第一章 18 ―― 疑問 ――
18
午後十時。
消灯時間をすぎると、病棟内は静寂が包み込み、スタッフステーションだけが薄暗い病棟のなかで輝きを保っており、作業する物音がより鮮明に耳に響いた。
夜勤の恵理は椅子に腰かけ、備品のチェックをしていても、意識は虚ろで、集中力が今にも途切れそうになっていた。
(あの二人、何かあったの?)
脳裏に数時間前の出来事が蘇ってくる。
突然現れた高校生。
男の子なのに華奢で細いのが印象的であり、どこを見ているのか分からぬ、虚ろな目が特に目蓋の奥に残っている。
慣れない場所に来たせいか、表情は暗く、感情の乏しく思えたけれど、どこか寂しそうにも見えた。
それでも、立花弥生の名前を発した瞬間、暗闇でローソクに火を灯した際に、パッと明るくなったように目に力が注がれていくのが印象的で驚いた。
彼が弥生の恋人ではと察し、彼女の病室に向かうのを躊躇しつつも見送ったのに、数分もしないうちに、遠くで弥生らしき叫び声が聞こえた。
気のせいか、としていると、すぐに彼が肩を落として病棟をあとにする後ろ姿を見つけてしまった。
ただ、より小さな背中に声をかけられずにいた。
寂しげな背中が気がかりになり、それ以降の仕事も時折手を止めてしまっていた。
「何、湿気た顔してるの?」
手を止めていると、正面から覇気のある声が恵理にぶつかり、驚いて顔を上げる。すると、清水がテーブルを挟んで立ち、茶化そうと不敵な笑みを浮かべていた。
「はい、ちょっと休憩」
清水は恵理の前に彼女が使っているマグカップを置く。
「あ、サンキュッ」
白ネコの絵が描かれたカップには、ミルクたっぷりのカフェオレが淹れてあった。自然と頬が綻んだ。
普段から甘いお菓子などには注意をしていても、カフェオレ、特に夏に飲むものは甘い物、と恵理にはこだわりを抱いている品の一つであった。
長い付き合いである清水もそれを理解しており、彼女に何も聞かなくてもこうして淹れてくれた。
冷房が利いていても、考えごとをしていると喉が渇いてしまう。カフェオレを一口飲むと、仕事を一時忘れられ、心が和んで目が緩んだ。
「で、何考えてたの。彼氏?」
向かいに座った清水がからかうように身を乗り出し聞いてくる。
「何、言ってんの。そんなんじゃないわよ」
笑って答えると、期待外れの返事に清水は体を後ろに引き戻し、椅子の背もたれに重く凭れた。
清水の残念がる姿に呆れつつ、恵理も背凭れに体を預ける。
カフェオレをまた一口飲み、ふと廊下を眺めた。
消灯時間をすぎると病棟全体は一段照明が落とされ、薄暗い空間が広がっている。一点燦々と明かりの灯るスタッフステーションは、夜空に登る満月みたいに輝いていた。
誰もいない休憩所を見る。
「……どうして、人って三回も生き返るのかな?」
「何、急に?」
静かに呟く恵理に清水が曖昧に問い返す。
「ここで働いてると、ふと考えちゃうのよね。色んな人を見てしまうから。生き返って喜ぶ人もいれば、複雑な顔をしてる人もいるし」
思い悩んだ様子話していると、清水は恵理をじっと食い入って見てくる。
「――何?」
「いや、やっぱ、あんた面白いなって思って。普段、患者の前だと変なところで言葉を切ったりして詰まってるのに。私と喋るときになると、全然、普通に喋るんだもん」
素朴な疑問だと話す清水に対して、恵理は指摘されて頬を赤める。
「悪かったわね。どうぜ人見知りですよ、私はっ」
実際、清水の前ではこうしてスラスラと話せる。自分を恥ながら反抗すると、清水は期待通りの反応だったのか喜んだ。
「ま、でも、あんまり深く考えない方がいいって。大体、考えてみなさいよ。ここに来る患者さんって、病棟内では病気で亡くなるってことはほとんどないのよ。内科みたいに癌とかでさ」
一変して真剣になると、そこで一度区切り、清水は周りを見てから首を伸ばしてくる。どうやら誰かに話を聞かれたくないようだ。
「実際、看護師だって言っても、誰かが死ぬのは嫌じゃん」
右手で口元を隠して声をひそめる。
そして、すべてを話すと何事もなかったように椅子に凭れ呑気に笑う。
(楽観的というか、なんというか……)
平然とコーヒーを飲む清水に、恵理はいい意味でも悪い意味でも感服するしかなかった。一方で、こうして割り切ってでも、仕事に向き合っている清水に微かな憧れもあった。
命の理に対して疑念を抱いてはいないけれど、迷ってしまう自分が何より嫌で仕方がなかった。
「ま、私が働いている間は、退院していく患者を見送りたいわけよ、ちゃんとね」
いつになく真剣な表情で清水は言う。
「何それ。まるで、すぐに辞めそうな言い方じゃん。いつそんなことになったのよ?」
「何言ってるの、結婚しても仕事は続けるわよ」
「別に私は〝結婚〟なんて言ってないじゃん」
満足げに宣言する清水に恵理が茶化してみると、「あんたねぇ」と体裁悪く渋い顔をこぼす。
まるで子供が駄々をこねるようにコーヒーを飲む清水に、恵理はしてやったと、消灯時間をすぎているのを忘れて、ふてくされる姿を喜んで笑った。




