第二章 6 ―― 提案 ――
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沙紀は聞き間違いかと息を詰まらせる。
「覚えて、ない?」
「そ。友人がいたんか、いたんやったら誰なんか、親とか、家族も分からへん」
あたかも他人事であるように、明るく振舞って喋る男に、逆に沙紀が絶句してしまう。
「挙句の果てに、自分の名前さえ分からへん言うから、アホやんな」
「……嘘でしょ?」
「こんなん嘘ついてもしゃぁないやん。ま、一つだけ分かってることもあるけどな」
「でも、関西人ってことは分かるじゃない。喋り方からして」
沙紀は男を指差し、喋り方を指摘する。しかし、男は首を傾げて唸ってみる。
「怖くないの?」
「まぁ怖いかな、やっぱ。けど、しゃぁないやん」
ちょっと想像してみる。
自分が同じ立場になった場合を。すると、一瞬、聴覚が失われ、周りの雑音が消えるような孤独感に襲われた。
襲いかかる恐怖から逃れようと、胸を拳で強く叩いた。すると、胃の辺りで滞っていたしこりが取れ、静かに息を吐く。
沙紀は想像だけで苦しむのに、今も平然とする男の態度に感服する。いや、呆れた。
「自分、名前は?」
前振りもなく突然聞かれて面喰うと、沙紀は不思議そうに瞬きをする。
「だって、誰か捜してんのやろ。もし、俺が自分の捜してるモン見つけても、教えられへんし。どうせ、ここにもこれから来るんやろ。そんとき、俺、どう呼んだらええの?」
(何こいつ? 私とこれからも喋る気?)
やや強引な考えに途方に暮れる。ただ、悪い気はしない。
「呆れた。自分の名前は分からないのに、人の名前は聞くんだ?」
「――変?」
「――変っ」
迷わず即答する。
「大体、昨日もそうだけど、どうして誰もいないここで、じっとしてんのよ?」
ハハハと、目尻を擦りながら男は空を見上げる。
「そりゃ、日向ごっこ?」
嬉しそうに答える男に、相手にするのが疲れた沙紀は頬杖を突き、男とは反対のナースステーションの方を眺めた。不思議とこの場を離れる気はしなかった。
ナースステーション内からは看護師の姿が見え、きびきびと内作業をしていた。看護師の動きを追っていると、男が静かになっていた。
ふと横目で伺うと、相も変わらず揚々と外を眺めていた。
「あんた、名前を覚えてないんだったら、看護師になんて呼ばれてるの?」
思わず、ふとした疑問を投げると、男は目蓋を閉じ考え込む。
「「えっと」とか「ねぇ」とか「すいません」って、動詞でかな」
「そんなの寂しくない?」
「寂しいっていうか、まぁ、物足りひんわな。やっぱ」
飄々とした態度は鈍さに捕らわれ、澄んでいた目が濁っていく。
(やっぱ、寂しいよね)
男を眺めて沙紀は考える。
「じゃぁさ、いっそのこと、名前決めちゃえば?」
唐突な提案に、さすがの男も面喰って硬直する。
「だってそうでしょ。「あの」「その」じゃ、誰だって呼びづらいし。私だってこれから、あんたに物事聞くかもしれないし」
(これから圭太がこの病院に来る可能性だってあるんだし)
「まあ、本当の名前を思い出すまでの繋ぎだったとしてもね」
悲観的な考えを払拭し、微かな望みに賭けてみる。
「名前か。えぇな、それ」
予想外の提案だったのか、男も乗る気らしく声を弾ませる。
すると、男は何か思い当たることでもあったのか、考え込んでいるのか、首筋を掻いて唸ってしまう。
名案でも浮かんだのか、動きが止まると顔を上げ、沙紀を見つめた。
「なんか、ある?」




