4. エピローグ
魔導燈のかすかな揺らめきが、音となって聞こえそうなほどの静寂だった。
クレイスはいまだ鳴りやまぬ心臓を抱えたまま、深夜の執務室でひとり、溜息をついている。
夕食を焦がし、果実酒をこぼし。あれからずっとシトラに心配されながら、彼はなんとか彼女を私室に追いやって、一人きりの空間でようやく呼吸を取り戻していた。
「はあ………………」
手が、震えている。
五本の長い指が、ふるふると、畏れと歓喜にわなないていた。
その指を握り込むようにして、クレイスは己の体を制御する。
彼は深く息を吐いて、黒光りする執務机の引き出しを開けると、中から一冊の書物を取り出した。
魔塔の帳簿とは違う、革表紙で厚みのある本。彼が毎日つけている、日々の出来事を記した日誌だった。
彼の指先が表紙を開く。そのまま一枚ずつゆっくりとめくっていった。記録はほとんどが一行で、代わり映えがしない。
『結界異常なし。』
『昨日に同じ。』
『昨日に同じ。』
『夜会。』
『異状なし。』
『昨日に同じ。』
『カンテサンス変動あり。要観測。』
『異状なし。』
『雪。被害なし。』
紙を繰る乾いた音が執務室に響く。
やがて、ぱらり、ぱらりと繰り返していた音が、途切れた。
『シトラを弟子とする。全属性。』
長い指がその文言をなぞり、吸い付くようにして動きを止める。そうして、次の行を慈しむように、しっとりと撫でた。
『シトラに詠唱魔術を教える。魔力の制御に才能あり。白樹の杖と魔導書を渡す。』
『主要国会議始まる。帰塔できず。』
『【夕餉には絶対に帰ること】』
『シチューと煮込みはどちらも好評。シトラ、光が一瞬灯ったとの報告。』
『シトラ倒れる。高熱。二度と繰り返してはならない。』
『シトラの母になる。』
「はあ………………」
もう何度目になるかわからない溜息を落として、クレイスは日誌をめくった。日誌にはシトラのことしか書かれていない。シトラが今日の夕食を美味しそうに食べた、シトラは甘味の時は紅茶に牛乳を入れない、シトラは果実をよく食べる、シトラが今日、シトラが、シトラが……。
「はあ………………」
読み返すだけで胸が疼いて、苦しい。自分の文字で記してあるだけにも拘らず、あの時の彼女の笑顔が、この時の彼女の微笑みが、ひとつひとつの思い出が胸を貫いて止まない。
師だ、母だ、同胞だと信じていた日々は何だったのか。
己の愚かさに呆れ返り、クレイスは額を押さえる。
『だって、クレイスと一緒にいたいんだもん』
「…………っ……!!」
唐突に昼間のシトラの言葉がよみがえり、クレイスは胸元の衣を力の限り握りしめ、耐えた。
「っ……はぁ…………」
顔が熱い。熱いどころか、溶けてしまいそうだ。
たしかに自分は言った。言い続けた。シトラに対し『もっとわがままに甘えなさい』と。しかし、彼女のわがままはいつも他者を思いやるか、自身を遠ざける方向だった。街中で手を繋いだ時、その手を離そうとした彼女に『わがままとは何か』教えようとしたことを覚えている。
わがままとは、自分の真の望みを言うことだ。他者の都合や気持ちなどを考慮せず、ありのままの願いを傲慢に口にすることだ。
そして彼女は言った。はっきりと言った。
『だって、クレイスと一緒にいたいんだもん!!』
「っ……」
もう幾度目になるかわからない彼女の言葉を思い出し、そのたびに心臓が体を突き破って空の彼方へ飛んでいってしまいそうになるのを、クレイスは必死で耐えている。
全身がシトラを呼び、触れたがり、力の限り抱きしめてしまいたいと叫んでいる。
「大馬鹿者だ、私は……」
もう、認めるしかない。
本当は薄々気づいていたのだろう。彼女が演習場で倒れたあの日、『ごめん……』と消え入りそうに笑った彼女の顔を見て、感じたことがないほどの衝撃が走ったのを覚えている。その衝撃を、彼女を追い詰めた自責と読み違え、あまつさえ母という枠に逃げ込み、目をそらし続けてきたのだ。
これではまるで、成人もしていない若者ではないか。
「明日から、どんな顔をしたらいいんだ……」
クレイスは両手で顔を覆って俯いた。明日の朝、シトラに『おはよう』と笑いかけられる自信がない。彼女の顔をまともに見られるだろうか。しかし、不自然が過ぎれば彼女に今日以上の心配をかけるだろう。どうにかして一晩で、『いつものクレイス』に戻らねばならない。
筆頭の名に懸けても、必ず成し遂げてみせる。
クレイスは固く決意すると、もう一度、甘くひそやかな溜息を吐いた。
王国歴、千七十二年、初夏の候。
筆頭宮廷魔術士、クレイス・ルム・エル・アルヴァレイン、二十八歳。
めでたく初恋に落つる。
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