第一章 20 ―― 絵を描いて ――
20
「……なんで辞めるんだよ? 辞める必要ないじゃん」
必死に声を出そうとするけれど、息が詰まって言葉が喉を通らず、文句がすべてこぼせない。
「無理に励まさなくたっていいって」
気丈に振舞い笑ってみせる弥生だけど、無垢に見える笑顔に、痛々しさが滲み出ていた。
言葉が途切れると、弥生は深呼吸をして体を反転させ、ゆっくりと腰を床に下ろした。釣られて蓮も座り込む。
「ねぇ、私って右利きだったか、左利きだったか覚えてる?」
沈んだ空気が流れるなか、弥生は唐突に見当外れなことを聞き、蓮も目を丸くする。
「前にね、ちょっと書くことがあったの。そのとき、何気にシャーペンを持ったんだけど、一瞬、手が止まったの」
そこで弥生は左手を胸の前で開いた。
「自然と左手で持ったんだ。それで、字を書こうとして上手く書けなくて、どこか違和感があって。それで右手に持ち代えたらしっくりくるし、字も書けるし。一瞬、笑っちゃたんだけど、すぐに笑えなくなったんだ。「あ、忘れてるんだ」って。普通のことを忘れかけてる。って感じたとき、怖くなったの。このままじゃ学校のこと、みんなのことも全部、忘れちゃうのかなって」
「なんだよ、それ」
「嫌だった。忘れるなんて…… あんたのことも忘れるなんて……」
気づくと弥生は顔を膝に蹲らせていた。
「なんでこうなったんだろ」
悲痛な問いかけが空しく宙に彷徨う。弱々しい声であったのに、どこか鋭く痛い。
時折、声を詰まらせながらも必死に話す弥生。蓮は割り込む勇気は起こらず、じっと聞いていたけれど、話終えたあとも口を開こうとしなかった。
捉え所のない視線が宙を走る。
「ねぇ、一つ頼んでいい?」
膝に籠らせた声に蓮の意識が注がれる。
「絵、描くのって得意だったでしょ、だから描いてほしいの」
「――絵?」
蓮の奇妙な特技であった。元々、子供のころから絵を描くのが好きであった蓮は、落書き程度の走り書きから手の込んだデッサンまで様々に趣味で描いていた。
鉛筆によるデッサンに自信はあっても、水彩などは苦手という欠点も持ち合わせる奇妙な特技である。
「私の頭に浮かぶ場所を描いてほしいの」
いきなりの頼みに、蓮は頭を掻くと、弥生が不敵に笑う。
「病棟に、あんな恥ずかしい絵を置いていくんだから、いいわよね?」
どこか嫌味の籠められた声。きっと、蓮が病棟に残した彼女の絵を指しているのだろう。
蓮は弥生の皮肉を軽く受け流し、足元に置いていた手下げカバンを引き寄せると、不意に蓮の手が止まる。
今日は学校が休み。普段、使っているカバンでないのでペンケースは入れていない。無論、ルーズリーフといった紙もない。
鉛筆がないことに、思わず舌打ちをする。
絵を描くには蓮なりのこだわりがあった。それはどんな些細な落書きで、キャンバスが紙や机の端であっても、鉛筆を使うと決めていた。
「いいって、別に。急いでるわけじゃ――」
「ちょっと病室で待ってて。今すぐ鉛筆、買ってくるから」
弥生の声を裂き、威勢よく立ちあがる。
突拍子のない反応に面喰い、身を乗り出す弥生を蓮は両手の掌を見せて制止させる。
「いい? すぐ戻るから」
説明もおろそかに声を荒げ、手で制しながら、蓮は腰を上げる弥生をよそにそそくさと駆け、建物へと消えて行った。
消えた蓮の後ろ姿を引き留める余裕もないまま、弥生は再び腰を下ろし、建物の扉を眺めた。
生温い風が包帯に触れていない髪を揺らし、すっと手ですくう。
彼女の顔から、さっきまでの不安に押し潰されそうになっていた暗さはなく、唇を噛み締めながらはにかむ。
彼女の瞳に飛び込んできた蓮の顔は、初めて病室を訪れた際にはなかった笑顔に光っていた。
「そういうところは変わんないのにね……」




