第二章 8 ―― ノートの絵 ――
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陽が傾いて、茜色が広がる空を見上げながら、蓮は鉛筆を動かす。
気分転換と言えば言い訳になっていた。無意識のうちに、弥生の病室へ向かうのを敬遠してしまっている。
迷っているのは明白であると、腕が止まったときに痛感してしまう。スケッチブックの代わりの小さなノートには、弥生の横顔を描いていた。
最初、蓮は中庭の花壇に咲くヒマワリを描いていたけれど、途中で弥生の顔が花に添えられ、気づいたのは描き終える間際になってからだった。
未だに虹の畔の会話での言葉が払拭できず、恋人に会う勇気すら失った自分に大きくうなだれ、溜め息を漏らす。
髪を掻き分け、額を手で覆いながら、鉛筆を持った手でノートを捲る。前ページには、虹の畔の絵が描かれていた。
「周りの目が怖い、か。そんなことないのに」
「――誰が怖いの?」
独り言を放った瞬間、うつむいた先から声が返ってきたことに驚愕し、パッと顔を上げる。すると、ベンチに座る蓮の前に一人の女が首を傾げて見下ろしていた。
腕を組み、体を仰け反らした姿は威圧的にも思えたが、顔はどこか優しげに見えた。前日、中庭であった女だ。
驚きもあったけれど、蓮は彼女の名前を知らなかったことに気づき、声を詰まらせる。
「あんた、どうして病棟に来なかったのよ。ずっと待ってたんだからっ」
次の瞬間、険しい表情で高圧的に口を尖らせて、責め立てた。対して蓮は責められる見当はなく、途方に暮れていた。
「あ、じゃない、じゃない。責めてどうすんのよ。そうじゃなくて」
目を点にする蓮を見て、女はかぶりを振って自分を引き留める。
「私はあんた――って、あんた、名前は?」
一人で納得した女は間髪入れず聞く。
見ず知らずの人物に教えるのも躊躇い、口を噤んでしまう。それでも、威圧的な女の眼差しに唇を舐めてしまう。
拒む権利すら与えてもらえない剣幕に、蓮は素直に答えるしかなかった。
「高橋です」
「下は?」
「――下? あ、名前?」
意表を突かれ逡巡するけれど、女はじっと見つめたまま。
「蓮ですけど」
「あ、ごめん。さっき、同じこと私も聞かれてつい。やっぱ変だよね、いきなり下の名前までって」
女はまた一人で納得したか、鼻頭を指で擦ってブツブツと喋っていた。
「私は大杉沙紀って言うの。それでね、実はあんたに相談があって捜してたの」
足早に言うと、沙紀は蓮の隣に座り、気持ちを整えているのか黙ってしまう。その間に蓮はノートを閉じ膝の上に置いた。
どうも一方的に話を進められていて、反論する隙を与えてくれはしなかった。
それでも、沙紀は一度空を仰いだあと、正面を見据えて口を開く。
「私、彼氏を捜してるって昨日、言ったでしょ。けど、正直言って捜し方が分かんないの。もう何件もの病院を回ったし。いわゆる行き詰まり。それで、知り合いと会えたあんたなら、会いたい人に会う方法を知ってるかなって」
沙紀はそこで蓮の顔を見た。彼女の目は輝きを失い、曇って見えた。口調と違ってよほど思い詰めているように見える。
申しわけないと思いつつ、蓮はかぶりを振る。
「僕の場合、前にも言いましたけど、自分がそうだったから予想ができただけで」
「分かってる。けど、ほかに何か――」
沙紀の期待を断ち切るように、また首を振る。
「僕も賭けだったんで」
力なく呟く。
「そう、だよね。やっぱり、ダメか……」
期待を裏切る蓮の返事に、沙紀は肩を落として声を詰まらせる。平静を装おうと目を細めても、途中で辛くなったのか顔を隠すようにうつむいてしまう。
二人の会話は途切れ、重苦しい雰囲気に蓮もうつむく。重苦しい沈黙は、周りの雑音を際立たせ、風の音や周りの人の会話が耳に届いた。
行き場に迷う目が膝のノートを捉え、咄嗟に手で覆った。
「――それは?」
じっとしていると沙紀がノートに気づいた。
「ただの気分転換にちょっと絵を描いていたんです」
「絵? へえ。ちょっと見せて」
言葉と同時に沙紀の手が蓮の膝に伸び、咄嗟に奪われまいと手に力を込めるが、有無も言わない間になかば強引にノートを奪い取られた。
大事なものを覗き見されるみたいで恥ずかしかったけれど、拒む隙がなかった。




