第一章 3 ―― 勿忘草 ――
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澄んだ空を眺めても、教室で見られた虹はすでに姿を消してしまっており、何気ない光景も、どこか物足りなく思える街を見下ろしてかぶりを振る。
蓮の瞳孔は捉えどころを失い、寂しく曇っていた。
虹が消えたことに諦めて体を反転させた。座るべきか躊躇したが、床は雨で湿っていたのでそのままフェンスに背中を預けた。
ギシッとフェンスが軋む音を聞きながら、空を見上げようとすると、眼前に不満げに唇を尖らせた弥生が顔を覗かせ邪魔をする。
「じゃ、何しにここに来たのよ?」
「別に。ただ…… ただ、鈴の音がしたような気がしたから」
隣で同じようにフェンスに凭れた弥生に、蓮は一瞬、逡巡したあとに先ほどの違和感を素直に話した。
「――鈴?」
不思議そうに首を傾げながらも、弥生はおもむろにスカートのポケットから自身のスマホを取り出して二人の間で揺らして見せた。
パールホワイトが光に反射して輝いているスマホ。近くで見ても汚れがまったく目立たない、弥生のお気に入りのスマホ。
そこには一つの白いシュシュが巻かれていた。それにはキーホルダーみたいな赤い紐が巻かれており、そこに小さな鈴がつけられていた。
以前、弥生にせがまれて蓮が買った鈴。あらためて見ても、どこがよかったのか見当もつかない鈴であった。
「鈴の音ってこんなの?」
試しに二、三度スマホを揺らしてみせる。チリン、チリンと可憐な音色が二人の間に広がる。
「うん、そんなの」
廊下での感覚を思い出し、蓮は頷いてみせた。
「バッカみたい」
すると、弥生は気分を害したのか、スマホをぞんざいにポケットに戻してしまった。
「じゃぁ、鈴の音が聞こえないからって、さっきは邪魔したの?」
些細なことで自分の歌を中断させられ、しかも、一方的に責めるような一括に、弥生は声を荒げる。
憤慨する姿にさっきまで彼女が口ずさんでいた歌を思い出し、薄れかけていた感情が蘇ってくる。
思わず蓮は右手を額に当て気持ちを抑える。
「……わかってるの? あの歌は、聴かれちゃいけないんだ」
「戒律だから? 別にいいじゃない。ちょっと、口ずさんだだけなんだから」
「でもさ」
言葉では悪びれない弥生ではあったが、彼女の目は虚ろで、どこか捉えきれない遠くを眺めていた。
今にも泣き出してしまいそうな彼女に蓮は迷う。
「〝勿忘草〟。どうしてこんな歌を知ってしまったんだろう?」
「そんなの、一度死んでしまってるからでしょ?」
空に投げかけた疑問に、短い間を置いて弥生が答える。
ふと蓮はうつむき、自分の左手の掌を眺めて、自分の生命線を探した。
「人は命を落としても三回は蘇る――。で、蘇ればそれまで知りもしない歌を覚えている」
「不思議だよね、〝勿忘草〟って、曲名まで知ってる。歌を歌えば気持ちまで安らいでしまうんだから」
「だからって人前でその歌を歌うなって言ってるんだよ。もし、歌を知らない人に聴かれたらどうするんだよ? あれは知らない人に聴かれたらダメなんだよ」
「聴かれたらいけない戒律?」
弱々しい返事に蓮は黙って頷く。
「どうしてだろうね。誰かに言われたわけでもないのに、絶対に守らないといけないし、守ろうとしている。それに、どうして黙ってなきゃいけないんだろ。まるで、死んだ人をバカにしてるみたい」
弥生は弱々しくもハッキリとした口調で呟き、背伸びをするとスカートについた埃を両手でパッパッと払い落し、黙ったまま校舎の扉へと歩き出す。
離れていくのを蓮は目で追っていると、扉と蓮との中間辺りで弥生はおもむろに立ち止まった。
「ねぇ、もしさ、人前で歌を口ずさんで戒律を破ったら、どうなるんだろうね」
突拍子もない問いかけに、蓮の胸が急に痛んだ。咄嗟に眉間にシワが寄ってしまい、弥生を睨んでしまっていた。
放たれる無言の圧力を察したのか、弥生が振り返る。
「何、本気で受け止めてんのよ、冗談だって」
数秒前の真剣な面持ちとは裏腹に、弥生はおどけた顔で笑うと、リスのような丸い目は細く弧を描いていた。
茶化されてしまい、怒りたいのに、一瞬で蓮は呆然と気が抜けてしまう。
「ったく、動揺なんかして子供なんだから。大丈夫だって」
それを見てまたしても弥生は笑う。
「ごめん、心配かけて。ほんと、大丈夫だって…… ごめん」
瞬きも忘れる蓮にイタズラっぽく両手を胸の前で合わせて手刀を切って謝るけれど、冗談だとは流せず、どこか覇気を感じられなかった。
「じゃ、私、行くね」
と、そのまま校舎へと入ってしまった。
扉がバタンっと、音を立てると蓮も意識が戻る。冗談だと言われても、彼の動悸は治まりそうになく、視線が定まらずに大きく左右に泳いでしまっていた。
落ち着きを取り戻したころ、扉を見るがそこに弥生の姿はすでにない。
居なくなった弥生を追いかけはしなかった。




