第一章 9 ―― 病院 ――
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リスのように丸い瞳は儚く光り、捉えどころのない宙を彷徨わせていた。
「あなたの名前は、その、思い出せた?」
緊張を振り払ったつもりでいたのに、つい声が詰まってしまう。
ベッドの上で、ビー玉みたいな澄んだ丸い瞳は動かず、ただ瞬きを繰り返すだけ。
(やっぱり、無理なの?)
パソコンの記入を諦め、キーボードの上で指を浮かせる。カチッと鳴る音が静寂した病室に大きく残り、藤崎恵理は胸に詰まるしこりから空しさに苛まれた。
パソコンを眺めると、押し留めていた感情が一気に噴き出しそうになり、胸苦しさに襲われる。つい唇を強く噛んだ。
パソコン内のカルテには、今日の日付しかまだ書かれておらず、患者についての内容は名前のみで、ほかは何一つ記入されていなかった。
ベッドの上へと恵理は視線を移す。
彼女は病院から支給された青いパジャマ姿でベッドの上で座り、膝の上で手を組んでいた。額には何重にも包帯が巻かれ、痛々しい容姿は搬送されたときの緊張感を物語っている。
耳元には包帯の下から黒髪を覗かせ、小顔のなかで一際目立つ丸く大きな瞳は、小動物を彷彿とさせる可愛さと儚さを持っていた。
(まぁ、鼻は私の方が高いけどね)
同性から見ても、可愛いと素直に思える彼女に恵理は軽い嫉妬心を抱き、彼女に勝っている部分を無意識に探して、右手の人差し指で鼻頭を摩ってしまった。
(何、十代の子に嫉妬してんのよ……)
我を取り戻した恵理は器の小ささに内心毒づく。
「やっぱり名前、思い出せ、そうに、ない?」
目の前の少女が病院へと搬送されたのは四日前。すぐさま、恵理の勤める病棟へと運ばれた。
病院に搬送された当初、彼女の身元を示す物品はいくつかあった。当時の服装はどこかの高校の制服。交通機関の定期券。彼女の私物であるパールホワイトのスマホ。
名前を知ることは、彼女の学生証があったことが一番であった。
だが、彼女を名前で呼ばず、本人から名前を聞き出す必要があった。
彼女の症状からして一度命を落とし、生き返った上で病棟に運ばれていた。
(まったく。毎日のことだけど、こっちまで気が滅入ってしまうわね)
恵理の勤める病棟は特別で、彼女のように蘇った者が集められている。
事故、事件、様々ないきさつで搬送された患者のなかには、目が覚めた際、記憶の混乱を生じ、自分の名前を忘れる者、もしくは状況が掴めずに乱心する者も時折、現れた。
だからこそ、患者の気持ちを落ち着かせる手段の一つとして、本人の名前を確認するのが規則となっていた。
だが、目の前の少女はまだ己の名前を発する気配はなかった。
「焦らなく、ていいよ。ゆっくり思い出そうね」
(もう四日目よ。いい加減、慣れなさっての、私っ)
どうも、患者の前で緊張してしまう性格は治りそうになく、動揺が出てしまいそうな自分を、叱咤して心を落ち着かせる。
彼女を追い込ませまいと気遣うけれど、辺り障りのないことしか言えない。しかも、言葉は詰まらせ、自分の無力さに嘆かずにはいられない。
「あの、前に言っていたスマホ、見せてもらえますか?」
間をどう埋めるか思案していると、不意に彼女は無表情のまま恵理を見上げた。急に目が合う。突発的な出来事に恵理は驚き、指がスッと上がる。
「……あの、スマホってやっぱり使っちゃダメですか?」
か細く、脆い声で少女は頼む。
名前を口にしない彼女ではあったけれど、以前からスマホだけは懇願していた。
「……やっぱりダメですよね」
実は彼女のスマホは病院側が預かっており、今は彼女の手元になかった。
年齢からして高校生。
スマホが必需品である年齢であるのは恵理も痛いほど理解している。困惑する事態で少しでも気晴らしになるのなら、と思うのだけど、立場上快く渡せなかった。
スマホに保存されている内容が、患者に混乱を誘うことを危惧しての処置である。
ここが病院であるのを理解している彼女も、自分が無理なことを頼んでいるのだと、すぐさま引き下がる。しかし、とても残念げに唇を閉ざしてうつむいた。
誰か大切な人にでも伝えたいことがあるように見える。
(……ちょっとなら、いいよねぇ)
「あのね、これ……」
おもむろに恵理は白衣のポケットから小さな塊を取り出すと、少女の前に差し出した。
恵理の右の掌には、パールホワイトのスマホが乗せられていた。
掌のスマホを見た少女は、驚きと困惑の混ざり合った複雑な表情で恵理の顔を見上げ、瞬きを繰り返していた。
「……少し、だけ。でも、通話はダメ、よ。外に聞こえちゃうし」
恐る恐る少女はスマホを受け取り、疑いの目を注ぐと、恵理はまるで小さな子供のイタズラを窘めるように、口元で右手の人差し指を立たせて笑ってみせた。
この一瞬、恵理は奇妙な達成感に満ちていた。
もしかすれば、医師や看護婦長に対しての秘密を共有できたのが嬉しかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
スマホを手にした瞬間、それまで緊張して強張っていた頬を緩め、満面の笑顔を献上した。




