第4話 逃げる人
アユは歌が好きだった。
たぶん誰よりも。
でも、そのことを誰にも言ったことはない。
言えなかった。
◇
小学生の頃。
初めて合唱コンクールで歌った。
その時のことを今でも覚えている。
体育館。
大勢の人。
スポットライト。
緊張。
それでも楽しかった。
歌っている時だけは。
自分が自分じゃないみたいだった。
だから好きになった。
歌が。
◇
でも。
好きだけじゃ駄目だった。
中学に入ってすぐ。
みんな気づいた。
「ユイ歌上手いよね」
「ソロやればいいのに」
「やっぱり可愛い子は違う」
またそれだった。
可愛い。
可愛い。
可愛い。
歌じゃない。
顔だった。
◇
アユは教室の後ろから見ていた。
ユイが褒められるところを。
拍手されるところを。
笑顔を向けられるところを。
そして思う。
どうして。
私は同じだけ練習した。
同じだけ歌った。
それなのに。
◇
放課後。
誰もいない音楽室。
アユは一人で歌う。
「この背中に鳥のように」
声が響く。
誰も聞いていない。
だから好きだった。
誰もいない歌が。
誰にも評価されない歌が。
◇
音楽室の扉が開いた。
「やっぱりいた」
ユイだった。
「なにしてるの」
「別に」
「歌ってたでしょ」
「歌ってない」
「嘘」
ユイは笑う。
アユは目を逸らした。
◇
「アユって歌好きだよね」
その言葉に少しだけ腹が立つ。
「嫌い」
「嘘」
「好きじゃない」
「じゃあなんで一人で歌ってるの」
答えられない。
好きだからだ。
そんなこと。
一番言いたくなかった。
◇
「ユイはいいよね」
気づけば口から出ていた。
「え?」
「可愛いし」
ユイが固まる。
「歌も上手いし」
「そんなこと」
「ある」
今度ははっきり言った。
◇
「みんなユイばっかり見る」
沈黙。
「それは」
「ユイは気づいてないかもしれないけど」
アユは笑う。
自嘲だった。
「私は知ってる」
◇
合唱コンクール。
文化祭。
発表会。
いつだって。
「あの可愛い子誰?」
「歌上手いね」
「可愛いしね」
最後に必ず付く。
可愛い。
◇
「私が同じ歌を歌っても」
アユは窓を見る。
「誰も見ない」
夕日が差し込む。
オレンジ色だった。
◇
ユイは何も言わない。
言えない。
アユも分かっていた。
ユイが悪いわけじゃない。
そんなこと。
一番知っている。
◇
だから余計に苦しい。
憎めないから。
◇
「ごめん」
ユイが小さく言った。
「なんで謝るの」
「分からないけど」
ユイは俯く。
「でも苦しかったなら」
アユは思わず笑った。
変なやつだ。
本当に。
◇
ユイは可愛い。
歌も上手い。
優しい。
だから嫌いになれない。
◇
帰り道。
二人で歩く。
夕焼け空。
風が吹く。
「アユ」
「なに」
「私ね」
ユイは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「アユの歌好きだよ」
◇
足が止まる。
心臓が跳ねた。
◇
「……そう」
それだけしか言えない。
◇
好きだった。
歌が。
でも。
今はそれ以上に。
その言葉をくれた人が。
◇
だからアユは気づかない。
その感情が嫉妬だけではないことに。
そしてユイも気づかない。
その言葉がアユをどれほど救ったのか。
◇
夕日が沈む。
空はゆっくりと夜へ変わる。
誰もまだ知らない。
この先。
二人が違う空を見上げることになるなんて。




