第一章 11 ―― 連絡 ――
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反論も肯定もせず、ただ恵理は黙るしかなかった。
「来れるはずもないのに、ほんと、バカだよ」
「ねぇ、言った、の?」
「私、きっと言えない。なんか、言いたくない。だからこれを持っているのも辛い気がして…… だから持っていてください」
今にも泣き出しそうにスマホを差し出して懇願する彼女を、恵理は拒めなかった。
「いいのね」
念を押すと小さく頷いた少女からスマホを受け取った。
これ以上は恵理自身が病室に留まるのが辛くなり、反転し扉を開く。
「藤崎さん、ごめん」
素早く廊下に出ようとするけれど、彼女の声に立ち留まる。
「私、きっとこの場にいるのを認めたくなかったのかもしれない。それでずっと、名前を言いたくなかったんです」
(――えっ? 名前を言いたく、「なかった?」)
「……私の名前はタチバナ。タチバナ ヤヨイです」
戸惑いもないはっきりとした口調で放たれた名前は、恵理の背中に当たり、確実に耳にも届いた。
パソコンのカルテを眺めて、確認する。
立花 弥生――
生徒手帳で知り、恵理が記入した名前と、後ろから聞かされた名前が一致する。
胸の鼓動が激しく脈打ち高まっていく。カルテを眺めていると、自然と力が籠ってしまう。
唇を固く噛み締め、感慨深く何度も頷いた。
「……ごめんなさい。黙ってて」
「ううん。いいの」
ここで浮かれては、大人としての威厳が失墜すると、変な意地が芽生えてしまい、できるだけ平静を装い、冷静に頷いてみせた。
内心、歓喜している。
ゆっくり扉を閉める。視線を左へ移すと、患者の名前を記入するプレート枠があるけれど、今は白紙のままになっている。
(名前を入れなくちゃね)
心を弾ませながらスタッフステーションへ向かった。
これまで肩に圧しかかっていた重圧が一気に解き放たれ、恵理は胸元でガッツポーズを作る。
彼女の表情は病室をあとにしてからずっとニヤニヤは止まらず、しばらく嬉しさは治まりそうになかった。
病室が向かい合って並んだ廊下を歩き、T字に廊下は分かれる。立花弥生の病室から進んでくると、奥に進む通路と、左へ進む通路に分かれていた。奥は大部屋が並び、左の通路を進めば、エレベーターホールとなっていた。
奥の通路の角はスタッフステーションとなっており、なかからは昼夜を問わず照明の明かりが漏れていた。
左側は大きな空間が広がり、休憩所となっていた。ほかの病棟と違い、ここの休憩所は広く取られ、長方形の長机と椅子が設けられていた。
奥は大きな窓となっており、カーテンは開けられて、太陽の陽射しが燦々と室内のテーブルを照らしていた。
恵理はスタッフステーションの前まで来ると、なかには入らず、エレベーターホールへと繋がる廊下を眺めた。
(人には言えない、か)
弥生の発した言葉が脳裏に蘇る。
視線を休憩所に向ける。三人の患者が個々に椅子に座っていた。どの患者もたばこを吸っていたり、休憩所に設けられたテレビを見ていたりしたが、みなが個人であり、付き添いの家族や友人らしき人物の姿はなかった。
病棟において、ごく自然の光景であった。むしろ、休憩所に三人もいるのは珍しい。
ここの入院患者は特別であり、一度蘇った患者たちは、入院生活において、死亡時の傷の治療や、精神を抑え、気持ちを整理するために暮らしているのは、別病棟と大差なかったのだけれど、彼ら患者には他病棟の患者に見られない一つの傾向があった。
それは自ら知人に連絡をする者が少なかったのだ。なぜそうなのか、恵理ら看護師や医師にも理解できないでいた。病院側が患者の状況を考慮して家族などに連絡することはあっても、見舞いに訪れる者を見ると、珍しく思っていた。
ましてや、知人からの連絡は皆無に等しい。
だからこそ、立花弥生の恋人がここへ来ると聞いた瞬間、耳を疑った。
「あのとき、あの子が?」
手にしていたスマホを眺め、立花弥生が連絡したのかと一瞬、考えたけれど、すぐさまかぶりを振る。
弥生の様子は本人も驚いているように見えていたので、その考えは捨てた。
(……嘘? いや、嘘、嘘、嘘。そんな人、今まで一人もいないって)
ある憶測が脳裏をよぎるけれど、それを強く否定し、スマホをポケットに忍び込ませると、弥生が自分の名前を教えてくれた嬉しさを込み上げさせ、気分よくスタッフステーションへと戻った。




