第二章 1 ―― 違和感 ――
第二章
1
ちょっとした違和感を抱いたのは、弥生がスタッフステーションを通りすぎ、屋上へ向かうのかと思われたときである。
遠ざかる弥生の後ろ姿を、恵理は心配げに見送った。
(目がちょっと虚ろだったような……)
漠然とした違和感に首を傾げながらも仕事に戻る。
そののち、病室に伺った際の弥生の様子は普段と変わっておらず、杞優であったのだと胸を撫で下ろした。
「今日も彼氏は、来るの?」
熱、脈拍を測り、結果を打ち込みながら恵理は嬉しそうに聞く。
弥生の恋人がここ数日、毎日通っているのを恵理は知っていた。本人とは以前、廊下ですれ違って以来会っていないのだけど、彼の顔はよく覚えていた。
ちょっと茶化してみたつもりでいると、返事が一向になかったので、ベッドに視線を動かしてみると恵理は驚く。
弥生はこちらを見上げていた。ただ、恵理の問いに意図を掴めてないのか、困惑気味に焦点が定まっておらず、宙を彷徨わせていた。
「……彼氏、ですか?」
一瞬、自分をからかっているのかと、苦笑して誤魔化そうとすると、思いのほか真剣な口調に固唾を呑む。
「そう、あなたの絵を描いて、くれてるんでしょ?」
ベッドのそばの長椅子に置いてあるスケッチブックに、彼女の絵が描かれているのを知っていた。だからこそ聞いてしまう。
恵理の指摘に宙を眺め思案する。しばらく黙り、おもむろに右手首に巻かれた鈴を真剣に見詰める。
軽く手首を揺らす。空気を震わす鈴の音が静寂の病室に木霊した。恵理は鈴の音がどこか儚く、泣き声に聞こえて仕方がなかった。
鈴の音が止まる。
「そっか…… あいつか」
「……立花、さん?」
唇が動いたけれど、聞き取れず聞いてしまう。すると、それまで虚ろだったのが嘘みたいに、弥生は恵理を真剣な眼差しで見据えており、逆に恵理がドキッと息を詰まらせてしまう。
気づかれぬように息を整え、
「今日は彼、来るの?」
「多分。別にいいって言ってるんですけど」
もう一度聞いてみると、照れ臭そうにはにかみながら答える弥生に、恵理も内心ホッとする。
「じゃ、彼が来るまで屋上にも行けない、わね」
否定しつつも嬉しがる弥生を茶化しつつ、「それじゃね」と病室を出た。
不意に襲われる衝動は何度目になるだろうか、と廊下を歩くたびに足が重くなっていく気がしてならない。
本人から離れると絶え間なく襲ってくる不安。堪えていた恐怖が吹き出しそうに、胸を激しく殴る。
「やっぱり、記憶が途切れているような」
今日が初めてではない。
ふとした瞬間、自分の名前を忘れているような素振りを見せたときもあった。虚ろで、心が奪われ人形みたいに座っていると感じる時間に遭遇したときもある。
病棟に務めて以来、初めての症状を表す患者に、恵理は確実に怯えていた。
気持ちが晴れないままスタッフステーションに戻ると、看護師、医師を始め、勤務する者が一同に会していた。看護師らはみな、メモ帳を開き、注意事項を書き込もうと構えており、難しい表情を並べていた。
「ね、何かあったの?」
慌てて恵理もメモ帳を取り出すと、清水に尋ねる。
「うん。今日の午後、新しい患者さんが来るんだって」
(やけに、急なんだ。急患?)
ここの病棟に患者が訪れるのは誰かが命を落としてしまったこと。
何度経験しても慣れはしなかった。




