3-2. それはきっと(2)
話しているうち、シトラの胸に満ちていたふわふわとした気持ちがぎゅっと固く押し込められ、綿菓子が潰れてぺたんこになるように萎んだ。自分の血縁が彼にこの上ない害を及ぼしていると思うと、情けなく、惨めで、今すぐに消えてしまいたくなった。
「私なんかのために、クレイスの大事な研究を、犠牲にしてほしくなかったんだ……」
「『私なんか』か」
クレイスに繰り返され、シトラは口を押さえた。
「あなたを魔塔に連れてきてから、まだそれほど経っていない。だから、あなたが『自分なんか』と思ってしまうのは、ある意味仕方ないことなのだろうね」
受容か、もしくは諦めか、彼は柔らかく眉を下げる。しかし繋いだままの手は、さらにしっかりと握られた。
「だがね、シトラ。どうか私の気持ちを、あなたの心の『変数』に入れてくれないか」
意外な言葉に、シトラは「変数?」と聞き返す。
「そうだ。これは、お互い様だけどね」
彼は苦笑し、すぐに、シトラの瞳に視線を合わせた。
清澄な、青空を映した深い泉を思わせる瞳が、ひたり、とこちらを射抜いている。
その瞳から目が離せない。
「シトラ、よく聞いて。……私はね、たとえ魔術の研究を一切しなくなったとしても、あなたを娘として迎えたこの日々を、決して後悔することはない。魔術の研究だけではない。何があってもだ。私があなたの母となり、あなたが私の娘となった、そのことだけは、どうしたって失いたくないんだ。私が、耐えられないんだよ」
クレイスは、ひどく真摯な声で、苦しげに囁いた。
「だから、もう二度と、離れようとしないでくれ」
喉が、ひくりと痙攣した。
責任感などでは、なかった。
彼は、彼も、自分と同じように。この日々を大切に思っていてくれたのだと。
シトラは熱い塊が今にも溢れだしそうになるのを、ぐっとこらえる。嫌だ、泣きたくない、泣いたら彼に言えない、嬉しいと、ありがとうと、笑って言いたいんだ。
「ちょっと、待って」
声が裏返りそうになりながら、シトラはクレイスの手から逃れ、後ろを向いた。目元に袖口を押し付ける。じわ、と熱いものが滲み、シトラは口を軽く開けて、はあはあと浅い呼吸を繰り返した。
クレイスは急かしもせず、ただじっと待ってくれていた。
彼は、いつもそうだった。出会った時からずっと、こちらを尊重し、決して踏み込まず、穏やかに受け入れてくれる。報いたいと思いながら、どうすれば報いることができるかわからずに、慰められて、守られて。
だから今は、涙を見せたくない。
あなたにちゃんと、向き合いたい。
シトラは深呼吸をして、うん、と胸を撫でた。
ようやく落ち着きを取り戻し、振り向く。
彼は穏やかな微笑みでそこにいた。目をわずかに細めて、いとけない獣の仔を見守るように、動かず黙っている。
一度は離してしまった彼の手を自分からとり、シトラはおずおずと握手をした。クレイスの手は大きく、自分の片手ではとても納まらない。もう一方の手も使って、おむすびを握るように、ふわりと、でもしっかりと包みこむ。
「ありがとう……『お母さん』」
気恥ずかしくなり、シトラは首を傾げて照れ笑いを浮かべた。筆頭宮廷魔術士の母と、いい年をした大人の娘の組み合わせは、ひどく奇妙で、しかしこの上なく温かい。誰に理解されることもないだろう。それでよかった。彼が受け入れてくれて、望んでくれている。自分もまた、彼を母として、この魔塔で暮らす日々を宝物のように感じている。
大事にしたい。この奇跡のような関係を。
彼は、睫毛を伏せるようにして、「うん」と頷いた。
その仕草がとても優しく、シトラの口からは「へへ」と間抜けな声が洩れてしまう。
ますます恥ずかしくなって、シトラは彼の手をぱっと離した。
「でも私、クレイスには魔術の研究をしてほしいよ」
彼が理の深遠を愛していることを知っているから。
そう言いながら、すっかり冷めきった紅茶に手を伸ばす。
この魔塔にいたい。だけど、このままここで暮らすだけでは、また彼に守られるだけで同じことの繰り返しだ。彼の庇護の翼の元でぬくぬくと過ごすなんて、やっぱり我慢できない。かといって、魔塔から出て行くことはもう考えられない。
室温になった紅茶が、熱い喉をひんやりと流れていく。
ね? とシトラはクレイスに向かって返事を促した。
「そうだね」
彼は微笑みながら砂糖壺を手に取り、自分の茶器の隣の小皿に中身を空けると、その小皿を持ち上げて、スプーンで砂糖を口に運んだ。
「…………!?」
衝撃的な光景に、一瞬にして思考が全部飛ぶ。
クレイスはじゃりじゃりと音をさせながら、砂糖を咀嚼し、喉を鳴らして紅茶を飲み干した。
「ああ……無作法ですまない。恥ずかしい話、糖切れを起こしてしまってね。しばらくは糖を補給し続けないと魔力が完全に戻らなそうなんだよ」
やれやれ、と彼は肩を竦めて、さらに砂糖を山盛りにしたスプーンをひどく優雅に咥えた。普段の彼からは想像できない姿に、シトラは目を丸くし、やがて呼吸を揺らすようにして笑いだす。
「クレイスが、パーゼル様と友達なのが、改めて分かった気がする」
「あいつと?」
彼はやや不本意そうに、三口目の砂糖を口に運びながら問いかけた。
「うん。パーゼル様もこう、飴を掴んで口に入れて、ぼりぼり食べてた」
かつて研究室で見た光景を再現して見せると、クレイスは二杯目の紅茶を注ぎながら、眉を寄せた真剣な顔でシトラに向き直った。
「あいつから、余計なことは言われてないだろうね?」
「余計って?」
「たとえば……助手の誘いを受けたりなどは」
「えっ、すごい。なんでわかったの?」
彼は苦々しく「やはり」と呟いた。
「あいつの言いそうなことだ。あなたの聡明さを見て、我慢できなくなったのだろう」
「でも、すぐ断ったよ。先生の……クレイスの弟子だからって。そしたら宮廷魔術士になるのかって聞かれたの。宮廷魔術士になれば出世間違いなし、国家という盾を手に入れて魔術の道に……」
そこまで言いかけて、シトラは言葉を止めた。
国家という盾を手に入れて。
宮廷魔術士。国の人材であり、その立場を国に保証された魔術士。彼の公的な弟子として、魔塔に居住する権利を得て、外部から脅かされることのないその立場。
欠けていたパズルのピースが、かちっと合う音がした。
「クレイス……」
茶器を置いて、シトラは居住まいを正す。
「私、宮廷魔術士になりたい」
四口目のスプーンを咥えたクレイスが、目を剥いた。
彼は慌てたように小皿を置き、紅茶で砂糖を流し込む。そして両手をシトラの前でうろうろとさせながら、溜息と共に拳を作って握り込んだ。
「――その必要はないだろう」
彼の目は、さっきまでスプーンを咥えていたとは思えないほどに冷静で、静謐だった。
「でも、宮廷魔術士になれば、国の下で魔術の研究もできるし」
「そんなもの、私がすべて教える。あなたは筆頭宮廷魔術士の弟子なんだ。私の研究室を使い、思う存分研究すればいい」
「でも、宮廷魔術士になったら、公的な弟子になって魔塔に住む権利が生まれるし」
「滞在者登録を出してるじゃないか。更新を要するだけで、実質的に住んでいるのも同じだよ」
「だけど、国家の人材になったら、ユーネルディア家からの干渉も止むだろうし」
「それはあなたが気に病むことではないよ。私に任せてくれ」
クレイスは筆頭閣下の顔をして、シトラの言葉にひとつひとつ斬り返した。やっと絞り出した願いに対し、手加減も、容赦もなにもない。
「だって……」
彼の言っていることは、正論だ。でもそれじゃだめなんだ、とシトラは歯痒い気持ちでクレイスを見つめる。
守られるだけじゃ、魔塔にいられない。でもなんて言えばいいんだろう。
考え込むシトラに、彼は慈愛を込めたような目で微笑みかけた。そのまま立ち上がり、大窓の方に向かいながら、背中に回した手をゆったりと組んで揺蕩う雲海を眺める。
「あなたにはまだ、わからないかもしれない。王宮というのは百鬼の棲まう伏魔殿なんだよ。いつだって飢えた眼が獲物を探している。全属性適性の持ち主がそこに現れたらどうなると思う? 想像するだに恐ろしいだろう。私は娘をそんな目に遭わせる無力な母にはなりたくない」
シトラは唸った。
彼の言うことは本当にもっともで、突き崩す隙がない。彼に比べれば自分の力なんてちっぽけで、自分が立ち向かうよりも彼の庇護の方がずっと安全なことは、わかっている。
だけど、だけど。それでも。
言葉を探すシトラの元へ、クレイスが悠然と歩み寄った。一歩ずつ絨毯を踏みしめ、そして、その長身を折り曲げるようにして、シトラの顔を覗き込む。
彼は極めて穏やかな、しかし完全に勝利を確信した声音で、優しく囁いた。
「それで? あなたの回答は、まだかな」
もう、だめだ、と思った。
薄く微笑んだ彼の顔をきつく見据えて、まるで罪の告白をするような気持ちで。シトラは一気に言い放つ。
「……だって、クレイスと一緒にいたいんだもん!!」
一度口から出た言葉は元に戻らない。
「私だって、守られるだけじゃなくて、クレイスを守りたいの!!」
言っちゃった。
ついに言ってしまった。
ちっぽけな自分が、筆頭宮廷魔術士である彼を守りたいなんて、身の程知らずにもほどがある。でも、守りたいんだからしょうがないじゃないか。この魔塔で、彼と一緒に暮らしたいんだから。
シトラは恥ずかしさに目をつぶった。全身が熱くなり、汗がどっと吹き出して、ああ、言っちゃった、言っちゃった、と脳内でそればかりがぐるぐると回る。
息を吐きながら目を開け、ふと見ると、クレイスがこちらを覗き込んだまま硬直していた。
白皙の頬はこの上なく紅潮し、それどころか耳の先までを赤く染めて、目を見開いたまま絶句している。碧眼がわずかも揺れず、またたきもせず、こちらをひたすら凝視していた。
どうしたのか、とシトラは彼を見上げた。恥ずかしいのは自分であって、彼じゃないはずなのに。
見つめているシトラの目の前、彼はものすごい速さで両手を動かし、ばっと顔を覆い隠して俯いた。
「…………あ……、……あなたという人は………………」
両手の指の間から洩れるかすかな声は、羽虫が鳴くほどか細く、彼はそれきり動かない。
ええ……とシトラは困惑した。
何が悪かったのか、よくわからない。
しかし、なぜか『勝った』という気持ちが湧き上がり、シトラは赤面したままの顔で、にっこりと笑った。




