第一章 2 ―― 歌声 ――
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導かれる。
鼓動は微かに鳴る鈴の音のみを捉え、屋上へ続く階段を急かせて、激しさを増していた。
重い足で一段ずつ駆け上り、屋上と校舎とを隔てる扉のノブに指先が届く。蓮は迷う素振りせず、ゆっくりと扉を押し開けた。
雨の残り香が生温い風に乗って頬をかすめ、一瞬、唇を強く噛み締めた。
一歩、屋上に出ると、梅雨の湿気を帯びた匂いと、初夏を誘う乾燥した暑さが威嚇しつつ辺りに漂っていた。
気持ち悪さを誘う肌触りに、冷房に慣れていた体は素直に悲鳴を上げそうで、額に汗が浮き出ていく。
自然の気だるさを正面から受けながらも、遠くに街の光景を覗かせる屋上を進む。校内と違い、コンクリートが閑散と張り巡らされただけの床。雨粒が溜まった水たまりを越えて中央へと歩くと立ち止まる。
軽く空を見上げる。
まだ日は高く、梅雨を忘れさせる青空を眺めていると、グランドで部活に励む生徒のかけ声が風に乗って舞っていた。
鈴の音はすで消えていた。
目線を右に動かしていく。無意識にさっき見つけた虹を探してしまう。
教室の窓際の方角に体が動いた。先ほど眺めていた虹の方向に。
しかし、フッと溜め息がこぼれる。残念ながら眺めた先の虹は姿をすでに風に消えていた。代わりに遠くの街並みが開けており、蓮は自然と見入ってしまっていた。
ふと聴こえてくる歌声。
街を見詰める視線の先、屋上の縁に設置された緑色のフェンスのそばに、一人の女子生徒が蓮に背中を向けて立ち、街を見下ろしていた。
離れていても分かる背の低さ。女子生徒は小柄で、制服の上からでも細さは伝わってくる。特に首筋までの丸く見える後ろ髪は陽によってほのかに茶色に染まっているのが印象的で、蓮は彼女の後ろ姿に惹きつけられていた。
歌声が聴こえてくる。
風や雑音。
部活のかけ声よりも遥かにか細い歌声は「ららら、ららら」と鼻歌交じりに歌い、蓮の動きを奪う。
最近、流行りの歌番組で流れ誰の曲ではないのを瞬時に悟る。が、どこか優しく、胸に沁み込む柔らかさが声に滲んでいた。
実際、歌と呼ぶには少し違い、ハミングに似たメロディーが索莫とした屋上に響いていた。
スッと沁み込むと心は魅了され、意識を奪いそうな歌声に蓮は目蓋を閉じ、奥歯を噛み締めて引き止める。
「――やめなってっ」
穏やかになる感情とは裏腹に、つい怒鳴ってしまう。
噴き出た一括により緩んでいた空間が張り詰める。それまで気持ちよさそうに弾んでいた歌声が静止する。
強固な怒声は蓮から放たれていた。彼の表情は険しく、吊り上がった眼光は怒声に驚いて背中を縮める彼女より小さく委縮させる。
今にもその場で崩れ座りそうな彼女の後ろ姿を容赦なく睨みつける。
重たい沈黙に二人の吐息が重なる。
無言の対峙は目の前に立ち尽くす彼女が破った。
微かに髪が揺れると同時に、両腕を左右に大きく広げて背伸びをすると、「ふう」っと、吐息が舞う。
「いいんじゃないの、別に」
イタズラっぽく彼女は振り返ると、何事もなかったみたいに、幼い子供が見せる無邪気な笑顔を蓮に向け、笑窪を見せた。
「それより、いつもより遅かったんじゃない?」
リスみたいに丸い目がじっと蓮を見据える。彼を責めてはいないようだけれど、目を逸らそうとはしない。
制服の白いシャツの上に、紺のタンクトップのセーターを着込んだ姿は、首元の赤いリボンがより目立って見えた。
生徒、特に女子の間ではリボンを外すか、男友達や恋人から赤いネクタイを借りてつけている者もいたけれど、彼女はリボンをつけていた。
立花 弥生 ――
無垢な笑みに滲む、芯が強く力のある眼差しに蓮は根負けし、これまでの険しい表情を和らげた。どこか呆れ顔に近い。
「別に約束をしていたわけでもないんだし、いいじゃん」
だらしなく歩きながら反論し、弥生の右隣まで来るとフェンス越しに街の光景を眺めた。
「……もう虹は出てないんだ」




