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寿命カウンター持ちの俺は、七日後に死ぬ幼なじみを何度でも助けたい  作者: 妙原奇天


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前編

死神契約のせいで、幼なじみの余命が見えるようになった件

しげみち

第1話「寿命の数字が見えるようになった」

 第十七回夏祭りのポスターが色あせたまま残っている商店街は、放課後になると少しだけ息を吹き返す。

 コロッケの揚がる音。焼き鳥のタレが焦げるにおい。古いアーケードの下を、買い物帰りの主婦や部活帰りの高校生たちが行き交っていた。

 その中を、俺はイヤホンを片方だけ耳に差し込んで歩いていた。

 高校二年、朝比奈蒼真。どこにでもいる、ごく普通の男子高校生――のつもりだ。

「……今日も塾、小学生でパンパンか」

 目の前を、ランドセルの群れが走っていく。塾の青いカバンを肩から下げた子どもたちが、友達を追いかけながらわちゃわちゃと騒いでいた。道幅いっぱいに散らばっていて、こっちの存在なんてまるで見えていない。

「おいおい、前見て走れって……」

 苦笑しながら一歩よける。

 その瞬間、左側から勢いよく飛び出してきた影が、俺の肩に思いきりぶつかった。

「うおっ!」

 体勢を崩す。ランドセルの硬い角が脇腹をかすめて、俺はよろめきながら一歩、車道側へはみ出した。

 そのときだった。

 視界の端で、白い光がぎらりと光る。

 耳を裂くようなクラクション。反射的に顔を上げた俺の目に、トラックのヘッドライトが真正面から突き刺さった。眩しさで一瞬視界が真っ白になる。

 時間が、ひしゃげたみたいにゆっくりになった。

 通りのざわめきが遠のく。さっきまで聞こえていた子どもたちの笑い声も、油のはねる音も、全部ぬるい水の中から聞いているみたいにぼやけていく。

 目の前には、迫ってくるトラックの大きなフロント。

 避けなきゃ、と思うのに、足が動かない。

 心臓はうるさいくらい鳴っているのに、頭の中だけ妙に静かだった。

 あ、ここで俺、死ぬんだ。

 不思議と、そんな冷静な言葉が浮かぶ。

 走馬灯ってやつが流れるのかと思ったけど、別に映画みたいな名シーンがよみがえるわけでもない。昨日食べたカレーが辛すぎたとか、今朝寝坊してプリント忘れたとか、その程度のどうでもいい記憶ばかりが頭をよぎる。

 ……なんだこのしょぼい人生。

 自分で自分にツッコんだ、そのとき。

 ふっと、視界を横切る影があった。

 真っ黒な何かが、俺とトラックのあいだに割り込んでくる。

 次の瞬間、制服の胸ぐらを、細いはずなのにあり得ない力でぐいっとつかまれた。

「え――」

 言葉になる前に、俺の体は横に引き倒される。

 景色がぐるりと回った。足元のアスファルトが斜め上にすっ飛んでいって、代わりに夕焼けに染まるアーケードの天井が視界に広がる。

 尻もちをついた衝撃と同時に、トラックが目の前を風の塊みたいに通り過ぎた。

 クラクション。タイヤがきしむ音。アスファルトに残る熱気を巻き上げながら、巨大な車体が、さっきまで俺がいた場所を、何事もなかったみたいな顔で駆け抜けていく。

「っ、あぶな……」

 喉から、かすれた声が漏れた。

 商店街に、遅れて悲鳴が湧く。

「今の見た!?」

「ちょっと、あの子大丈夫!?」

「おい兄ちゃん、立てるか!」

 店先からおじさんが飛び出してきて、遠くで誰かが「救急車呼ぶか?」と慌てているのが聞こえる。

 でも、その全部が、どこか遠くの出来事みたいだった。

 俺のすぐ目の前で、だれかが小さくため息をつく。

「……ふう。ぎりぎりセーフ、ってとこかな」

 その声に、俺は顔を上げた。

 逆光の向こうで、ひとりの少女が立っていた。

 黒髪。長い。腰のあたりまでまっすぐ伸びたストレートが、夕方の風にふわりと揺れる。

 黒いコートみたいなワンピース。ひざ上で広がるその裾は、どこか喪服を連想させた。足元はローファーじゃなく、黒い編み上げブーツ。夏には少し暑そうな黒タイツ。

 白い肌に、くっきりした目鼻立ち。まるでガラス細工みたいな、整いすぎていて現実感の薄い顔立ちだった。

 だけど、その瞳は妙に冷めている。

 黒目がちの瞳が、じっと俺を見下ろしていた。

「助けてあげたんだから、対価は払ってもらうからね」

 口にした言葉の内容のわりに、その声はコンビニでジュースでも買ってきたみたいなテンションだった。

「……は?」

 あまりにも話が飛びすぎていて、間抜けな声が出る。

「え、あの……誰ですか」

「誰でもよくない?」

 少女は、肩をすくめた。

「助けたのは事実だし。名乗るほどのもんでもないけど、一応あたしにも規則とかあるんだよね。えーっと」

 そこでようやく、彼女は少しだけ真面目な顔になる。

 黒髪を指先でくるりといじりながら、俺の目の前にすっと距離を詰めてきた。

 近い。思わずのけぞる。

「死神の見習い。仮の名前は、クロ」

「…………しにがみ?」

 耳に届いた単語を頭の中で反芻して、ようやく意味がつながる。

 死神。あの、よくあるフードかぶって鎌振り回してるアレ。

 俺の知ってるイメージだと、もっとガイコツっぽかったり、フードで顔が見えなかったりするはずだ。目の前の少女は、どう見ても人間サイズの美少女で、ガイコツでもないし、鎌も持っていない。

「死神って、人の魂を刈りにくる……」

「だいたいそんな感じ」

 クロと名乗った少女は、面倒くさそうに片手をひらひらさせた。

「正式な肩書きはもっと長いけど、覚えられないでしょ。死神の見習い、でだいたい合ってるからそれでいいよ」

「よくないです。ていうか、見習いなんですか」

「そこにツッコむ?」

 じとっとした目で見られる。

「まあいいや。とにかく、あんたはさっき、本来ならトラックに轢かれて死んでたの」

 さらっと、とんでもないことを言われた。

「……はい?」

「だから助けた。で、助けてあげたからには、対価を払ってもらう。これ、決まり」

「ちょ、待ってください」

 ようやく頭が現実に追いついてきて、俺は慌てて立ち上がった。膝ががくがくしているのを、なんとかごまかしながら。

「助けてくれたのは本当にありがとうございます。でも、対価とか契約とか、そういうのはちゃんと説明してからじゃないと――」

「説明はこれからするから大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

 思わず声が裏返る。

 周りのおばちゃんたちが「落ち着きなよ」と心配そうにのぞいてくるのを、「大丈夫です、大丈夫です」と頭を下げながらかわす。

 そこでふと、違和感に気づいた。

 ……誰も、クロの方を見ていない。

 俺の真横に、不自然なくらい目立つ黒服の美少女が立っているのに。「あの子コスプレ?」とか、「撮影?」とか、そういう話題がまったく出ていない。

 もしかして、と嫌な予感がする。

「察しがいいのは嫌いじゃないけど、自分の不幸を冷静に分析するの、性格悪いって言われない?」

 クロがあきれたように笑った。

「そういうわけで。はい、契約はもう成立してるから」

「してないです。してるって言えば何でもアリだと思ってませんか」

「さっき、あんた助けた瞬間にね。命のライン、ちょっと書き換えたの」

 クロは、俺の胸のあたりを指さした。

「あそこでトラックに当たって死ぬはずだった未来を、別の流れに差し替えた。それが契約の始まり。だから、あんたはあたしに少しのあいだ、拘束されることになった。以上」

 全然以上じゃない。

「拘束って、さらっと怖い言葉使わないでください」

「そんな肩こらないで。別に変なことするわけじゃないから」

 クロはちょっとだけ口角を上げた。笑っているようで、どこか薄い笑みだ。

「とりあえず、今からあんたに一個、機能を付与するね」

「機能?」

「そう。見習いとはいえ死神だし。サービスのひとつくらい付けてあげないと、上がうるさいの」

 なにそのブラック企業みたいな理由。

 ツッコミたいことが多すぎて、頭が追いつかない。

「な、なにする気ですか」

「すぐ終わるよ。動かないでね」

 クロは一歩踏み込んでくると、迷いなく手を伸ばした。

 白くて細い指先が、俺の顔の前で止まる。

 右目のまぶたに、冷たい何かが触れた。

「っ――」

 ぞくりとした感覚が走る。

 瞬間、視界が真っ白に弾けた。

 店の看板も、夕焼け空も、目の前の少女の姿も、一度すべてが溶けて、白いノイズに飲み込まれる。耳鳴り。体の重さだけがやけにリアルで、俺は思わずまばたきを繰り返した。

 やがて、少しずつ世界に色が戻ってくる。

 惣菜屋ののれん。八百屋のおじさん。携帯片手に歩くOL。さっきまでと同じ商店街の風景――の、はずだった。

 ただひとつ、決定的に違うものがあった。

「……なに、これ」

 思わず、声が漏れた。

 人だ。

 道を歩いている人たち。店先で立ち話しているおばさん。自転車を押しているおじいさん。その全員の、頭の少し上あたり。

 そこに、ふわりと浮かぶようにして、数字の列が見えていた。

 桁の多いカウント表示。ゲームのタイマーみたいな、冷たい光を放つ数字。

 例えば、惣菜屋の前でコロッケを選んでいるおばさんの頭上には、

 00032:180:05:12

 と表示されている。

 通りかかったサラリーマンは、

 00010:021:11:43

 塾帰りの小学生のひとりは、

 00071:300:12:01

 桁数はどれも同じで、見たことのない形式のカウントだ。

 数字の意味は分からない。けれど、どれも微妙に減っているのが分かる。じり、じり、と。

 ゆっくりと、確実に。

「それが、人間の寿命カウント」

 横から、クロの声がした。

「あんたの右目に、ちょっとだけ機能を足した。これからあんたには、人の残り寿命が見える」

「……いやいやいや」

 頭を振る。

「そんなの、いりません」

 即答だった。

 こんなの、いらない。見える必要なんてどこにもない。

 誰かの頭上に浮かんでいる数字が、その人の死ぬまでの残り時間だなんて、考えたくもない。

「返却希望なんですけど。クーリングオフとかないんですか」

「悪いけど、その制度はあっちの世界にしかないんだよね」

 クロは、肩をすくめた。

「それに、これは対価だから」

「対価?」

「さっきも言ったでしょ。本来なら、あんたはさっきので死んでた」

 クロは、ゆっくりと視線を商店街の端に向けた。

「ほら、もう一回、さっきあんたが立ってた場所、見てみなよ」

 言われるままに、俺は視線を動かす。

 トラックに向かって一歩踏み出してしまった、あの位置。道路と歩道の境目。点字ブロックの端っこ。

 そこに――

「っ!」

 俺は息を呑んだ。

 そこに、俺がいた。

 正確には、「さっきまでの俺」がいた。

 制服姿の男子高校生が、トラックのライトに照らされて立っている。さっきの俺と同じ姿勢で、同じ表情で。

 色だけが薄く、影絵みたいに透明に見える。

 その頭上には、ひとつのカウントが浮かんでいた。

 0000:00:00:00

 ゼロの羅列。これ以上ないくらい、冷たい数字。

「……これ」

「本来の、あんたの寿命」

 クロの声は、さっきまでより少しだけ硬かった。

「あそこで終わるはずだったライン。時間の流れの上に引かれてた、あんたの終点」

 俺が手を伸ばすと、残像の俺も、同じように手を伸ばしてくる。鏡をのぞき込んだときみたいに。

 指先が、触れ合った。

 次の瞬間、ガラスが割れるような音がした。

 ゼロのカウントを掲げた俺の残像が、細かい破片になって弾け飛んだ。光の粒が空中に散り、ゆっくりと消えていく。

「――っは」

 息が、勝手に詰まる。

 背中に冷たい汗が流れた。

「信じる?」

 クロが、俺の横で問いかけてくる。

「あんたは本来、ここでもう終わってた。あたしが無理やりラインを書き換えたから、余分に時間をもらってる。それが事実」

「……なんで、そんなこと」

「さあね」

 クロは、夕焼けを見上げる。

「見習いだからね。あたしにはあたしのノルマとマニュアルがあるの。言えないこともある」

 そう言って、彼女は俺の頭上を指さした。

「で、書き換えたあとの、あんたのカウント」

 俺は反射的に、上を見た。

 見えた。

 自分の頭上に浮かんでいる数字。

 00057:***

 途中から先は、ぐにゃりとにじんでいて読めない。けれど、最初の部分だけははっきりしている。

 五十七。

 それが多いのか少ないのか、まったく分からない。

 ただ、さっきのゼロに比べれば、途方もない贅沢に思えた。

「当分は大丈夫、ってラインかな」

 クロは、あくまで事務的な口調で言う。

「そのかわり、あんたはしばらくのあいだ、あたしの管理対象になる」

「管理対象……」

「簡単に言うと、あんたの目を借りて、この街の寿命を見て回る感じ。危ないズレが起きてないか、変な数字になってるやつはいないか。見習いの仕事の一部を、ちょっとだけ手伝ってもらう」

「勝手に決めないでください」

「勝手じゃないよ。さっき説明したもん」

 説明になっていない。

 けれど、さっき自分のゼロカウントを見てしまった以上、「じゃあもう一回死んでください」とも言えない。

 胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。

「……拒否権は」

「ないとは言わないけど、ほぼない」

「どっちなんですか」

「そこは今考え中」

 適当すぎる。

 額に手を当てたくなったところで、八百屋のおじさんがようやく駆け寄ってきた。

「おい、兄ちゃん、本当に大丈夫か? 救急車、呼ばなくて平気か?」

「あ、はい。すみません、びっくりさせて。ちょっと足、ふらついただけで」

「ふらつくだけでトラックに突っ込むなよ。まったく、若いもんは」

 からかうように笑うおじさんの頭上のカウントは、00012:***と表示されていた。さっきまでは気にも留めなかった数字が、今は妙に重く見える。

 俺は慌てて視線をそらした。

「とりあえず、今日は帰りなよ」

「……はい」

 ぺこりと頭を下げる。

 ふと横を見ると、クロの姿はいつの間にか消えていた。

 代わりに、足元に一枚の名刺サイズのカードが落ちている。

 拾い上げると、そこには黒いインクで、シンプルにこう書かれていた。

 死神管理局 人間界第三支部

 見習い死神 クロ

 その下に、電話番号のような数字列。

 だけど桁数がおかしい。普通の電話番号より、ずっと長い。ハイフンもない。

「……ふざけてるだろ、これ」

 ぼやきながらカードをポケットに突っ込み、俺は家へ向かって歩き出した。

     ◇

 家に帰っても、数字は消えなかった。

「ただいまー」

 玄関の扉を開けると、キッチンから鍋のふたがぶつかる音がした。

「ああ、蒼真? おかえり。手、洗ってね。今日はカレーだから」

 エプロン姿の母さんが顔を出す。

 その頭上にも、例の数字が浮かんでいた。

 00024:***

 俺は思わず立ち止まる。

「……どうしたの?」

「いや、なんでも」

 なんでもある。

 あるけど、言えるわけがない。

 寿命カウント、なんて。

 母さんの背後のテレビでは、夕方のニュースが流れていた。

『速報です。先ほど、市内の公園で七十代男性が突然倒れ、そのまま搬送先の病院で死亡が確認されました――』

 テロップ。現場の映像。ベンチに残された帽子と杖。

 よくある「突然死」のニュース。

 さっき見た老人の頭上にも、あんな数字が浮かんでいたんだろうか。

 考えたくなくて、視線をそらす。

「ちょっと部屋、行く」

「え、カレーできてるよ?」

「あとで食べるから。なんか、疲れた」

 靴を脱ぎ捨てるようにして、自分の部屋へ向かう。

 ベッドに倒れ込むと、ポケットの中のカードがごつんと太ももに当たった。

 取り出す。

 死神管理局 人間界第三支部。

 黒いインクの文字を、じっと見つめる。

「キャンセル……できないって言ってたけど」

 それでも、何か方法はないかと期待してしまう自分がいる。

 俺はスマホを取り出し、カードに書かれた数字列を入力した。

 桁が多すぎて途中でミスりそうになるのを、ゆっくり確認しながら押していく。最後の数字をタップし、発信ボタンを押した。

 コール音は、鳴らなかった。

 代わりに、すぐに機械的な女性の声が流れる。

『お電話ありがとうございます。こちらは死神管理局・人間界第三支部です』

「本当に繋がった……」

 思わずつぶやく。

『ただいま回線が大変混み合っております。このまましばらくお待ちいただくか――』

「うわあ、現実的なやつだ」

 どこにでもある自動音声。内容だけが非現実。

『お急ぎでない方は、担当死神からの折り返し連絡をお待ちください。なお、契約のキャンセル・解約に関するお問い合わせは――』

「それそれそれ!」

 身を乗り出す。

『原則として、お受けしておりません』

「だよなあ!」

 がっくりとベッドにひっくり返る。

『その他のご質問は、担当死神クロまで――』

 プツン。

 勝手に通話が切れた。

「投げっぱなしにもほどがあるだろ……」

 額を押さえて天井をにらむ。

 右目を閉じてみても、開けてみても、寿命カウントはちゃんと見える。自分の頭上にも、母さんの頭上にも。

 オフボタンも設定画面もない、最悪の新機能だ。

「……明日には、全部夢オチになっててくれ」

 そう願いながら、俺は枕に顔を埋めた。

 目を閉じても、数字の残像がまぶたの裏に浮かぶ。

 ゼロになった俺の残像。砕け散ったガラス片。

 頭の奥で何かがざわざわとうごめいているのを感じながら、それでも疲れに負けて、意識がゆっくりと沈んでいった。

     ◇

 翌朝。

 目覚ましのアラームが鳴る前に、目が覚めた。

 枕元の時計を見て、ため息をつく。いつもより三十分は早い。

「……やっぱり、夢じゃなかったか」

 天井を見上げながらつぶやく。

 右目に、ほんの少しだけ違和感がある。べつに痛いわけじゃないけれど、何かが入っているような、そんな感覚。

 ベッドから起き上がり、制服に着替える。

 リビングに出ると、母さんがいつものようにニュースを見ながら朝ごはんを用意していた。

「おはよ。今日はちゃんと起きたね」

「……おはよう」

 母さんの頭上にも、やっぱり数字が浮かんでいる。

 00024:***

 昨日見たのと、ほとんど変わっていない。時間の減り方がどういう単位なのか、ますます分からなくなる。

 トーストをかじりながら、俺は人のいない方向ばかり見ていた。

「具合悪いなら、無理して学校行かなくても」

「平気。ちょっと寝不足なだけ」

 寿命の数字が見えるから休みます、なんて言えるわけがない。

 適当にごまかして食器を片づけ、俺は家を出た。

 朝の通学路は、いつもどおりだった。

 駅へ向かうサラリーマン。犬の散歩をするおじさん。自転車で通り過ぎる中学生。

 その全員の頭上に、当たり前みたいな顔でカウントが浮かんでいる。

 00089:***

 00003:***

 00120:***

 数字を見ないようにしようとすると、かえって目がそっちに吸い寄せられる。どれが長くて、どれが短いのか、その基準すら分からないのに、なぜか「三」とか「ゼロ」が入っていると、心臓がざわついた。

「こんなの、知らないままの方がよかっただろ……」

 ぼそっとこぼして、ため息をつく。

 学校の門が見えてきた。

 いつもの灰色の門。いつもの校舎。いつもの朝。

 ただひとつ違うのは、校門前に集まっているクラスメイトたちの頭上に、それぞれ違う数字が浮かんでいることだ。

「おはよー、蒼真」

「おう」

 話しかけてくる男子の頭上には、00060:***。

 隣でスマホをいじっている女子は、00015:***。

 そんなふうに、見たくもない情報が勝手に視界に入ってくる。

 胸の奥に、嫌な重さが積もっていく。

 校門をくぐろうとした、そのときだった。

「そーまー!」

 聞き慣れた声が、グラウンド側から飛んできた。

 振り向く。

 朝日を背中に受けて、ひとりの女の子が全力で走ってくる。

 肩までの明るい茶髪が、ぴょんぴょん揺れている。小柄な体に、元気だけは人一倍詰め込んだような走り方だった。

 空木ひなた。

 物心ついたころからの幼なじみで、同じクラス。勝手に人の弁当をつまんでくるくせに、テスト前はしれっとノートを貸してくれる、よく分からない奴だ。

「おはよ、蒼真! 今日さ、購買のメロンパン争奪戦、一緒に――」

 ひなたの声が、途中で遠くなった。

 いや、正しくは、俺の頭の中の音が消えた。

 目が、勝手に彼女の頭上へと引き寄せられる。

 そこに浮かんでいた数字を、見てしまったからだ。

 0000:07:23:15

 ゼロが、並んでいた。

 他の誰よりも、極端に短いカウント。

 残り七、二十三、十五――その数字が何を意味するのか、完全には分からない。

 けれど。

 さっきまで「寿命カウントなんて知らなければよかった」とぼやいていた俺の中で、何かがきゅっと締めつけられた。

 ひなたは、相変わらずの笑顔で目の前に立っている。

 俺の視界には、その笑顔と、頭上の冷たい数字が、同時に映っていた。

 喉が、からからに乾いた。

 声が出ないまま、俺はただ、その数字を見上げるしかなかった。


第2話「余命7日の幼なじみ」

 朝の教室は、いつもどおりうるさかった。

 チャイムが鳴る五分前。窓際の席からは寝不足のあくびが連鎖し、廊下側の方ではサッカー部が意味のないテンションで騒いでいる。黒板には誰かが落書きした文化祭のタイトル案が消し残りになっていて、学級委員がため息をつきながら消していた。

「でさ、そのとき先生がさあ、『空木、廊下に立ってろ』って言ったの!」

 教室の真ん中で、一人だけ声のボリュームが明らかに違うやつがいる。

 空木ひなた。

 クラスの中心、騒がしさの中心、視線を集める中心。いつも通り、机に腰かけて身ぶり手ぶりを使いながら、周りの女子たちに昨日の出来事を再現していた。

「で、あたしも言ってやったわけ。『はい、廊下に立ってろっていうのは昭和の指導法ですよ』って」

「それ完全に火に油じゃん!」

「先生、絶対怒ったでしょ」

「怒った怒った。めっちゃ真顔で『今は令和だ』って返された」

 どっと笑いが起きる。

 ひなたは怒られてもあんまり気にしない。むしろネタが増えたとしか思っていない節がある。先生に注意されてもケロリとしていて、次の瞬間にはまた別のことで笑っている。

 ……その頭上に、冷たい数字が浮かんでいるなんて、本人は知る由もない。

 0000:07:23:15

 昨日見たのと、ほとんど変わっていない。ほんの少しだけ、時間の部分が減っているだけだ。

 俺は視線を教科書に落とすふりをして、ひなたから目をそらした。

 見たくない。けど、どうしても意識してしまう。

 七日。

 七日後。

 頭の中で、勝手にカレンダーがめくられていく。

 今日は水曜だから……一、二、三……来週の火曜。

 よりによって、文化祭準備期間の真っ最中だ。クラス企画の装飾を詰める予定の日。ステージ側の進行決めもやるとか、学級委員が張り切っていたはずだ。

 そんなときに、幼なじみの寿命が切れるログが残っている。

 どんな悪趣味な世界設計だよ、これ。

「朝比奈」

 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。

 顔を上げると、いつの間にかひなたが俺の机の横に来ていた。俺の教科書の上に、ぺたん、と自分の肘を乗せる。

「さっきからずっと難しい顔して、何考えてんの。数学の予習なんて、蒼真らしくないことしてないよね?」

「ひどくない?」

「事実でしょ。小テストの平均点、クラス最下位タイだった人の顔だよそれ」

「タイがいるだけマシです」

「そのポジティブさ、見習いたいわ」

 ひなたはくすっと笑った。

 笑顔。いつも通りの、元気で浅いように見えて、実はたまに沈むこともある、見慣れた笑顔。

 そのすぐ上に、ゼロ並びのカウンターが浮かんでいる。

 視界の端で、数字がじり、とわずかに減るのが見えた気がして、ぞっとする。

「……朝比奈。ホームルーム始まるぞ。席つけ」

 教卓の前に立った担任が、教室を見渡しながら言った。

「うぇーい、先生きた。じゃ、また後でね、蒼真」

 ひなたはひらひらと手を振って、自分の席へと戻っていく。

 担任が出席を取り始める。ホームルームの連絡。文化祭の準備で使える教室の説明。クラス企画の進捗確認。全部、いつもの朝の風景だ。

 それなのに、俺の耳には、ほとんど入ってこなかった。

     ◇

 一時間目の数学は、当然のように頭に入らなかった。

「では、この問いが解ける人。……朝比奈」

「えっ」

 名前を呼ばれて、変な声が出る。

 黒板には、二次関数のグラフと、わけのわからない条件式。

 完全に上の空だったせいで、何も見ていなかった。

「はい、出席番号十五番。起立」

「すみません、先生。ノーコメントで」

「コメントする気もないのは分かっている。せめて何かしらボケてから言いたまえ」

 周りからくすくす笑いが漏れる。

 いつもなら、俺も自分で適当なことを言ってごまかすところだ。今日はどうにも、その余裕がなかった。

「……すみません」

 本当にそれしか出てこなかった。

 席に座りながら、俺はこっそりひなたの方を見る。

 前の方の席で、ひなたはノートを広げて、ちゃんと授業を聞いているふりをしていた。実際に聞いているかどうかは怪しいけど、少なくとも俺よりは先生の板書を見ている。

 その頭上には、相変わらず冷たい数字。

 0000:07:21:08

 さっきより、わずかに減っている。

 当たり前だ。時間は進んでいる。休み時間だろうが授業中だろうが、カウントは止まらない。

 そう分かっていても、目の前で寿命が削れていくのを見せられるのは、かなりきつい。

 黒板より、公式より、その数字ばかりが気になってしょうがなかった。

 十代読者がどうとか関係なく、普通に高校生として、これ以上ないくらい重たい現実だ。

     ◇

 午前中の授業が終わるころには、教室中の頭上に浮かぶ数字が、全部敵に見えていた。

「はー、眠い。今日こそ保健室で寝てこようかな」

「昨日も行ってたでしょ。出席日数やばくない?」

「平気平気。心と体が元気なら、単位はなんとかなるって」

 隣の席の女子の頭上に、00045:***。

 前の席の男子は、00011:***。

 廊下を走っている男子は、00009:***。

 数字単体で見ても、どれが長くてどれが短いのか分からない。けれど、「二桁」だの「一桁」だのと考え始めると、意味のない比較ばかりしてしまう。

「蒼真、どうしたの? さっきから周りの頭ばっか見て。新しい変態?」

「失礼すぎるだろ。人を新種みたいに言うな」

 ひなたが椅子ごと後ろに回転して、俺の方を振り返る。

 近い。

 彼女の頭上の数字が、嫌でも目に入る。

 0000:07:19:52

 さっきより、さらに減っていた。

 目をそらしたい。でも、そらした瞬間に何か見落とす気がして、余計に目が離せない。

「なあ、蒼真」

「……何」

「今日さ。放課後、一緒に帰ろ」

 ひなたはそれを、当たり前のことのように言った。

「この前さ、商店街の新しいクレープ屋行こうって言ってたじゃん? あそこ今日オープンらしいよ。帰りに寄ろ」

 俺の喉が、ひゅっと鳴った。

 一緒に帰る。

 いつものように。いつものルートで。

 たぶんそれだけの話だ。

 なのに今の俺には、それが「運命の分かれ道」に見えてしまう。

 俺がここで「いいよ」と言うか、「ごめん」と断るかで、数字がどう揺れるのか。

 クロの言っていた「分岐点」という単語が、頭の中をよぎる。

 ビビっていた。

 自分の一言で、ひなたの寿命が大きく削れたりしたらどうしよう。逆に増える可能性もあるのかもしれない。でも、減る可能性も同じくらいある。

 怖かった。

「……ごめん。今日は用事があって」

 気づいたら、その言葉が口からこぼれていた。

 ひなたの笑顔が、わずかに固まる。

「用事?」

「ああ、その、家の手伝いとか。あと、宿題もやんなきゃだし」

「えー、珍し。真面目モード?」

「たまにはな」

 なんとか笑ってごまかす。

 ひなたは、じっと俺の顔を見つめた。

 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。

「そっか。じゃあまた今度ね」

「……ああ」

 ひなたはすぐにいつもの調子を取り戻したふりをして、前を向いた。隣の女子とまた別の話題で盛り上がり始める。

 その頭上で、数字がちらり、とノイズを走らせた。

 0000:07:19:52

 から。

 0000:07:16:12

 へ。

「っ……!」

 俺は、思わず椅子をきしませた。

 目の前で、三時間ちょっと分、一気に減った。

 冗談じゃない。

 俺の断り方か。言い方か。表情か。何がトリガーになったのかは分からない。ただ、「俺が今ここで取ったリアクション」が、確かにひなたのカウンターに影響を与えた。

 俺のせいで、寿命が減った。

 十代特有の悩みとか進路とか、そんなものが全部吹き飛ぶくらい、重たい事実だった。

     ◇

 昼休み。

 いつものように、クラスの半分くらいが購買に走り、残ったメンバーが机をくっつけて弁当を広げていた。

「今日の唐揚げ、当たり。冷凍じゃない気がする」

「いや、それ絶対気のせいだから。コンビニだし」

 ひなたは女子グループの真ん中で、おかずを交換しながらしゃべっている。俺は窓際の自分の席で、パンをかじりながらぼんやり外を眺めていた。

 校舎の外。グラウンド。空。

 その青の中に、黒い点がひとつ、浮かんでいた。

 非常階段の踊り場のところ。

 二階と三階のあいだの踊り場に、誰かが寄りかかっている。

 黒髪。黒いコート。ただの女子高生には見えない黒タイツとブーツ。

 クロだ。

 窓ガラス越しに、彼女と目が合う。

 クロは、すっと片手を上げて、俺にだけ分かるようにひらひらと振って見せた。次に、人差し指をくい、と動かす。手招き。

 どう見ても「こっち来い」のジェスチャーだ。

「……トイレ」

 パンを食べかけのまま机に置き、俺は席を立った。

「お、珍しく授業サボりじゃなくてトイレか?」

「サボってねえよ」

 男子の冷やかしを適当に受け流し、廊下に出る。

 教室を出てすぐ左の曲がり角を、そのまま通り過ぎて階段へ。人の少ない非常階段の方へ回り込む。

 扉を開けると、ひんやりとした空気が肌に触れた。

 踊り場の手すりにもたれかかって、クロが外を見ていた。

「来るの、遅い」

「昼休み始まってから五分も経ってないだろ」

「あたしの感覚だと、けっこう経った」

「なにそのアバウトな時計」

 クロは振り向きもせず、肩だけで笑う。

 そして、ようやくゆっくりとこちらを振り返った。

「で。どう? 初日、寿命見え生活」

「最悪です」

 反射で出た言葉だった。

 クロは、少しだけ目を細める。

「……まあ、そうだろうね」

 彼女は手すりから体を離し、俺の方へ歩み寄ってきた。

「で、ひとつ確認。今、あんたの管理対象は一人のはずなんだけど」

「俺だろ」

「そう。あんたのカウントはちゃんと安定してる。余分にもらった分だけ伸びて、今のところ変な揺れもない」

 俺の頭上に視線を向けてから、クロは片眉を上げた。

「問題はね」

 そのまま、教室の方角に顔を向ける。

「教室の中心で騒いでる、あの子の方」

 クロの視線の先には、さっきまでひなたがいた場所がある。

 教室の壁で直接は見えない。けれど、あいつの声はここまで聞こえてきそうな勢いだ。

「なんで、ひなたのカウンター、七日なんだよ」

 言葉が抑えきれず、口から飛び出した。

「俺のことはまだいい。死にかけたのは自業自得だし、余命伸ばしてもらった立場だってのも分かってる。でも、なんでひなたなんだよ。なんにも悪いことしてないだろ。むしろ俺よりよっぽどまっとうに生きてる」

 クロは、しばらく黙っていた。

 風が、踊り場を抜ける。

「管理対象は基本一人」

 ようやく、彼女が口を開いた。

「一人の人間に、二つ以上の寿命カウンターが見えるのは、本来あり得ない。あんたの目は、あくまで『死神の代行としての機能』だから」

「でも、見えてる」

「見えてる。だから、イレギュラー」

 クロはため息をつき、踊り場の端に腰を下ろした。

「あの子のカウンターが七日になってるのは、あたしの権限を超える案件。上位の管理領域。あたしには詳細までは見えない」

「じゃあ、誰なら分かる」

「たぶん、課長以上」

「課長とかいるんだ……死神管理局」

「いるよ。課長もいれば部長もいるし、総務も経理もいる」

「なんでそんなリアルな組織図なんだよ」

 半分本気、半分現実逃避のツッコミに、クロは小さく笑った。

「とにかくね。あの子のカウンターについて、今あたしが言えるのは」

 クロは指を一本立てる。

「ひとつ。寿命は絶対。でも、分岐点での選択肢によって、数字が微妙に揺れる」

「……さっき、俺が誘い断ったときも?」

「揺れたね」

 あっさりと言われて、胃がぎゅっと縮む。

「あんたがあの誘いを受けてたら、あの瞬間の揺れ方は別のものになってた。増えたか減ったかは、今となっては分からないけど」

「俺のせいで、減ったってことか」

「全部が全部、あんたのせいとは言わない」

 クロは淡々とした声で続ける。

「寿命カウントは、本人の行動、周囲の環境、偶然の重なり、いろんな要素で揺れる。さっきのだって、あの子の心の動きとか、昼からの行動予定の変化とか、複数のファクターがあっての揺れだから」

「でも、トリガーの一つは、俺の返事だろ」

「そうだね」

 クロは、そこだけははっきり認めた。

「だからあんたには、見えるようにしてある」

「嫌がらせか?」

「仕事だって言ってるでしょ」

 クロは肩をすくめる。

「寿命は絶対。だけど、絶対だからこそ、そこに至るまでの道は何本もある。どの道を選ぶかで、細かい数字は揺れる。それを把握しておくのが、死神側の管理」

「じゃあ」

 俺は一歩踏み込んだ。

「その『道』を変えれば、ひなたの寿命も伸ばせるのか」

 クロは、少しだけ目を細めた。

「……そこから先は、あたしの権限を完全に超える」

「なんでだよ」

「本来見えるはずのない寿命まで見えてる人間に、余計なことを教えたらどうなるか。想像できない?」

 クロは、淡々としたまま言葉を重ねる。

「あんたがもし、ひなたの行動を監視して、寿命が減らないように全部先回りして、全部守って、全部決めようとしたら。あの子の人生は、誰のものになる?」

「……俺のもの、ってことか」

「そう。本人の選択から、人生が剥がれていく」

 クロの声は、相変わらず淡々としているのに、不思議と耳に残った。

「寿命は、その人が自分で選んだ道の先にある。誰かの都合でねじ曲げるのは、本来許されない」

「でも」

 口の中が、カラカラに乾く。

「七日なんだぞ」

「それでも」

 クロは小さく首を振った。

「だからあたしは、あんたに『完全な答え』は渡せない。渡した瞬間、ルール違反になるから」

「ルールルールって、そんなもんのために」

「そんなもんのために、死神管理局は回ってる」

 クロは立ち上がった。

「ひとつだけ、言えることがあるとしたら」

 非常階段の小さな窓から差し込む光の中で、彼女の黒髪が揺れる。

「あんたはさっき、自分の選択ひとつで数字が揺れるのを見た。これからも、多分それを見ることになる。そこから先に、何を見るか、どうするかは」

 クロは、俺の胸を指先で軽くつついた。

「あんた次第」

 踊り場に、チャイムの予鈴が響く。

 昼休み終了の五分前を知らせる音。

「戻りなよ。昼休み終わる」

「お前は?」

「あたしは別の持ち場。見習いは忙しいの」

 クロは軽く手を振り、そのままふっと視界から薄れていった。

 まるで、最初からいなかったかのように。

 踊り場に残されたのは、俺だけだった。

     ◇

 放課後。

 ホームルームが終わると同時に、教室は一気に騒がしくなった。

「おい、カラオケ行こうぜ」

「その前にマック寄ろうよ」

「文化祭の準備どうする? 今日ちょっとやっとかないとさ」

 クラスのあちこちで、グループが分かれていく。

「ひなたー、一緒に行こ」

 女子グループのひとりが、ひなたの名前を呼んだ。

「ごめん、今日はちょっと家の用事」

 ひなたは笑って首を振る。

「先行ってて。明日は絶対行くから」

「えー、なにそれ。彼氏?」

「いないわ!」

 女子たちの軽口に、ひなたはいつもの調子で乗っかっている。

 頭上のカウンターは、0000:07:15:30。

 昼休みから、また少し減っている。

 俺は、席を立つタイミングをわざと遅らせた。

 教室を出て、そのまま階段の影に身を潜める。

 ひなたが一人で教室を出てくるのを待つ。クラスメイトたちは、ぞろぞろと別方向へ散っていく。誰も、ひなたについてこない。

 十数秒遅れて、ひなたが廊下に姿を現した。

 鞄を肩に引っかけて、スニーカーの紐を軽く蹴って整えながら、階段の方へ歩いていく。

 俺は、距離を空けて後を追った。

 尾行、というほど本格的なものではない。けれど、自分の足音がやたらと大きく感じる。雰囲気だけは完全に不審者だ。

「はあ……」

 校門を出たところで、ひなたが小さく息をついた。

 学校を出るときの、いつもの元気な「また明日ー!」がなかった。

 商店街の方へ向かう道を、ひなたは一人で歩き出す。

 今日はクレープ屋は行かないらしい。家の用事って言ってたし、その途中で商店街に寄るつもりなのかもしれない。

 昨日、俺が死にかけた交差点の前を通る。

 ひなたは、そこでは一度も振り返らなかった。あの事件のことを知らないから当然だけど、その無自覚さが妙に腹立たしかった。

 でも、本人が悪いわけじゃない。

 悪いのは、世界の仕組みか、死神か、俺か、その辺だ。

 信号待ちの人だかりができる交差点に差しかかったときだった。

 反対側から、小学生のグループが走ってきた。

 ランドセル。塾の青いカバン。昨日と同じような光景。

「わ、やば、赤になる!」

「急げ急げ!」

 子どもたちは、変わりかけの信号を見て慌てて走り出す。

 そのうちのひとりが、友達に押されて、横に大きくよろけた。

 足が、車道に出る。

 その瞬間。

「危ない!」

 ひなたの声がした。

 彼女は反射的に走り出していた。

 小学生の腕をがしっとつかんで、自分の方へ引き寄せる。

 代わりに、ひなたの体が車道側に出る形になる。

 ブレーキ音。クラクション。

 俺の心臓が止まりかけた。

 でも、車はギリギリのところで止まった。運転手のおじさんが窓から顔を出して、「危ないだろ!」と怒鳴る。

「ごめんなさい!」

 ひなたは深々と頭を下げた。

 小学生も一緒になって謝っている。その頭上で、寿命カウントが少しずつ減っていく。

 ひなたの頭上の数字は。

 0000:07:15:30

 から。

 0000:07:18:30

 へ。

「……増えた」

 思わず、声が漏れた。

 三分。ぴったり三分。

 人を助けたことで、寿命が増えた。

 さっき昼にクロが言っていた「分岐点で揺れる」という話が、現実味を持ってのしかかってくる。

 世界は気まぐれだけど、そこにはちゃんとした算盤がある。誰かの寿命を守るために、どこかで帳尻を合わせようとしている。

 そんなふうに感じた。

「気をつけろよー」

 車が走り去っていく。

 ひなたは、小学生の頭を軽くぽんと叩いた。

「大丈夫? 怪我してない?」

「だ、大丈夫です……」

「あんまり信号無視しちゃだめだよ。死んじゃったら、クレープもカツ丼も食べられなくなるんだから」

「は、はい!」

 ひなたは笑って、子どもたちを見送った。

 その笑顔を見て、少しだけ胸のざわつきが和らぐ。

 けれど、すぐに別のざわつきが重なる。

 その数分後。

 ひなたが商店街の角を曲がったところで、小さくつまずいた。

「わっ」

 足元の段差に気づかず、体勢を崩す。

 反射的に手をついた拍子に、手に持っていたスマホがすべり落ちた。

 アスファルトに叩きつけられる。

 ぴしり、と嫌な音がした。

「あー……やった」

 画面には、蜘蛛の巣みたいなひびが走っていた。

「うわあ、一か月分のお小遣いが……」

 ひなたは頭を抱えながら、スマホを持ち上げる。

 その頭上の数字。

 0000:07:18:30

 から。

 0000:06:22:30

 へ。

「減りすぎだろ!」

 叫びそうになって、慌てて口を押さえた。

 分じゃない。時間単位どころか、半日近く一気に削れた。

 スマホ落としただけで?

 いや、きっとそれだけじゃない。

 これで誰かとの連絡が途絶えたとか、明日の予定に影響が出たとか、そういう「目に見えない連鎖」が寿命カウントに跳ね返っているのかもしれない。

 小さな行動の積み重ねが、大きな流れを作る。

 その流れの先に、七日後の「何か」がある。

 そう思うと、足がすくんだ。

 結局、ひなたはそのまま商店街の外れの方向へ歩いていった。途中、スーパーの袋を提げて出てきた中年女性に会釈して、会話を交わしている。家の用事、というのはたぶん本当なんだろう。

 俺は、自分がこれ以上ついていっていいのか分からなくなって、その場で立ち止まった。

     ◇

 夜。

 自分の部屋。

 机の上にノートを広げて、俺はペンを走らせていた。

 今日一日。

 ひなたの行動と、カウンターの変動。

 見てしまった範囲だけでも、分かることがいくつかある。

 ・朝、俺の誘いを断られたときに三時間分減少

 ・昼休み、友達の話を聞いて笑っていたときは、ほぼ変化なし

 ・放課後、小学生を助けたときに三分増加

 ・直後、スマホを落として画面割ったときに半日近く減少

 他にも、細かくじりじりと減り続けている分を入れたら、もっと複雑になる。

 ノートの端に、適当な図を描く。

 寿命カウントの推移。増えたり減ったり。基準線がどこにあるのかも分からないグラフ。

 見れば見るほど、頭がおかしくなりそうだった。

「……意味、分かんねえ」

 ペンを投げ出して、椅子にもたれかかる。

 だが、どれだけメモしても、肝心なことだけは何も分からない。

 七日後。

 ひなたに何が起きるのか。

 学校で、大きな事故が起きる。

 クロは、そう言っていた。

 その「事故」がどんなものなのか。誰が巻き込まれるのか。どの教室で起きるのか。何時なのか。

 そういう具体的な情報は、何ひとつ教えてくれない。

「もしもし」

 机の上に放り出してあった名刺サイズのカードをつかみ、スマホを手に取った。

 死神管理局 人間界第三支部。

 そこに印字された長すぎる数字を、ひとつずつ慎重に打ち込む。

 発信ボタンを押す。

『お電話ありがとうございます。こちらは死神管理局・人間界第三支部です』

 相変わらず、機械的な女の声が流れる。

『ただいま回線が大変混み合っております。このまましばらくお待ちいただくか――』

「クロ出してくれ。クロ」

 思わず、スマホに向かって話しかける。

『担当死神への転送をご希望の方は、番号の三番を――』

「三番」

 音声が言い終わる前に、画面の「3」を連打した。

『担当死神クロへの転送を行います。少々お待ちください』

 数秒の沈黙。

『……もしもし』

 聞き慣れた、気だるげな声がした。

「おい」

「おいって何。あたし、今別件の仕事中なんだけど」

「知るか。さっき言ってた『学校で大きな事故が起きる』って話。詳しく教えろ」

「直球だね」

 クロは、電話口の向こうで小さく笑った。

「さっきも言ったけどさ。あたしの権限では、詳細までは見えないの。ログにはね、『〇月〇日、〇〇高校にて死亡者複数の事故発生』って一行だけ残ってる」

「死亡者、複数……」

 背筋に、冷たいものが走る。

「その中に、ひなたがいるってことか」

「確定ではない」

「じゃあ、誰なんだよ」

「そこまで見えない」

 クロの声が、少しだけ低くなった。

「ログっていうのは、結果の記録。原因や過程は、また別のレイヤーにある。あたしがアクセスできるのは、そこまで」

「ふざけんなよ」

 声が荒くなる。

「七日後に幼なじみが死ぬかもしれないって知ってて、何もできないで見てろってのかよ。そんなの、ただの拷問だろ」

「拷問、ね」

 クロは、少しだけ間を置いてから言った。

「でも、それをあたしが『あんたから取り上げてやる』って言ったら、怒るでしょ」

 息が詰まる。

「寿命が見えるって機能は、あんたからしたら呪いかもしれない。でも、同時に、あんたが誰かのために動ける唯一の手段でもある」

「……動いちゃいけないんだろ」

「さっきも言った。寿命をねじ曲げようとしてはだめ。でも、『一緒に帰ろう』に対して『いいよ』って返事をするのは、ねじ曲げじゃない」

 クロの声は、いつになく真面目だった。

「あんたが何を選ぶか。どんな距離で、あの子と関わるか。それはまだ、誰にも決められてない」

「俺がひなたの寿命を変えようとしたら、お前に怒られるんじゃないのか」

「あたしは怒るよ。仕事増えるし」

 さらりと言いながら、クロは続ける。

「でも、あんたが誰かを大事に思うのは、あたしの仕事の範囲外」

「……勝手なこと言うなよ」

「勝手な世界だからね」

 クロは、あっさりとまとめた。

「そろそろ切るよ。ほんとに仕事中だから」

「待てよ、まだ――」

 言い終わる前に、通話はぷつりと切れた。

 電子音だけが耳の奥に残る。

「……勝手だな」

 ぼそっとつぶやいて、スマホを机に投げ出す。

 部屋の天井を見上げた。

 七日後。

 文化祭準備。

 学校で、大きな事故。

 ひなたの寿命カウンター。

 頭の中で、バラバラのピースが散らばっている。どれをどう組み合わせても、完成した絵が見えない。

 ただひとつだけ、はっきりしていることがある。

 もし俺が何もしなければ。

 数字は、ログどおりの場所に向かって、まっすぐ減っていく。

     ◇

 翌朝。

 教室のドアを開けると、いつものようにひなたがいた。

「おはよー、蒼真!」

 大きく手を振って。

「昨日、連絡しようと思ったんだけどさ、スマホ死んじゃってさー。画面バキバキ。写真全部飛んだかもしれない」

 大袈裟に嘆いてみせて。

「だから今日からしばらく、放課後付き合ってね。修理出しに行きたいし、新しいケースも見たいし」

 何も知らない顔で、笑って。

 頭上に浮かぶカウンターは、0000:06:21:00 になっていた。

 俺は、視線を逸らした。

 正面から、その数字を見たくなかった。

 自分の一言で揺れるのが怖かった。

 ひなたの誘いに乗れば、また寿命が減るかもしれない。増えるかもしれない。でも、減る可能性を想像した瞬間、足がすくむ。

「……ごめん。今日も、ちょっと」

 口が勝手に言葉を選んだ。

 ひなたの笑顔が、一瞬だけ曇る。

「そっか。また今度ね」

 すぐに、いつもの笑顔に戻る。

 その頭上で、数字がまたちらついた。

 0000:06:21:00

 から。

 0000:06:18:00

 へ。

 俺は、見なかったふりをした。

 見なきゃ、傷つかなくて済む。

 知らなければ、ただの「忙しいからごめん」で済む。

 そうやって、ひなたの寿命から目をそらし続ける自分に、心の底から嫌気が差した。

 十代で抱える進路だの、勉強だの、部活だの。

 そんなものより、よほどどうしようもない選択が、目の前にある。

 俺は、ひなたの笑顔から、また視線をそらした。


第3話「死神クロと最初の交渉」

 朝のホームルーム前の教室は、いつもより少しだけざわついていた。

 文化祭準備期間に入ってから、クラスの空気が落ち着かない。黒板の端には実行委員の連絡事項、後ろの掲示板には出し物の担当表。男子は「模擬店で焼きそば」とか言い合い、女子は衣装案をスマホで見せ合っている。

「蒼真、今日こそクラスTのデザイン決めるからな。逃げんなよ?」

「その前に数学の小テスト返却っていうラスボスがいるんだけどな」

 隣の席の男子とそんな会話をしながら、俺はそれどころじゃない脳みそで曖昧に相槌を打っていた。

 視線は、教室のドアの上の時計に向けられている。

 ホームルーム開始五分前。

 今なら、ギリギリ屋上に行って帰ってこられる。

 問題は――

「……よし」

 意を決して、俺は椅子から立ち上がった。

「どこ行くのー。トイレ? ホームルーム前だよ?」

 前の席のひなたがくるりと振り返る。

 頭上のカウンターは、0000:06:17:03。

 毎日少しずつ減っていくその数字を見るのが、もう習慣になりつつあるのが怖い。

「ちょっと職員室。プリント出してこいってさ」

「へえ、真面目。蒼真にしては珍しいね」

「その『にしては』は余計だ」

 ひなたの視線から逃げるように教室を出て、俺は廊下の角を曲がった。職員室とは逆方向に。

 ポケットの中の名刺サイズのカードを指でつまむ。

 死神管理局 人間界第三支部

 見習い死神 クロ

 黒いインクでそう書かれた紙片の裏面には、小さく「緊急時は階段の踊り場など人目の少ない場所で呼ぶこと」と注意書きがある。

「緊急……っちゃ、緊急だろ」

 まあ、いつだって緊急だけど。

 階段を駆け上がり、屋上へ続く扉の前で立ち止まる。鍵は壊れているのか、前から半開きだった。隙間から朝の冷たい空気が漏れてくる。

 小さく息を吸い込む。

「クロ。出てこい」

 誰もいない階段で、俺は小さく呼びかけた。

「やだ」

「早いなお前!」

 即答だった。

 上の方から、気だるげな女の声が降ってくる。

「今、あたし寝てたんだけど。見習いの睡眠を妨害するとか、ブラック契約にもほどがあると思わない?」

「死神にブラックとかホワイトとかあるのかよ」

「あるよ。中間管理職はだいたいブラック」

「課長がブラックなのは生前と変わらねえな」

 そんなくだらないやり取りをしているうちに、屋上の扉がきい、と音を立てて開いた。

 朝の空が広がる。まだ少しひんやりした風が、シャツの襟元をくすぐった。

 その真ん中に、黒い影がひとつ。

 柵にもたれかかって眠そうにあくびをしている少女――死神の見習い、クロがいた。

「で。こんな時間に屋上デート? 青春だねえ」

「キザなこと言ってる場合か。ホームルーム前にすませたい話がある」

「分かってる」

 クロは片目だけ開けて、俺を見た。

「契約のルール、でしょ」

「……さすが死神。話が早い」

「昨日、電話であんだけ吠えてたら誰でも察するよ」

 クロは、めんどくさそうに肩をすくめて、柵から体を離した。

「ま、いい機会だし。ここらで一回整理しとこっか。あんたの脳みそでも理解できるように、できるだけシンプルに説明してあげる」

「余計な一言つけないと死ぬ呪いでもかかってんのか」

「職業病」

 軽口を交わしながらも、クロの目はどこか真面目だった。

 屋上の真ん中で向かい合う。

「まず前提」

 クロは右手をぱちんと鳴らすと、空中に半透明のスクリーンのようなものを浮かべた。数字と文字がびっしりと並んでいる。

「死神の仕事は、シンプルに言うと二つ。ひとつは、膨大な寿命データの管理」

「寿命データ……」

「人間一人ひとりのカウンター。あれの管理。いつどこでどういう理由でゼロになるのか、そのログをまとめて、予定通りかどうか監視する」

 スクリーンには、見たことのある形式の数字がずらりと並んでいた。00045:、00012:、0000:06:17:03……

「もうひとつは、重大事故のトリガー監視」

 クロは、スクリーンの一角を指先で拡大する。

 学校名や地名のようなものが英数字で記載され、その横に「死亡者十名」「死亡者複数」の文字が並んでいる。

「あんたの学校で七日後に起きる予定の事故も、ここに記録されてる」

「……やめろ」

 思わず目を背ける。

 その視線を追うように、クロはスクリーンを指で払って消した。

「まあ、そういう仕事をしてる。で、重要なのはここから」

 彼女は指を一本立てた。

「寿命を伸ばしたり、減らしたりするのは、基本的に禁止。あたしたち死神側ができるのは、『予定通り死ぬように見守ること』だけ」

「見守るって、お前らの言い方だと残酷に聞こえるな」

「事実だからしょうがないよ」

 クロは淡々と続ける。

「あたしたちがカウントに直接介入できるのは、本当に例外的なケースだけ。災害とか、世界線調整とか。今回あんたを助けたのも、本来なら上から怒鳴られるレベルの越権」

「そんな越権で俺を巻き込むな」

「その分、あんたには仕事を手伝ってもらうって話でしょ。 win-win」

「どこがだよ」

 屋上の柵に背を預けながら、深呼吸する。

「で、さっき言ってた『人間自身が自分の意思で選んだ結果、偶然寿命が伸びたり減ったりする』ってやつは?」

「そこが、グレーゾーン」

 クロは少しだけ口元をゆがめた。

「例えば、ひなたが昨日、小学生を助けたとき。あれは彼女自身の意思で動いた結果、『偶然』カウンターが三分増えた。ああいうのは、あたしたちが止めない」

「止められないんじゃなくて?」

「止めたらそれこそルール違反になるから」

 クロは鼻で笑う。

「逆に、スマホを落として画面割ったときに半日分減ったのも、彼女の選択と行動が連鎖して、結果としてそこに収束しただけ。あたしたちは、それを『予定どおりかどうか』だけ見ている」

「予定どおりってなんだよ。スマホ割るのも計画のうちでしたってか」

「人生ってだいたいそんなもんだよ」

 クロは両手を広げてみせる。

「要するにね。あたしたちが直接数字をいじることは許されてない。でも、人間が自分で選んだ結果、数字が動く分には、基本ノータッチ」

 そこで、彼女は俺をじっと見た。

「問題は、あんたみたいに『見える人間』が、その選択肢に介入し始めたとき」

「つまり、俺が彼女の選択肢を上書きすれば、数字は変えられるってことだろ」

 言いながら、自分で自分の言葉にぞっとする。

 人の人生を上書きする、なんて。

「理屈の上ではね」

 クロは、あっさりとうなずいた。

「ひなたの行き先を変える。言おうとしていることを先回りして止める。危険な行動を全部取り上げる。そうやって、あんたが彼女の選択を一つひとつ別のものに差し替えていけば、カウンターは動く」

「だったら――」

「バレなきゃね」

 クロは、そこで薄く笑った。

 風が一瞬止まったように感じる。

「バレなきゃ?」

「死神管理局の監査にも、人間界の他のライン管理にも。『偶然』の範囲だと認定されるなら、ギリギリセーフ」

「ギリギリって言ってる時点でアウトだろ」

「アウトかどうか決めるのは、あたしじゃないから」

 クロは肩をすくめる。

「ただひとつだけ、はっきり言っておく。あんたが他人の寿命に無茶すると、その揺れはあんた自身のカウントにも跳ね返る」

「……は?」

 意味が分からず、思考が止まる。

「なんで俺のカウントが減る」

「リスク分散」

 クロは、さらっと恐ろしい単語を口にした。

「見習い死神が勝手に人を助けたり、契約者が他人の寿命に干渉したりすると、システム的には『バグの原因』になる。だから、その分の負荷は、関係者全員で頭割り」

「つまり……俺がひなたに変なテコ入れすると、俺の寿命も削れるってことか」

「正しくは、『もう削れ始めてる』だね」

 クロは、ふっと視線を上げた。

 つられて俺も空を見上げる。

 自分の頭上に浮かぶカウンターが見える。

 00057:***

 だったはずの数字は、いつの間にか。

 00056:***

 に変わっていた。

「……いつの間に」

「昨日、何回か越権ギリギリのことしたでしょ」

 クロは指を折って数え始める。

「ひなたの尾行。寿命の変動メモ。あたしへの深夜連絡。あと、今日こうしてルールの穴を聞き出そうとしてるのも、軽微な負荷としてカウントされる」

「真面目にルール聞いてるだけで寿命減るのかよ」

「世界は理不尽でできてるから」

 あっけらかんとした口調のまま、クロは言う。

「でも、あんた一人が助かればそれでいいって契約なんだよ、基本は。あんたのカウントが伸びたのも、あんたが死なないようにラインを書き換えた結果」

「……俺だけ助かればいい、か」

 その言葉が、妙に胸に引っかかった。

 ひなたの寿命が七日。

 俺だけ五十六。

 不公平だと思った。

 十代だの進路だの、そんな悩みを抱えている場合じゃないくらいの理不尽だ。

 屋上の鐘が、始業五分前のチャイムを鳴らした。

「そろそろ戻りなよ」

 クロが顎で階段を指す。

「話はまだ――」

「続きは夜。あんたが宿題終わらせて、風呂入ってから」

「時間指定細かいなお前」

「働き方改革」

 テキトーなことを言って、クロはひらひらと手を振った。

 次の瞬間、彼女の姿は風に溶けるみたいに消えた。

 屋上に残されたのは、冷たい風と、減った寿命カウンターだけだった。

     ◇

 教室に戻ると、ちょうど担任が小テストの束を持って教卓に立ったところだった。

「はいそれじゃあ、先週の数学小テスト返すぞー。現実と向き合う時間だ」

「先生、それ心に刺さるからやめて」

 クラス中から悲鳴と笑いが上がる。

 答案が前から順に回されてくる。自分の番になって、そっと点数欄を見る。

「……うわ」

 予想どおり、ひどい点数だった。

「お、朝比奈。期待を裏切らない安定感だな」

「安定っていいですよね、先生。世界平和って感じで」

「そのセリフを言うなら、せめて平均点を超えてからにしろ」

 担任のツッコミに教室が笑いに包まれる。

 隣の席で、ひなたが自分の答案をじっと見つめていた。

「うーん……」

 珍しく静かだ。

「どうしたんだ、空木。いつもの『まあいけるっしょー』は?」

「いけないっしょー、これじゃあ」

 ひなたは答案をくるりと裏返し、机に突っ伏した。

「ねえ、蒼真。進路どうしよっかなあ」

 机にほっぺたを押しつけたまま、彼女はぼそっとつぶやく。

「高校卒業したらさ。あんたはどうすんの?」

「いきなり重い質問来たな」

「だってさあ」

 ひなたは天井をにらむように視線を上げた。

「うち、そんなにお金ないし。大学行くなら奨学金とかバイトとか、いろいろ考えなきゃいけないじゃん。かといって就職するにも、これじゃあ履歴書に書けるほどの成績でもないし」

「ひなた、成績は真面目にやればそこそこいけるだろ」

「真面目にやる気が出ないのが問題なんだよねー」

 ひなたは自分の頭を軽くポカポカ叩いた。

「なんかさ。将来の夢とかさ。『声優になりたいです!』とか『看護師になりたいです!』とか、そういうキラキラしたやつ、ないんだよね。そういうのある人、ちょっと羨ましい」

 彼女の頭上のカウンターは、0000:06:16:40。

 進路の話をしている間にも、少しずつ減っていく。

 将来の夢なんて、話している余裕があるのか。

 七日後に、何かが起きるって分かっているのに。

「蒼真はさ」

 ひなたがこちらを見た。

「何かやりたいこと、とかある?」

「俺?」

 そんなこと、考えたこともなかった。

 そもそも俺の寿命は五十六だとか、ひなたは七日だとか、そんな数字を意識し始めてから、「将来」とか「十年後」とかいう概念が、だんだん霞んできている。

「……まあ、普通に」

 適当な言葉が喉元まで出かかった。

 普通に大学行って、普通に就職して、普通に――

「……まだ決めてない」

 とっさに言い換えた。

「俺も。何かになりたいっていうより、とりあえず目の前のテストで死なない程度に点取りたいってくらい」

「それ、あたしよりしょぼくない?」

「お前に言われたくねえよ」

 そう言い合って笑い合う。

 ほんの一瞬だけ、寿命カウンターの存在を忘れそうになる。

     ◇

 放課後。

 図書室は、静かだった。

 文化祭準備で騒がしい教室とは対照的に、ここだけ時間の流れが少し遅いみたいだ。窓から差し込む夕方の光が、本棚と机の上に柔らかく落ちている。

 その一角に、ひなたの背中があった。

 進路資料コーナーの前のテーブルに教科書とノートを広げて、真剣な顔で何かを書き込んでいる。

 いつも教室で騒いでいるときとは別人みたいだ。

 頭上のカウンターは、0000:06:14:10。

 図書室にいるあいだも、じりじり減っていく。

 俺は、入口のところで一度立ち止まった。

 声をかけるべきか。

 かけないべきか。

 余命のことを隠して接する自分に、違和感がある。

 ひなたの隣に座って「お前、あと六日だぞ」なんて言えるわけがないけど、何も知らないふりをして笑い合うのも、なんだか裏切りみたいで嫌だ。

 結局、どっちにしろ最低な気がして、足が止まる。

「……あのさ」

 気づいたら、口が先に動いていた。

 ひなたが顔を上げる。

「あ、蒼真。どうしたの」

「何してんだ、お前が図書室とか珍しいな」

「失礼な。あたしだってたまには勉強するの」

 ひなたは進路資料の冊子をひらひら振ってみせた。

「先生に、『そろそろちゃんと考えろ』って言われちゃってさ。オープンキャンパスの案内とか見てると、なんか、みんなすごく見えてさあ」

 その笑顔は、少しだけ弱々しかった。

 将来への不安。家の事情。自分の成績。

 十代特有の悩みが、その小さな背中に全部のしかかっている。

 七日後に何が起こるか知らないまま、それでも一生懸命「その先」のことを考えているのが、余計に残酷だった。

「……あのさ」

「ん?」

「勉強、教えてやろうか」

 出てきたのは、それだけだった。

 本当はもっと違うことを言いたかった。言うべきじゃないことの方が多いけど、それでも「何か」言わなきゃいけない気がしていた。

 けれど、口から出たのは、やっぱり上っ面の言葉だけだった。

「テストの範囲くらいなら、一緒にやれば少しは楽だろ」

「え、マジで?」

 ひなたの目がぱっと輝く。

「優等生あさぴー先生、誕生?」

「誰が優等生だ。さっきの小テスト見てから言え」

「でもほら、あさぴー、説明だけは分かりやすいし」

「『だけは』ってつけんな」

 心のどこかが、少しだけ軽くなった。

 余命のことは言えない。寿命カウンターを見ていることも、死神の存在も、全部秘密だ。

 それでも、「今ここでできること」はある。

「じゃ、明日から放課後、図書室集合ね」

 ひなたは勢いよく身を乗り出した。

「国語と英語と数学と生物と……あ、世界史も」

「多すぎるだろ。俺の脳の寿命が先に尽きるわ」

「何それ、いいこと言った風に言うな」

 笑い合う。

 図書室の静かな空気の中で、その笑い声だけが少しだけ大きく響いた。

     ◇

 夜。

 自分の部屋。机の上には教科書とノート。窓の外には、街灯のオレンジ色の光。

 宿題をなんとか片づけて、シャワーを浴びて、ベッドに寝転がる。

「終わったぞ。働き方改革の時間だ」

「はいはい。ご苦労さま」

 天井の隅から、ひょこっとクロが顔を出した。

「で、なんの用?」

「さっきの続きだ」

 俺は起き上がって、ベッドの端に座る。

「屋上で聞きそびれた分。契約のルール、まだ全部聞いてない」

「細かいとこまで知りたがるの、日本人の悪い癖だと思うんだけど」

「お前、死神のくせに国籍出すな」

 クロは苦笑して、空中に何かを取り出した。

 黒い表紙の分厚い帳簿だった。

 古い図書館にありそうな、革張りの重そうな本。表紙には見慣れない文字で何かが刻まれている。

「それは」

「契約書みたいなもの」

 クロはベッドの端に腰を下ろし、帳簿をぱらぱらとめくり始めた。

「正式名称は、『管理対象関連付随条項集・人間界第三区画版』」

「長いな。略して?」

「めんどいから略さない」

 クロは一ページを開き、人差し指で行をなぞる。

「えーと、あんたとの契約はここ。管理対象番号、死神コード、寿命書き換え履歴……」

「寿命書き換え履歴って何回もやってないよな?」

「今んとこ一回。例のトラックのときだけ」

 クロはそこで一度ページをめくり、別の条文を開いた。

「で。あんたがさっき電話で言ってた『俺の寿命なんてどうでもいい。ひなたを優先してくれ』って件だけど」

「聞いてたのかよ」

「死神管理局の回線、全部録音されてるから」

「コンプラしっかりしてんな」

 クロは小さく笑ってから、表情を引き締めた。

「結論から言うと、その要求は却下」

「なんでだよ」

「ルールで決まってるから」

 クロは帳簿の一文を読み上げる。

「『管理対象が寿命ゼロになった場合、担当死神および契約者は同時にシステムから削除する』」

 部屋の空気が、一瞬重くなった気がした。

「……削除?」

「うん」

 クロは顔を上げ、淡々と続ける。

「世界のバランスを崩すような契約や、ルールを無視した寿命書き換えが発生したとき。責任の所在をはっきりさせるための処理」

「ちょっと待て」

 頭が追いつかない。

「管理対象って、俺のことだろ。俺の寿命がゼロになったら、お前も一緒に消えるってのはまだ分かる。担当だから」

「うん。ありがたくないボーナス付き」

「でも、その条文で言ったら、ひなたは関係ないんじゃないのか?」

「本来はね」

 クロは、帳簿の別のページを開いた。

「ただし、今回の契約はイレギュラー。あんたのラインを書き換えた瞬間に、ひなたの寿命カウンターも連動して動き始めた時点で、システム側が『関連付随対象』として認識した」

「……それってつまり」

「今の状態を簡単に言うと」

 クロは、ペンを取り出して、空中に二つの丸を描いた。片方に「蒼真」、片方に「ひなた」と書き込み、その間を矢印でつなぐ。

「自分と彼女の命が、完全にリンクしている」

 その線は一本じゃなく、何本も重なっているように見えた。

「どっちか一方のカウンターだけを好きにいじると、システム的に整合性が崩れる。だから――」

 クロは帳簿を指でたたく。

「管理対象が寿命ゼロになると、その関連付随対象と担当死神も同時に削除」

「それって」

 喉が乾く。

「俺が死んだら、ひなたも死ぬってことか」

「厳密に言うと、『予定外のゼロになった場合』だけどね」

 クロは視線をそらさなかった。

「逆も然り。ひなたが予定外の形でゼロになった場合、あんたとあたしも、一緒に消える」

 世界が、足元から崩れていく感覚がした。

「……つまり」

「つまり」

 クロは短くうなずく。

「あんたが『自分の寿命なんてどうでもいいから彼女を優先してくれ』って言っても、それはシステム上不可能。どっちか片方だけ救う、って選択肢は、最初から用意されてない」

「逃げ場、ないじゃん」

 気づいたら、そうこぼしていた。

 自分の寿命を投げ出して彼女を救う、なんて、安っぽいヒーローみたいな発想すら許されない。

 俺が何もしなくても、数字はログどおりの場所へ向かう。

 俺が無茶をしても、跳ね返りは自分と彼女とクロに襲いかかる。

「どうあがいても詰み、ってやつか」

「そこまでは言ってない」

 クロは、少しだけ口元をゆがめた。

「あくまでこれは、『ルール』の話。ゲームで言うところの仕様書。仕様書がこうなってるからって、必ずしもエンディングがひとつとは限らないでしょ」

「ゲームじゃねえよ、こっちは」

「でも、あんたはプレイヤーだよ」

 クロは、ペンで空中の丸をトントンと叩く。

「このリンク状態で、どう動くか。何を守って何を捨てるか。どこまでルールを踏み越えるか。それを決めるのは、あたしじゃない」

「死神のくせに、無責任だな」

「責任取るってことは、一緒に消えるってことだからね」

 からかっているようで、どこか本気の声だった。

 クロもまた、このイレギュラーな契約に巻き込まれている一人だ。

 あいつなりに、怖くないはずがない。

「……分かった」

 俺は深く息を吐いた。

「俺とひなたの寿命はリンクしてる。どっちかだけ守るはできない。変にいじれば俺も彼女もお前も消える」

「そういうこと」

「それでも」

 言葉を選ぶ。

「それでも、俺は何もしないまま見てるのだけは嫌だ」

 クロは、じっと俺を見つめた。

 しばらくの沈黙。

「……ほんと、めんどくさい契約者拾っちゃったなあ」

 あきれたようにため息をついてから、クロは立ち上がった。

「ま、いいや。あたしの評価にも関わることだし。できる範囲で付き合うよ」

「頼りなさそうな死神だな」

「言っとくけど、あんたよりは長く生きてるからね」

「死んでるけどな」

 くだらない言い合いをしていると、机の上のスマホが震えた。

 メッセージ通知。

 送信者は、ひなた。

 画面には、スタンプ付きのメッセージが並んでいた。

『今日も勉強ありがとう!』

『優等生あさぴー先生のおかげで、なんかイケる気がしてきた!』

『明日もお願いね!』

 泣き笑いしているキャラのスタンプ。

 絵文字だらけの軽い文面。

 何も知らない、いつものひなた。

 俺は、スマホを握りしめた。

 その画面の向こう側で。

 ひなたの頭上の寿命カウンターは、刻一刻と減り続けている。

 0000:06:13:40

 0000:06:13:39

 0000:06:13:38

 数字の一つひとつが、やけに重く見えた。

「……明日も頼むぞ、あさぴー先生」

 クロが、からかうように笑う。

「教師やるには、ちょっと命が軽すぎるけどね」

「うるせえ」

 そう言い返しながら、俺はひなたに返信を打ち始めた。

『こっちこそ。分かるまでちゃんと付き合うから』

 寿命のことも、死神のことも、何ひとつ書かないメッセージ。

 その裏で、時計の針と寿命カウンターが同じリズムで進んでいる。

 六日。

 彼女と俺と死神クロに残された時間は、思っていた以上に、短かった。


第4話「クラスの秘密」

 朝のHR前の教室は、妙な熱気に包まれていた。

 文化祭まであと十日。黒板にはでかでかと「文化祭まで残り10日」と書かれ、その下にクラス企画の進捗状況が雑にメモされている。

 完成度三〇パーセント。かなりやばい。

「おい蒼真、装飾班マジで人手足りねえからな。今日の放課後、絶対逃がさねえから覚悟しとけよ」

「物騒な言い方すんなよ、喜多川。俺は平和に生きたい」

「お前の平和って基本的にサボりだからな」

 陽キャ寄り男子グループのひとり、喜多川が俺の机をばんばん叩いてくる。頭上には、00035:***の寿命カウンター。

 三十五。

 数字だけ見れば、そこそこ長い方なのかもしれない。けれど「七日」という単位を知ってしまった今、三十五という数字も、たいして安心材料にはならない。

 俺は教科書を開くふりをしながら、ノートの端をそっとめくった。

 そこには、殴り書きのメモが並んでいる。

 ・喜多川 00035:*** サッカー部 文化祭実行委員補佐

 ・大久保 00009:*** バイク通学の先輩 校則違反常習

 ・戸田 00060:*** 文化祭実行委員長 事故予定日の数日後に揺れあり?

 ・高梨 00110:*** 図書委員 やたら元気

 ……などなど。

 クラスメイト、先輩後輩、よく話すやつ、たまに目に入るやつ。ここ数日で俺が頭上の数字を見てしまった人たちの名前と、ざっくりした寿命カウンター。

 いわば「クラスメイトの寿命メモ」だ。

「……こうして文字にすると、ほんとに俺、やばいやつだな」

 思わず小声でつぶやく。

 クラスの隅でノートを開いて、友達の名前と「あと何日生きるか」をメモしている男子高校生。字面だけ見たら、普通に通報案件だ。

 でも――

 ひなたを救う手がかりを探すには、周りの事情も知らなきゃいけない。

 クロが言っていた「重大事故のトリガー」は、ひなた一人の問題で終わるとは限らない。クラス全体、学校全体の人間関係のどこかに、爆弾みたいな要素が埋まっている。

 それを見つけるには、まず状況を知らなきゃ話にならない。

 そう、これは別にストーカーとかじゃない。調査だ。調査。

 ……と、自分に言い聞かせないと、心が折れそうだった。

「何書いてんの?」

 突然、背後からひょこっと顔が出てくる。

 空木ひなた。

「うおっ」

 思わずノートを閉じかけて、ギリギリのところで手を止めた。そんな動きをしたら逆に怪しいって分かってるのに、体が勝手に。

「またエロい落書きでもしてた?」

「お前の中の俺の評価、どこまで低いんだよ」

「だってあさぴー、授業中に何か書いてるとき、目がキラキラしてるからさ」

「それは普通にノート取ってるときだろ」

 俺とひなたのやり取りを見て、近くの女子がくすくす笑った。

 ひなたはクラスの中心にいる。

 陽キャグループの女子たちの輪の真ん中。食べ物の話題でも恋バナでも、だいたいひなたが仕切っている。

「空木、ちょっとこっち来てー。この前のダンスの動画見せて」

「はいよー。ただいま参上」

 呼ばれればすぐにそっちへ駆けていく。

 そんな彼女の頭上には、相変わらず冷たい数字が浮かんでいた。

 0000:06:10:20

 六日。

 文化祭準備期間のど真ん中に終点がある、理不尽なカウンター。

「……ったく」

 ノートの端に、小さく「空木ひなた 0000:06:10:20」と書き込みながら、ため息をひとつ吐いた。

     ◇

 一時間目の現代文は、眠気との戦いだった。

「はい、この段落の筆者の言いたいことをまとめてくれ。……じゃあ、図書委員の高梨」

「は、はいっ」

 先生に当てられて立ち上がるのは、地味目な図書委員・高梨だ。

 黒縁眼鏡におとなしい雰囲気。だけど、委員会では頼りにされてるってウワサの、隠れ有能タイプ。

 頭上のカウンターは、00110:***。

 百十。さすが健康優良児、って感じだ。

「あの、この段落では、『人間は言葉を通じて初めて、自分の世界を確認することができる』ってことを……」

 しっかりした答えを返す高梨に、先生が満足げに頷く。

 クラスのあちこちには、こういう「地味だけど芯のあるやつ」がいる。事故が起きるとしたら、その誰かも巻き込まれる可能性が高い。

 ノートに「高梨:文化祭準備では図書委員としてパンフ制作担当」と書き足す。

「おい朝比奈。さっきから本当に何書いてんだよ」

 前の席から、喜多川がひそひそ声で振り返ってきた。

「まさか、先生の顔の似顔絵とかじゃないよな」

「そんなに画伯に見えるのか俺は」

「いや、画伯っていうか……犯罪予備軍?」

「評価ひどくなってんぞ」

 苦笑しながら、ノートの上に腕を乗せて隠す。

 日常の中に、俺だけ別ルールで動いている感覚。浮いているような、沈んでいるような、変な気分だ。

     ◇

 休み時間。

 廊下の向こうから、騒がしい足音が聞こえてきた。

 バイク通学の不良っぽい先輩、大久保が教室の前を通り過ぎる。金髪まではいかないが明るい茶髪に、制服のボタンはほとんど閉まっていない。背中にはヘルメットをぶら下げている。

「おはよーっす、大久保先輩!」

 うちのクラスの男子が何人か、軽く頭を下げた。

 先輩は片手をひらひら振って、適当に挨拶を返す。

 頭上のカウンターは――

 0000:03:05:40

「……短すぎだろ」

 思わず声に出そうになって、慌てて飲み込んだ。

 三日。

 ひなたより先に終わる予定の人間が、この学校にはまだいる。

 大久保先輩は、うちのクラスの女子から密かに人気があるらしい。「ちょっと悪そうなのがいい」とか、「バイク似合う」とか、そんな理由で。

 そんな人間の寿命が、あと三日しかない。

 ノートに「大久保先輩:校則違反常習/朝はよくバイクで飛ばしている」とメモを取る手が、少し震えた。

 事故。

 重大事故。

 七日後に起きる「何か」に、大久保先輩も絡むのか。それとも別の場所で、別の最期を迎えるのか。

 どっちにしても、嫌な未来しか浮かばなかった。

     ◇

 昼休み。

 教室の真ん中では、陽キャグループが机をくっつけて盛り上がっていた。

「文化祭の打ち上げ、どこでやる?」

「カラオケでよくない? 朝までコース」

「未成年が朝まで騒ぐな」

 文化祭実行委員長の戸田が、苦笑しながらメモ帳を広げている。

 真面目系男子。メガネ。髪は少し伸び気味だけど清潔感はある。先生と生徒の信頼も厚い、「委員長」と聞いて誰もが納得するタイプだ。

 こいつの頭上のカウンターは、00120:***。

 一見、余裕で長そうに見える。

 でも。

 さっき廊下で見かけたとき、一瞬だけ数字がざらりと揺れた。

 事故予定日とされている文化祭準備期間。そこから数日後に、戸田のカウンターが一気に減る予兆が見え隠れしている。

「死神のログにも『死亡者複数』って書いてあったしな……」

 思わずつぶやく。

「ん? 何か言った?」

 いつの間にか隣に来ていたひなたが、顔を覗き込んできた。

「いや、なんでも」

「そーいやさ」

 ひなたは窓際の席へと歩き、窓枠に肘をかけて外を見下ろした。

 グラウンドが見える。サッカー部が練習を始めていて、その横では野球部がアップをしている。どこにでもある高校の昼休みの光景。

 ひなたは、その景色をじっと眺めていた。

「この学校から出てったら、何か変わるのかな」

 ぽつりとこぼれる言葉。

「ん?」

「いや、なんでも」

 振り返ったひなたは、すぐにいつもの笑顔を作った。

「さ、昼ごはん昼ごはん。今日、母さんが久しぶりに弁当作ってくれてさ。唐揚げ二段重ねなんだよ。ほら、見て」

「二段ってなんだよ。塔かよ」

 笑いながら、ひなたの弁当箱を覗き込む。

 その頭上のカウンターは、0000:06:08:55。

 さっきより、ほんの少しだけ減っている。

 「この学校から出てったら」と言ったとき、一瞬だけ数字が揺れたように見えた。

 彼女が抱えている何か。

 進路の不安。家の事情。ここにいること自体への違和感。

 それら全部が、事故や寿命に繋がっているのかもしれない。

     ◇

 放課後の図書室は、きょうも静かだった。

「うぉおおおお!」

 静寂を破る声が、目の前から響いた。

「お前、図書室の使い方分かってる?」

「分かってるよ。心の叫びが漏れただけだよ」

「今のは完全に声の叫びだったからな」

 目の前で頭を抱えているのは、もちろんひなただ。

 数学の教科書と問題集を広げて、ペンをくるくる回しながら「二次関数って何ですか」と哲学的なことを言っている。

「いや、何ですかじゃなくて」

「だってさあ。なんでxが二乗するとグラフが曲がるの。曲がらない人生だってよくない?」

「人生語り始めたら勉強がさらに遠ざかるぞ」

 俺は笑いながら、彼女のノートを指さした。

「ほら、この問題。とりあえずここまではさっき一緒にやっただろ。頂点の座標出すまではできてる。あとはグラフの形をイメージして」

「イメージって何」

「だから、放物線の」

「放物線って何」

「最初からかよ」

 疲れたようにため息をつきつつも、どこか楽しかった。

 ひなたが俺のことを「あさぴー先生」と呼んで、素直でもない感謝を言ってくるのも悪くない。

 図書室の片隅で、二人向かい合って机を挟んでいる。

 それだけで、十分青春っぽかった。

「ねえ、蒼真」

 ふいに、ひなたの声が少しだけ低くなった。

 ペンを置いて、真面目な顔でこちらを見る。

「蒼真はさ。将来とか、ちゃんと考えてる?」

「またその話か」

「だってさあ」

 ひなたは視線をノートから窓の外に移した。

「図書室の進路資料コーナーとか見るとさ。『大学』とか『専門学校』とか『公務員試験』とか、いっぱい選択肢あるじゃん。でも、どれ見てもピンとこなくて」

「まあ、全部が全部キラキラしてるわけじゃないしな」

「でもさ。ピンとこないまま何となく選んで、何となく働いて、それで一生終わるのは嫌だな、って」

 彼女の頭上のカウンターが、わずかに揺れる。

 0000:06:07:50。

 目には見えない「不安」が、その数字の揺れに乗っているみたいだった。

「蒼真は?」

 ひなたがもう一度、俺を見る。

「ちゃんと考えてるの?」

「……まあ」

 喉元まで出かかった「考えてない」が引っ込んだ。

 本当のところは、「ひなたがいない未来なんて考えたくもない」だ。

 七日後にどうなるかも分からない状況で、「大学」だの「就職」だの、リアルな話なんてできるわけがない。

 だけど、それをここで言えるはずもない。

「とりあえず」

 無難な言葉を探す。

「大学行って、普通に働いて。どっかの会社に入って、そこそこやっていけたらいいかな、くらい」

「普通に、かあ」

 ひなたは、その言葉を小さく繰り返した。

「普通にって、案外難しいよね」

「そうか?」

「だってさ。『普通に』って言うためには、いろいろ乗り越えないといけないじゃん。受験とか、就職とか、人間関係とか」

 ひなたは笑った。

 少しだけ、寂しそうに。

「あたしはさ。たぶん蒼真みたいにはなれないからさ」

「俺みたいって、どんなだよ」

「なんか、ちゃんと考えてる感じ」

「全然考えてないぞ」

「それはそれで問題じゃない?」

 そんな何気ない会話をしているあいだにも、ひなたのカウンターはわずかに揺れていた。

 0000:06:07:50

 から。

 0000:06:07:55。

 ほんの五秒だけど、増えていた。

 その揺れを、窓の外から誰かがじっと見ている。

 校舎の向かいのビルの屋上。アンテナの影に隠れるようにして座っている黒い影。

 クロだ。

「……感情の揺れで、そこまで変わるわけじゃない、はずなんだけどね」

 クロは誰にともなくつぶやいた。

 ひなたの寿命カウンターの微妙な増減。そのタイミングと、蒼真との会話の内容。

 それらを、頭の中で並べていく。

「好きな人との未来をちょっと想像しただけで、五秒増えた、って解釈するには、ロマンチックすぎるかな」

 自分で言って、少しだけ苦笑する。

 死神のくせに、十代の恋愛感情に振り回されるのは職務放棄だ。

 けれど、完全に無関係と切り捨てるには、あまりにも数字の揺れ方が素直だった。

「……イレギュラー案件、マジで面倒」

 クロは、風に髪を揺らしながらため息をついた。

 空には、だんだんと夕方の色が混ざり始めている。

     ◇

 その夜。

 自分の部屋で、俺はまたノートを開いていた。

 ページの中央に、大きく「トリガー候補」と書く。

 その下に、箇条書きで名前と出来事を並べていく。

 ・大久保先輩 バイク通学 カウンター残り三日

 ・戸田(実行委員長) 文化祭準備の中心 事故予定日前後で寿命揺れ

 ・喜多川 サッカー部 夜間練習で無茶しがち

・理科室の老朽化した機材 この前火花が出てた

 ・体育館の照明 音響担当が踏み台から落ちかけていた

 ・ひなたの進路の悩み 「この学校から出たい」発言

 ・その他、クラス全体の不満とかストレス

 挙げれば挙げるほど、キリがない。

「誰か一人を助けても、どこかで別の歪みが出る」

 クロが言っていた言葉が、頭の中でリフレインする。

 たしかにそのとおりだ。

 大久保先輩をバイク事故から助けても、そのせいで文化祭準備中の誰かが無茶をする未来が生まれるかもしれない。

 戸田が無理をしすぎて倒れれば、そのフォローの負担が別の誰かにのしかかる。

 ひなた一人を守ることだけ考えたって、彼女の周りには無数の「トリガー候補」がある。

 その全部に、目を光らせないといけないのか。

「そんなの、無理に決まってるだろ」

 ノートの上に顔を伏せながら、思わず声が漏れた。

 寿命が見えるようになったからって、全部救えるわけじゃない。

 むしろ、見えるからこそ、何もできない現実が嫌というほど突きつけられる。

 それでも、見てしまった以上、知らなかったことにはできない。

 六日後。

 このクラスの誰が笑っていて、誰がもういないのか。

 寿命メモのページを見つめながら、俺は深く息を吐いた。

 ノートの隅に、小さく一行書き足す。

 ・俺自身の寿命 00056:*** ペナルティで減少中

 ひなた。クラスメイト。先輩。死神。俺自身。

 全部まとめて、綱渡りみたいな毎日だ。

「……さて、どうやってバランス取ってやろうか」

 頭の中で、何十ものパターンを組み立てようとして、すぐに挫折する。

 十代の男子高校生の脳みそひとつで、世界のバグを全部カバーしようなんて、さすがに無謀だ。

 分かっていても、ノートを閉じることはできなかった。

 ページの真ん中に書いた「トリガー候補」という文字が、じわじわと重く、胸の上にのしかかってくる。

 六日後までに、このページがどれだけ黒く埋まるのか。

 想像しただけで、目の奥がじんと痛んだ。


第五話「放課後の屋上と、本音ゲーム」

 文化祭の準備期間に入ってから、ホームルームの空気はずっと騒がしい。

「はい、それじゃあホームルーム始めるぞ。今日は一番の懸案事項、クラスの出し物を決めます」

 担任の声が響くと同時に、教室のあちこちから「きたー」「ようやくかよ」と声が上がる。

 黒板には、すでに候補がいくつか書き出されていた。

 ・お化け屋敷

 ・模擬店(焼きそば)

 ・演劇

 ・喫茶店系

「じゃあまず、出したい案があるやつ。前に出てこい」

 担任の言葉を合図に、一番に椅子を引いて立ち上がったのは、やっぱりというか、うちのクラスの太陽だった。

「はーい! あたしやりたいのある!」

 空木ひなたが、勢いよく手を挙げて教壇の前に出る。

「はい空木。真面目な案な?」

「先生、あたし真面目だけが取り柄なんで」

「それは初耳だな」

 教室に笑いが広がる中、ひなたは黒板のペンを取り上げた。

「空木。まさかとは思うが、また『クラス全員コスプレ企画』とか言い出さないよな」

「先生、それも楽しそうだけどさ」

 ひなたは振り返り、満面の笑みで宣言した。

「メイド喫茶やろうよ!」

 一瞬の静寂のあと、男子どもが一斉に立ち上がる。

「賛成ー!」

「空木グッジョブ!」

「天才かよ!」

 教室が割れんばかりの歓声に包まれた。

 男子の八割は、完全にノリだけで手を挙げている。残りの二割は、あからさまに下心を隠そうともしていない。

「メイド喫茶ってことは、女子がメイド服着てくれるってことだろ?」

「いやいや、男子メイドもありじゃね? 女装」

「それはやめろ」

 誰かの叫びに、さらに笑いが起きる。

 その中心で、ひなたは黒板に「メイド喫茶」と大きく書き込んだ。

 頭上のカウンターは、0000:06:06:30。

 文化祭当日まで残り十日。ひなたの寿命は残り六日。

 数字のギャップが、胃のあたりをじわじわと締めつけてくる。

「おい朝比奈!」

「ん?」

「お前、今ひなたがメイド服着てるの想像してただろ」

「してねえよ!」

 隣の喜多川に肘でつつかれて、反射的に声が上ずる。

「顔真っ赤だし。あーこれは完全にやましい顔」

「やましくねえから! ちょっと熱いだけだ!」

「十月の教室で何言ってんの」

 喜多川と周りの男子がニヤニヤしている。

 正直、図星すぎて否定が弱い。

 メイド服を着て、トレー片手に客席を回るひなた。いつもの元気さに、ちょっとだけ照れた笑顔が混ざっているところまで想像してしまった自分が情けない。

 寿命のことを考えなきゃいけないのに、思春期の脳みそは本当に役に立たない。

「男子はエプロンつけて執事風もありかなーとか思うんだけど、どう?」

 ひなたが教壇から問いかけると、女子の方からも「それならやってもいいかも」と声が上がる。

「いいじゃん、それ!」

「うちのクラス、イケメン執事一人もいないけど大丈夫?」

「喜多川、お前鏡見てから物言えよ」

「お前よりはマシだわ」

 わいわい騒ぐ声の中で、担任が一度手を叩いた。

「はいはい。とりあえず意見をまとめよう。メイド喫茶案に賛成の者」

 教室のほとんどの手が上がる。

「反対は?」

 数えるほどの手しかない。

「じゃあ多数決で『メイド&執事喫茶』に決定。詳細は実行委員と係で詰める。男子も女子も、ちゃんと働けよー」

「わーい!」

 ひなたが両手を上げて喜ぶ。

 まるで自分の寿命が六日しかないなんて、これっぽっちも知らないみたいなはしゃぎ方だった。

 ……いや、知らないのが普通なんだけど。

 俺だけが、馬鹿みたいに知っている。

     ◇

 放課後。

 ホームルームが終わると同時に、黒板の前には文化祭関連の係が集まった。

「飾り付け班、ちょっと残って」

「メニュー決める人、家庭科室行くぞー」

 実行委員長の戸田が、手際よく指示を飛ばしている。真面目系男子の本領発揮というやつだ。

 俺はというと、装飾班という名の便利屋に半ば強制的に登録されていた。

「朝比奈、こっちこっち。画用紙運び」

「はいはい」

 喜多川に呼ばれて、準備室から大量の画用紙を運び出す。中には、すでに誰かが描き始めた「喫茶アサヒナ」だの「カフェ2−B」だのといった看板案もある。

 教室の後ろの方では、女子たちが「メイド服どうする?」と盛り上がっている。

「レンタルする? 買う? 作る?」

「さすがに作るのは無理じゃない? 時間足りないって」

「空木なら『ボロ布でも似合うからオッケー』って言われてたぞ」

「それ全然褒め言葉じゃない!」

 ひなたの笑い声が、教室のあちこちに響く。

 頭上のカウンターは、0000:06:05:40。

 準備の時間も、彼女の寿命も、同じようにじりじり減っていく。

「……朝比奈? おい」

「え?」

「ガムテ貼る手、止まってるぞ。何ぼーっとしてんだよ」

「悪い。ちょっと考えごと」

「また変なこと考えてんだろ」

 喜多川は、からかうように笑う。

「文化祭んとき、どのタイミングでひなたに告るか、とか」

「誰がだ」

「お前だよ」

「やめろ、でかい声で言うな」

 周りの数人が、こちらをちらりと見た。

 その視線に耐え切れず、俺はガムテを手早く貼って逃げるように席に戻る。心臓の鼓動が落ち着かない。

 ひなたのことを「ただの幼なじみ」と思えなくなっているのは、たぶんもう自分が一番よく分かっている。

 でも、その感情に名前をつけるのが怖い。

 あと六日しかない、なんて知っている状態で「好きだ」なんて言葉を口にしたら、きっと何かが壊れる。

 だから、今はまだいい。

 今は、とりあえず目の前の装飾と、メイド喫茶の看板だけ見ていればいい。

 そう自分に言い聞かせながら、刷毛を動かした。

     ◇

 準備が一段落したころには、教室の時計はもう夕方五時を回っていた。

「今日はここまでにしよう。続きは明日なー」

 戸田の締めの声で、クラスメイトたちは一斉に伸びをする。

「肩いてえ」

「段ボール切りすぎて指痛いんだけど」

「のりが髪の毛について取れない」

 疲れたぼやきがあちこちから聞こえる。

 ひなたは、自分の机の横で窓枠に寄りかかっていた。夕焼け色の光が、頬を少し赤く染めている。

「ふー……」

 深く息を吐いてから、ぽつりとつぶやく。

「ちょっと風、当たってくる」

 鞄はそのまま。携帯だけポケットに突っ込んで、教室を出ていく。

 嫌な予感がした。

 さっきから、ひなたの頭上のカウンターが妙にざわついている気がする。

 0000:06:04:10。

 数字自体は、普通に時間の経過分だけ減っている。けれど、どこか不安定に揺れているように見えた。

「……ちょっとトイレ」

 誰にともなくそう言って、俺も教室を抜け出した。

 廊下の突き当たり、屋上へ続く階段。

 普段なら鍵がかかっているはずの扉は、今日に限って半開きになっていた。

 夕方の風が、隙間から吹き込んでいる。

「マジかよ」

 文化祭準備期間中だからか、換気のために開けっぱなしになっているらしい。

 こういう「たまたま」が、一番怖い。

 階段を駆け上がる。

 胸が早鐘みたいに暴れる。

「空木!」

 屋上の扉を開け放つと、夕焼けの空と、冷たい風と、柵のそばに立つ人影が目に飛び込んできた。

 ひなたが、フェンス越しに空を見上げていた。

 制服のスカートが風に揺れ、長い髪がふわりとなびく。夕陽の逆光で顔はよく見えないけれど、その背中はいつもより少しだけ小さく見えた。

「おい」

 思わず声をかけると、ひなたが振り返る。

「あ。蒼真」

 いつもの、明るい笑顔。

 フェンスに両手をかけていたからか、バランスを崩している様子もない。飛び降りようとしていたわけでも、もちろんない。

 ……と、頭では分かっていても、ここ数日の寿命カウンターのせいで、どうしても最悪のパターンが脳裏をよぎる。

「何してんだよ。勝手に屋上とか来てさ」

「勝手にって。鍵開いてたし」

「だからって来るなよ」

「なんで?」

「なんでって……」

 言葉が詰まる。

 ここが「事故予定地」かもしれない、なんて口が裂けても言えない。

「まあ、蒼真が追っかけてきてくれるくらいには危険ってことね」

 ひなたは、くすっと笑った。

「ありがと」

「……別に心配して来たわけじゃねえよ」

「はいはいツンデレツンデレ」

 フェンスから手を離して、ひなたは屋上の真ん中に戻ってくる。

 空は、すっかりオレンジ色から群青色に変わり始めていた。校庭では、部活の掛け声がまだ続いている。

 屋上だけ、静かだ。

「ねえ、蒼真」

 ひなたが、不意に真面目な声で言った。

「本音ゲームしよ」

「はあ?」

「本音ゲーム」

 ひなたは両手を組んで、自分の前で軽く持ち上げる。

「お互いに相手に聞きたいこと、一つだけ質問する。その質問には、本音で答える。うそついたら罰ゲーム」

「罰ゲーム?」

「そう。メイド喫茶で、猫耳つけて一日接客」

「罰が重すぎる」

「やる気出るでしょ」

「どっちにだよ」

 そんなくだらない会話をしながらも、ひなたの目は本気だった。

 寿命カウンターは、0000:06:03:20。

 揺れながらも、確実に減っている。

「じゃあ、先攻後攻どっちがいい?」

「何その本格的なルール」

「最初はグーで決めよ」

 ひなたが拳を突き出してくる。

「じゃんけん?」

「そう。負けた方から質問」

「聞く側が負けなのかよ」

「だってさ、聞かれる方が緊張するじゃん」

「……まあ、分からなくもないけど」

 俺も拳を出す。

「最初はグー、じゃんけんぽん」

 ひなたがパー、俺がグー。

「やった」

 ひなたが嬉しそうに笑う。

「じゃ、あたしから質問ね」

 心臓が嫌な音を立てた。

 質問なんて、ろくなことにならない。

「本音で答えるんだよ。いい?」

「一応ルールは分かった」

 ひなたは一拍置いて、俺の目をまっすぐ見る。

「……あたしのこと、今でも『ただの幼なじみ』だと思ってる?」

 風の音が、急に大きく聞こえた気がした。

 夕焼け空。フェンス。遠くから聞こえる部活の声。

 全部が遠のいていく。

「な、何だよ、急に」

「さっきさ」

 ひなたはフェンスの方へ視線を向ける。

「メイド喫茶の話してるとき、あんた、すっごい変な顔してたから」

「変な顔ってなんだよ」

「なんか、照れてるよーな、怒ってるよーな、泣きそうなよーな」

 ひなたは、ちょっとだけ目を細めた。

「あたしね。中学のときはさ、蒼真のこと、マジで『ただの幼なじみ』だと思ってたんだよ。家が近いから一緒に帰る相手、みたいな」

「ひでえ」

「でもさあ、高校入ってから、なんか違うなって思うとき増えてきて」

 ひなたの頭上のカウンターが、わずかに揺れる。

 0000:06:03:20。

 数字は変わらないのに、空気が変わった気がした。

「だから、聞いてみたくなったの」

 ひなたは、真っ直ぐに聞いてくる。

「あたしのこと、今でも『ただの幼なじみ』って思ってる?」

 本音ゲーム。

 うそをついたら罰ゲーム。

 本音で答えたところで、状況が良くなる保証なんてどこにもない。

 でも、ここで「ただの幼なじみだよ」と言い切ったら、たぶん何か取り返しのつかないものを失う。

「……ただの、って言われると」

 喉がカラカラに乾く。

「違う、と思う」

 ひなたの目が、少しだけ見開かれた。

「ただの幼なじみ、ではない」

 そこまでは、はっきり言えた。

「じゃあ、なに?」

「それが……うまく言えない」

 好きだ、と言う勇気はない。

 でも、「ただの幼なじみ」とは絶対に違う。

 そんな半端な答えしか出てこなかった。

 自分で言っておいて、情けないと思う。

 でも、今の俺には、その半歩が限界だ。

 ひなたは、数秒間じっと俺の顔を見てから、ふっと目を細めた。

「……そっか」

 小さく笑う。

 笑っているのに、どこか泣きそうにも見えた。

 頭上のカウンターが、また揺れる。

 0000:06:03:20

 から。

 0000:06:03:25。

 数字が、ほんの少しだけ増えた。

 五秒。

 たったそれだけ。でも、きっとひなたにとっても、大事な質問だったという証拠だ。

「じゃあ次、蒼真の番」

 ひなたはわざと明るい声を出した。

「質問していいよ。本音で答えてあげる」

「そんな上から目線のゲームだったっけ、これ」

「ルールは常にあたしが決めます」

「独裁かよ」

 笑い合いながらも、頭の中では必死に言葉を探す。

 聞きたいことは山ほどある。

 七日後に何が起きるのか覚えておけ、とか。

 もし突然大きな事故が起きたら、俺のそばを離れるな、とか。

 でも、それを言った瞬間に、すべてが破綻する。

 それは本音でもあるけど、同時にルール違反でもある。

「……じゃあ」

 迷った末に、口から出たのはプロットどおりの質問だった。

「お前、本当は高校卒業したあと、どうしたいんだ?」

 ひなたが瞬きをする。

「進路の話?」

「まあな」

「本音で答えるやつ?」

「本音ゲームだからな」

 少しだけ、沈黙が落ちる。

 夕風が、二人のあいだを通り過ぎていく。

「……ほんとはね」

 ひなたは、空を見上げた。

「家にいたら、多分、ずっとここから出られない」

 ぽつりとこぼれる言葉。

「うち、前にも言ったけどさ、そんなにお金ないし。母さんも体弱いし。弟、まだ中学生だし」

 頭上のカウンターが、静かに揺れる。

 0000:06:03:25。

「だから、多分、このままいくと、どっか近場で就職して、実家から通って。母さんの手伝いして、弟見て」

 ひなたは、自分の肩を抱くように腕を回した。

「そうやって、『空木ひなた』っていう人間は、ずっとこの街の中に収まって終わるんだろうなって」

「……嫌なのか、それが」

「全部が全部、嫌ってわけじゃないけど」

 ひなたは半分笑って、半分泣きそうに口を曲げる。

「でもさ。中学のとき、修学旅行で東京行ったときとか。駅前の人の多さ見て、『世界広っ』って思ったんだよね。ああ、この中のどこかに、自分が知らない人生がいくらでもあるんだなって」

 彼女の目が、少しだけ遠くを見る。

「だから本当は、どこでもいいから遠くに行きたい」

 ひなたの声が、風に混じる。

「この街じゃないどこかで、一回でいいから『自分の好きに生きてみる』ってこと、やってみたい」

 カウンターが、また揺れる。

 0000:06:03:25

 から。

 0000:06:03:20。

 増えた五秒が、また消えていく。

「でもそれを口に出すのが、怖い」

 ひなたは、ぎゅっと唇をかんだ。

「口に出しちゃったらさ。『ここから出たくない家族』と、『ここから出たいあたし』のどっちを選ぶか、決めなきゃいけなくなるじゃん」

 屋上の風が、一瞬だけ冷たくなる。

「だから、あたしはたぶん、どこにも行かない」

 ひなたは、そう結論づけた。

「行きたいけど、行けない。逃げたいけど、逃げられない。そういうのを、見ないふりして生きていくんだと思う」

 ひなたの頭上のカウンターが、今度は大きくざわめいた。

 0000:06:03:20

 から。

 0000:06:02:50。

 三十秒。

 さっきの本音で、自分の未来を少し削ったのかもしれない。

「……だったら」

 気づいたら、口が勝手に動いていた。

「だったらさ」

 何か提案しようとした。

 卒業したら一緒にどこか行こう、とか。

 文化祭が終わったら、とりあえず遠出でもしよう、とか。

 そんな軽い約束ですら、今の状況では大きな意味を持ってしまう。

 言葉が形になろうとした、そのときだった。

『えー、全校生徒に連絡します』

 スピーカーから、がさついた音が鳴った。

 校内放送だ。

『文化祭実行委員は、これより体育館にて全体会議を行います。各クラスの実行委員は、速やかに体育館へ集合してください』

 屋上にも、少しこもった声が届く。

「あ、やば。戸田に怒られるやつだ」

 ひなたが肩をすくめた。

「本音ゲーム、いったん終了ね」

「今いいところだったんだが」

「続きはまた今度」

 ひなたは笑って、屋上の出入り口に向かう。

 メイド喫茶の準備。文化祭。実行委員会。

 「今度」なんて余裕、もう七日もないのに。

「おい、空木」

「ん?」

 扉の前で、ひなたが振り向く。

「……なんでもない」

 本当は「今度じゃなくて、明日だ」と言いたかった。

 でも、言えなかった。

 言葉にできない本音は、喉の奥で絡まって、ただ重く残るだけだった。

「じゃ、行ってくるね。あさぴー先生」

 ひなたは、いつもの調子で笑う。

 頭上のカウンターは、0000:06:02:40。

 扉を開けて中に入っていった瞬間、その数字はまた、わずかに減った。

 0000:06:02:39。

 俺は、その背中を見送ることしかできない。

     ◇

 ひなたが去ったあと、屋上には俺ひとりが取り残された。

 風が少し強くなってきたのか、フェンスがきい、と小さく鳴る。

 校庭を見下ろす。

 サッカー部がまだ練習をしている。野球部は片づけに入っている。グラウンドの隅では、文化祭で使うらしい大きな看板が立てかけられていた。

 ここで、何かが起きる未来。

 クロの言葉が、頭の隅で響く。

『七日後、この学校で大きな事故が起きる』

 屋上から見下ろした校庭。体育館。特別棟。

 そのどこかで、ログどおりの事故が起きる。

 その中に、ひなたの名前がある。

 俺は、フェンスに手をかけた。

 冷たい金属の感触が、指先に食い込む。

「今度なんて、ないかもしれないのにな」

 誰にともなくつぶやいて、夕焼けに染まるグラウンドを見つめた。

 寿命カウンターの数字と、校庭に落ちる影が、どこか同じリズムで伸びていくように見えて、目をそらせなかった。


第六話「最初の分岐点」

 文化祭準備期間、三日目の朝。

 教室に入る前から、俺の胃はきりきり痛んでいた。

 理由は単純だ。

「今日が、最初の大きな分岐点になるからね」

 登校途中、横断歩道の手前でふいに現れたクロが、信号待ちのついでみたいなノリでそう告げたからだ。

「……分岐点?」

「あんたのクラスの事故ログ。今日を境に、分岐がいくつか走ってる」

 クロは、スマホサイズの黒い端末を指先でくるくる回しながら言った。

「あたしが見れるのは、『ここで分かれ道がある』って情報まで。どの方向に進むかは、人間次第」

「だったら、その分かれ道がどこなのか教えろよ」

「それは、あんた自身の観察で見つけなよ」

 あっさり言い捨てる。

「死神見習いの仕事に、コンサル業は含まれてないから」

「お前、担当死神だよな?」

「見習いだって言ってるでしょ」

 信号が青に変わり、クロはするりと歩き出した。

 俺だけが横断歩道の前に取り残される。

「ヒントくらい……」

「ヒントならひとつ」

 振り返りもせず、クロが言う。

「『高さ』と『電気』には気をつけな」

「は?」

「いってらっしゃい。がんばってね、契約者くん」

 クロは手をひらひら振り、そのまま朝の雑踏に紛れて消えた。

 残されたのは、曖昧な言葉と、嫌な胸騒ぎだけ。

 高さと、電気。

 それが今日の分岐点に関係している。

 体育館のステージ。照明。電源コード。

 嫌でも、いくつかの光景が頭に浮かぶ。

 その日は一日中、心ここにあらず状態で過ぎていった。

     ◇

「朝比奈ー! ペンキ飛ぶからもうちょっと離れて!」

「お前が振り回しすぎなんだよ、ひなた!」

 午後、体育館は文化祭のステージ準備でごった返していた。

 ステージ中央には組みかけの台。その上には、まだ骨組みだけの看板。天井近くでは、照明器具の位置を調整するために脚立がいくつも立っている。

 ひなたは、メイン看板のデザインを任されて張り切っていた。

「ほら見て、ここにクラス番号入れて、ハート飛ばして、カップルはここで写真撮影ね」

「勝手にカップル製造しないでください」

「いいじゃん、青春の一ページのお手伝い」

 笑いながら大きな筆を動かすひなたの頭上には、相変わらず冷たい数字が浮かんでいる。

 0000:04:23:10。

 残り四日に近づいていた。

「朝比奈、こっちの柱持っててくれ!」

 体育館の隅から、戸田の声が飛ぶ。

「はいはい」

 俺はひなたから少し離れて、ステージ脇に積まれた支柱を抑えに行く。実行委員長の戸田は、脚立の上から照明の角度を確認していた。

「このライト、もう少し右。……いや、そっちじゃない、逆逆」

「戸田、生き急ぎすぎだろ」

「スケジュールが詰まりすぎなんだよ。ここで遅れたら、本番で泣くのはクラス全員だからな」

 戸田の頭上のカウンターは、00118:***。

 数字だけ見れば余裕のある方だろう。

 けれど、クロの「高さと電気」というヒントが頭をよぎるたびに、照明器具とケーブル類が全部爆弾に見えてくる。

「……なあ戸田」

「ん?」

「その脚立、ちゃんと固定してるか?」

「してるよ。ほら」

 戸田は片足で脚立を軽く揺らしてみせた。

 たしかに、がたつきはない。けれど、完全に安心できる気もしない。

「心配しすぎじゃないか?」

 戸田が苦笑する。

「朝比奈がそういう顔してると、逆に不安になるんだけど」

「元から不安要素だろ、文化祭って」

「それはそう」

 軽口を交わしながらも、視線は自然とひなたに向かってしまう。

 ステージ前方。看板に向かってしゃがみ込み、細かい部分をちまちま描き足しているひなた。

 その真上には――体育館の梁から吊り下げられた、大型の照明器具があった。

「高さ」と「電気」。

 クロのヒントが、ぴたりと重なる。

 頭上の照明。足場の脚立。天井の配線。

 全部が嫌な予感でしかない。

「戸田、あの照明、固定大丈夫か?」

「ん? 上のやつ?」

「ああ」

 戸田は少し目を細めて見上げた。

「昨日、業者が調整したはずだけど……ちょっと確認しとくか」

「頼む」

 その瞬間だった。

「戸田、こっちの電源タップどこつなげばいい?」

 少し離れたところから、別のクラスメイトが叫ぶ。

「あー、ごめん。そっち先見る!」

 戸田は脚立の上で体勢を変えようとして――わずかにバランスを崩した。

「うわっ」

 脚立が、ぎぎ、と嫌な音を立てる。

「戸田!」

 支えていたはずの支柱が、ほんの少しずれた。

 戸田の体が、ぐらりと揺れる。

 その揺れが、天井の照明器具の留め金に伝わった。

 きい、と嫌な音。

 次の瞬間、重そうな照明器具が片側から外れ、片吊り状態になった。

「危ない!」

 誰かの悲鳴。

 照明器具は、そのまま斜め下に向かって落ちていく。

 その真下にいたのは――

「ひなた!」

 看板に絵を描いていたひなたの頭上。

 時間が、妙にゆっくりになった。

 照明器具が落ちてくる軌道。ひなたの位置。俺の位置。

 全部が、はっきり見える。

 頭の中で、勝手にカウントが弾き出された。

 あと一歩。あと一秒。

 俺が動かなければ、あの照明器具はひなたの頭を直撃する。

 もし俺が飛び込めば――

 考えるより先に、体が動いていた。

「うおおおっ!」

 自分でも驚くような声をあげながら、ひなたの元へ全力で飛び込む。

 床を蹴り、看板の端を踏み越えて、ひなたの肩を抱きかかえるようにして引き寄せた。

「え?」

 ひなたが目を見開いた瞬間、頭上を何かがかすめる。

 鈍い金属音。

 照明器具が、さっきまでひなたがいた場所に叩きつけられた。

 体育館の床が、びりっと震える。

「あ、あぶな……っ」

 言いかけたところで、俺の視界の隅に数字が躍った。

 ひなたの頭上。

 0000:04:23:10

 から。

 0000:04:26:40。

 約三時間分、カウンターが増えていた。

 代わりに、自分の頭上を見上げる。

 00056:***だったはずの俺の寿命が――

 00054:***。

 数字の感覚だけで、背筋が冷たくなった。

「……マジかよ」

 他人の危機を肩代わりすると、自分の寿命が削れる。

 そんな最悪な仕様が、ここではっきりと証明された。

「朝比奈! 大丈夫か!」

「照明、落ちたぞ!」

 周りから悲鳴と怒号が飛ぶ。

 戸田が青ざめた顔で脚立から降りてきた。

「ごめん! 脚立が――」

「とりあえず怪我人確認!」

 体育教師が駆け寄ってくる。いつの間にか、先生たちも騒ぎに気づいたらしい。

 俺は床に尻もちをついたまま、腕の中のひなたを見下ろした。

「……っ、びっくりしたあ……」

 ひなたは、半分泣き笑いの顔で息を吐いた。

「死ぬかと思った」

「バカ。簡単に言うな」

 声が震えているのを、自分で感じる。

 さっきの一瞬で、もし俺が動かなかったら。

 照明器具の角が、ひなたの頭を貫いていたかもしれない。

 あの光景が、頭から離れない。

「ありがと、蒼真」

 ひなたが、そっと俺の制服の袖をつかんだ。

「また助けられちゃった」

「『また』って言うな。そんなに何回も助けられてたまるか」

「ふふ。カッコつけてる」

 ひなたが笑う。

 その笑顔に救われそうになった瞬間――別のところで、嫌な音がした。

 どん、と体育館の隅で大きな衝撃。

「うわっ!」

「きゃっ!」

 照明器具が落ちた勢いで、天井のケーブルの一部が引きちぎられていた。その先に繋がっていた延長コードが、ステージ脇のコンセントから半ば強引に引き抜かれる。

 火花が散った。

 その瞬間、体育館の照明の半分が、一気に落ちた。

 視界の半分が闇に沈む。

「停電か?」

「違う、体育館のブレーカーだ!」

 誰かが叫ぶ。

 薄暗くなった体育館の中で、どこかで誰かが転び、何かが倒れる音が連鎖的に響いた。

「痛っ!」

「誰かライト!」

 先生たちが慌ててスマホのライトをつける。薄暗がりの中で、ステージの反対側の方で、一人の生徒が膝を押さえてうずくまっていた。

「足、ひねったかもしれません!」

「保健室行くぞ! 誰か担架!」

 体育館全体が、一気にざわつきに飲み込まれる。

 俺は、腕の中のひなたを支えたまま、その光景を見ていた。

 照明器具からひなたを守った結果、別の場所で別の怪我人が出た。

 予定されていた事故の「形」が、ずれた。

 クロの言っていた「分岐点」が、目の前でねじ曲がっているのが分かる。

 ひなたの寿命カウンターは、先ほど増えた値から少しだけ揺れたあと――

 0000:04:26:40

 から。

 0000:04:25:10。

 不規則に、減り始めていた。

     ◇

 騒動のあと、体育館の使用は一時停止になった。

 照明器具の安全確認が終わるまで、ステージ準備は全面中断。文化祭のリハーサルスケジュールも、全部組み直しになった。

 クラスに戻る廊下で、実行委員長の戸田はずっと頭を下げていた。

「本当に悪かった。俺の確認不足で」

「戸田のせいじゃないって。あれ、ほぼ事故だろ」

「でも……」

 責任感の強い戸田は、何度も唇をかんでいた。

 寿命カウンターは、00118:***から、00117:***に落ちている。

 大怪我にはならなかったが、小さくない負荷がかかっていた。

「とりあえず、今日の準備は解散だ。各自、ケガしてないかだけ確認して帰るように」

 担任の先生の言葉で、クラスメイトたちは疲れた顔で荷物をまとめ始めた。

 ひなたはというと――

「いっててて……」

 保健室で軽く診てもらったらしいひなたが、体育館裏の廊下で足首をさすっていた。

「大丈夫か」

「ちょっと打っただけ。骨折とかはしてないって」

 そう言いながらも、動きは少しぎこちない。

 照明器具からは守れたけれど、落ちたときに一緒に転んで床に足をぶつけたせいで、軽い打撲になっていた。

「さっきはありがとね」

 ひなたが、改めて頭を下げる。

「ほんとに、死ぬかと思った」

「だから簡単に言うなって」

 声がうまく安定しない。

 怖かったのはひなただけじゃない。

 俺だって、寿命カウンターの動きを見て、心臓が凍る思いをしている。

「蒼真、顔色悪いよ?」

「お前のせいだよ」

「ひどっ。命の恩人に向かってその言い方」

 ひなたは笑った。

 その笑顔の裏で、頭上のカウンターは不規則に揺れている。

 0000:04:25:05。

 0000:04:25:20。

 0000:04:24:50。

 増えたり減ったりを繰り返している。

 さっきの事故で、「本来の予定」がずれたのは間違いない。

 でも、その先がどう変わったのか。

 死ぬというゴール自体が消えたのか、ただルートが変わっただけなのか。

 その答えが分かるのは、たぶん――あと四日。

     ◇

 その日の夕方。

 家に帰る前に、俺は公園のベンチでクロを待ち伏せしていた。

 あいつが現れそうな場所は、なんとなく分かってきた。

 人の気配が少なくて、適当にサボれそうなところ。

 その条件に一番当てはまるのが、この公園の端っこのベンチだ。

「……で」

 ベンチの背もたれの上に寝転がっているクロを見上げながら、俺は言った。

「今のはどういうことだ」

「どのへんから?」

「全部だ」

 クロは、腕を枕にして片目だけ開けた。

「ひなたの寿命は増えた。でも、その後不規則に揺れ始めた。俺の寿命は減った。体育館では別のやつが怪我した。文化祭の準備スケジュールは全部変更」

 指折り数えていく。

「これで何がどう変わったのか、説明してくれ」

「説明ねえ」

 クロは、うーん、と唸りながら、上半身を起こした。

「まずひとつ。あんたの介入で、『ひなたがあの場で照明器具に直撃される』っていう死に方は消えた」

「……それだけ聞くと、いい話みたいに聞こえるけど」

「実際、そこだけ切り取ればグッドエンド分岐だよ」

 クロはあっさりと言い切る。

「でもねえ」

 そこで、表情を少しだけ引き締めた。

「死ぬっていうゴールの存在そのものは、変わってない」

「は?」

「さっきの照明事故での死亡フラグは折れた。けど、『文化祭期間中に起きる大きな事故で複数名死亡』っていう全体ログは、まだ健在」

 クロは、指先で空中に小さなスクリーンを表示した。

 そこには、見慣れない英数字のコードとともに、「発生日 文化祭準備期間/死亡者 複数/場所 校内」のような情報が並んでいる。

「今の介入で、たしかにひなたの死に方は変わった。でも、死ぬという事実そのものは、まだどこにも行ってない」

 スクリーン上のひなたのカウンター部分が、不規則に点滅している。

「ルート変更。そう言えば分かりやすい?」

「全然分かりたくない」

 思わず声が荒くなる。

「俺が命削って助けたのに、『死に方変わっただけで死ぬのは確定』って、ふざけてんのか」

「ふざけてないよ」

 クロは淡々とした声で返した。

「そういう仕様なの。あたしたちが管理してる世界は」

「仕様、仕様って……人間の命を何だと思ってんだよ」

「『データ』だよ」

 クロは、こともなげに言った。

「寿命カウンター。ログ。ライン。全部ひっくるめて『データ』。それを整合性取れるように回すのが、あたしたちの仕事」

「……データね」

 喉の奥が、じんと熱くなる。

「人の人生も、感情も、ぜんぶ数字でしか見ないってか」

「あたしたちの視点からは、そうなる」

 クロは、少しだけ目を伏せた。

「でも、だからこそ、あんたみたいな『見える人間』の感情は、ログに残る」

「意味分かんねえよ」

「分かんなくていいよ」

 クロも珍しく、声を荒げた。

「あたしだって、本当はもう少しやりたいようにやりたい。『この子は助けたいから助けます、はい終わり』って、そう言えるならどれだけ楽かと思ってる」

 目が合う。

 クロの瞳の奥には、イライラと焦りが混ざっていた。

「でも、死神管理局のルールは絶対。さっきだって、あんたを助けるためにライン書き換えた件で、上から呼び出し食らったんだから」

「呼び出し?」

「『過度な干渉をするな』『管理対象以外の寿命変動に関わるな』。さっきの体育館の件も、『ギリギリセーフだが次はない』って釘刺された」

 クロは、拳をぎゅっと握りしめた。

「だから、あたしから言えるのはここまで」

「あとは自分でなんとかしろ、ってか」

「そういう契約でしょうが!」

 その言葉は、今までで一番大きかった。

 ベンチの周りの空気が、ぴたりと張りつめる。

 クロも、息を吐いてから、自分で自分の頭を小突いた。

「……あーもう。あんたのイライラが伝染してきたわ」

「こっちの台詞だよ」

 俺も、同じようにため息をついた。

「ひなたを助けたいって言ったら、『ルールがある』って突っぱねられて。命張って助けたら、『死に方変わっただけでゴールは同じ』って言われて」

 自分でも、どんどん言葉がこじれていくのが分かる。

「じゃあ俺は、何をどうすればいいんだよ」

「……」

「助けても意味ないのか? 諦めて見てるしかないのか? どっちなんだよ」

「どっちでもない」

 クロは、小さく呟いた。

「あんたがどう動くかで、『どう死ぬか』と『誰が残るか』が変わる」

 真っ直ぐな視線で、俺を見る。

「それが、『見える人間』の役割」

「それはつまり」

「『誰かの死』を完全に消すんじゃなくて、『誰を生かすか』を選ぶってこと」

 その言葉に、吐き気がした。

「ふざけるなよ」

「ふざけてない」

「じゃあ俺に『誰を生かすか選べ』って言ってるのかよ」

「結果として、そうなる」

 クロは、視線をそらさずに言い切った。

「ひなた。クラスメイト。大久保先輩。戸田。その他もろもろ。あんたがどこにどれだけ介入するかで、『生き残る顔ぶれ』は変わる」

 世界の残酷さが、数字になって目の前に突きつけられる。

「でも、全員は無理」

 クロは、そこで初めて目を伏せた。

「システムの許容量も、あんたの寿命も。全部が足りない」

「……うんざりだな」

 思わず、笑ってしまった。

 その笑いには、少しも楽しさがなかった。

「そんなゲーム、誰がやりたいと思う」

「誰もやりたくないよ」

 クロもまた、苦い笑みを浮かべた。

「あたしだって、こんな案件担当したくなかった」

「正直だな、おい」

「正直に言わなきゃやってらんないから」

 ふたりして黙り込む。

 しばらく、公園の木々を揺らす風の音だけが聞こえていた。

「……で」

 先に口を開いたのは、クロの方だった。

「あたしはあたしで、これ以上露骨な手助けはできない。やったら本当に削除される」

「削除ね」

「あんたも同じ。さっきの体育館の件みたいな肩代わりを繰り返したら、ひなたが生き延びるより先に、あんたのカウンターがゼロになる」

「それでも――」

「やめときなよ」

 クロが遮る。

「『自分だけ燃え尽きてカッコつけて終わり』なんて、いちばん安っぽいエンディングだから」

 言い方は辛辣だったが、その奥には本気の心配があった。

「……分かったよ」

 俺は、ベンチから立ち上がった。

「怒鳴って悪かったな」

「こっちこそ。突き放した言い方してごめん」

 クロは、珍しく素直に頭を下げた。

「ま、あんたがどう動くかで、あたしの評価も変わるし。できる範囲で見ててあげるよ」

「頼りない見習いだな」

「うるさい。見習いにもプライドあるんだよ」

 互いに半分冗談みたいな言葉を交わして、そこで話は終わった。

     ◇

 夜。

 家に帰っても、体育館での光景が頭から離れなかった。

 照明器具。ケーブル。火花。暗闇。悲鳴。

 あのとき、もし俺が違うタイミングで動いていたら、落ちた照明器具は別の場所に当たっていたかもしれない。

 ひなたじゃない誰かが死んでいた可能性もある。

 あるいは、俺が間に合わなければ、予定通りひなたが――

 そう考え始めると、「もしも」が無限に浮かんでくる。

「……行くか」

 気づけば、制服のまま家を出ていた。

 時間は夜九時過ぎ。

 校門が閉まる時間は過ぎているが、文化祭前ということもあって先生が残っている可能性もある。

 ばれないように、裏門の方から回り込む。

 ここまでやるのは、正直バカだと思う。

 それでも、行かずにはいられなかった。

 今日が最初の大きな分岐点なら、ここから先の細かい分岐も、どこかに残っている。

 高さ。電気。ステージ。

 どこが本当の「死の舞台」になるのか、少しでも自分の目で確かめておきたかった。

 校舎裏のフェンスをよじ登り、敷地内に入る。

 夜の学校は、昼間とは別の顔をしていた。

 窓ガラスに夜空が映り込み、廊下には非常灯だけがぽつぽつと光っている。

 人の気配はほとんどない。職員室の方からだけ、かすかな明かりが漏れていた。

 足音を忍ばせながら、体育館へ向かう。

 扉は鍵がかかっていた。

 だが、横の非常口の方に回ると、そこは施錠されていなかった。さっきの騒動で慌てて出入りしたせいか、閉め忘れたらしい。

「……管理、甘いな」

 思わずつぶやきながら、ドアをそっと押し開ける。

 体育館の中は、真っ暗だった。

 メインの照明は落ちたまま。非常灯だけが、天井近くでぼんやりと光っている。

 昼間、照明器具が落ちたステージ。組みかけの骨組み。乱れたケーブル。

 静まり返った空間に、俺の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。

「……ここで、何が起きるんだよ」

 ひなたの寿命カウンターは、まだ「文化祭週間」の範囲内でゼロに向かっている。

 ここ。体育館。ステージ。

 いかにも「何か起こりそうな場所」だ。

 ステージに上がり、骨組みを見て回る。

 緩んだボルト。仮止めのままの板。足元に投げ出されたロープ。

 どれもこれも、事故の芽に見える。

「全部なんて、とても潰せないな」

 苦笑が漏れる。

 体育館だけじゃない。

 理科室の薬品棚。廊下のガラス窓。階段の踊り場。

 学校という空間は、ちょっと見方を変えれば、危険だらけだ。

 それでも、何もしないよりはましだと、自分に言い聞かせながら歩き回る。

 体育館を一周し、特別棟の廊下も一通り確認した。

 どこも、不気味に静かだった。

 寿命カウンターは、夜の街を歩く人間たちの頭上では淡々と減っているのに、学校内にはほとんど人がいない。

 数字が浮かんでいない空間は、余計に不安をあおってくる。

 最後に校門の方へ向かった。

 裏門から入ってきたから、正門の様子は見ていない。

 警備員の詰め所の明かりはもう消えていた。校門は鍵がかかっている。柵の外の道路には、車が一台通り過ぎるだけ。

「……何やってんだろ、俺」

 自分でも、そう思った。

 こんなことをしたところで、事故のトリガーが見つかる保証はない。

 ただ、何もしないで家にいることの方が、もっと耐えられなかった。

 校門の前で一度立ち止まり、深呼吸をする。

 フェンスをよじ登って外に出ようとした、そのとき――

 視界の隅に、妙な影が引っかかった。

 校門の外。街灯の明かりが届かない、少し離れた歩道の上。

 誰かが、こちらを見て立っていた。

「……え?」

 俺は、無意識に目を凝らした。

 人影は、背の高いシルエットだった。男か女かも分からない。制服でもスーツでもない、黒っぽい服。

 夜道にぼんやり浮かぶその姿は、どこか現実味が薄かった。

 反射的に、そいつの頭上を見る。

 寿命カウンター。

 どんな人間にも浮かんでいるはずの、あの数字。

 そこには――何もなかった。

 空白。

 ただの闇。

 数字が「ゼロ」でも「∞」でもなく、「表示されていない」。

 見慣れたフォーマットが、そこだけすっぽり抜け落ちている。

 背筋に、冷たいものが走った。

「あれは……人間じゃない」

 直感で、そう思った。

 クロとも違う。

 死神の見習いであるクロには、ちゃんとカウンターがある。あいつ自身の「寿命」というより「稼働時間」に近いものだけど、数字は見えていた。

 だけど、目の前の人影には、何もない。

 ゼロではなく、空欄。

 ログの外側にいる存在。

 そいつは、しばらくじっとこちらを見ていた。

 こちらの視線に気づいたのかどうかも分からない。ただ、風に揺れる街路樹の影と一緒に、ゆらゆらと揺れているだけ。

 やがて、街灯の明かりの外側へと、音もなく歩いて消えていった。

 まるで最初から、何もいなかったみたいに。

「……何だよ、今の」

 声に出してみても、当然答えは返ってこない。

 寿命カウンターが見えるようになってから、世界の「見え方」は大きく変わった。

 変わったからこそ、見えなくなったものもある。

 数字が付与されない存在。

 ログに載らない何か。

 今日が「最初の分岐点」だとしたら、今見たものは、さらにその先の分岐に関わってくるのかもしれない。

 そう考えた瞬間、さっき体育館で感じたのとは別の種類の寒気が、背中を這い上がった。

「……とりあえず、今日は帰ろう」

 自分にそう言い聞かせるように呟いて、俺はフェンスをよじ登った。

 闇の中に消えた人影の正体も、ひなたのカウンターの揺れの意味も、分からないことだらけだ。

 ただひとつだけ、はっきりしているのは。

 今日を境に、俺たちの文化祭準備は、もう「普通の行事」ではなくなった、ということだった。


第七話「燈央の違和感」

 翌朝の体育館は、いつもの朝礼とは違う重さに満ちていた。

 全校生徒が整列し、体育館いっぱいに並ぶ。前方のステージには校長先生と、生活指導の先生たち。床に座ると、昨日落下した照明器具の跡が薄く残っているのが見えた。

 否が応でも、あの瞬間を思い出す。

「……今回の事故は、幸いにも大きな怪我人を出すことなく……」

 校長の声が、マイク越しに響く。

 長い講話の内容は、だいたい予想どおりだ。

 安全確認がどうとか、注意力がどうとか、文化祭以前に命が大事だとか。

 言ってることは正しい。正しいけれど、どこか現実味が薄く感じてしまう。

 俺には、目の前の光景が別の角度から見えていたからだ。

 ――寿命カウンター。

 体育館に集まった何百人もの頭上に、無数の数字が浮かんでいる。

 00120:。

 00090:。

 00015:***。

 ざっと見渡しても、今日中にゼロになる奴はいない。

 視界の端から端まで、数字を追いながら、俺はひそかに息を吐いた。

「……ふう」

 少なくとも、きょうここで「誰かが急に倒れてそのまま」みたいな展開はなさそうだ。

 その程度のことで安心している自分が、少し情けない。

「おい、前見ろ前」

 隣に座るバスケ部の友人――月島燈央が、小声で肘でつついてきた。

「校長、まだ序盤だからな」

「いや、もう中盤くらいだろ、たぶん」

「体感時間伸びてんだよ。諦めろ」

 いつも通りの口調で、燈央は肩をすくめる。

 頭上のカウンターは、00070:***。

 特別短くもなく、かといってやたら長くもない。いかにも「普通の高校二年生」って感じの数字だ。

 ――昨日、夜の校門で見た、人間じゃない何か。

 頭上が完全な空白だった存在を思い出して、背中が少しひやりとする。

 この体育館には、そういう「表示されないやつ」はいない。

 それだけでも、今は良しとするしかない。

「今回の件を受けて、文化祭準備の日程にも一部変更が出ます。詳細は各クラスで……」

 校長の話がようやく終わり、教頭が事務連絡を始める。

 俺はその声を半分だけ聞きながら、前列の方に座るひなたを見た。

 ひなたの頭上には、相変わらず冷たい数字が浮かんでいる。

 0000:04:10:40。

 残り四日。

 昨日、照明から守ったことで一度増えた数字は、そのあと不規則に揺れた末、結局「四日」というラインに落ち着いている。

 ゼロになりそうな気配は、今のところない。

 ……それでも、胸騒ぎは消えなかった。

     ◇

 全校集会が終わり、体育館から教室に戻る途中。

「なあ、朝比奈」

 階段を上がりながら、燈央がふいに声をひそめた。

「何だよ」

「昨日、お前、夜に学校来てたろ?」

 心臓が、一瞬だけ跳ねた。

「は? 行ってねえよ」

 即座に否定の言葉が出る。

 思ったよりも自然に嘘が口から出たことに、自分で驚いた。

「だってさあ」

 燈央は、少しだけ眉を上げた。

「バスケ部の夜練終わったあと、校庭の端っこでストレッチしてたんだけどさ。校舎の方見たら、理科室の明かりついてたんだよな」

「……理科室?」

「うん。三階の一番端。しかも窓際に、あの、ぼんやりしたシルエットがさ」

 燈央は、両手で「人」の形を作ってみせる。

「正直、幽霊かと思ったわ」

「なら俺じゃないだろ」

「幽霊にしちゃ、肩幅が朝比奈だった」

「どういう基準だよ」

「まあ、そこは直感」

 燈央は、じっと俺を見た。

「で、本当のところは?」

「……」

 言葉に詰まる。

 昨夜、体育館や特別棟を見て回ったのは事実だ。正門近くを出るとき、誰かに見られていてもおかしくない。

 だとしても、「寿命カウンターが見えるから事故のトリガーを探してました」と素直に言えるはずもない。

「ちょっと、気になっただけだよ」

 絞り出すように答える。

「体育館であんな事故あっただろ。何か不備とか残ってないか、確認しに」

「確認って、教師かよ」

 燈央は苦笑した。

「でも、そういうとこ真面目なの、朝比奈らしいっちゃらしいな」

「褒めてんのか貶してんのか、どっちだよ」

「半々だな」

 階段の踊り場で、彼はふと真顔になった。

「……最近さ」

「ん?」

「お前、空木のこと見すぎじゃね?」

 図星すぎて、足が止まりそうになった。

「な、何だよ急に」

「だって授業中も、休み時間も、体育館でも」

 燈央は、指を折って数えていく。

「空木の方見てる時間、明らかに増えた。他のやつらと話してるときも、たまにそっち気にしてるし」

「お前、俺のこと見すぎじゃね?」

「親友だからな」

 さらっと言われて、返す言葉に困った。

「まあ、いいけどさ」

 燈央は肩をすくめた。

「空木のこと好きなんだろ?」

「ぶっ」

 今度こそ、変な声が出た。

「いきなり何言ってんだお前は」

「いや、違うの?」

「違うし」

「即答しないあたり、図星ってことでいいな」

「うるさい黙れバカ」

 必死に否定する俺を見て、燈央は苦笑した。

「……まあ、答えは昼にでも聞かせてもらおうか」

「は?」

「昼、屋上。弁当食いながら、ちゃんと話そうぜ」

 そう言い残して、燈央は先に階段を上がっていった。

 背中を見送りながら、俺はひとつため息を吐いた。

 胃の痛みは、ますますひどくなりそうだった。

     ◇

 昼休み。

 購買の混雑を避けて早めに弁当を食べたあと、俺は屋上へ続く階段を上っていた。

 扉を開けると、ひんやりした風と、青空と、フェンス越しにグラウンドを見下ろしている燈央の姿があった。

「ちゃんと来たな」

「来いって言ったのお前だろ」

「来ないかなーって少し賭けてた」

「どんな賭けだよ」

 軽口を交わしながら、フェンスのそばに並んで立つ。

 下ではサッカー部が練習を始めていた。ひなたの姿は見えない。昼休みは教室で女子たちと騒いでいるのがいつものパターンだ。

「で」

 沈黙を挟んでから、燈央が切り出した。

「さっきの続き」

「続き?」

「朝の階段のやつ」

 視線を向けると、燈央は真面目な顔をしていた。

「空木のこと、どう思ってんの?」

 逃げ道なし、という感じだった。

「どうって……」

「ただの幼なじみ?」

 昨日、ひなたに問われたのと似た言葉。

 それを親友の口から聞かされて、胸の奥がざわつく。

「……ただの、ではない」

 ひなたに答えたときと同じ言葉が、口をついて出た。

「でも、それ以上は、うまく言えない」

「ふーん」

 燈央は、どこか納得したように息を吐いた。

「まあ、そういうことか」

「何だよ、『そういうこと』って」

「いいじゃん。ちゃんと分かったから」

 燈央は、フェンスに背中を預けて空を見上げた。

「ちなみにさ」

「ん?」

「あいつ、この前、『卒業したら東京行きたい』って言ってたぞ」

「……は?」

 思考が一瞬止まった。

 東京?

「いつの話だ、それ」

「先週。バスケ部の練習終わりにさ。帰り道、一緒になって」

 燈央は、あくまで何でもない話みたいに言う。

「『東京の専門学校とか行ってみたいなー』って。『この街じゃできないこといっぱいありそう』だってさ」

 ひなたの声が、頭の中で再生される。

 屋上で「どこでもいいから遠くに行きたい」と言っていたときの表情と、重なっていく。

「お前、そんな話されたことない?」

「……ない」

 素直に答えると、燈央は「だよな」と小さく笑った。

「あいつ、自分で『地元から出たい』って言うの、めちゃくちゃ罪悪感感じてるっぽいからな」

「罪悪感?」

「『母さんのこと置いてけない』とか、『弟の面倒見なきゃ』とか、いろいろ背負い込んでんだろ」

 燈央は、足元のコンクリートをつま先で軽く蹴った。

「地元出てく話なんて、地元に残りそうなやつには言いにくいんだよ」

 地元に、残りそうなやつ。

 それが、俺だ。

「お前、進路どうすんの?」

 逆に、燈央が聞いてきた。

「前に『とりあえず大学』ってボヤいてたけどさ」

「……たぶん、そのまま」

 自分でも中身のない言葉だと思いながら答える。

「この街から出たいって願望、あんまりないし」

「だろうな」

 燈央は、どこか寂しそうに笑った。

「だから余計に、空木は言いづらいんだろ」

「俺に?」

「『あんたを置いて東京行く』ってさ」

 胸の奥が、ずきりと痛んだ。

 ひなたが俺に進路の話をするとき、いつも冗談っぽくごまかす理由。

 「普通に就職かなー」とか、「嫁に行くかなー」とか。

 本当は、違う答えを持っているのに。

「……それ、お前には素直に話したんだな」

 思わず、本音が漏れた。

 燈央は少し目を丸くしてから、苦笑した。

「嫉妬してる?」

「してねえよ」

「してるじゃん」

「してねえって」

「まあ、悪いけど、そういう話しやすいポジションなんだわ、俺」

 燈央は、頭をかきながら言った。

「部活とかさ。進路の話、自然と出るんだよ。『東京の大学行きたい』とか、『プロ目指す』とか。空木も、その流れでぽろっと出しただけ」

「……そうかよ」

 言い訳みたいに聞こえる。

 でも、たぶん本当にそうなんだろう。

 バスケ部で活躍して、進路もちゃんと考えていて、話も聞いてくれる。燈央は、そういうやつだ。

 ひなたが相談したくなるのも、分かる。

「で、だ」

 燈央は、俺の方を向いた。

「それ聞いて、どうするの?」

「どうするって」

「空木がさ。東京行く未来を本気で目指し始めたら」

 寿命カウンターの数字が、その前にゼロになることを、こいつは知らない。

 知らないからこそ、普通の未来の話ができる。

「地元に残る朝比奈は、『いってらっしゃい』って笑って送り出すのか」

 笑ってなんて、言えるのか。

 そんな未来が来る前に、ひなたは――

 頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。

「……さあな」

 絞り出すように答える。

「そのときになってみないと、分かんねえよ」

「そうか」

 燈央は、それ以上追及しなかった。

 代わりに、小さく息を吐く。

「まあ、俺としてはさ」

「ん?」

「空木のこと、好きなら好きって、早めに言っとけよって思うけどな」

「簡単に言うなよ」

「簡単じゃないのは分かってるって」

 燈央は空を見上げた。

「でもさ。言わないまま離れるのって、あとで自分が死ぬほど後悔するから」

 その言葉には、妙な重さがあった。

 何かを知っているような、知っていないような。

 寿命カウンターには現れない「後悔」の気配が、ほんの少しだけ、燈央の横顔に滲んでいた。

     ◇

 放課後。

 文化祭のクラス企画準備が再開された。

 体育館はまだ使用禁止のため、教室でできることから進めることになった。メニュー表やポスター作り、シフト表の作成など、細かい作業が山ほどある。

「燈央、これちょっと持って」

「はいはい」

 ひなたの机の周りには、色とりどりの画用紙とペンが散らばっていた。

 彼女はメイン看板のデザインだけでなく、メニュー表のレイアウトも任されているらしい。

「ここにおすすめメニューを書いてさ、丸で囲んで、キラキラつけて」

「キラキラって何だよ」

「雰囲気」

「雑だな説明」

 燈央は、ひなたの横に立って、画用紙を押さえたり、筆箱からペンを渡したりしている。

 ふたりの距離が、妙に近い。

「燈央、字きれいだからタイトル書いてよ」

「お前の字も丸っこくていいじゃん」

「あたしのはかわいすぎて読みにくいの。燈央のは『ちゃんと読める手書き感』でちょうどいいの」

「褒められてるのかこれ」

 教室のあちこちで準備しているクラスメイトたちも、その光景をさりげなく見ていた。

「空木と月島、いいコンビだな」

「実行力あるし、助かるわ」

 そんな声が聞こえてくる。

 俺は窓際で、段ボールを切りながら、その様子を横目に見ていた。

 ひなたが笑う。燈央が応じる。

 自然と向き合って話すふたりの姿が、どうしようもなく目に刺さった。

「……」

 胸の奥がざわざわする。

 さっき屋上で聞かされた、進路の話のせいもあるのかもしれない。

 ひなたは東京に行きたい。

 その相談相手に、俺じゃなくて燈央を選んだ。

 その事実が、地味に効いていた。

「おい朝比奈、手止まってる」

「え?」

 横から喜多川に肘でつつかれた。

「段ボール切る係、お前だろ。ボーッと見てねえで手動かせ」

「ああ、悪い」

 言われて慌てて手元に視線を戻す。

 カッターの刃が段ボールの上を滑る。

 その間も、視界の端では、ひなたと燈央が笑い合っている。

 どうしようもなく、意識がそっちに持っていかれる。

「……っ」

 自分でも分かるくらい、表情が固くなっていくのが嫌だった。

 嫉妬。

 そんな感情とは無縁でいたかったのに、今、はっきりとその名前で呼べるモノが胸の中に居座っている。

 どうしようもない自分のちっぽけさが、腹立たしい。

 ――その瞬間。

 ふと視線を上げた俺の目に、ふたりの頭上のカウンターが飛び込んできた。

 ひなた。

 0000:04:09:30。

 燈央。

 00070:***。

 そのふたつの数字が、同時に揺れた。

「……え?」

 まるで、見えない何かで結ばれているみたいに。

 ひなたが笑う。燈央も笑う。

 そのタイミングに合わせるように、数字がわずかに揺れる。

 ひなたのカウンターは、一瞬だけ0000:04:09:35に増え、すぐに0000:04:09:20に戻る。

 燈央のカウンターも、00070:***から00069:***へと、ほんの少しだけ変化した。

 感情の揺れ。

 人間関係の変化。

 それらが、寿命の流れに影響を与えている。

 最近、薄々感じていたことが、ここで一気に確信に近づいた。

「……俺が嫉妬した瞬間にも、数字は揺れてたのか?」

 思わず、そんなことを考えてしまう。

 ひなたの人生。燈央の人生。俺の人生。

 三つのラインが、見えないところで絡み合って、数字を変えている。

 文化祭準備の喧騒の中で、その事実だけが妙に静かに感じられた。

     ◇

 夕方。

 準備が一段落し、クラスメイトたちはぞろぞろと帰路についた。

「じゃ、俺、部活行くわ」

 燈央が鞄を肩にかけて言う。

「今日も練習?」

「うん。事故のせいで体育館使えないから、外で走り込みだけどな」

「大変だな」

「文化祭本番、バスケ部試合だからさ。コンディション保っとかないと」

「お前は相変わらずストイックだな」

「そこ褒めて」

「はいはい」

 ひなたが笑いながら手を振る。

「じゃあ燈央、後でメニューの相談乗ってよ。おすすめスイーツ何がいいか分かんなくてさ」

「いいけど、甘いの詳しくないぞ俺」

「いいの。『男子目線の意見』が欲しいの」

「圧がすごいな」

 ふたりのテンポのいい掛け合いを、俺はまた窓際から見ていた。

「朝比奈もさ」

 教室を出る前、燈央がふいにこちらを振り向いた。

「帰り、一緒に駅まで行こうぜ」

「ん?」

「部活前にちょっと走りたい。ランニング付き合えよ」

「……まあ、いいけど」

「よし決まり。じゃ、少ししたら昇降口な」

 そう言って、燈央は教室を出ていった。

 ひなたは机に残って、最後の片づけをしている。

「蒼真、さっきはありがとね」

「何が」

「顔、怖かったからさ」

「は?」

「段ボール切りながら、なんか鬼みたいな顔してた」

「お前の観察眼どうなってんだよ」

「嫉妬してた?」

「してねえよ」

「本音ゲームしよっか?」

「今それやめろ」

 そんなふざけた会話をしながらも、ひなたの頭上のカウンターは静かに減り続けていた。

 0000:04:08:50。

 四日という数字が、やけに重くのしかかってくる。

     ◇

 帰り道。

 俺と燈央は、学校から駅までの坂道を並んで歩いていた。

「さっき走るって言ってたわりに、普通に歩いてんじゃん」

「文化祭準備で結構疲れたからな。今日は軽めでいい」

「ストイックどこいった」

「ストイックにも休息は必要なの」

 部活帰りのジャージ姿のまま、燈央はストレッチをしながら歩いている。

 街灯がひとつ、またひとつと点き始める時間帯。

 住宅街を抜ける風が、昼間より少し冷たかった。

「なあ、燈央」

「ん?」

 口にするかどうか、少し迷った。

 でも、このタイミングを逃したら、たぶんもう聞けない気がした。

「もしさ」

 言葉を選びながら、前を向いたまま続ける。

「ひなたが急にいなくなったら、どうする?」

「……は?」

 燈央の足が、半歩遅れた。

「いなくなるって、お前」

「別に、死ぬとかじゃなくてもいい。急に転校するとか、家の事情で引っ越すとか、そういうのでも」

 俺自身、言ってて苦しくなってくる。

「いきなり、空木がこの街からいなくなったら、お前はどうするんだよ」

「なんだよ、その重い質問」

 燈央は苦笑しながらも、真面目に考え始めた。

 しばらくの沈黙。

 その間に、ひなたの頭上のカウンターがチラつく。

 0000:04:08:30。

 「いなくなる」という言葉が、妙に生々しく感じられて嫌だった。

「……そうだな」

 やがて、燈央が口を開いた。

「そん時は」

 その横顔は、普段より少し真剣だった。

「後悔しないように、ちゃんと伝えたいこと伝えてから見送る」

 胸の奥を、鋭い針で刺されたみたいだった。

「伝えたいこと?」

「言えてなかったこと」

 燈央は、前を向いたまま言った。

「感謝とかさ。助けてもらったこととか。ムカついたこととか。好きだったかもしれないとか」

 「好きだったかもしれない」という言葉が、さらっと出てきた。

 俺は、思わず横顔をじっと見てしまう。

 燈央は、こちらを見なかった。

「言わないままいなくなられるのって、マジでキツいからさ」

 どこか、遠いところを見ているような目だった。

「だから、そうなりそうだなって思ったら、その前に言う」

 当たり前のように言うけれど、それは簡単なことじゃない。

 俺は――何ひとつ、伝えられていない。

 ひなたに対して抱えている感情も。文化祭への不安も。寿命カウンターの真実も。

 全部、飲み込んだままだ。

「朝比奈は?」

 逆に聞き返される。

「お前はどうするよ」

「俺は……」

 答えが喉の奥で絡まった。

 「全部伝える」って言えるほど、強くも素直でもない。

 でも、「何も言わない」ままでいたら、きっと――

 想像しただけで、息が詰まりそうになった。

「……分かんねえ」

 絞り出した答えは、それだけだった。

「情けねえな」

「自分で言うなよ」

 燈央は、苦笑しながらも責めるような口調にはしなかった。

「まあ、お前はそういうやつだしな」

 そう言って、ぽんと俺の肩を軽く叩いた。

 その何気ない一撃が、妙に重く感じられた。

     ◇

 家に帰ったあと。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、鏡に映る自分の顔がやけに疲れて見えた。

 制服の襟元。濡れた髪。少し落ちた肩。

 何より、右目の奥がじんじんと重い。

 鏡の前に立ち、俺はゆっくりと右手を伸ばした。

 右目を、手のひらで覆う。

 視界から、一瞬だけ「数字」が消える。

 天井の隅。机の上。壁にかけられたカレンダー。

 いつもなら、人間の頭上に浮かんでいる寿命カウンターが、ここにはない。

 当たり前だ。

 この部屋にいるのは、俺ひとり。

 でも、右目を隠しただけで、世界の色が少し変わった気がした。

「この目が見えるものに、縛られてんのか」

 小さく呟く。

 寿命カウンターが見えるようになってから、俺はずっと数字を追い続けていた。

 ひなたの残り時間。クラスメイトの揺れ。分岐点。事故のトリガー。

 見えるから、見てしまう。

 見てしまうから、目を離せない。

 そのせいで、本当に大事なことをごまかしているんじゃないか。

 ひなたの顔を見るときも、寿命カウンターが視界に入る。

 「あと四日」という数字が、全部の感情に上書きされていく。

 怖い。焦る。守らなきゃ、って思う。

 でも、その裏で。

 ただ「好きだ」とか、「離れたくない」とか、そういうシンプルな感情を口にすることから、逃げている。

「数字が見えるからって、何様だよ」

 鏡の中の自分に、吐き捨てる。

 見えることで、救える命があるのかもしれない。

 でも同時に、見えることで、何も言えなくなっている自分もいる。

 クロに言われた。

 「誰を生かすか選ぶ」という役割。

 燈央に言われた。

 「伝えたいことは、ちゃんと伝えろ」と。

 ひなたに問われた。

 「ただの幼なじみなのか」と。

 右手を、ゆっくりと下ろす。

 鏡の中に、右目が現れる。

 その奥では、また数字が動き始めていた。

 自分の頭上にも、例外なく。

 00054:***。

 ひなた。燈央。クロ。クラスメイト。

 誰かの寿命を見つめてる間にも、俺自身のカウンターは減り続けている。

「……ごまかしてる場合じゃ、ないよな」

 誰にともなく呟く。

 でも、だからといって明日から急に何かが変えられるほど、俺は器用でも強くもない。

 鏡に映る自分と、しばらく睨み合ったあと。

 俺はベッドに倒れ込み、天井を見つめながら、迫る四日間の重さだけを、どうしようもなく感じていた。



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