第一章 13 ―― 怒鳴り声 ――
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漠然とした思いで、まずは左へと足早に進む。早く動いたのは、休憩所でくつろいでいた年配の男が怪訝そうに蓮を睨んでいたからだ。
きっとこの場には不釣り合いな制服姿の蓮が珍しかったのだろう。もとより、病棟に見舞いに訪れる者は少ないことを蓮も知っていたから。
意識を集中させ、左右の病室に目を配らせながらゆっくりと歩く。表記されている名前をすばやく確認していく。
どうやらこちらは大部屋らしく、複数の患者の名前が見られた。突き当りまで来て弥生の名前は見つけられなかった。
「反対側か」
仕方なくきびすを返し、反対の通路へ引き返す。
スタッフステーションで訊けば早いのだけど、蓮はその気になれず、そのまま素通りする。
通路へ入るとこちらは個室らしく、プレートには一人だけの名が記されていた。
一つ一つに目を配らせていると、ふと蓮は足を止めた。またしても胸が騒ぎだしたのだ。病院に訪れてから酷くなる動悸にうんざりしていると、不意に蓮は顔を宙に上げる。
「……歌?」
ほんの一瞬であったけれど、以前、学校の屋上で弥生が口ずさんでいた鼻歌のメロディーが耳に響いた。
一瞬の出来事に空耳かと蓮は再び進む。こちらの通路の病室は空室が目立っており、空欄のプレートが多かった。
608号室。
ほんの一瞬の気まぐれでしかなかった。
突き当りのこの病室も名前を記していないのに、蓮はノックしてしまったのだ。
誰もいないのは一目瞭然なのだけど、蓮は目を閉じ、病室からの反応を待った。
次の瞬間、
「……なのよっ ……にいるの? 教えてっ」
スタッフステーションの方から女の怒鳴り声が鳴り響いた。
それまで比較的、静寂が支配していた病棟が騒がしくなる。何者かの怒声に蓮も体をビクッと反らし、目を丸くして振り向く。
「……――ですから」
看護師の声も届く。こちらは平静を保っているのか、はっきりと聞こえなくても落ち着いていた。それでも病棟を騒がすには充分で、何事かと病室の扉を開けて、様子を伺おうとするパジャマ姿の患者がちらほらと顔を覗かせていた。
蓮の位置では患者の表情までは伺えないが、好奇の目をした者が多いのは容易に想像できた。
残念なのは蓮がノックした病室からは誰も顔を出さず、なかでも物音がしなかったことである。本当に空室だったらしい。
「帰ろう」
かぶりを振って重い足をスタッフステーションへと向け、野次馬となっている患者の間を抜けて歩いた。
スタッフステーションの前を通る間際、カウンター越しに奥へと身を乗り出している人物を捉えた。
未だに殺気立つ人物に、ふと好奇心から目線を向ける。後ろ姿で顔を見られなかったけれど、髪は軽くブラウン色に染められ、背中までの長さがまず目についた。
ジーンズにTシャツ姿の女はさほど背は高くなく、蓮よりも少し小さく見えた。
周りが騒ぎだしているのに気づいたのか、カウンターに身を乗り出していた女は不意に体を引き、周りを一瞥する。蓮とも顔が合いそうになると、咄嗟に顔を背けた。
女は気まずさに耐えきれずなったのか、物々しい空気を放ちながらも、エレベーターホールへと突き進んでいた。
蓮も帰るつもりでいたが、このままでは彼女と同じエレベーターに乗り込むことになるのを避けたくて、休憩所へ戻り、端の椅子に腰かけた。
カバンからルーズリーフと、ペンケースをおもむろに取り出し、ふと鉛筆を走らせた。




