第一章 16 ―― 608号室 ――
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つい描いてしまった弥生の絵を、置いて帰ったのは気まぐれでしかなかった。
あの病棟に立ち尽くしていると、じっとしていられなかった。
どこか罪悪感が残ってしまっていて、翌日、蓮は再び病棟に訪れていた。先日、病棟にルーズリーフを残しても、連絡は何もなかったのが尾を引いていて。
期待をしていたわけではないけれど、少し残念ではあった。
昨日、一度訪れた際には竦んでいた足も、今日は普通に歩けた。それなのに、休憩所のそばに来るとまたしても足が止まってしまう。
左右に分かれた通路。
昨日にすべて病室を見て回っても、弥生を見つけられていない。どうするべきかキョロキョロしていると、個室が並んだ通路から一人の看護師が出てこちらに向かって来た。
ふと足を止め、台車に乗せられているパソコンを眺める姿は、患者の様子を伺ったあとらしいが、蓮の姿に気づいてないらしく、パソコンを操作している。
作業は終わったのか、再び歩き出す看護師。
すれ違い際、蓮は道を譲る。看護師はそのまま通りすぎ、蓮も気にせず通路を見据えていると、看護師が不意に足を止める。
足音が止まったことに目を移すと、通りすぎたはずの看護師が蓮をマジマジと物珍しそうに食い入っていた。
背は蓮より少し低い女性で、蓮の姿に驚いて目を剥いていた。少し垂れ目で、全身は細く、高い鼻が印象的に映えて見えた。
胸の名札に「藤崎」と記されていた。
一向に目を逸らそうとしない看護師に、怪訝気味に眉をひそめる。
「……あなた、もしかして、立花、さんの……」
長い沈黙を破り、やっと出た声はたどたどしく、奇妙な間を作り微かに目は泳いでいた。蓮が黙って頷くと、恵理はさらに唖然と目を丸くする。
「あの、やっぱりあいつここにいるんですね?」
動揺する恵理に蓮は弥生の存在を尋ねた。だが、恵理は何も言わず、口元を手で押さえて答えてはくれない。
「いるんですか?」
懸命に動揺をごまかそうとする恵理。話すべきかどうかを逡巡しているのか、顔を合わそうとしない。
「やっぱりこっちに」
固唾を呑み込んで唇を噛むと、恵理が通ってきた通路を険しい目で睨んだ。
次の瞬間、蓮は通路へと踏み込んでしまう。
「あっ、ちょっ……――」
背中で引き留めようとする恵理の声が空しく響く。遠ざかる彼女の声を受け止めようとしない蓮に、恵理は伸ばした腕を力なく下げた。
昨日通った廊下。まだ記憶に残るプレートを一つずつ眺めて進む。だが、弥生の名前を見つけられず、結局突き当りまで蓮は進んだ。
またしてもハズレだったのかと、きびすを返したとき、蓮の鼓動が激しく騒いだ。無意識のうちに首を動かし一点を凝視する。
608号室。
昨日、ノックしても返事のなかった病室で、空室だと思っていた場所。依然、プレートに名前はない。
ただ、今日は違った。
微かにだが室内から何かの音が漏れていた。つい最近、耳にしたことのある音。
「また歌ってるのか?」
小さく呟く。彼にとって聞き間違うはずのない声。そして、歌。蓮は深く溜め息を吐いてしまう。だが、彼の目にはこれまでと違い輝きを取り戻していた。
強い自信と確信をどこか持てた。
焦る気持ちを宥めて、ゆっくりと三回ノックする。
「……はい?」
短い間を置いて返事がする。蓮は肩を大きく揺らした。自然と気持ちは軽くなってくれていた。
弥生の声に。




