為朝様、今はふたりきりでございます
遠くに見える、寄せては返す波が、目に穏やかで心地良い。
微かに聞こえる規則的な波音が、耳元を優しくくすぐり続ける。
眼前には向島という、少し大き目の島が見える。その周囲にも幾つか、小島が連なる。
ひろびろと海が広がる光景ではない。だが海と、そこに浮かぶ島々が自然の妙を成し、曰く言い難い景観を生んでいる。
(これは当家にとってただ一つの、代々自慢の景色)
それが昨今、危うくなっている。
為朝様は縁側にどしりと腰掛け、暗くなりつつある海をぼんやりと眺めている。
(何をお考えかしら)
傍らに投げ出された空の盃。おまさは慌てて瓶子を手に取り、酒を満たした。
それに気付いた為朝様は、
「ありがとう」
とおまさに声をかけつつ、
「おまささん、何も食べていないだろう? オレも酒のツマミが欲しい。何か、ちょっとつまめる物を持って来てくれ。一緒に食べよう」
と言った。
(何とお優しい……)
おまさは為朝様に頭を下げつつ、しばしお待ちを、と中座した。
座敷を出て下女にそう伝えると、髪を手櫛で整え襟元を正し、座敷に戻る。
その間、夜の帷もじわじわと下りつつある。
為朝様は相変わらず、海を眺めて何やら思案している。おまさはその隣に膝を折って座り、盃に酒を注いだ。
「おまささん、当地の名物といえば何がある? どんな物が採れる?」
「はあ。……まずは、お魚でございましょうね」
「なるほど海産物か。……そっちはちょっと、アイデアを思いつかん。海の物ではなく、山の物はどうだ?」
そんな会話を交わしている最中、一口大に切った柿と山葡萄を盛った皿を、下女が抱えて入って来た。
「これは……あっ、ヤマブドウか!」
「そうでございます。すぐにお出しできる物を、持って来るよう命じましたので」
「この辺りでは、ヤマブドウが大量に採れるのか?」
「ええ。山に入れば沢山生えている、と聞いております」
為朝様は、何やらしきりに頷いている。
「よし。ひとつ、見つけたぞ」
「ん?」
おまさは小首を傾げた。
「いや、当家を守り抜く方法のひとつ、だ」
ここで為朝様は、意外な事を口にされた。
「平清盛は、この先三〇年程どんどん権勢を強め、程なく世を支配する。これは既に、歴史的に定まっている」
「えっ!?」
どういう事でございましょう、とおまさは尋ねた。
「詳しくは説明出来ん。だが、そう定まっている。であれば、当家がそれに飲み込まれるのは時間の問題だ」
愕然とする。
「で、では……」
「まあ、それに抗う手は、ある。基本は、富国強兵と殖産興業」
「それは、何でございましょう?」
「簡単に言えば、いくさに負けぬよう、兵馬を鍛える。だがそれにはゼニも要る。さて、どうする? 年貢を増やすか?」
「いえ、それはなるべく避けとうございます。それが当家代々の習わしでございますゆえ」
そもそも多少、年貢を増やしたところで焼け石に水である。この苦境を乗り切るには、多少の増税ぐらいではどうにもならないだろう。それは、おまさでも解る話である。
「だから、殖産興業だ」
「無学なおなごゆえ、言葉の意味が解りませぬ」
「つまり、様々な品々を新たに生み出し、商いで大いに稼ぐ。沢山作ってどんどん売る……さすれば年貢を上げずに済む」
「なるほど。理屈は解ります」
おまさは小さく頷く。
「ですが、父も郎党達も、商いは分かりませぬ」
「ああ。それはオレに任せろ」
当地は鍛冶も鋳物も盛んだ。どちらも鉄製品を作る仕事だが、似て非なるもの。昼間に話を聞き良う解った。おまけに隣国安芸から、大陸より輸入した銑鉄が手に入る……という。
「原料も職人も揃っているのだ。それを活かした新製品を開発する。それらを大量に製造する工夫も、腹案がある」
為朝様は、力強くそう語り、盃を煽った。
そして皿に手を伸ばし、ヤマブドウを一つ、つまむ。
「それから、これだ」
おまさは小首を傾げる。
「これで、酒を造る」
「まあ」
「多分、美味いぞ。大量に作り、京へ運べば大いに売れる」
おまささんも食べろ、と為朝様に促されるまま、おまさもヤマブドウを一つつまみ、口に入れた。
「甘酸っぱい」
「そうだ。甘酸っぱい、それでいて微かにヤマブドウの香りのする、良い酒が出来る筈だ。今、オレが飲んでいる酒より美味い酒が、出来る」
京の貴族達が、高値で求める高級酒が出来るだろう、と為朝様は自信に満ちた声で言う。
「まあヤマブドウ酒は、案の一つに過ぎない。ここ暫くで、他にも色々と考える」
「何と、頼りになるお殿方……。聞きしに勝る、凄い殿方でございますわ、為朝様は」
気が付けば、おまさは為朝様の手をそっと握っていた。
為朝様はそれに気付き、微かに狼狽えたように見えた。が、顔は平静を装っている。
(為朝様って、押しも押されぬ立派な豪傑のようにお見受けするけれど、実は意外とウブなのかしら)
おまさは今になって、為朝様がまだ元服したばかりの御歳であることを思い出す。
そう。
おまさも実は生娘である。だが自分の方が歳上であること、乳母からここ半月程、若い男を落とす秘法を授かっている。それが、おまさの心を強くした。
(今こそ、勝負どころ)
確かに、この当世一流との呼び声の高い若武者にすがり、家を守る、という打算もある。
だがそれを抜きにしても、おまさは既に、為朝様に心奪われていた。それに負けず劣らず、為朝様の色気に当てられ、身体の奥に潜むおんなの本能が、
――この殿方を逃してはならぬ。
と叫んでいる。成熟したおんなの、本能の高まりを痛い程感じている。
おまさは、つつ、と為朝様に寄り添うようにじり寄り、さらには為朝様にしなだれかかった。
「為朝様、今はふたりきりでございます」
「……」
辺りは既に、暗い。しかしおまさは、為朝様の顔が赤くなったのを確かに感じた。
思わず心の中で、ふふふと微笑んでしまう。
「おなごとふたりきりの時、殿方はどう振る舞うべきか、もうご承知でしょうか、為朝様♡」
「知らん。……いや知ってるけど、知らん」
ウブな男のせめてもの強がりを察し、おまさは嬉しくなった。為朝様へのいとおしさが、込み上げてきた。
辺りには微かな波の音だけが、絶え間なく響いている。




