていた。ステージ上では、軽音部のバンドがリハーサルをしている。アンプから流れるギターの音色と、ドラムのリズムが、床を通じて伝わってくる。

 視線を天井へ向ける。

 鉄骨の梁に取り付けられた照明リグ。その周辺に、他の場所とは明らかに違う「密度」があった。

 寿命カウンターが、異常なほど集中している。

 0000:00:**:**が、数十単位で。

 照明器具一つ一つに、そこに関わる人間の寿命がぶらさがっているみたいだった。設営担当の先生、業者、電源の管理をしている職員、ステージの出番を待つ生徒たち。

 中でも、一番濃く結びついている数字は――

 0000:00:02:50。

 ひなたのものだった。

「……ここだな」

 喉の奥で、言葉にならない声が漏れる。

 ここが、爆弾の場所だ。

 ここで何かが起きる。

 クロの言っていた「一人目の犠牲者」が、ここで出る。

「すみません」

 ステージ袖にいた教頭先生に声をかける。

「照明、なんか不安定じゃないですか」

「え?」

「さっきから、たまにチカチカしてるし」

 実際、さっき天井を見上げたとき、何本かの照明が一瞬だけ明滅したように見えた。

 寿命カウンターのノイズなのか、電源の問題なのか、それは分からない。

「さっきからずっとチェックしてるけど、大丈夫だと思うよ」

 教頭先生は、忙しそうに手元の資料をめくりながら答えた。

「業者さんにも見てもらったし」

「それでも、念のため――」

「念のため、も何もね」

 教頭先生は、苦笑混じりに肩をすくめる。

「このタイミングで機材に手を入れる方が、よっぽど危ないんだよ。時間も押してるしね」

「……そうですか」

 まともに取り合ってもらえない。

 この体育館が、今日の「本命」の舞台だと分かっていても、数字が見えていない人間には、ただの心配性な生徒の言葉にしか聞こえないのだろう。

「蒼真ー!」

 そのとき、ステージ裏から声が飛んだ。

 振り向くと、ひなたがこちらへ走ってくる。メイド服の上に学ランを羽織り、妙なミックスコーデになっていた。

「なんだその格好」

「クラス劇の役衣装。メイド兼モブ男子生徒っていうよく分からないポジション」

「欲張りすぎだろ」

 ひなたの頭上のカウンターは、0000:00:02:40になっていた。

 減ってはいるが、さっき体育館に入る前よりは少しだけマシだ。

「緊張するなあ」

 ひなたは、胸の前で手をぎゅっと握りしめた。

「ステージとかさ、体育の発表会とか以来なんだけど」

「体育の発表会?」

「小学校のときにさ。マット運動で前転して、そのままステージから落ちかけた事件を忘れたとは言わせない」

「そんな事件、今日初めて聞いたんだが」

「あれは黒歴史だから封印してた」

 さらに不安になる情報をさらっと出すな。

「でも、今日は転ばないように頑張る」

「そこは『演技を頑張る』って言えよ」

「演技はまあ、なんとかなるでしょ。台本そんなにセリフないし」

 ひなたは、笑って肩を回した。

「それよりさ」

 ふいに、真面目な顔になる。

「あんた」

「何だよ」

「さっきからずっと、ここ見てる」

 ひなたは、俺の視線の先――天井の照明リグを指さした。

「そんなに気になる?」

「……まあな」

「落ちてくるんじゃないかって心配してる?」

「そういうこと」

「大丈夫だよ。落ちてきても、あんたが受け止めてくれるでしょ」

「そんな重量、受け止められるか」

 冗談半分に返したが、ひなたはまっすぐな目でこちらを見ていた。

「……ねえ、蒼真」

「なんだよ」

「今日、なんかいつも以上に変だけど」

 ひなたの手が、少しだけ震えている。

「大丈夫?」

「俺は、大丈夫だ」

「そうじゃなくて」

 ひなたは、少しだけ目を伏せた。

「あんたが、どっか行っちゃいそうで怖い」

 昼の屋上で言われた言葉と、ほとんど同じだった。

 遠くに行きそうで、やだ。

 ひなたは、同じことを繰り返している。

 そのたびに、俺はまともな答えを返せていない。

「……行かないよ」

 今度は、ちゃんと言葉にした。

「どこにも行かない」

 手を伸ばし、ひなたの手を握る。

 冷たい。少し汗ばんでいて、指先が強張っている。

「なにこれ。本番前に手つなぎとか、青春イベント?」

「うるさい」

 それでも、離さなかった。

「大丈夫だ」

 言葉にすると、少しだけ、自分にも言い聞かせているみたいだった。

「何かあっても、俺が絶対どうにかする」

 口に出した瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。

 絶対、なんて。

 世界中の死神とその上が相手でも言い切れるほど、俺は強くない。

 それでも、ひなたの前では、それしか言えなかった。

 ひなたは、一瞬だけ目を丸くした。

 次の瞬間、ふっと柔らかく笑う。

「……そっか」

 握られた手に、少しだけ力がこもる。

「じゃあ、信じるね」

 その言葉と同時に、ひなたの頭上のカウンターが大きく揺れた。

 0000:00:02:40。

 から。

 数字の桁が、一度ぐにゃりと歪む。ノイズが走り、ゼロと一がぐちゃぐちゃに混ざったような表示になったかと思うと――

 0000:00:10:00。

 ありえないほど跳ね上がった。

「……え?」

 思わず、声が漏れる。

 残り十分。

 さっきまで二時間台だったはずの寿命が、一気に伸びている。

 ひなたの表情は変わらない。自分の頭上の数字に気づいている様子はない。

 その代わり、別の場所の数字が激しく揺れていた。

 俺自身のカウンターだ。

 0000:44:**:**。

 から、急激に削れ、

 0000:30:**:**、

 0000:20:**:**。

 息が詰まりそうになる。

 ひなたの寿命が伸びた分だけ、俺の寿命が削られている。

 今までとは比べものにならない速度で。

「蒼真?」

「……なんでもない」

 手を離すと、ひなたは名残惜しそうに自分の指を見つめた。

「じゃ、行ってくる」

 ステージ袖から呼ぶ声が聞こえて、ひなたは駆け出していく。

 その背中を見送ると同時に、ひなたのカウンターが動き始めた。

 0000:00:10:00。

 から。

 0000:00:09:59。

 0000:00:09:58。

 ゼロへ向かう速度が、さっきまでより速い。

 まるで、一度伸ばしたぶんを取り戻すみたいに。

「……そういうことかよ」

 呟くと、ステージ裏の暗がりから、小さな気配がした。

「やっぱ、無茶するね、あんた」

 振り向くと、そこにはクロがいた。

 いつもの黒髪ロング。だるそうな目元。ただ、今日は少し顔色が悪い。

「見てたなら、止めろよ」

「止めようと思ったけど」

 クロは、自分の胸のあたりを押さえた。

「あんたがあまりにも真顔で『絶対どうにかする』とか言うから、ちょっと見惚れてた」

「そんな理由かよ」

「ごめん」

 謝り方も、相変わらず適当だ。

「でも、今ので確信した」

 クロは、天井を見上げた。

「世界側は、本気でひとり目をこの体育館で落とす気だ」

 その視線の先、照明リグのあたりで、寿命カウンターの塊がぼやっと光る。

「照明?」

「照明だけじゃない」

 クロは、指先で空中に線を描く。

「電源。吊り上げ用のワイヤー。足場。観客の座席。避難経路」

 描かれた線は、すぐに消えた。

「全部をひなたのラインに寄せてる」

「ふざけんな」

「ふざけてないってば」

 クロは、俺の頭上を見る。

「あんたのカウンター、今かなり危ないとこまで減ってる」

「知ってる」

「十年単位で減ったよ」

「知ってる」

「これ以上やったら、本当に――」

「知ってるって言ってるだろ」

 クロの言葉を遮る。

「だからこそ、今止まれないんだよ」

 自分の声が、思った以上に震えていた。

「ひなたのカウンターがゼロに向かってるの、見て見ぬふりなんかできるかよ」

 クロは、しばらく黙っていた。

 体育館のざわめきと、ステージ上のバンドの音だけが響く。

 やがて、クロは小さく息を吐いた。

「……ほんと、バカ」

「それ、もう何回目だよ」

「でも」

 クロは、ほんの少しだけ笑った。

「あたしの好きなバカだ」

「だから、そういう言い方やめろって」

「元気出るでしょ」

 元気どころか、心臓に悪い。

「とにかく」

 クロは、ステージ裏のカーテンの隙間を覗いた。

「ここから先は、あたしもマジで口出しできない」

「さっきも聞いた」

「でも、ひとつだけ」

 クロは、指を一本立てた。

「ひなたのラインが集中してる場所は分かるでしょ」

 視線を天井に向ける。

 照明リグ。その中でも、特に寿命カウンターの密度が濃い部分があった。

「あそこか」

「うん」

 クロは頷いた。

「あそこをどうにかすれば、多分、最悪のパターンだけは外せる」

「どうにか、って」

「落ちる前に固定するか」

 クロは、さらりと言った。

「落ちる方向を変えるか」

 その二択の重さに、喉が鳴った。

「落ちる方向を変える?」

「誰もいない場所に」

 クロは、目を細めた。

「もしくは」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

「……それ以上は、言わない」

「言わないのかよ」

「言ったら、あたしも一緒に削除される」

 冗談に聞こえなかった。

「だから、あとはあんたの観察と判断でやって」

「簡単に言うな」

「簡単なんて一言も言ってない」

 クロは、少しだけ寂しそうな顔をした。

「あたしは、見てるから」

 あのときと同じ言葉。

 今度は、諦めじゃなくて、決意のにじんだ声だった。

     ◇

 ステージでは、別クラスの劇が始まっていた。

 客席から笑い声が上がる。体育館の空気は、熱気と湿気でむわっとしている。

 ステージ袖では、次の出番のクラスが控えていた。

 ひなたは、その列の一番前で台本を握っている。口の動きで、セリフを何度も確認していた。

「蒼真」

 背後から、別の声がした。

 振り向くと、燈央が立っていた。クラスTシャツの上にジャケットを羽織り、腕には腕章が巻かれている。

「お前、ここにいたのか」

「実行委員のお仕事」

 燈央は、体育館内の様子をぐるりと見渡した。

「事故防止の見回り」

「それ、今一番大事な役目だな」

「だろ?」

 軽く笑ってから、俺の顔をまじまじと覗き込む。

「お前さ」

「ん?」

「さっき、空木の手握ってただろ」

「見てたのかよ」

「たまたまだよ。ステージ袖入ったら目の前でイチャついてんだもん」

「イチャついてない」

「まあ、どっちでもいいけど」

 燈央は、ひなたの方を見る。

「空木、緊張してるけど、嬉しそうだったぞ」

「……そうか」

「ありがとな」

 思いがけない言葉に、顔を上げる。

「何が」

「空木のこと、ちゃんと見てくれて」

 燈央は、照れ隠しのように鼻をかいた。

「あいつさ。何でも一人で抱え込むとこあるから」

 家のこと。進路のこと。寿命のこと。

 その全部を、俺も今まさに一緒に抱え込もうとしている。

「だからお前が一緒にいるの、正直助かってる」

「……」

「もしさ」

 燈央は、少しだけ真剣な顔になった。

「あいつに何かあったら」

 その先を言わないまま、目を逸らす。

 「何か」の内容を知らないからこそ、こんな言い方になるのだろう。

 俺は、喉の奥で言葉を噛み殺した。

「後悔だけはすんなよ」

 燈央は、それだけ言うと、客席の方へ戻っていった。

 残された俺は、ひなたの背中を見つめる。

 カウンターは、まだ動いている。

 0000:00:09:50。

 0000:00:09:49。

 ゼロに向かう速度が、だんだん速くなっているような気がした。

「次のクラス、準備してください」

 マイクから、先生の声が響く。

 ステージ上の劇が終わり、客席から拍手が湧き起こる。

 その裏で、天井から小さな音が聞こえた。

 金属が擦れるような、いやな音。

「……今の」

 聞き間違いであってほしかった。

 でも、照明リグのあたりで寿命カウンターが一斉に揺れるのが見えた。

 天井の鉄骨の一部が、ほんのわずかにたわんでいる。

「危ない!」

 誰かが叫んだ。

 ステージ上では、次のクラスのセットが運び込まれようとしていた。その上方で、照明器具の一つがぎしりと揺れる。

 ステージ袖で控えていた生徒たちが、思わず後ずさる。

 悲鳴があちこちから上がった。

 ひなたの頭上のカウンターが、急激にゼロへ向かって落ち始める。

 0000:00:09:49。

 から。

 0000:00:02:00。

 0000:00:01:59。

 体育館全体が、一瞬で「事故の直前」の空気に変わったところで――幕を下ろした。


第十二話「間に合わなかった手」

 ワイヤーが切れる音って、あんなに嫌な音がするんだと、後になって思い知った。

 きしむような、高い金属音。

 体育館の天井付近から、それが一度だけ鳴った。

 次の瞬間、照明器具の一つが、ありえない角度でぶら下がった。

「あれ――」

 誰かが言いかけたときには、もう遅かった。

 太いワイヤーがもう一本、ぱん、と弾け飛ぶ。

 重力に引かれて、巨大なライトが観客席の手前へ向かって落ちていく。

「危ないっ!」

 叫び声と同時に、客席の寿命カウンターが一斉に揺れた。

 0000:00:**:**。

 0000:10:**:**。

 0000:00:00:05。

 ゼロに近い数字が、一瞬だけぞっとするほど増える。

 落下地点の真下にいた生徒が、直前で友達に腕を引かれ、ライトは誰もいない通路に激突した。

 体育館の床が揺れ、鈍い衝撃音が響く。

 ガラスの破片と金属片が飛び散り、白い光が一瞬だけ暴発したみたいに弾けた。

「きゃあああああ!」

 悲鳴が、波のように押し寄せる。

 誰も直撃していない――そのことに、ほんの一瞬だけ安堵しかける。が、それはすぐ別の恐怖に塗りつぶされた。

 観客席の寿命カウンターが、別の方向へ一斉に揺れ始めたのだ。

 出口に近い列の数字が、ぐっと縮む。

 0000:10:**:**だったものが、0000:00:05:00に。

 後ろのブロックでは逆に、0000:20:**:**が、0000:00:10:00に。

 人の流れが、出口へ殺到する形に偏った。

(……これだ)

 背筋が、氷みたいに冷たくなる。

 照明が「きっかけ」でしかなかったことが、数字を見ているだけで分かる。

 本当の事故は、これから始まる。

 押し合い。将棋倒し。出口の詰まり。

 そのどこかで、ひとり目の犠牲者が出る。

「空木は――」

 振り返る。

 ステージ袖。

 さっきまでひなたがいたあたりに、姿が見えない。

 視界の端で、メイド服に学ランという謎コーデがちらりと揺れた。

「何かあったの?」

 舞台袖のカーテンの隙間から、ひなたが顔を出しかけている。

 客席の悲鳴とざわめきが、その声をあっさり飲み込んだ。

「やば、ライト落ちた? 誰か――」

「ひなた!」

 全力で叫ぶ。

「出るな!」

 喉が裂けるかと思うくらいの声で。

 でも、その叫びは、体育館全体を満たす悲鳴と足音の渦に、あっさりかき消された。

 ひなたは、それでも状況を確認しようと、ステージ側に足を踏み出す。

 その足元。

 さっき落ちたライトの破片が、照明の熱で溶けかけたプラスチックやガラスと一緒に床に散らばっていた。

 そこに乗った靴の裏が、わずかに滑る。

 ひなたの頭上のカウンターが、一気に変動する。

 0000:00:02:00。

 から。

 0000:00:00:03:00。

 0000:00:00:02:50。

「っ……!」

 考えるより先に、体が動いていた。

 ステージ袖の支柱を蹴る。

 セットにぶつかり、舞台用の小道具ががしゃがしゃと崩れ落ちる。

 それも無視して、ひなためがけて飛び込む。

「出るなって言ってるだろ!」

 体当たりする形で、ひなたの肩を思い切り押し戻した。

「きゃ――っ!?」

 ひなたの体が、舞台袖側に倒れ込む。

 その頭上のカウンターが、また揺れる。

 0000:00:00:02:50。

 から。

 0000:00:00:04:00。

 わずかに増えた。その事実に安堵する暇もなく。

「うわっ、ごめん!」

 別方向から走ってきた生徒と、俺の体がぶつかった。

 ステージ袖から、客席側へ駆け出してきた男子。

 前を見ていなかったのか、俺たちの存在に気づくのが遅れたらしい。

 ひなたを押し戻した体勢のままの俺は、完全にバランスを崩した。

 視界の端で、ステージの端が迫ってくる。

「あ」

 間の抜けた声が出た。

 足元から床の感触が消える。

 代わりに、胃が浮くような、いやな感覚。

(やば――)

 落ちる。

 そう自覚した瞬間、頭上のカウンターが激しく揺れた。

 0000:20:**:**。

 から。

 0000:00:05:00。

 0000:00:00:50。

 ひなたの寿命を引き受けながら事故を潰してきたツケが、一気に請求されるみたいに。

「蒼真!」

 ひなたの声が、遠くで聞こえた。

 視界が、ぐにゃりと歪む。

 ステージから床までの距離は、それほど高いわけじゃない。

 だけど、照明器具の残骸や折れた鉄パイプが、落下地点のあちこちに転がっていた。

 あれに頭から突っ込めば、一発でゼロだ。

(ここで死んだら――)

 ひなたを守るって言った約束、全部嘘になる。

 情けないほど単純なことが、落ちながら頭をよぎった。

「――バカ!」

 耳元で、怒鳴り声がした。

 黒い影が、視界を横切る。

 クロだ。

 いつもはふわふわ浮いているだけの死神見習いが、このときばかりは、全力で飛び込んできた。

 細い腕が、俺の制服の襟をつかむ。

 ありえない角度で体が引き寄せられる。

 その瞬間、視界が白く弾けた。

 床に叩きつけられる感覚は、確かにあった。

 背中と肩に、鈍い衝撃が走る。

 肺の中の空気が全部押し出されるみたいに、呼吸が止まる。

 でも、頭を何かにぶつける感覚だけは、ギリギリで外されていた。

 頭上のカウンターが、猛烈な勢いで減る。

 0000:00:00:50。

 0000:00:00:30。

 0000:00:00:10。

 そこから先は、数字そのものがノイズだらけになって、読み取れなくなった。

「っ、は……」

 無理やり酸素を吸い込もうとした瞬間、肺が悲鳴を上げた。

 咳が出る。

 視界がぐらつき、体育館の天井と照明と、人の顔とがぐちゃぐちゃに混ざる。

「動くな!」

 クロの声が、すぐそばで聞こえた。

 こんなに近くで、こんなに必死な声を聞いたのは初めてだ。

「今、ラインが――っ……!」

 クロ自身の輪郭も、ノイズにまみれている。

 目の端で、彼女の頭上に浮かぶはずの数字を見ようとしたが、そこには何も見えなかった。

(見えない……?)

 死神の寿命は、人間とは別枠なのか。

 それとも、見えないほど高位の存在に圧力をかけられているのか。

 考えようとしたところで、別の音が耳に飛び込んできた。

 爆発音のような、鈍く重い音。

 鉄骨がきしむ、いやな響き。

「天井パネルが――!」

 誰かが叫ぶ。

 視界を無理やり持ち上げる。

 天井の一部。

 さっきライトが落ちた周辺の天井パネルが、支えを失ってずれかけていた。

 そこに、押し合いへし合いになった観客の波が迫っている。

「危ない、下がって!」

 ステージの端から、誰かが叫びながら飛び出すのが見えた。

 ポニーテール。メイド服に学ラン。

 空木ひなた。

「やめろ……!」

 声が出ない。

 喉をどれだけ動かしても、空気しか漏れない。

「ひなた、戻れ――!」

 俺の叫びなんかなくても、ひなたは走り出していた。

 すべてを分かっていたわけじゃないだろう。

 それでも、目の前で押しつぶされそうになっている後輩たちを、もう一歩後ろへ下げようと。

 自分のことなんか一秒も考えないで。

 彼女の頭上のカウンターが、目に見えて縮む。

 0000:00:04:00。

 0000:00:00:03:00。

 0000:00:00:02:10。

 世界のラインが、そこに集束していく。

「ダメ!」

 クロが、俺から離れようとした。

 瞬間、その腕を、透明な何かが掴んだ。

 空気の中に、目には見えない鎖が絡みついているような感覚。

『――見習い死神三番ユニット、これ以上の干渉は規約違反です』

 耳の奥に、冷たい声が響く。

 男でも女でもない、無機質なトーン。

 言語は日本語なのに、どこか機械の翻訳みたいな違和感がある。

『案件No.A‐019「空木ひなた」トリガーラインは、既に最終確定済みです』

「ふざけんな!」

 クロが、空気に向かって怒鳴った。

「あんたらが勝手に数字いじくって、それで終わりにすんの!?」

『本件は地域バランス調整案件です。個別の情動を優先する権限は、あなたにはありません』

「情動って言うな!」

 クロは、必死でもがいていた。

 だけど、彼女の身体はそこから一歩も動かない。

 見えない鎖が、死神を足止めする。

『繰り返します。これ以上の干渉は――』

「うるさい!」

 クロの叫びも、体育館全体を満たす悲鳴と、鉄骨のきしむ音に飲み込まれていく。

「ひなた……!」

 這うみたいに、手を伸ばした。

 指先は、空を掴むだけで何にも届かない。

 その向こうで、ひなたが振り返った。

 血の気が引いた顔。

 それでも、誰かを庇うように腕を広げている。

 体育館の天井。

 ゆっくりと、でも確実に、パネルがはがれ落ちていく。

 寿命カウンターが、狂ったみたいに点滅する。

 0000:00:00:03。

 0000:00:00:02。

 0000:00:00:01。

「ねえ……」

 ひなたの口が、何かを言った。

 遠すぎて、声が届かない。

 それでも、唇の動きははっきり見える。

 あ さ ひ な ――じゃなくて。

 あ さ ぴ ー。

 バカみたいな呼び方で。

 最後まで、ふざけたあだ名で。

 手を伸ばしてくる。

 届かない距離で、届きそうなくらい近く見える距離で。

「……っ」

 喉の奥で、何かが切れる音がした。

 その瞬間、天井パネルが落ちた。

 鉄骨の歪んだ悲鳴。

 押しつぶされる床。

 飛び散る埃と破片。

 世界が、一度だけ真っ白になった。

     ◇

 音のない時間が、どのくらい続いたのか分からない。

 しばらくして、急に、音だけが戻ってきた。

 誰かの泣き声。

 叫び声。

 教師の怒鳴り声。

 「押すな!」「落ち着け!」という必死の指示。

 サイレンの音。

 遠くから近づいてきて、やがて体育館の外で止まる救急車。

 その全部が、ひとつの音の塊になって、耳の奥をかき回してくる。

『――第一次収束フェーズ、完了。空木ひなた、トリガー確定』

 その騒音の奥で、別の声が聞こえた。

 さっきの、無機質なアナウンス。

 管理局の声だ。

『周辺案件の再配分を開始します。二次・三次波及のラインを再計算――』

「やめろ……」

 誰かが言った。

 自分の声かどうかも分からない。

 頭の中でだけ、何度も繰り返す。

 やめろ。

 再配分とか、波及とか、そんな言葉で、ひとりの死を処理するな。

 視界の端に、血の色がにじんでいた。

 誰のものかは分からない。

 床に落ちた赤い何かと、白い布と、ひしゃげた鉄骨。

 その真ん中に、ひなたがいるはずなのに。

 数字が、見えない。

 どれだけ目を凝らしても、彼女の頭上には、何も浮かんでいなかった。

「……ひな、た」

 喉の奥から、かすれた声が漏れる。

 指先が、空を掻く。

 誰かの手が、俺の手を強く握り返した。

「動くなって言ってるでしょ!」

 クロだ。

 さっきまで無機質な声に怒鳴っていた死神見習いが、今度は俺に向かって怒鳴っている。

「まだライン、繋がってるんだから! あんたここで離したら、本当に落ちる!」

「ひなた……どこだよ」

 自分でも驚くほど、弱い声だった。

 クロは、答えない。

「なあ……クロ」

 視界がぼやけて、黒髪の輪郭が滲む。

「ひなた、どこ」

 クロの手が、俺の手をさらに強く握る。

 その手が、震えていることに気づいた。

「ごめん」

 絞り出すような声だった。

「あたし……」

 クロは、涙を堪えているような顔で俺を見下ろしていた。

「守れなかった」

 その言葉が、頭の中で何回も反響する。

 守れなかった。

 守れなかった。

 守れなかった。

 クロが。

 死神が。

 世界が。

 そして、俺が。

 ひなたの寿命カウンターが、視界のどこにも見当たらない。

 それが意味することは、一つしかなかった。

 それでも、誰もはっきりと「死んだ」とは言わなかった。

 教師も、生徒も、救急隊員も。

 管理局のアナウンスさえ、「トリガー確定」「第一次収束完了」といった言い回しで濁している。

 現実は、逆に残酷なくらいだった。

『搬送が必要な生徒を――』

『意識レベル、応答なし』

『保護者への連絡を――』

 断片的な言葉が飛び交う。その合間に、誰かのすすり泣きが混ざる。

 体の感覚が、少しずつ薄れていった。

 痛みも、恐怖も、怒りも、全部、遠くへ追いやられていく。

 代わりに、ひとつのイメージだけが、頭の中で繰り返し再生された。

 ひなたが、手を伸ばしてくる。

 メイド服の袖を汚しながら、血のついた手で。

 口の動きだけが、スローモーションみたいにはっきり見える。

 ねえ。

 あさ。

 ひな。――じゃなくて。

 ねえ。

 あさぴー。

 最後の最後まで、笑うみたいな顔で、あだ名を呼んでいた。

「……ごめ」

 言葉の続きを、口が作れなかった。

 ごめん、と言いたかったのか。

 ありがとう、と言いたかったのか。

 行くな、と叫びたかったのか。

 どれもこれも、本当に口に出したいときには、もう遅すぎた。

 世界が、完全にホワイトアウトした。

     ◇

 真っ白な空間に、俺は一人で浮かんでいた。

 どこまでが上で、どこまでが下なのか分からない。

 床も天井もなく、ただ「白」としか言いようのない何かが、視界いっぱいに広がっている。

 さっきまでの音の洪水も消えていた。

 サイレンも、泣き声も、管理局のアナウンスも。

 あるのは、自分の鼓動の音だけ。

 どくん。

 どくん。

 それも、だんだん遠くなっていく。

「……ここ、どこだよ」

 声に、自分の声らしさがなかった。

 誰も答えない。

 白い空間に、言葉だけが滲んで溶けていく。

 右目を押さえる。

 寿命カウンターは、何も見えない。

 自分のものも。

 ひなたのものも。

 クロのものも。

 世界そのものから、数字という概念が抜け落ちたみたいだった。

「なあ、ひなた」

 白の中に向かって、手を伸ばす。

 当然のように、何も掴めない。

「俺さ」

 笑えるくらい、声が震えている。

「あのとき、屋上でさ」

 本音ゲーム。

 ひなたが「ただの幼なじみじゃないの?」って聞いてきたとき。

 本当は、その場で答えられていたはずだ。

 ただの幼なじみなわけないだろって。

 お前がいない未来なんか、考えたくもないって。

 今日の朝だってそうだ。

 「何かあっても俺が絶対どうにかする」なんて、格好つけた言葉を吐いたくせに。

 結局、何ひとつ「ちゃんと」言えないままだった。

「あの時、もっと早く言えてれば」

 屋上でも。

 放課後の教室でも。

 家の前の帰り道でも。

 あのとき。

 あの瞬間。

 好きだって。

 行くなって。

 俺のそばにいろって。

 言えていれば。

「あの時、もっと早く言えてれば」

 言葉が、癖みたいに繰り返される。

 声に出しているのか、頭の中で反芻しているだけなのか、それすら曖昧になっていく。

 白い空間に、後悔だけが薄く積もっていく。

 どれだけ繰り返しても、過去は変わらない。

 分かっている。

 分かっているけど、止められない。

「あの時、もっと早く――」

 ひなたの笑顔が浮かぶ。

 あの屋上の風の匂いがする。

 文化祭前のざわめきが遠くで聞こえる。

 全部、もう戻らない。

「……言えてれば」

 最後まで言い切る前に、視界の端で、何かが黒く滲んだ。

 白一色の世界に、インクを垂らしたみたいな黒。

 それは、ゆっくりと形を取り始める。

 長い髪。

 だるそうな目元。

 いつもと同じ制服。

 見慣れた黒。

 クロだ。

 死神見習いは、この真っ白な世界の中でだけ、はっきりと色を持っていた。

 ただ、その顔には、いつもの気だるさは欠片もなかった。

 涙をこらえるみたいな、どうしようもない顔で。

「……ごめん」

 また、その言葉から始まった。


第十三話「寿命ゼロ」

 真っ白な世界の中で、俺はクロと向かい合っていた。

 床も天井も壁もない。上も下も分からず、ただ「白い」という感覚だけが続いている。なのに、足は確かに何かを踏んでいて、体もふわふわ浮いてはいない。

 夢よりも現実味があって、現実よりも現実じゃなかった。

「……ここ、どこだよ」

 さっきまでの体育館の騒音も、サイレンも、泣き声も消えている。

 残っているのは、自分の声と、目の前のクロの姿だけだ。

 黒髪ロングの死神見習い。いつもの高校の制服姿。

 だけど、その輪郭も少しだけ滲んでいた。白い背景から浮き上がっているというより、「無理やり貼りつけられた立ち絵」みたいな違和感。

「ここはね」

 クロは、いつになく低い声で言った。

「あんたと、あたしの“あいだ”」

「……は?」

「あんたの肉体は、まだ体育館の床で転がってる。あたしの本体も、あっちで拘束されてる」

 さらっと怖いことを言うな。

「じゃ、これは」

「意識だけ抜かれてる。簡単に言うと、そういうこと」

 クロは、小さく肩をすくめた。

 その仕草も、いつもと同じなのに、今は全く笑えなかった。

「まずはね」

 クロの手元に、黒い冊子のようなものが現れた。

 空中からすっと取り出されたそれは、図書室の古い台帳みたいに分厚い。表紙には、白い文字で何かが書いてあったけど、俺からは読めない。

「管理局からの報告書。あんたに伝えなきゃいけないこと」

「そんなもん、いらねえよ」

「規定だから」

 クロは、ぱらぱらとページをめくる。

 さっきまでの彼女からは想像できないくらい、声が機械的だった。

「……案件No.A‐019『空木ひなた』」

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「対象、生身の身体機能停止。脳活動確認不能。死亡判定確定」

「やめろ」

 言葉が喉から出た。

「関連事故により、負傷者多数。重傷四名。意識不明者一名」

「やめろって言ってるだろ!」

 声が、白い空間に響いた。

「寿命データ――」

「だから!」

 クロの襟首をつかもうとして、俺は一歩踏み出した。

 が、掴むはずの手は、彼女の服をすり抜けた。

 空っぽの空間を握った指先に、何の感触もない。

「……っ」

 バランスを崩しそうになって、空中で踏みとどまる。

「言ったでしょ」

 クロは、自分の襟元を見て、苦笑めいた表情を浮かべた。

「あたしたち、今“イメージ”だけなんだって」

「イメージって」

「ここにあるのは、あんたの意識と、あたしの意識。それを便宜上、こうやって“姿”にしてるだけ」

「じゃあ……触れないってことか」

「うん。どれだけ殴ろうとしても、すり抜ける」

 そう冗談めかして言ってから、クロはもう一度、黒い冊子に視線を落とした。

「続き、いくよ」

「いらないって言ってるだろ」

「それでも、言わないといけない」

 クロは、淡々と読み上げる。

「寿命データの再計算完了。地域バランス調整、一次フェーズ終了。トリガーライン確定」

 その一文で、「何か」が完全に終わったことが分かる。

 数字の見える右目なんて使わなくても分かる。

 世界のどこにも、ひなたの寿命カウンターは存在しない。

 もう、どれだけ探しても、彼女の頭上に数字が浮かぶことはない。

「……そんな報告、聞きたくなかった」

 握り締めた拳を、自分の胸に押し当てる。

 痛みはない。ただ、虚しさだけが残る。

「だったら、最初からそんなルール作んなよ」

「それは、あたしに言われても」

「お前、死神なんだろ」

「見習い」

「どっちでもいい!」

 怒鳴り声が、また空間に響いた。

「寿命がどうとか、トリガーがどうとか、勝手に数字で決めて、勝手に『完了』って報告して、それで終わりかよ!」

 クロの表情が、一瞬だけ揺れる。

「……終わりじゃないと、こっちが保たないんだよ」

 静かな声だった。

「全部、あんたみたいに気にしてたら、おかしくなる。だから、“処理”って言葉で切り分ける」

「それで納得できるやつなんかいないだろ」

「あたしたちは、納得するしかないように作られてる」

 クロは、小さく笑った。

「人間みたいに、ずっと後悔するようにはできてない」

 その言い方が、妙に引っかかった。

「……じゃあ、お前、今後悔してないのかよ」

 クロは、返事をしない。

 沈黙が答えの代わりだった。

「で、あれか」

 自分の声が、どこか冷めて聞こえた。

「ここで『任務完了、おつかれさまでした』って終わりにして、俺はそのまま消えるのか」

「あんたは」

 クロは、黒い冊子を閉じた。

「ここで契約終了」

「……」

「あたしも、担当から外される」

「外される?」

「今回の件、“現場の裁量を逸脱した感情干渉”って判断された」

 言葉の意味は分かる。でも、その裏にある重さは、すぐには飲み込めなかった。

「つまり?」

「お咎め。減給。……とかならまだマシだったんだけど」

 クロは、自分で言って苦く笑う。

「あたしみたいな下っ端は、もっと単純」

 白い空間の、何もない床を見下ろす。

「担当から外されて、データとしての権限、ほとんど剥がされて。最悪、そのまま――」

 そこまで言って、クロは口をつぐんだ。

「削除、か?」

「さあね」

 何でもないふうを装っているが、指先はわずかに震えていた。

「でもまあ、あんたの契約が終われば、ここでの関係も終わり」

「……勝手に終わらせんなよ」

 思わず、声が出た。

「ひなたは? ひなたは、どこに行ったんだよ」

「あたしたちにも、そこまでは分からない」

 クロは、首を横に振る。

「人間の意識がどこへ行くか、その先は死神の管轄じゃない」

「じゃあ、この数字の世界は何なんだ」

「寿命の管理範囲。あたしたちの仕事場」

 淡々とした説明が、余計に虚しく聞こえる。

「ただ、ひとつだけ言えるのは」

 クロは、真っ直ぐこちらを見た。

「空木ひなたのカウントは、ゼロになった。それが、全部」

 寿命ゼロ。

 それは、世界から完全に切り離されたことを意味する。

 寿命データとしても、個人としても。

 数字に縛られてきたこの数日間、その終着点が、ただの「ゼロ」一文字だなんて。

「……なあ」

 少しだけ、考えがまとまってきた。

「じゃあ、なんで俺はまだここにいる」

 クロのまぶたが、ぴくりと動く。

「本来なら」

 彼女は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「あんたの契約も、ひなたと同時に切れてるはずなんだよ」

「だよな」

「あんた、最初に言ったでしょ。『俺の寿命なんかどうでもいいから、ひなたを優先してくれ』って」

 あの夜。

 クロに契約の条文を突きつけられたときのことだ。

『管理対象が寿命ゼロになった場合、担当死神と契約者も同時にシステムから削除』

 そう読まれて、冗談じゃないと思った。

 そのルールが本当に適用されるなら、今ごろ俺の意識も消えているはずだ。

「なのに」

 クロは、自分の掌を見つめた。

「こうやって、まだ話ができてる」

「ルールのバグか?」

「寿命管理システムにバグがあったら、世界中の死に方がとっくにバグってるよ」

 それもそうだ。

「じゃあ、何だよ、これは」

「分からない」

 クロは、苦々しそうに唇を噛む。

「あたしの権限だと、ここまで」

「お前でも分からないことがあるのか」

「死神見習いをなんだと思ってるの」

 軽口を叩く余裕は、もうほとんど残っていなかった。

 そのときだった。

 白い世界に、別の声が割り込んできた。

『――特例案件認定』

 耳ではなく、頭の内側に直接響くような声。

 男でも女でもない。機械みたいに無機質なのに、不思議と否定しきれない圧力がある。

 クロが、びくりと肩を震わせた。

「……上位管理階層」

 小さく呟く。

『案件No.A‐019「空木ひなた」および、付帯契約者「朝比奈蒼真」について』

 どこからともなく、無数の文字列が現れた。

 空中に浮かぶログ画面。数字と英字と記号が、怒涛の勢いで流れていく。

『本件は、従来想定範囲外の介入および感情波形の乱れを確認。特例扱いに移行します』

「特例……?」

 クロが、かすれた声で繰り返した。

『当該観測データは、将来的な運用改善のために有用と判断』

 声は、淡々と続ける。

『よって、観察のため、一時的に記録を巻き戻します』

「は?」

 意味が分からず、俺は瞬きした。

「ちょ、ちょっと待って」

 クロが、慌てて空中に向かって叫ぶ。

「記録巻き戻すって、どういう――」

『これは上位プロセスによる決定です。下位ユニットは、以後の手動介入を禁止』

 ぴたり、とクロの足元に黒い鎖のようなものが現れた。

 さっき体育館で見た、「あの感じ」と同じだ。

 目にはっきり見える形で、金属の鎖がクロの足首に絡みつく。

「またそれ……!」

 クロは、鎖を蹴ろうとするが、足は空振りするばかりだった。

 イメージ空間だから、物理的にどうこうできる類のものじゃない。

『観察対象の意識は、一時的に維持』

 無機質な声は、俺の方へ向き直ったような気がした。

『ただし、記録巻き戻し中の能動的干渉は無効化されます』

「ちょっと待てよ」

 今度は、俺が声を上げる番だった。

「巻き戻すって、具体的にどこまでだよ」

『近日のログから適切なポイントを選定します』

「ふざけるな!」

 怒鳴り声が、白い空間に響き渡る。

「“適切”って誰が決めるんだよ!」

『管理局です』

 即答。

 腹立たしいほど、迷いのない答えだった。

「せめて……」

 喉が、焼けるように痛い。

「せめて」

 絞り出すように言う。

「あの日の朝に戻してくれ」

 自分でも、どの「あの日」を指しているのか分からなかった。

 寿命が見えるようになった、あの放課後の商店街。

 ひなたの頭上に「七日」が浮かんでいた、あの通学路。

 屋上で、本音ゲームをした夕方。

 全部違う日で、全部、もう一度やり直したい。

「ひなたのカウントが動き始める前」

 言葉を重ねる。

「寿命が見えないまま、笑っていられたときでもいい。数字が見えない世界に戻してくれ」

 クロが、驚いたように俺を見た。

 無機質な声は、すぐには答えなかった。

『……あなたの願いは、観察目的と一部合致します』

「合致?」

『感情波形にどのような変化が出るか。寿命データにどのような揺らぎが生じるか』

 数字とログをループさせるため、吐き気がするくらい“上側の論理”だった。

『ただし、あなたの望む形で保証できるとは限りません』

「そんなの、分かってる!」

 叫ぶ。

「保証なんかいらない! 結果が同じでも構わない!」

 クロが、小さく息を呑む。

「ただ――」

 胸の奥から、ずっとつかえていた言葉を引きずり出す。

「もう一度だけ、やり直させてくれ」

 伝えられなかった言葉を。

 手を伸ばしそこねた瞬間を。

 「また今度」でごまかした選択を。

 たとえ結果が変わらなくても、その過程だけは変えたい。

「そんなお願いが通ると思う?」

 横で、クロがぽつりと呟いた。

 冷静なツッコミの内容なのに、どこか泣きそうな声だ。

「上位階層は、そういう土下座に弱いようにはできてないよ」

 そう言いながらも、その目は――俺と同じ願いを抱えているように見えた。

 数字とルールに縛られている死神でさえ、「もう一度」を望んでいる。

『要求内容、受理』

 声が告げた。

『本件は、特例観察案件として記録されます』

 白い空間の端から、ノイズが流れ込んできた。

 ザザッ、とテレビの砂嵐みたいな音。

 世界の輪郭が、ざらざらと崩れていく。

「ちょっと!」

 クロが、鎖に縛られたまま叫ぶ。

「巻き戻しポイント、どこ!」

『観察の効率上、初期接触ログ周辺を優先します』

「初期接触って、まさか――」

 クロが俺を振り向く。

 その顔が、少しだけ照れたように、少しだけ懐かしそうに見えた。

「最初に、あんたをトラックから引っ張ったとき」

 放課後の商店街。

 塾帰りの子どもにぶつかりかけて、トラックのライトが目に焼きついたあの瞬間。

 真横から、ありえない角度で引き倒された、あの一秒。

『初期接触ログ「渋滞緩和案件B-231」より再計算開始』

 冷たいアナウンスが、淡々と読み上げる。

『空木ひなた、寿命データ再計算開始』

 ひなたの名前が、機械の声で読み上げられた。

 胸の奥が、きゅっと痛む。

『朝比奈蒼真、付帯契約継続』

「……継続?」

 思わず聞き返すと、声は簡潔に答えた。

『観察のため』

 その一言で、俺の命の扱いが決まった気がした。

 誰かの研究材料。サンプル。

 それでもいい。

 ひなたのところへ、もう一度たどり着けるなら。

「朝比奈」

 クロが、鎖に縛られた足を気にしながら、こちらを見た。

「次に目を覚ましたとき、どうするか決めときなよ」

「どうするかって」

「数字を見るか、見ないふりをするか」

 クロは、少しだけ笑ってみせる。

「どっちを選んでも、たぶん後悔するけど」

「ひどいな」

「でも」

 その目は、真剣だった。

「あんたが選んだ後悔の方が、きっとましだよ」

 白い世界が、急速に暗くなっていく。

 視界が、ぐしゃぐしゃに折りたたまれて、破かれて、また張り合わされるような感覚。

「クロ!」

 思わず手を伸ばす。

 今度も、彼女には届かない。

 でも、クロは俺の方へ掌を向けた。

 触れないハイタッチ。

「また、会おうね」

 その言葉が、遠くで反響する。

 最後に聞こえたのは、時計が巻き戻る音だった。

 カチリ。

 カチリ。

 カチリ。

 七日前なのか、一日前なのか、それとも、別の「はじまり」なのか。

 分からないまま、意識は暗転していく。

 闇の向こう側で、誰かの笑い声が聞こえた気がした。

 元気いっぱいの、聞き慣れた声。

「早くしないと、学校遅刻するよー!」

 その声に向かって、俺は無意識に手を伸ばす。

 次に目を覚ましたとき、俺は――。


第十四話「一周目のエピローグ、そして——」

 目を開けたとき、最初に見えたのは、見慣れた自分の天井だった。

 白いクロス。角のところに、小さなヒビ。

 そこから、じわじわと染み出しているように見える薄いシミ。

 何度も見てきた景色だ。

 それなのに、今はまるで別物みたいに、やけにはっきりと目に焼きつく。

「……ここ、俺の部屋……?」

 喉がからからだった。声が掠れて、自分のものじゃないみたいに聞こえる。

 ゆっくりと上体を起こす。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、思っていたより柔らかい。

 身体のどこも痛くない。背中も頭も、打ちつけたはずの場所が、きれいに何ともない。

 夢だったのか。

 体育館の天井パネルも、落ちてくる鉄骨も、ひなたの血も、全部。

 そう思いかけたところで、視線が時計に止まった。

 壁掛け時計。丸い安物のやつ。

 短針は七と八のあいだ。長針はちょうど六を指している。

 七時三十分。

「……は?」

 思わず声が漏れた。

 枕元に置きっぱなしだったスマホを手探りでつかむ。

 スリープ解除。ホーム画面。通知の数。

 日付表示を見た瞬間、心臓がどくんと跳ねた。

「うそだろ」

 そこに表示されている日付は、俺が一度、“通り過ぎた”ものだった。

 文化祭の前日でも、その前の日でもない。

 ひなたの頭上に「余命七日」が初めて浮かんだ、一週間前の朝。

 通知欄には、「小テスト範囲訂正」のクラスLINE。

 月島燈央からの、「今日、部活終わったあとゲーセン行かね?」というメッセージ。

 ひなたからの、「あさぴー起きてる? 今日こそ朝からプリン奢ってもらうから覚悟しといて」のスタンプ。

 全部、知っている。

 もう見たことがある。

 一度受け取って、返事をしたログだ。

 なのに、スマホのトーク画面には、「未読」の青い印がついていた。

「……巻き戻ってる」

 頭が真っ白になりそうだった。

 けど、同時に、どこかで妙な納得もあった。

 真っ白な空間。

 管理局とか、特例案件とか、記録巻き戻しとか。

 上位存在みたいな声が言っていた言葉。

『観察のため、一時的に記録を巻き戻します』

 あれが、冗談でも幻聴でもなかった証拠が、今ここにある。

 日付アプリを開く。

 カレンダーの予定は、一周目の記憶とぴったり同じ配置だ。

 天気予報も、ニュースアプリのトップも、その日のものに戻っている。

 ひなたの事故のニュースなんて、どこにもない。

 当たり前だ。

 まだ起きていないのだから。

 ぞわっと鳥肌が立った。

 俺だけが、あの七日間の記憶を持って、ここに取り残されている。

「……制服、着なきゃ」

 現実逃避みたいに、身体が勝手に動いた。

 ハンガーから制服を取り出し、ネクタイを適当に締める。

 鏡に映った自分の顔は、寝不足というより、夢の中を歩いているやつみたいにぼんやりしていた。

 右目を意識して、そっとまぶたを閉じてみる。

 あの数字が、もう見えない世界だったら。

 全部、ただの悪夢だったと言われたら。

 ほんの一瞬だけ、そんな期待をしてしまう自分がいる。

 だが――。

 玄関を出て、通学路に足を踏み出した瞬間、その期待は簡単に裏切られた。

「おはよー! あさぴー!」

 元気いっぱいの声が、背中から飛んでくる。

 振り向くより先に、心臓が先に反応した。

 振り返る。

 そこにいたのは、紛れもなく空木ひなたで。

 ポニーテールをいつもより高い位置で結んで、カバンを片手でぶんぶん振りながら走ってくる。

 一周目と、何ひとつ変わらない姿。

 違うのは――俺の目にだけ見えるもの。

 ひなたの頭上に、ふわりと浮かんでいる数字。

 0000:07:23:15

 見覚えしかない、その並び。

「っ……」

 膝が、勝手に折れそうになった。

 地面が遠くなる感覚を、何とかこらえる。

 砂利を踏む靴音、遠くの車のエンジン音、朝の犬の鳴き声。

 全部が妙に鮮明に聞こえて、余計に現実感が増していく。

(夢なんかじゃ、ない)

 本当に、ループしている。

 一周目で、俺は確かに七日間を過ごして、文化祭のステージで間に合わなくて、ひなたを失って。

 その記録ごと、世界は巻き戻された。

「え、ちょ、どうしたの?」

 気づけば、ひなたが目の前に来ていた。

 いつもの調子で俺の顔を覗き込んでくる。

「顔色、めっちゃ悪いんだけど。寝た? ゲームしすぎ? それとも、とうとうあたしへの恋心が爆発した?」

「そんなわけあるか」

 自動で出たツッコミが、情けないくらい普通のものだった。

 でも、その会話のテンポさえ、胸に刺さる。

 一周目でも、同じやり取りをした。

 「恋心」なんて言葉をヘラヘラ笑い飛ばして、その裏に本音を隠した。

 その結果が、あのエピローグだ。

「でもほんとに、ちょっとフラフラしてない?」

 ひなたは、俺の腕をつつく。

 彼女の頭上のカウンターは、しっかり七日を刻んだままだ。

 ゼロになった後の、何もない空白を見た俺にとって、この数字は残酷な予告でしかない。

「……大丈夫」

 息を吸い込む。

「ただ、ちょっと、変な夢見ただけ」

「へー。どんな?」

「それは、またあとで」

「なにそれ気になる!」

 ひなたは不満げに頬を膨らませた。

 その仕草さえ、愛おしいと思ってしまう自分がいる。

(今度は、最初から全部話す)

 心の奥で、固く決める。

     ◇

 学校に着くと、一周目とほとんど同じ風景が広がっていた。

 昇降口前で騒ぐ一年の集団。

 バスケ部の連中がボールを回しながら廊下を歩いて、教師に怒鳴られている。

 教室のドアを開ければ、クラスの陽キャグループが机をくっつけてトランプをしていて、図書委員のやつが「朝からうるさい」と眉をひそめている。

 みんなの頭上に浮かぶ寿命カウンターも、一周目とほぼ同じ値だった。

 ただ、一度ゼロまで見届けてしまったせいで、その数字の重みが全然違う。

 あのとき、この子は自分の足をひねって保健室送りになって、タイムラインがわずかにずれた。

 あの先輩は、文化祭前夜のバイク事故をギリギリで回避して、別のところで寿命が削れた。

 そんな細かい出来事が、七日間の記憶として頭の中に残っている。

 ホームルームでの文化祭企画決めも、デジャヴの連続だった。

「メイド喫茶やろうよ!」

 ひなたは、一周目と同じセリフを、同じタイミングで叫んだ。

 男子たちが「いいじゃんいいじゃん!」と盛り上がり、女子の一部が「絶対あんたたちが着たいだけでしょ」とツッコミを入れる。

 それでも結局、多数決でクラスの出し物はメイド喫茶に決まる。

 あのステージで事故が起こる前の、「何も知らない」空気が、もう一度やり直されている。

 昼休み。

 燈央が俺の机にドカッと腰掛けて、何気ない話を振ってくる。

「文化祭、マジでやべえな。バスケ部の出し物、今年は3クラス合同ステージになったし」

「そうだな」

「そういや昨日の試合さ――」

 一周目では、ここで俺は適当に相槌を打ちながら窓の外を見ていた。

 ひなたの寿命カウンターのことが気になって、それどころじゃなかったからだ。

 でも、あのとき燈央はさりげなく、ステージの機材の話もしていた。

 「照明のヤツ、今年は新しいリグに変わったらしい」

 「バイトしてる先輩が、業者が来るの遅れてたって愚痴ってた」

 一周目の俺は、聞き流した。

 けど今、同じ言葉を聞いてみると、それが事故のトリガーの一つだったと分かる。

「お前さ」

 気づけば、口が勝手に動いていた。

「体育館のステージの上の照明、どこの業者入るかって聞いてる?」

「え、急だな」

 燈央は目を丸くしたあと、すぐにニヤリと笑う。

「もしかして、文化祭仕様で告白演出でもするつもり?」

「そういうのじゃない」

 即座に否定する。

「ちょっと、気になることがあって」

「ふーん?」

 燈央は、不審そうに俺を見た。

 一周目でも、こういう顔をされていた気がする。

 俺が何かを隠してるって、うすうす勘づいていたような視線だ。

 違うのは、今度の俺は、本当に隠すつもりがないということだ。

     ◇

 授業中、ノートの端が、文字で埋まっていく。

 一周目の記憶。

 文化祭までのタイムライン。

 事故が起こるまでに何があったか、誰がどこにいたか、思い出せる限り全部。

 体育館の天井パネルが落ち始めた時間。

 照明のワイヤーが切れた瞬間。

 最初の悲鳴。

 人の流れが出口に偏ったタイミング。

 ひなたがステージの端から飛び出していった位置。

 文字にしていくと、思い出したくない場面まで鮮明になっていく。

 黒いインクが、紙の上で「後悔」の形をなぞっていくみたいだった。

 ペンを持つ手が、微妙に震えている。

(それでも、書かなきゃ)

 同じ結末を繰り返したくないなら、ちゃんと向き合わなきゃいけない。

 どこで何を間違えたのか。

 どこを変えればいいのか。

 ノートの隅に「分岐点」と書き加える。

 一周目で大きく流れを変えたのは、体育館の照明を避けた日。

 人を助けて寿命を増やした代わりに、別の場所で事故がずれた。

 ひなたの家に行って、彼女の家庭事情を知ってしまった日。

 屋上で本音ゲームをして、互いの気持ちを少しだけ晒した日。

 どれもこれも、間違いだったとは思えない。

 でも、そこから先の選択は、もっと違う形があったはずだ。

 その真ん中にあるのが、「話さなかったこと」。

 寿命のこと。

 死神のこと。

 ひなたの未来のこと。

 あのとき、「今度また」と先送りにした言葉たち。

(今度は、先送りにしない)

 自分に言い聞かせるように、ノートの端に書き込んだ。

     ◇

 放課後。

 教室は、文化祭の準備で騒がしくなり始めている。

 メイド喫茶用の飾りつけの案を出す女子たち。

 「絶対フリル多めがいい!」と騒ぐひなた。

 男子が「スカート丈はどこまで許されるのか」で揉めている。

 一周目と似た光景の中で、俺はそっと教室を抜け出した。

 向かったのは、屋上。

 ロックの甘い扉を開け、冷たい風を顔に受ける。

 空は少しだけ曇っていて、夕焼けにはまだ早い時間だった。

 校庭の喧騒が遠くに聞こえる。

「……で」

 屋上のフェンスに腰をかけていたクロが、こちらを見た。

 いつからいたのか、全く気配に気づかなかった。

「二周目の感想は?」

「最悪だよ」

 いきなり言う。

「朝からデジャヴ祭りだし、ひなたの頭の上にはしっかり数字が浮かんでるし」

「まあ、そうなるよね」

 クロは、風に揺れる髪を押さえながら、曖昧に笑った。

「これ、何なんだよ」

 距離を詰める。

「管理局の実験か? 感情波形と寿命データの相関テスト? それとも、俺たちがバグ扱いされてるだけ?」

「質問多すぎ」

「答えろよ」

 怒鳴る。

「ひなたは一回死んだんだぞ」

 ゼロになったカウンター。

 崩れ落ちる天井パネル。

 血に塗れたメイド服。

「その上で、今こうして笑ってる。全部、あんたらの都合ひとつで」

「……笑ってないよ」

 クロは、小さく溜息をついた。

「正直に言うとね」

 珍しく、「正直に」という前置きがついた。

「あたしにも分からない」

「は?」

「確かに、上が時間レールを巻き戻したのは本当」

 クロは、屋上の床をコンコンと靴のつま先で叩く。

「でも、こんな大々的なループをやるなんて、滅多にないんだよ。あたしが担当してきた案件の中じゃ、初めて」

「担当してきた案件、って」

「そりゃ、あたしだって一人目じゃないし」

 さらっと怖いことを言った。

「多分ね」

 クロは空を見上げる。

「あんたと空木ひなたのケースが、上の連中から見て、“何かの基準”を満たしたんだと思う」

「基準って、何のだよ」

「観察に値する、とか」

 それは、真っ白な空間で聞いた言葉と同じだった。

 将来的な運用改善。

 感情波形の有用性。

 冷たいロジック。

「でもさ」

 クロは、フェンスから飛び降りて、俺の正面に立つ。

「上がどれだけデータを欲しがっても、あたしにも限界がある」

「限界?」

「あたしの権限じゃ、巻き戻しの細かい条件までは見えないってこと」

 肩をすくめる。

「最初の巻き戻しポイントが、あんたとあたしの“初対面の少し前”に設定されたのも、上の勝手な判断」

「じゃあ、あの放課後の商店街も――」

「もうすぐだね」

 クロは、意味ありげに笑った。

「二回目のトラックゲーム」

「やめてくれ、その名前」

 頭を抱えたくなる。

 確かに、一周目がリセットされたということは、あの死にかけイベントももう一度やり直しになるわけで。

 しかも、今度は俺自身がそれを知っている。

「安心しなよ」

 クロは、からかうような声で続ける。

「そこまではちゃんと助けてあげるから」

「“そこまでは”ってのが怖いんだよ」

「あはは」

 笑い方だけはいつも通りなのに、その目の奥には、前よりも深い陰りがあった。

 死神側も万能じゃない。

 クロの立場も、決して安全圏じゃない。

 一周目のエピローグで聞いた、「担当から外されるかも」という言葉が頭をよぎる。

「で、どうするの?」

 クロが、真面目な表情に戻った。

「二周目。あんたは何を変えるの?」

 これは、上位管理階層からじゃなく、目の前の死神見習いからの問いだ。

 俺は迷わず答えた。

「全部話す」

「……は?」

「ひなたに」

 言葉に出すと、腹の底がぐっと固くなる。

「寿命のことも、死神のことも、未来で何が起きたかも」

「ちょ、待って」

 クロが慌てて手を振った。

「そんなの、言ったところで信じてもらえないよ? 『実はオレ、君の余命が見えるんだ』って、どこの痛いポエマー?」

「知ってる」

「知ってるならやめなよ」

「やめない」

 きっぱりと言う。

「信じてもらえないかもしれない。笑われるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない」

 それでも。

「隠して後悔するより、ぶつかって後悔する方がマシだ」

 あの真っ白な空間で、何度も繰り返した後悔。

「あの時、もっと早く言えてれば」

 あれを、二度と繰り返したくない。

 クロは、じっと俺の顔を見ていた。

 いつもの軽口も、茶化しもない。

 やがて、少しだけ笑う。

「……ほんと、めんどくさい契約者を引いたなあ、あたし」

「今さらだろ」

「そうだね」

 肩をすくめながらも、その目はほんの少しだけ、誇らしそうに見えた。

「一応、忠告だけしとく」

 クロは、指を一本立てる。

「数字のことを話すのは、あんたの自由。あたしは止めない」

「けど?」

「その瞬間から、“観察対象”としての価値が変わるかもしれない」

 観察する側の目線。

「上はね、数字の揺れが大きいケースを好む」

「……あんまり聞きたくない好みだな」

「でも、それが事実」

 クロは、真剣な顔で続ける。

「あんたがひなたに全部話したら、寿命カウンターの揺れは、一周目よりずっと大きくなる」

「まあ、そうだろうな」

「それは、ひなたのカウントにとっても、あんたのカウントにとっても、“危険な”変化かもしれない」

 怖がらせようとしているわけじゃない。

 ただ、事実を伝えているだけ。

「それでも、話す?」

「話す」

 迷いはない。

 クロは、ひとつ息を吐いて、空を仰いだ。

「……分かった」

 そして、小さく笑う。

「だったら、あたしは見てる。あんたがどんな後悔を選ぶのか」

「性格悪いな」

「死神だもん」

 その返しも、もう聞き慣れてしまった。

     ◇

 夕方。

 教室は、昼の喧騒が嘘みたいに静かになっていた。

 部活に行ったやつ。

 委員会の仕事に行ったやつ。

 さっさと帰ったやつ。

 残っているのは、プリント類をまとめる学級委員と、何人かの居残り組だけ。

 窓の外は、淡いオレンジに染まり始めている。

 その窓際で、ひなたが腕を組んで空を見上げていた。

「……また、同じだ」

 一周目と同じ位置。

 同じ姿勢。

 「この学校から出てったら、何か変わるのかな」とぽつりと言った、あの夕方。

 今回のひなたは、まだ何も言っていない。

 ただ、ガラスに映る自分の顔を見つめているだけだ。

 俺は、教室の入り口で一度だけ深呼吸した。

 心臓が、うるさいくらい鳴っている。

 右目の奥が、じんじんする。

 ひなたの頭上には、相変わらず「0000:07:**:**」が浮かんでいた。

 その数字を見ないふりをして、ここから逃げることだってできる。

 一周目と同じように、「また今度」の一言で先送りにすることだって。

 でも、もう知っている。

 その先にあるエピローグを。

 寿命ゼロの、真っ白な世界を。

(だから)

 足を踏み出す。

 教室の床が、ぎし、と鳴った。

 ひなたが振り向く。

「あ、あさぴー」

 いつもの笑顔。いつもの声。

「どしたの? もう帰る?」

「いや」

 喉が乾いて仕方がない。

 それでも、言葉はちゃんと出てきた。

「空木。話がある」

 ひなたの目が、きょとんと丸くなる。

「え、なに。なんか改まって呼ばれると逆に怖いんだけど」

「怖がってもいい」

 窓の外の夕焼けが、教室の中まで染めている。

 この色の中で、俺は一度、何も言えなかった。

 だから今度は、全部言う。

「今から、全部話す」

 寿命のことも。

 死神のことも。

 ひなたの未来のことも。

 数字が見える右目を、逃げ場にしないために。

 七日間のやり直しは、一周目のエピローグを塗り替えるための、たった一つのチャンスだ。

 その始まりの夕焼けが、窓ガラス越しに、ゆっくりと赤を濃くしていった。



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